Sunday, November 11, 2012

リヒテンシュタインの非武装憲法(2)

旅する平和学(23)

リヒテンシュタインの非武装憲法()

 

『月刊社会民主』2009年10月号

 

 リヒテンシュタインの首都ファドゥーツの中心には美術館が位置する。リヒテンシュタイン家が数百年かけて収集した世界有数の美術品が順次公開されている。美術館周辺の遊歩道にはいくつもの彫刻が並んでいる。

 

憲法の歴史

 

 リヒテンシュタイン憲法史は六段階にまとめることができる。

第一に、一八一八年憲法である。一八一五年、ナポレオン軍の支配から独立を回復して、ドイツ連盟に加盟した。ドイツ連盟条約は各国に憲法制定を義務づけていたので、一八一八年憲法を制定した。この憲法には基本的人権の規定がなかった。

続いて、一八四八年革命の嵐がファドゥーツに押し寄せた。侯爵の地位が脅かされる心配が取りざたされたが、人民の要求を討議するために設置された議会は侯爵個人に対する敵意は持たなかった。侯爵、政府と人民の協力体制で憲法が作成され、「国家の権威は侯爵と人民に共同帰属する」という、当時は珍しい考えが導入された。

第三に、一八六二年憲法である。一八五八年に侯爵についたヨハン二世は、啓蒙絶対君主的な傾向を持っていた。一方で神権の絶対性を奉じ、他方でカトリック信者として社会改革をめざし、一八六二年憲法を制定した。リベラルな性質を持ち、主権は侯爵に帰属するとしながら、侯爵の権限は議会の召集・解散、公務員の任命・解雇、国際関係における国家代表などに限定された。他方、議会は完全な立法権を獲得した。個人の信仰の自由、人身保護令状、請願権、集会の自由、恣意的捜索からの自由などが盛り込まれた。司法制度も整備された。

第四に、前回紹介したように、ヨハン二世は、一八六八年に軍隊を廃止した。

 第五に、一九二一年憲法である。第一次大戦期、リヒテンシュタインは中立を選択した。実際にはオーストリアの影響下にあったので、中立は見かけだけとも言われる。経済は崩壊し、クーデタ策動も発生したが、一九一八年からスイスとの良好な関係を取り結ぶとともに政治経済改革を推進した。土地改革を断行し、国際連盟に加盟するなど新しい国家づくりが急速に進められ、一九二一年憲法が制定された。

第六に、現在の二〇〇三年憲法である。ハンス・アダム二世が、一九九三年議会で憲法改正の方針を示した。議会は憲法改正委員会を設置し、改正作業に着手した。侯爵の権限をめぐって侯爵と議会の間に対立が生じたが、長期にわたる憲法論争を経て、侯爵家と政府の承認を得た上で、国民投票が行われ、二〇〇三年憲法が制定された。

 

非武装憲法の意義

 

 軍隊廃止を明記したのは一九二一年憲法である。

 ルペルト・クヴァデラーによると、一九二一年憲法への道は、一九一四年、進歩的市民党やキリスト教社会人民党など政党の結成と民主化運動に始まった。一九一八年の一一月危機を受けた同年一二月の「九項目綱領」が大きな一歩であった。一九二〇年には憲法委員会で審議が行われ、一九二一年に憲法が採択された。

 ヘルベルト・ヴィレによると、最大の争点は君主制と民主制の調和をどこに求めるかであった。民主化運動も侯爵家打倒や排除を求めたわけではなく、侯国であることを前提としつつ、侯爵の権限と人民の権限をいかに配分するかが議論された。

軍隊を廃止した憲法第四四条(条文は前号参照)は、第一項で人民の防衛奉仕責務を述べ、第二項で、この緊急事態以外の軍隊の廃止を定めた。常備軍の廃止である。この条文が国家機構の章ではなく、市民の権利義務の章に置かれていることに注目する必要がある。第一項は、市民の防衛に関する義務規定であるが、むしろ人民の自決権の文脈で解釈するべきではないか。

 現在、世界には五つの非武装憲法がある。一九二一年リヒテンシュタイン侯国憲法第四四条(二〇〇三年憲法も同じ)、一九四六年日本国憲法第九条、一九四九年コスタリカ共和国憲法第一二条、一九七九年キリバス共和国憲法第一一二条、一九九四年パナマ共和国憲法第三〇五条(現行第三一〇条も同じ)である。

 リヒテンシュタイン憲法の世界史的意義について、確認しておこう。

 第一に、リヒテンシュタイン憲法は平時の非武装(常備軍不保持)を定めた、もっとも古い非武装憲法である。日本国憲法第九条より二五年前である。

 第二に、憲法第九条は、有事平時を問わず、いかなる軍隊も保持しないとしている。本来は完全非武装憲法である。この点で憲法第九条のほうが徹底している。憲法の条文に記されている言葉が重要だという形式主義的理解に立てば、憲法第九条がもっとも重要である。

 第三に、憲法典の言葉だけではなく、運用実態を見るとどうか。憲法第九条の日本政府による公式解釈によると、自衛のために必要最小限の実力を保持することができ、現に自衛隊を保有し、予算は世界第五位争いを演じ、イージス艦など最新鋭装備を備え、遥か遠くインド洋やイラクで戦争協力を行っても合憲とされている。つまり、憲法第九条は世界有数の「重武装憲法」であり「侵略憲法」である。

一方、リヒテンシュタインは一八六八年に廃止して以来一四〇年間、軍隊を保有したことがない。緊急事態には軍隊を保有することができるが、ナチス・ドイツが隣国オーストリアを併合してもリヒテンシュタインは武装しなかった。第二次大戦が勃発して欧州全域が戦争に突入しても軍隊を編成しなかった。

第四に、それではナチス・ドイツの台頭や第二次大戦に際してリヒテンシュタインは何をしたか。侯爵の権威と判断によってナチス勢力の台頭を抑止した。侯爵はナチス・ドイツと直接交渉して、自国の安全を維持した。そして、マウトハウゼン強制収容所が設置されたオーストリアから逃げてきたユダヤ人を救済した。ナチス政権一二年間に約四〇〇人のユダヤ人がリヒテンシュタインに逃げ、その内二五〇人は定住し、一五〇人はスイスに出国した。一九四五年四~五月、戦争末期の混乱時に八〇〇〇人の難民がリヒテンシュタインを経てスイスに逃れた。このことが、その後のリヒテンシュタインの「国際社会における名誉ある地位」を保障し、軍隊を不要とした。

 リヒテンシュタイン憲法は、形式的にも実質的にも、世界最初の非武装憲法である。完全非武装ではないが、限りなく完全非武装に近い。条文それ自体ではなく、実践が重要である。

「憲法第九条の重武装憲法化」を阻止し得なかった私たち日本の平和運動が考え、学ぶべきことは多い。