鹿砦社編集部編『憂国か革命か テロリズムの季節のはじまり』(鹿砦社)
「テロリズムの季節のはじまり」と宣言されると嫌な気分になってしまうが、「夕刻」ならぬ「憂国か革命か」という問いかけを、鈴木邦男、若松孝二、板坂剛、佐藤雅彦らが提示しているのと、大江健三郎「政治少年死す セヴンティーン第二部」、深沢七郎「風流夢譚」が収録されているので、購入した。
はじめにに次のように書かれている。
<そもそも<テロリズム>とは何か?
1960年代から70年代の疾風怒濤の時代を知るわれわれは、左右両翼による政治テロの生々しい実態に接してきた。
いや、60年代、70年代に限らず、現代史を紐解くと、歴史の結節点に幾度となく政治テロが起きていることが分かる。
(中略)
本質的に政治テロをなくそうとするのであれば、<テロリズム>について根源から探求することが必須だろう。
しかし、われわれはこれまで、そうした本質的な捉え返しをしてきたであろうか?>
<非暴力・非武装・不服従・無防備・非国民の平和力>を探る立場からは、テロリズムは全面否定の対象であるが、なぜテロリズムが起きるのか、そもそもテロリズムとは何か、いかにしてテロリズムの倫理と論理をあらかじめ解体するべきか、を検討しておく必要があることは言うまでもない。ロシアのテロリストを思い、啄木とともにテーブルを叩いてもテロリズムの考察にはならない。
国家権力と暴力――9.11や3.11を経た現在、まっさきに議論するべきは国家テロであることも言うまでもない。にやけたテロリストたちが権力をふるう現実をどう見るのか。
とはいえ、そこから反転して個人テロを擁護することはできない。個人テロを全面的に批判するために、国家テロと個人テロの総体を構造的に読み解いていく必要がある。
鈴木邦男の思索は長いこと、この点に集中してきたと言ってよい。名著『愛国の昭和』にいかに向き合うのか――それをかつてなんと平壌で読んだのだが。私たちの課題はますます重く、深くなるが、逃げ出すわけにはいかない。テロリズムは、昭和の愛国の発明品ではない。アイルランドでも、イタリアでも、チェチェンでも、パレスチナでも、イラクでも、時代の悲鳴が響き続けてきた。
まだ答えはない。当面の反問は「軍隊は国民を殺す」であり、「国家は国民を殺す」である。これは逆説ではなく、普遍命題であるからだ。
なお、鈴木邦男の『新・言論の覚悟』について