Sunday, September 16, 2012

差別集団・在特会に有罪判決


ヒューマン・ライツ再入門32

差別集団・在特会に有罪判決

                    

雑誌「統一評論」550号(2011年)

 

 

  京都朝鮮第一初級学校襲撃事件を惹き起こした「在日特権を許さない市民の会(在特会)」に有罪判決が出た。暴力による学校授業に対する妨害を威力業務妨害罪、差別的暴言を侮辱罪と認定し、執行猶予付きとはいえ懲役刑を言い渡すなど、明快な判決が出たといえる。

  もっとも、起訴から判決に至るまで、本件をヘイト・クライム(憎悪犯罪)として論定することはできていない。ヘイト・クライム法がないため、刑法の威力業務妨害罪等を活用することになった。そのこと自体に異論があるわけではないが、威力業務妨害罪で有罪としたのだからそれで足りると考えるべきではない。やはり、ヘイト・クライム法が必要である。以下、検討したい。

 

京都朝鮮学校襲撃事件

 

  四月二一日、京都地方裁判所は、在特会や「主権回復を目指す会」の構成員が京都朝鮮第一初級学校等に対して行った差別(暴言・虚言)と暴力事件について、四人の被告人による犯罪事実を認定し、それぞれ懲役一~二年(いずれも執行猶予四年付)を言い渡した。東日本大震災と原発事故のニュースが報道の大半を占めていたため、この判決は関西以外ではほとんど報道されなかった。

  事件は二つの事実からなる。第一に、京都朝鮮学校襲撃事件である。二〇〇九年一二月四日、被告人ら四名(ABCD)が、共謀の上、京都朝鮮第一初級学校前に押しかけて暴言を撒き散らし、スピーカーに接続された配線コードを切断した(威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪)。第二に、徳島県教組乱入事件である。二〇一〇年四月一四日、右の四名のうち三名(ABC)が、共謀の上、徳島県教職員組合事務所に乱入し、暴行や暴言を伴う大騒ぎをした(建造物侵入罪、威力業務妨害罪)。

京都朝鮮学校襲撃事件について、判決理由の第一・第二は次のように述べている。

被告人四名は、京都朝鮮第一初級学校南側路上及び勧進橋公園において、被告人ら一一名が集合し、日本国旗や『在特会』及び『主権回復を目指す会』などと書かれた各のぼり旗を掲げ、同校校長Kらに向かってこもごも怒声を張り上げ、拡声器を用いるなどして、『日本人を拉致した朝鮮総連傘下、朝鮮学校、こんなもんは学校でない』『都市公園法、京都市公園条例に違反して五〇年あまり、朝鮮学校はサッカーゴール、朝礼台、スピーカーなどなどのものを不法に設置している。こんなことは許すことできない』『北朝鮮のスパイ養成機関、朝鮮学校を日本から叩き出せ』『門を開けてくれ、設置したもんを運び届けたら我々は帰るんだよ。そもそもこの学校の土地も不法占拠なんですよ』『戦争中、男手がいないところ、女の人レイプして虐殺して奪ったのがこの土地』『ろくでなしの朝鮮学校を日本から叩き出せ。なめとったらあかんぞ。叩き出せ』『わしらはね、今までの団体のように甘くないぞ』『早く門を開けろ』『戦後。焼け野原になった日本人につけ込んで、民族学校、民族教育闘争ですか、こういった形で、至る所で土地の収奪が行われている』『日本から出て行け。何が子供じゃ、こんなもん、お前、スパイの子供やないか』『お前らがな、日本人ぶち殺してここの土地奪ったんやないか』『約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません』などと怒号し、同公園内に置かれていた朝礼台を校門前に移動させて門扉に打ち当て、同公園内に置かれていたサッカーゴールを倒すなどして、これらの引き取りを執拗に要求して喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と同校及び前記学校法人京都朝鮮学園を侮辱し、被告人Cは、勧進橋公園内において、京都朝鮮学園が所有管理するスピーカー及びコントロールパネルをつなぐ配線コードをニッパーで切断して損壊し」た

これらが威力業務妨害罪(学校の授業運営などを妨害した)、侮辱罪(朝鮮学校に対する侮辱)、器物損壊罪(配線コード切断)と判断された。

 

徳島県教組乱入事件

 

 判決理由の第三は次の通りである。

被告人ABCは、共謀の上、あしなが育英会等に寄付するとして集められた募金の中から徳島県教職員組合が四国朝鮮初中級学校に支援金を渡したとして糾弾するなどして同組合の正常な業務を妨害する目的で、四月一四日午後一時一五分ころ、徳島県教育会館二階同組合事務所内に、『日教組の正体、反日教育で日本の子供たちから自尊心を奪い、異常な性教育で日本の子供たちを蝕む変態集団、それが日教組』などと記した横断幕、日章旗、拡声器等を携帯して、『詐欺罪』などと怒号しながら侵入した上、約一三分間にわたり、同事務所において、同組合の業務に係る事務をしていた組合書記長T及び組合書記Mの二名を取り囲み、同人らに対し、前記横断幕、日章旗を掲げながら、拡声器を用いるなどして、『詐欺罪じゃ』『朝鮮の犬』『売国奴読め、売国奴』『国賊』『かわいそうな子供助けよう言うて金集めてね、朝鮮に一五〇万送っとんねん』『募金詐欺、募金詐欺じゃ、こら』『非国民』『死刑や、死刑』『腹切れ、お前、こら』『腹切れ、国賊』などと怒号し、『人と話をするときくらいは電話は置き』『置けや』などと言いながら前記Tの両腕や手首をつかむなどして同人が一一〇番通報中であった電話の受話器を取り上げて同通話を切った上、同人の右肩を突き、『朝鮮総連と日教組の癒着、許さないぞ』『政治活動をする日教組を日本から叩き出せ』などとシュプレヒコールするなどした上、机上の書類等を放り投げ、拡声器でサイレン音を吹鳴させるなどし、事務所内を喧噪状態に陥れて同組合の正常な業務を不能ならしめ、もって同事務所に正当な理由がないのに侵入した上、威力を用いて同組合の業務を妨害した」。

  これらが建造物侵入罪と威力業務妨害罪と判断された。

  以上が在特会事件第一審判決の概要である。事件の法的評価について言えば、起訴状自体が不十分なものであったため、判決も不十分である。朝鮮学校を舞台とする朝鮮人差別と暴行の事件は、本質的にはヘイト・クライムであるが、日本にはヘイト・クライム法がない。また、名誉毀損罪があるにもかかわらず、検察官は名誉毀損罪を起訴状(訴因)に含めず、威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪に絞った。

 

有罪判決が出た意義

 

これまで各地で蛮行を繰り返してきた在特会に、刑事裁判で初めて有罪判決が出たことは大きい。蕨市におけるカルデロン事件、三鷹事件、名古屋博物館事件、西宮事件、秋葉原事件など各地で、在特会は警察に見守られながら激しい差別と暴力を繰り返してきた。京都朝鮮学校事件でも、現場に立ち会った警察官は差別と暴力を規制するそぶりも見せなかった。朝鮮学校関係者や弁護団の度重なる要請によって、ようやく重い腰を上げて京都地検が動き、本件が立件された。被告人らが逮捕されたのは事件から八ヶ月も後のことであった。このように遅れがちであったが、ともあれ威力業務妨害罪や侮辱罪で有罪となった。執行猶予四年の間は蛮行が収まることが期待できる。

 本判決は刑事裁判判決であるため、認定事実は、検察官と被告人側の主張・立証に基づいたものである。被害者である朝鮮学校側の主張は、検察官の主張を通じて法廷に一部顕出したにすぎない。むしろ、被害者の主張は正面から登場しなかったといってよいだろう(被害者側の主張は、これとは別の民事裁判で示されている)。それゆえ、本件決について論評する場合、それが検察官と被告人側の主張・立証だけをもとにした事実認定であることを意識しておく必要がある。

 これに関連して、以下ではいくつか感想を記しておきたい。

 第一に、被害者側の朝鮮学校による勧進橋公園利用に関して、都市公園法違反容疑での取り調べが行われるなど、あたかも「喧嘩両成敗」のような手続きが取られた。この点では、差別と暴力に専念する在特会の主張に、それなりの正当性があったかのような観を呈することになった。少なくとも、在特会は、朝鮮学校による違法行為を告発し、捜査機関が捜査を行う契機を与えたことを自慢することができる。現に刑事裁判の法廷で、被告人らは正当行為であるとの主張を続けた。朝鮮学校側は捜査に協力を余儀なくされ、捜査機関による不当介入の恐れも感じさせられる事態であったようだ。犯行現場に駆け付けた警察官が、在特会の犯行を阻止することなく、見守り続けたことも、在特会側に「警察官も認めていたのだ」という主張の口実を与えていたが、検察の事案処理も同様の効果を持ちうるものであった。

 第二に、名誉毀損罪(刑法第二三〇条)を適用せず、侮辱罪(刑法二三一条)での起訴となった。事実の摘示の有無に関する法的評価のわかれともいえるが、実際には名誉毀損罪一般につきまとう立証の困難があったのであろう。憲法上の表現の自由との関係があり、被告人側が争えば、検察側は立証に多大の精力を注ぐ必要が出てくる。「三年以下の懲役若しくは禁錮または五十万円以下の罰金」が法定刑とされた名誉棄損罪ではなく、「拘留又は科料」しか予定されていない侮辱罪を選択したことには疑問が残る。もっとも、立証上の困難をもつ名誉毀損罪を回避して侮辱罪で起訴しつつ、「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」の威力業務妨害罪(刑法第二三四条)および「三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料」の器物損壊罪(刑法第二六一条)を介して懲役刑を選択する余地を生みだしたと見ることもできる。その点では検察官の工夫が功を奏したともいえよう。

京都朝鮮学校襲撃事件だけではなく、建造物侵入罪と威力業務妨害罪の徳島県教組乱入事件もあるので、懲役刑の選択は必至であったから、名誉毀損罪と侮辱罪のいずれを選択するかはさして重要ではないとの判断もありうる。名目よりも実質を重視して、ヘイト・クライム法への関心を度外視すれば、適切な事件処理が行われたと評価できることになる。

 なお、仄聞するところでは、在特会メンバーの三人(ABC)は控訴せず、本判決が確定したという。他方、主権回復の会メンバーのDだけは控訴したようである。在特会と主権回復の会との間に方針の差異が生じたようである。

 第三に、逮捕・起訴・有罪判決によって在特会の違法活動に一定の制約がかかったように思われる。京都朝鮮学校襲撃については、仮処分命令と合わせて、抑止効があった。執行猶予の四年間は一定の効果が期待できる。もっとも、京都以外の各地の在特会にどこまでの効果が及ぶかは不明である。五月には大阪の鶴橋駅前で在特会による朝鮮人差別の街宣が行われている。とはいえ、暴力に踏み出せば、これまでとは違って警察による規制が入る可能性は大きくなった。本来なら、長期にわたって在特会の暴力を見逃してきた警察の責任問題なのだが、ともあれ有罪判決によって、暴力は許されないという当たり前のことを在特会にも思い知らせることになったし、各地の警察も今後は適切な対処をすることが期待できる。また、各地の市民運動は、これまで以上に在特会に毅然と対応できるだろう。

 第四に、インターネットを活用して行動への参加を呼び掛け、ユーチューブなど映像による宣伝を行ってきた在特会に、「新しい運動だ」「問題提起だ」などと勘違いして参加してきた若者たちが、過ちに気づいて差別や暴力から遠ざかることも期待できる。

 

在特会とは何か

 

ジャーナリストや市民による在特会の監視も強まってきた。ジャーナリストの安田浩一「『在特会』の正体」『G2』第六号(二〇一〇年)の続編である、同「ネット右翼に対する宣戦布告」『G2』第七号(二〇一一年)は、在特会代表について、「意見の異なる他者をすべて『朝鮮人』だと決め付けることで、どうにか自分を保っている人々に対して、私は何も反論する言葉を持たない。語彙の乏しさと貧困な想像力を憐れむだけである。そもそも在特会がしていることは、社会変革を目的とした『運動』と呼べるものなのか――。それこそが取材当初から私が抱かざるを得なかった疑問のひとつである」と述べている。

 安田は、在特会のみならず、類似のネット右翼を丹念に取材した結果として、次のようにまとめている。

 「ネット右翼は決して右翼や民族派なんかじゃない。それらしい味付けを施しながら、自らの存在を国家に投影しつつ、ダイナミックに自分自身を描こうとしているに過ぎない。そして集団で他社を貶め、『正義』に酔っているだけだ。」

 安田の指摘は、在特会などの差別団体の性格と行動様式を考える上で重要である。筆者はかつて「どこが『保守』なのか」と題して次のように書いたことがある。

 「ところで、在特会は『行動する保守』と称している。果たして彼らは『保守』なのだろうか。/『保守』とは何かという定義に深入りするまでもなく、『保守』は日本の政治・社会・文化のあり方を、歴史や伝統に引き寄せて理解してきた。日本の歴史、日本の美を強調し、伝統回帰、または伝統の再構築を図ってきた。その特徴は、日本らしさを引き受け、変わらざるものを慈しみ、変化する場合にも穏健で自然な変化を遂げることを願ってきた。そうした保守には、穏健で、歴史的淵源と深みのある『思想』があった。同時に、保守思想は、日本の奥の深さ、懐の深さ、日本的寛容を唱えてもきた。保守にはそれなりの論理と、何よりも気概というものがあった。/このような保守と照らし合わせてみると、歴史に学ばず、他者との対話を拒否し、憎悪と差別を撒き散らす暴力集団を『保守』と自称するのは、レッテル詐欺でしかないだろう。/それでは、在特会は『右翼』なのだろうか。政治的立場としては右翼に位置することは確かであろう。戦前・戦後を通じて右翼は『テロ』と親和的であったから、在特会も右翼に見える面がある。/しかし、右翼には右翼の歴史があり、思想の積み重ねがあったはずである。そうした気配を微塵も感じさせない暴力集団を右翼に数えることが適切なのかどうか、疑問は残る。/『保守か革新か』『右翼か左翼か』という二項対立を前提として把握しようとすれば、在特会が保守や右翼に位置するかのように見えることもあるかもしれない。/だが、在特会の実態を見るならば、保守や右翼というよりも、単なる暴力集団という特徴こそが本質的である。/むしろ、真の保守や右翼こそ、弱いも者いじめに専念し、差別と排外主義に走るだけの暴力集団を批判するべきではないだろうか。」(前田朗『ヘイト・クライム』三一書房労組、二〇一〇年)

 安田の指摘は、筆者の疑問を裏付けるものと言えよう。

 

人はいつ、どこでレイシストになるのか

 

 他方、鵜飼哲(一橋大学教授)は、二〇一〇年一一月一〇日に、第二東京弁護士会人権擁護委員会主催の講演会において、「人はいつ、どこでレイシストになるのか」と問いを投げかけて、次のように述べた。

 「人はいつ、どこでレイシストになるのかということについていえば、『どこ』かを確定することは難しいですね。今、日本の学校がどうなっているのかということも不安な気はします。しかし、大きく言ってやはりテレビやネットの情報環境でこうした考え方が拡大していることは確かでしょう。現在日本では、単にネットだけではなく、テレビの状況が相当深刻です。北朝鮮や中国に関するテレビ報道は、映像や言葉のレベルで、これは明らかにレイシズムと言える例があふれていると思います。/分類上の『狂信派』は秘教的な集団を形成し、勉強会を通じてイデオロギー的な集団性を獲得するに至るわけですけれども、どうも今大衆的に街頭行動に出てきているグループには、そのような集団性はないような気がします。広がりと裏腹の脆弱さもあるような気がしていて、この両面をどう把握するのかはひとつの課題とみなしていいかと思います。」(第二東京弁護士会主催のシンポジウムの記録『現代排外主義とヘイトクライム法の検討』第二東京弁護士会、二〇一一年)

 「ネット右翼は決して右翼や民族派じゃない」という安田と、「広がりと裏腹の脆弱性」を見る鵜飼の見解は共振しているだろう。

 鵜飼はさらに社会現象としてのレイシズムについて、キャピタリズムやナショナリズムとの関係を解きほぐそうとする。「社会の病気」としてのレイシズムは資本主義との連関で、とりわけ新自由主義との関係で理解できる。ナショナリズムとの関係を的確に理解することは案外難しい面が残るが、ナショナリズムが行きつく先にレイシズムが用意されていることは間違いない。鵜飼は次のように指摘している。

 「今の日本のナショナリズムは排除によってしか自己主張ができない。何か積極的に守るべきものがあってそれを防衛しようというナショナリズムではない。・・・/何か自負するものがあるかというとない。理念もない。具体的な目標が何かあるかというと、これもない。だから、今の民主党のポスターではありませんが、『元気な日本』とか、昔は何かいいものがあったようなことを言っているだけ。このナショナリズムは、米軍基地をなくそうという方向には絶対に行かない。自分自身に対する自負がないのですから、それでも自分が高まるという幻想に浸りたいと思うと他者を自分より劣ったものとする、蔑視するしかない。/そうすると、坂道を転落するようにレイシズムに向かっていってしまう回路が、どうも今の日本にはあるような気がする。」(同右)

 理念も目標もないが、自己意識だけは肥大化したナショナリズムのなれの果てとしてのレイシズムであり、ヘイト・クライムである。

 なお、鵜飼哲「鎧と毒矢・原発震災の中で外国人排斥運動を再考する」『月刊社会民主』六七四号(二〇一一年)の次の指摘も重要である。

 「憲法二五条一項に規定された『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』が、現在福島県の広域にみられるように、あからさまな虚言によってかくも安易に踏みにじられ、秩序優先の国家意志が強制されるのであれば、そしてそのとき、家族にも、市民社会にも、地方自治体にも、無防備な個人を守り支える意志、思想、能力が欠如しているのであれば、『棄民』の恐怖は『国民』ひとりひとりの頭上に、つねに、ダモクレスの剣のようにぶら下がっているのである。このような社会に、『非国民』とみなされた人々におぞましい言葉の『毒矢』を射ちまくり、そのことによって幻想の『鎧』を身にまとい、つかのまの、むなしい高揚感を得ようとする人々が続々と現れることは不思議ではない。震災直後の日々にも、外国人犯罪に関する悪質なデマが、日本語のネット環境には多数流された。」

 大気圏と太平洋に放射能をばらまき、垂れ流しているのが日本政府と東京電力であり、ネット上に外国人差別のデマを垂れ流しているのが日本社会である。鵜飼はさらに次の事実を指摘する。

 「郡山市の朝鮮学校は震災直後、避難所として校舎を解放、数十人の日本人被災者を受け入れた。その朝鮮学校に、文科省から県内すべての学校に配布された線量計は、ついに届くことはなかった。」

 

 

京都事件判決の法理

 

  在特会による蛮行は、現代日本における人種差別と排外主義の典型事例である。人種差別禁止法やヘイト・クライム法について議論するための素材として、京都事件に焦点を当てて、判決の法理を検討してみよう。

  被告人らは、「京都朝鮮学校南側路上及び勧進橋公園において、日本国旗などを掲げ、同校校長Kらに向かってこもごも怒声を張り上げ、拡声器を用いるなどして」、差別的な発言を怒号し、「同公園内に置かれていた朝礼台を校門前に移動させて門扉に打ち当て、同公園内に置かれていたサッカーゴールを倒すなどして、これらの引き取りを執拗に要求して喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と同校及び前記学校法人京都朝鮮学園を侮辱し、被告人Cは、勧進橋公園内において、京都朝鮮学園が所有管理するスピーカー及びコントロールパネルをつなぐ配線コードをニッパーで切断して損壊し」たものである。

  六月二四日、龍谷大学で開催された第二回ヘイト・クライム研究会において、本判決の検討を行った。そこでの議論も参照しつつ、ヘイト・クライムとの関係で目につく点を検討すると、第一に、罪名は威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪である。名誉毀損罪が訴因に含まれていないため、判決も侮辱罪を適用するにとどめた。侮辱罪の刑は拘留又は科料にとどまるが、威力業務妨害罪などとセットのために、懲役刑(執行猶予付)が選択されている。名誉毀損罪の適用には立証上の問題があるため、これを適用せず侮辱罪にしたが、刑は威力業務妨害罪等の適用によって適切なものになし得たということであろうか。逆にいえば、威力業務妨害罪に問える場合でなかったとしたら、名誉毀損罪ではなく侮辱罪だけで拘留又は科料ということがありえたことになる。

  第二に、判決の文脈によると、怒号その他の行為によって「喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と侮辱し、損壊し」たという流れになる。「妨害するとともに」というつながりから「喧騒を生じさせ、公然と侮辱し」と読む可能性もないわけではない。侮辱罪は名誉毀損罪と異なって事実の摘示を必要としないし、平穏侵害の要件もないので、喧騒と侮辱は関係ないはずだが、つながりがあるという読み方もありうるということだろうか。

第三に、被害者は朝鮮学校と学校法人朝鮮学園とされている。集団侮辱罪のあるドイツとは異なって、日本刑法の侮辱罪の法益は個人的法益であって、集団侮辱には適用できない。このため、被害者として法人等の組織があげられている。逆にいえば、在日朝鮮人一般に対する攻撃の場合は侮辱罪が成立しない場合があることになる。

 

ヘイト・クライム法の必要性

 

 在特会の蛮行は朝鮮学校を直接の対象としている。判決において引用された差別発言も、なるほど朝鮮学校を名指ししている。しかし、「約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません」のように、朝鮮学校ではなく、朝鮮人全体を対象とした表現も使われている。判決に引用されていない発言の中にも、やはり朝鮮人全体をターゲットにしたものがある。まして、在特会の従来の言動からいっても、在特会の名称や組織の性格からいっても、朝鮮人一般に対する差別と迫害を行うことを目的とし、その主要な活動内容としていることは明らかである。

  判決の文脈を、被害者は誰かという観点から見直してみると、威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪の三つの罪について同一の被害者を認定することが便宜であり、それに従って判決文が書かれていると考えられる。威力業務妨害罪として構成すれば、学校の授業運営が妨害されたのだから、当然、被害者は学校及び法人になる。器物損壊罪も同様である。侮辱罪もこの二罪ととともに掲げられている。三つの罪名は実行行為の順に従って列挙されている。このため侮辱罪に関する判決文が、威力業務妨害罪と器物損壊罪の間に挟まれて、前者との関係で記述されているように見える。

  名誉毀損罪の場合と異なって、侮辱罪の認定・評価には特段の理論的争いはないし、本件事案もくだくだしく解釈を展開するまでもなく、当然、侮辱罪との認定ができるので、このような判決文になったのであろう。この限りでは、本件では起訴状の構成に対応して穏当な判決が書かれたということができよう。

 しかし、判決が実際に起きた事案を適切に反映したものかという観点で検討すれば疑問も少なくない。ヘイト・クライムや集団侮辱罪の規定がないことに由来するが、このことをどのように評価するかは判断が分かれうる。第一に、ヘイト・クライム法がなくても、検察・裁判所は別の罪名を活用して事案を的確に把握したという理解である。第二に、ヘイト・クライム法がないため、事案が縮小認定され、事件が矮小化されたという理解である。後者の立場からは、実態に即した法的評価を可能とするような人種差別禁止法やヘイト・クライム法の整備が課題となる。「日本には人種差別禁止法を必要とするような人種差別はない」と断言する日本政府の現状を是正するために、やはり事実に即した評価こそが重要である。日本にはヘイト・クライムがあり、在特会はヘイト・クライムを教唆・煽動し、率先して実行してきた。ヘイト・クライムは許されないというメッセージを明瞭に発することが求められている。

 そのために、ヘイト・クライムとは何か、その定義を的確に行う必要がある。前田朗「ヘイト・クライムを定義する(一)~(六)」本連載18、19、23、24、28、29参照。

 ヘイト・クライムによって何が侵害されるのか。保護法益を解明することも重要である。前田朗「ヘイト・クライムはなぜ悪質か(一)~(四)」『アジェンダ』三〇~三三号(二〇一〇~一一年)。

 さらに、ヘイト・クライム法規制の比較法的考察も不可欠である。そのための基礎研究が必要である。前田朗「ヘイト・クライム法研究の課題」『法と民主主義』四四八号・四四九号(二〇一〇年)、同「ヘイト・クライム法研究の展開」第二東京弁護士会前掲パンフ、同「ヘイト・クライム法研究の現在」『村井敏邦先生古稀祝賀論文集・人権の刑事法学』(日本評論社、二〇一一年)など参照。

 こうした研究の積み重ねによって、日本に必要なヘイト・クライム法についての議論を深めることが可能となるだろう。

 先に紹介したヘイト・クライム研究会は、本年五月、龍谷大学で第一回研究会を開催した。金尚均(龍谷大学教授)がドイツの民衆扇動罪について検討し、筆者が「人種差別表現の自由」という議論を批判した。六月の第二回研究会では、桜庭総(九州大学助教)がドイツのヘイト・クライム厳罰化法と統計法を紹介し、金尚均が、在特会有罪判決を検討した。今後も研究会を継続する予定である。

 

追記:二〇一一年四月二一日、京都地裁判決は、三名につき確定した。一名のみ控訴したが、同年一〇月二八日、大阪高裁で棄却、二〇一二年二月二三日、最高裁で上告棄却となった。