旅する平和学(22)
リヒテンシュタインの非武装憲法(一)
『月刊社会民主』2009年9月号
リヒテンシュタイン侯国は最初に非武装憲法をつくった国だが、日本の憲法学の著作では完全に黙殺されてきた。憲法第九条よりも前に非武装憲法があっては困るからだろうか。
一九二一年リヒテンシュタイン憲法第四四条は次のように規定する。
「第一項 武器を保有するすべての者は、六〇歳に達するまでは、緊急事態における自国の防衛に奉仕する責任がある。第二項 この緊急事態以外に、警察部隊および国内秩序の保全の条項に必要な限りを除いては、軍隊を編成または保持しない。本件に関する詳細な規制は法律をもって決定される」。
第二項は常備軍の廃止を定めたもので、一九四九年コスタリカ憲法よりも二八年も古い。自衛隊と在日米軍を容認していると解釈されている憲法第九条は実態として「世界有数の重武装憲法」と化しているが、リヒテンシュタインは憲法を守って軍隊を保持していない。
ラインのおもちゃ箱
スイス東部の田舎町ザルガンスの駅前から郵便バスに乗る。あっという間にライン川を渡ってリヒテンシュタインに入る。一九九六年と二〇〇五年にリヒテンシュタインを訪れたが、非武装憲法第四四条に気づいたので、二〇〇八年八月に三度リヒテンシュタインを訪れた。
リヒテンシュタインは、スイスとオーストリアの間、アルプスとライン川の間にある。面積は一六〇平方キロで、小豆島とほぼ同じ。人口は約三万二千人だが、三分の一は外国人だ。人種はゲルマン人で、ドイツ語を話す。宗教はカトリックが八〇%、プロテスタントが七%である。
リヒテンシュタイン家はもともとオーストリアのウィーン在住の一族で、ウィーンとチェコのモラビアに領地を保有していたが、一六九九年にヨハン・アダム・アンドレアス侯が現在のリヒテンシュタイン北部低地部にあたるシェレンベルク男爵領を購入し、一七一二年に南部高地部のファドゥーツ伯爵領を購入した。一七一九年、神聖ローマ帝国がアントン・フローリアン侯に両領の自治権を認めたので、リヒテンシュタイン侯国となった。数多くの領邦国家とともに神聖ローマ帝国の一員であった。
フランス革命後、ナポレオン軍が一時期支配したが、一八一五年に独立を回復して、ドイツ連盟に加盟した。しかし、一八六八年にドイツ連盟が解体したので、単独の主権国家の道を歩むとともに、軍隊を廃止して永世中立を宣言した。
歴代侯爵は長年ウィーンに在住していた。リヒテンシュタインはオーストリアと関税協定を結び、オーストリア貨幣を使用していた。しかし、第一次大戦の結果、オーストリアが弱体化したため、民衆がスイス・フランを使用するようになり、さらに一九二三年にはスイスと関税協定を結んだ。
第二次大戦中は、政治にナチスの影響が及んできた。次の選挙ではナチス勢力の議会進出が予想されたが、侯爵は選挙を延期することによってナチス勢力の議会進出を阻み、リヒテンシュタインは中立を守った。侯爵はヒトラーと直接交渉して中立を守ったといわれる。一九三八年、フランツ・ヨーゼフ二世がウィーンから首都ファドゥーツに移転して名実ともにリヒテンシュタイン侯国となった。オーストリアがドイツに併合されていたからである。
侯爵家の城からライン川の手前に広がるファドゥーツの町を見下ろすと、小さなおもちゃ箱のように見える。小さいが豊かな美食の国であり、切手でもよく知られる。
軍隊の廃止
一八六八年、明治維新の年にリヒテンシュタイン軍隊を廃止したのは、ヨハン二世である。
ビスマルクのプロイセンはドイツ統一をめざして、ハプスブルク・オーストリアと主導権争いを演じた。プロイセン・オーストリア戦争の結果、オーストリアを排除してドイツ帝国が成立した。この時、リヒテンシュタインは中立を守った。ドイツ連盟解体後、ビスマルクは統一ドイツを確立したが、リヒテンシュタインはドイツと国境を接していないため編入されることもなく、単独の独立国家となった。
歴史家ピエール・ラトンによると、ヨハン二世はこの機会に軍隊を解散しようと考えたという。軍役は一八六八年に廃止され、その後、再導入されていない。
他方、イギリスの元リヒテンシュタイン大使だったデイヴィッド・ビーティの『リヒテンシュタイン現代史』によると、一八六六年七月二日、法王一六世がドイツ連盟総会を告知したので、ヨハン二世は、ティロルを守るために軍隊を派遣した。部隊は、オーストリアと戦争していたイタリアによる攻撃から守るためにステルヴィオ峠に駐留した。侯爵は国庫を節約するために、個人的にその費用を払った。幸い敵が来なかったので、部隊は戦闘することなく帰国した。ところが、ドイツ連盟の解体により、もはや軍隊を保有する国際的義務がなくなった。議会は、軍事予算を拒否する機会と見て取った。しかし、侯爵はこれには反対した。というのも、軍隊の保持は侯爵の憲法上の特権にかかわるからである。だが、侯爵は譲歩して、一八六八年二月一日、軍隊を解散した。
廃止の理由は、ドイツ連盟が解体したので軍隊を保有する国際的義務がなくなったことと、軍事予算が負担となったことによる。
この点では、ラトンが紹介している、ナポレオン軍からの再独立時のエピソードも参考になる。一八一五年の人口は約六千人にすぎなかった。主要産業は農業なのに、大半が山岳地帯のため生産量は乏しい。戦争のため収穫がなくなった。一八一七年には深刻な飢饉に見舞われた。神聖ローマ帝国の一員として軍隊保有の義務があったが、人民が軍隊税の廃止を要求した。そこで侯爵が支出を引き受けることになった。これによって人民を納得させつつ、国際的義務を果たすことができた。
小国ゆえに軍隊保有が負担となり、人民が軍隊廃止を要求したのである。振り返ってみれば、明治維新期の日本においても、徴兵制に対して人民が反対した歴史がある。軍隊は人民の生活にとって何の役にも立たない。税負担が増えるだけである。徴兵制によって家族を軍隊にとられる。人民が軍隊廃止を要求するのはむしろ当然のことである。
いったん軍隊が設立され、軍国主義イデオロギーが浸透すると、軍隊が人民のためにあるかのような倒錯した意識がつくられる。軍隊があるのが当たり前と言う錯視が浸透する。そうなると軍隊廃止という要求が登場しにくくなる。しかし、もともと人民にとって軍隊とは何であるのかに気づけば、社会意識は変容する可能性がある。
一八六八年に解雇された兵士のうち最も長生きした兵士の晩年の写真が「リヒテンシュタイン最後の兵士」として絵葉書になっている。一九三九年に九五歳で亡くなったという。