Tuesday, August 14, 2012

ピース・ゾーンをつくる闘い――平和のサンクチュアリ

法の廃墟(17)

ピース・ゾーンをつくる闘い――平和のサンクチュアリ



無罪!』2007年9月号





平和のサンクチュアリ



 「私がみなさんにお話しするのは、戦争の瓦礫の中から立ち上がって、力を合わせて暮らしと地域を再建したミンダナオの難民の物語です。それは、深い自信をもち、自他ともに人は基本的に善であると確信する人々の物語です。それは、先住民族、イスラム教徒、キリスト教徒間の協調的な関係を深める取組み、地域に発展をもたらす取組みに着手した地域住民の物語です。それはまた、平和を、平和的な方法で確立しようとする地域住民の辿った道のりの物語でもあります」。

 二〇〇七年七月から八月にかけて、「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」が、札幌、船橋、小田原、横浜で連続開催した「ジュネーヴ諸条約追加議定書三〇周年国際シンポジウム」で、アジアにおけるすぐれた平和・人権活動に与えられる「マグサイサイ賞」受賞者(二〇〇四年)で、アッシジ開発財団代表のベンジャミン・アバディアーノは、政府軍とイスラム解放軍との内戦に苦しむミンダナオにおける「平和のサンクチュアリ」の闘いを報告した。

 二〇〇〇年三月から二〇〇三年まで続いた国軍とイスラム解放戦線間の武力紛争によって一〇〇万人以上の罪のない民間人が、想像を絶する苦難に陥った。何千もの家屋が全焼または損壊した。激しい交戦に巻き込まれることを恐れて、民間人は大切な財産、農作物、暮らしをあとに、家を捨てて避難し、すし詰めになった教室、間に合わせのテント、他人の住居などに暮らすことを強いられた。子どもたちが亡くなり、生き延びた多くの男女が、絶望と恐怖に直面した。

 難民救援活動は、やがて紛争の最中でも故郷に帰りたいという人々の望みをいかに実現するかに向かった。被災者たちとの話合いの中で、戦争で痛めつけられたコミュニティーをピース・ゾーン(平和地帯)へと変えたいという夢が語られた。そして「平和のためのサンクチュアリ」という言葉が生まれた。地元のリーダーたちは、平和と故郷への安全な帰還を求める請願書だけを武器として、政府高官、軍、解放軍との交渉を行なった。交戦グループ双方の同意を得た後、人々は故郷への帰還を開始し、復興プロセスに着手した。平和のサンクチュアリの重要目標の一つは、地域主導の不断の平和構築プログラムである。具体例は、イスラム教徒、先住民族、キリスト教徒間の平和協議会の創設である。平和協議会は平和のサンクチュアリでガイドラインの適切な実施を監視するだけでなく、三つの住民グループ相互の協調を維持するための機構となった。

 最初の「平和のサンクチュアリ」設立以来、「平和のサンクチュアリ」や「ピース・ゾーン」では、いかなる武装グループによる住民への残虐行為も記録されていない。さらに武装勢力の間には戦闘の小康状態が見られる。この状況は、故郷や農場に再び落ち着きたいと願う人々の自信の回復を促した。

 過去にも同様の取組みがあり、「平和地帯」「自由地帯」「非武装ゾーン」「中立地帯」「命のゾーン」などの名前で呼ばれてきた。ピース・ゾーンとは、一区画の近隣地域から州までのさまざまな規模の地理的空間で、住民自らが、戦争その他の武力を伴う敵対行為を禁止すると宣言した地域である。その地域をピース・ゾーンにすることは獲得目標であって、平和だからピース・ゾーンとしたわけではない。ピース・ゾーンは、地域住民の平和構築に対する責任ある取組みの持続的で創造的な表現によって維持、強化される。

 アバディアーノは「平和のサンクチュアリでの生活は平和構築に向けたたゆみない旅路です。その課題は、人々の責任ある取組みを堅持することです。平和構築のプロセスはつねに骨の折れる、終わりのない仕事です。対話と主体的取組みを途切れることなく持続しなければなりません。平和構築努力の核になっているのは、互いに手を差し伸べ合い、心の中の希望の声に耳を澄まし、正義と発展への夢をつむぐ人々です」と語る。



無防備地域運動



 ピース・ゾーンをつくる闘いは、フィリピンだけではなく、各地で続けられている。非暴力でイラク占領を終わらせようとする「イラク市民レジスタンス」もあれば、ニューヨークを非武装地帯にしようという運動も提唱されている。「軍隊のないスイス」を求める運動も有名だ。

 日本でも無防備地域運動が進められている。一九七七年のジュネーヴ諸条約第一追加議定書第五九条は、無防備地域宣言の定義、要件、手続きを定めている。無防備地域は「軍隊のない地域」であり、それと知りながら攻撃すれば戦争犯罪になる。これは国際人道法における軍民分離原則を踏まえた規定である。

 ところが、無防備地域運動は、第五九条と、日本国憲法第九条を重ね合わせることで新しい運動領域を切り拓いた。憲法第九条はもともと「軍隊のない国家」「無防備国家」の規定であるはずだ。政府が憲法第九条をないがしろにしているならば、地域で第五九条とあわせて活用することで、新しい平和運動をつくりだそう。無防備地域宣言はわたしの町の憲法第九条だ。国際人道法と憲法を活用して、地域の平和力を活性化させ、自治体に戦争協力をさせず、平和行政を推進させようという運動である(池上洋通・澤野義一・前田朗編『無防備地域宣言で憲法9条のまちをつくる』自治体研究社、二〇〇六年)。

 一九八〇年代に林茂夫が提唱した無防備運動は、二つの実践例を残して中断した(林茂夫『戦争不参加宣言』日本評論社、一九八九年)。当時は日本政府が第一追加議定書を批准していなかった。日本政府の批准は二〇〇四年である。

 二〇〇四年春に大阪で始まった運動は、枚方、高槻、箕面、堺、西宮、京都、向日、宇治、大津、奈良、藤沢、市川、荒川、品川、大田、目黒、日野、国立、竹富と広がった。無防備条例の制定には漕ぎ着けていないが、国立と箕面の市長は無防備平和条例に賛成意見を出した。特に国立市議会における審議は、それまでの各地の議論状況も踏まえて、かなり充実した議論を実現し、無防備平和条例が法的に可能であることを実証した(無防備地域宣言運動全国ネットワーク編『無防備平和条例は可能だ』耕文社、二〇〇七年)。

 最近の平和運動は口先だけ「憲法第九条を守る」と唱えているが、米軍基地撤去すら唱えず、自衛隊に賛成したりする始末だ。守るつもりもないのに「守る」と欺く平和運動は要らない。地域から軍隊をなくす実践としての無防備地域運動こそ重要である(あきもとゆみこ『まんが無防備マンが行く!』同時代社、二〇〇七年)。