法の廃墟(28)
植民地責任論の展開
『無罪!』2009年5月号
植民地責任へ
植民地責任論が深化している。
一九九〇年代の歴史教科書論争、「従軍慰安婦」論争以後、日本の戦争責任を隠蔽し、戦争を美化するウルトラ・ナショナリズムがメディアを席巻したが、学問分野では戦争責任論が持続的に追及されてきた。日本の戦争責任をめぐる議論が国際的視野のもと幅広い知見と問題関心によって検証され、歴史学のみならず、法学、政治学、哲学など多角的な研究が進められた。さらに議論の射程が「戦後」責任論にもおよび、現在的課題性が浮き彫りにされた。植民地(支配)責任は戦争責任と重なるが、論理的にも実際的にも区別されるべき性格の議論として意識的に展開され、岩崎稔ほか編『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社)、金富子・中野敏男編『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社)、早川紀代編『植民地と戦争責任』(吉川弘文館)などの研究が積み重ねられてきた(なお、前田朗『人道に対する罪』青木書店)。
最新の成果が、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地の比較史』(青木書店、二〇〇九年)である。
永原陽子による「序『植民地責任』論とは何か」は本書を貫く問題意識を次のように整理している。二〇〇一年ダーバン人種差別反対世界会議に象徴されるように、一九九〇年代以降、奴隷制や植民地主義に関する責任が浮上し、謝罪や償いを求める動きが世界各地で起きた。先住民問題や人種主義についても同様である。底流となったのは、第一にナチス・ドイツの戦争犯罪の処罰と補償問題であり、第二にアメリカにおける黒人補償問題であった。論理が鍛えられ概念が構築され、世界的な研究や議論につながった。ジェノサイド研究の発展、アパルトヘイトをめぐる真実和解委員会の経験も踏まえて、植民地責任論が自覚的に展開された。これらの研究史を踏まえて、永原らは、次のような認識で「植民地責任論」の確立・深化をめざす。
「現代世界の圧倒的に不均衡な力関係は、『植民地責任』を公然と問うことを困難にしてきたばかりでなく、当事者たちがそのような問いの成立可能性を知ることを拒んできた。『グローバル化』のなかで情報も世界に直結している状況のもとでは、各国での歴史教育等の努力にもかかわらず、奴隷貿易・奴隷制や植民地主義の歴史に関する語られ方はきわめて一面的である。また、旧宗主国側の人々も、かつて奴隷貿易や奴隷制、植民地主義にかかわって何があったのか、それについて現在のアフリカ人やアフリカ系人などがどう受け止めているのかについて、十分な知識を得ずにきた。そのようななかでは、『責任』を問い、『償い』を求める人々が現れることが、双方にとって新しい歴史認識を築くきっかけとなり、歴史認識自体の『脱植民地化』が始まることを意味する。『植民地責任』論は、政治的独立の後も長く脱植民地化過程をさまざまな主体の歴史認識の面から分析する、歴史学的な脱植民地化研究の新たな方法である。」
世界的動向
三部一三章からなる本書全体をカバーすることはとうていできないが、テーマと分析視角の多様性を瞥見しておこう。第一部(戦争責任論から「植民地責任」論へ)冒頭の清水正義「戦争責任と植民地責任もしくは戦争犯罪と植民地犯罪」は、歴史的大規模暴力犯罪群と向き合うための方法としての人道に対する罪の登場を、戦争責任と戦争犯罪、植民地責任と植民地犯罪の対比の中で論じている。ヴェルサイユの「戦争責任」からニュルンベルク・東京の戦争犯罪への法的議論の変遷を位置づけ、「人道に対する罪を適用して植民地犯罪を処罰対象とすることは、刑事法的な責任追及にとどまらず、むしろそれを通じた植民民地責任全般の反省なり認識なりを深化させることのほうに、より本質的な意味があるともいえる」とする。平野千果子「『人道に対する罪』と『植民地責任』」は、ヴィシーからアルジェリア独立戦争に至る植民地主義の崩壊を追跡して、フランス対アルジェリアの対抗だけでなく、アルジェリア入植者や、フランス側についたアルジェリア人(ハルキ)の視点も含めて、複数の記憶の主体を視野に入れ、人道に対する罪の処罰の意義と限界を探る。飯島みどり「往還する記憶と責任――スペイン帝国の残照」は、二〇〇七年の「歴史的記憶の法」を手がかりとして、スペインが植民地責任をどのように引き受け、またなおざりにしているのかを検証する。吉澤文寿「日本の戦争責任論における植民地責任論――朝鮮を事例として」は、従前の戦争責任論をトレースして、植民地責任論は、不十分とはいえ、「欧米諸国のそれに比べれば幾分の進展を見せていると言えるかもしれない。それは日本が第二次世界大戦の敗戦国であることや、韓国をはじめとする旧植民地の国際的地位の上昇などの要因に加え、『大日本帝国の遺産』としての在日朝鮮人による日本の植民地責任追及の運動があったからである」とまとめるが、同時に植民地責任からの逃避、「歴史修正主義」、レイシズムへの流れを取り上げて、「植民地責任に向き合う方法」の重要性を指摘する。
第二部(「植民地責任」をめぐる謝罪と補償)では、浜忠雄「ハイチによる『返還と補償』の要求」、津田みわ「復権と『補償金ビジネス』のはざまで――ケニアの元『マウマウ』闘士による対英補償請求訴訟」、永原陽子「ナミビアの植民地戦争と『植民地責任』――ヘレロによる補償要求をめぐって」、吉国恒雄「『ジンバブウェ問題』とは何か――土地闘争と民主化」が植民地責任の多様性を浮き彫りにする。支配被支配の関係、脱植民地化の経緯、旧宗主国の政治状況、旧植民地側の政治状況、補償要求主体のあり方、周辺諸国や国際環境の変容などに応じて、議論も大きく異なる。
第三部(脱植民地化の諸相と「植民地責任」)は、同じ問題を脱植民地化のあり方を中心に論及した論考を収めている。前川一郎「イギリス植民地問題終焉論と脱植民地化」、渡辺司「アルジェリア戦争と脱植民地化――『エヴィアン交渉』を中心にして」、尾立要子「フランス海外領土と植民地責任――『トビラ法』の成立と実施をめぐって」、中野聡「『植民地責任』論と米国社会――抗議・承認・生存戦略」、川島真「戦後初期日本の制度的『脱帝国化』と歴史認識問題――台湾を中心に」は旧宗主国側における脱植民地化過程において植民地責任がいかに論じられ、いかに回避されてきたかを検証する。本書は数多くの問題提起を含むうえ、その射程の広がり、実証の積み重ね、分析の手堅さにも大いに学ぶべきところがある。本書の意義を真に理解し受け止めるためには一読ではとうていたりず、再読三読の必要がある。