Tuesday, November 06, 2012

差別表現の自由はあるか(2)


 差別表現の自由はあるか(二)

 

『統一評論』561号(2012年7月)

 

 

一 本稿の課題

 

 前回は、「差別表現」と「表現の自由」の関連を問うために、まず、この問題が国際人権法においてどのように規定されているかを確認し、次に、日本政府が国際人権法のフィールドでどのように主張し、これに対して、国際人権機関からどのような勧告を受けてきたかを確認した。

 日本政府は、(一)日本には深刻な人種差別がないと主張して、人種差別禁止法の制定を拒否するとともに、(二)特にヘイト・クライム法については、憲法第二一条の表現の自由に抵触するのでヘイト・クライム法は制定できない、(三)憲法第三一条の要請である犯罪成立要件の明確性の原則にも違反するのでヘイト・クライム法は制定できない、と主張してきた。

 これに対して、人種差別撤廃NGOネットワークに結集した人権NGOやマイノリティ団体は、(一)日本には多くの人種差別があり、人種差別禁止法が必要である、(二)ヘイト・クライムは表現の自由には含まれず、人種差別撤廃条約第四条に従って法的対処が必要である、(三)明確性の原則に違反しない立法は可能である、と主張してきた。

 人種差別撤廃委員会は、二〇〇一年と二〇一〇年の日本政府報告書審査の結果として、日本政府に対して、(一)人種差別禁止法を制定すること、(二)人種差別撤廃条約第四条(a)(b)の留保を撤回し、ヘイト・クライムに法的対処を行うように勧告した。

 日本政府見解への批判はすでに数多く出されているが、実は、ヘイト・クライム問題に関する限り、憲法学をはじめとする法律学が、日本政府とほぼ同じ歩調を取っている。そこで今回は、憲法学の動向をやや詳しく概観し、検討を始めることにする。

暴力を伴ったヘイト・クライムは暴行罪、傷害罪、器物損壊罪などによる対処がなされているので、以下では「表現・言葉によるヘイト・クライム(ヘイト・スピーチなど)」に限定する。特に人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」問題である。

 

二 憲法学の現在

 

 現在の憲法学は、ほぼそろって人種差別の煽動処罰に否定的な姿勢を取っているといえよう。以下では、代表的な憲法学教科書をもとに、現状を概観する。

A 佐藤幸治

佐藤幸治(京都大学名誉教授)の『日本国憲法論』(成文堂、二〇一一年)は、表現の自由は、「①個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、②立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に『表現の自由の優越的地位』が帰結する」と説明する(二四九頁)。この点は、アメリカ憲法学に倣った日本憲法学において今日ほぼ共通理解となっているといえよう。

佐藤は「表現の自由」に対する制約の合憲性判断基準について、表現の自由の優越的地位をもとに、「一般に通常の合憲性推定の原則が排除され、むしろ基本的に違憲性推定の原則が妥当すると解される。すなわち、表現行為を制約する法律を適用する側で、当該法律の合憲性について裁判所を説得するに足る議論を積極的に展開しなければならないということである」とする(二五四頁)。

 次に「漠然性故の無効の法理(明確性の法理)」として「人の行為を規制し処罰する法律が明確な法文構成をとるべきことは、およそ憲法一三条ないし三一条の要請するところと解されるが、『表現の自由』の『優越的地位』に照らし、表現行為に対する委縮効果を最小限にすべく、特に明確性が厳格に要求され、漠然不明確な表現規制立法は原則として文面上違憲無効とされなければならない」という(二五九頁)。また、「必要最小限の規制手段の選択に関する法理」として「より制限的でない他の選択しうる手段の法理(LRAの法理)」にも言及する。

 そのうえで、佐藤は「せん動」を取り上げ、次のように述べる。

「現行法制上、犯罪または禁止行為のせん動(あおり)を処罰対象とするものが少なくない。せん動罪は、被せん動行為の実行の危険性があるというだけで処罰対象とする、実行行為とは無関係の独立の犯罪であるから、『表現の自由』を侵害し、政治理論の表明や政府の政策批判までもが処罰されるという危険を孕む」とし、食糧緊急措置令や破壊活動防止法に関する最高裁判例を瞥見し、「具体的適用にあたっては『明白かつ現在の危険』の法理によるべきものと解される」とする(二六三頁)。

 さらに、佐藤は「差別的表現」を取り上げ、次のように述べる。

「人種や性あるいはマイノリティ集団などに対する憎悪や嫌悪などを表す表現行為も、難しい課題を提起する。表現の自由を最重視する国といえるアメリカ合衆国にあっても、差別的表現(ヘイト・スピーチ)を禁止すべきであるという主張が展開され、それをめぐって激しい応酬が繰り広げられてきた。わが国は平成七(一九九五)年に人種差別撤廃条約に加入したが、その四条(a)(b)には、①人種的優越・憎悪に基づく思想の流布、②人種差別のせん動、③人種等を異にする集団に対する暴力行為のせん動、④人種差別を助長・せん動する団体及び組織的宣伝活動その他すべての宣伝活動、⑤そのような団体・活動への参加、等々を法律で禁止・処罰することを求めている。加入に際して、わが国は、憲法の保障する権利と抵触しない限度で義務を履行するとの『留保』を付したことは前に触れたが、この条約も踏まえて平成一四年に国会に提出された人権擁護法案の内容などを読むと、表現の自由(および集会・結社の自由)との関係で看過しえない重大な問題が含まれていることが知られる(市川正人)」(二七〇頁)。

 なお、市川正人とあるのは、市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)のことを指す(本書については次回取り上げる予定である)。

B 辻村みよ子

 辻村みよ子(東北大学教授)の『憲法・第四版』(日本評論社、二〇一二年)は、表現の自由の規制に関する違憲審査基準について、事前抑制の禁止、明確性の原則、明白かつ現在の危険、より制限的でない他の選びうる手段の基準(LRA)を列挙し、解説する。辻村は明確性の原則について次のように述べる。

「精神的自由の規制立法の内容は漠然とした不明確なものであってはならないとする原則である。日本国憲法では三一条で保障されている罪刑法定主義もその一つであり、この原則のもとでは、刑罰法規は、行為の公平な処罰に必要な事前の『公正な告知』を与え行政の恣意的な裁量権を制限するものでなければならないため、内容が明確であることが求められる。さらに、表現の自由を制約する性質をもつ刑罰法規の場合には、本来合法的な表現行為をも差し控えさせてしまう『萎縮的効果』のおそれがある。そこで、合理的な限定解釈によっても法文の漠然不明確性が除去されないときは、当該法規の合憲的適用の範囲内であると思われる場合にも、原則として法規それ自体が、文面上無効となるとされる。これが一般にいう『漠然性のゆえに無効』の考え方である」(二一四頁)。

 また、辻村は、明白かつ現在の危険に関して解説する中で、次のように述べている。

「一九六九年のブランデンバーグ事件の判決で、暴力や違法行為の唱導について『その唱導が、差し迫った非合法な行為を煽動すること、もしくは生ぜしめることに向けられ、かつ、そのような行為を煽動し、もしくは生ぜしめる可能性のある場合を除き・・・憲法上禁止できない』という基準として再び確立された。これは厳格な審査基準であり、害悪の重大性と切迫性の存在や程度等の判断もむずかしいため、教唆や煽動など一定の表現内容を規制する立法について用いるのが妥当であると解される」(二一五~二一六頁)。

 さらに、辻村は「犯罪煽動表現」について、「犯罪の扇動にあたる表現についても、現行法上種々の制約が規定されてるため、表現の自由との関係が問題となる」として、刑法の内乱の扇動や、破壊活動防止法に言及し、食糧緊急措置令や破壊活動防止法に関する最高裁判例を紹介して、「このように、抽象的な危険を根拠に比較的安易に公共の福祉による表現の自由の制約を許容することに対しては、学説上批判が強い。そして、煽動罪の危険審査基準について、アメリカ合衆国の連邦憲法裁判例のなかで確立された『明白かつ現在の危険』の基準やブランデンバーグ・テストなどの厳格な審査基準を日本でも適用すべきであるという見解が提示されている」として、佐藤幸治説を引用する(二二六頁)。

C 初宿正典

 初宿正典(京都大学教授)の『憲法2基本権・第三版』(成文堂、二〇一〇年)は、表現の自由を自己実現と民主制の前提条件と確認し、表現の自由の概念とその方法について幅広い一般的説明を行い(つまり限定せず)、表現の自由の保障に言及し、その制限と合憲性判断基準を論じている。公共の福祉論、表現の自由の優越的地位と二重の基準論、事前抑制の原則的禁止を概説した上で、明確性について次のように述べている。

 「一般に、とくに人の行為を規制し、場合によっては処罰をもって制裁すべきことを定める刑事法令については、その法意が不明確であってはならないことは、憲法第三一条等の要請するところである。そしてこの明確性の要請は、表現の自由にかかわる刑罰法規についても妥当すると言える。すなわち、特定の類型の表現行為を法的に規制すること自体は必ずしも違憲と言えない場合でも、どのような行為が法によって禁止されているのかが曖昧・不明確であれば、国民が制裁を恐れてその表現行為を差し控える可能性(萎縮的効果)が生じる。表現の自由がもつ上記のような重要性にかんがみれば、こうしたことは許されてはならない。それゆえ、法令の文言が曖昧・不明確であれば、違憲の判断が下されるべきだということになる」(二七一~二七二頁)。

 初宿は、表現の内容に関する規制について、名誉侵害の表現行為、プライヴァシー侵害の表現行為、犯罪方法等の伝授と並べて、犯罪の煽動と差別的表現を取り上げて次のように述べる。

 「これらの場合には、上に列挙された刑法上の犯罪の実行行為そのものではなく、それを煽動する表現行為が規制されるのであり、しかも、その表現の内容は多分に政府の政策に対する批判という側面を有している。ことに破防法関連の事例では、特定の政治思想やイデオロギーに依拠した表現行為であることに鑑みれば、民主政の基礎をなす自由な政治的言論が封じられる危険を否定できない。たとえ同法自体は合憲であるとしても、その適用には慎重さが要請され、当該表現行為によって単に犯罪が実行される抽象的な危険があるというだけでなく、前述の『明白で差し迫った』具体的な危険が認定される場合に限定して適用すべきであろう」(二七七頁)。

 「差別的表現をどう規制すべきかは、平等原則との関連でも問題となることはもちろんであるが、表現の内容に着目して規制することになるため、何が差別的表現であるのか、そこで用いられた言葉、これが発せられた文脈、発言者の主観的意図など、種々の観点から、表現が必要以上に制約されないような慎重な検討が必要となる」(二八二頁)。

D 長谷部恭男

 長谷部恭男(東京大学教授)の『憲法・第五版』(新世社、二〇一一年)は、表現の自由の優越的地位の根拠として、民主的政治過程の維持と個人の自立を検討した上で、合憲性の判断基準として過度の広汎性の法理、漠然性のゆえに無効の法理に言及した後、内容に基づく規制と内容中立規制に関連して、せん動と差別的言論について検討している。

長谷部はせん動について次のように述べている。

「せん動が表現活動としての性質を持つことにかんがみると、『重大犯罪を引き起こす可能性のある』行為一般を広く処罰の対象とすることは、過度に広汎な規制となる疑いがある。・・・(中略)・・・ブランデンバーグ原則によれば、違法行為の唱導が処罰されうるのは、それがただちに違法行為を引き起こそうとするものであり、かつそのような結果が生ずる蓋然性がある場合に限られる。せん動が処罰の対象となるのは、犯罪行為を実行する決意を生ぜしめまたはその決意を助長させただけではなく、せん動が行われた具体的状況において、重大な危害が生ずる差し迫った危険が存在したことを政府が立証した場合に限られるべきであろう」(二〇一頁)。

次に差別的言論については次のように述べる。

「女性を従属する性として描き、その社会的役割を固定化し再生産する表現としてポルノグラフィーを位置づけ、従属的な女性を性的に魅力あるものとして描くことが、女性の自律的な生の追求を阻害するともに、平等であるべき表現の場を女性にとって不利に歪めた場とすることで、従属的地位を改善しようとする表現活動をも抑圧するため、ポルノグラフィーを表現の自由の保護範囲から除外すべきだとの主張がある。特定の民族や社会階層等についてその社会的従属性を固定化しようとする差別的言論一般についても同様の主張がなされることがある。しかし、内容に基づく表現規制であるにもかかわらず、その外延を規定することが困難であること、従属的地位にあるとされる人々の表現活動が直接に抑圧されるわけではないこと、従属性の固定化という観念が不明確であり、性差別の場合でいえば、少女向けの童話やポップ・ミュージックにまで差別的言論の範囲が拡大しかねないこと等から、なお一般的支持を得るにはいたっていない」(二〇五~二〇六頁)。

E 渋谷秀樹

 渋谷秀樹(立教大学教授)の『憲法』(有斐閣、二〇一〇年)は、差別的表現について、他の憲法教科書よりも立ち入った記述をしている。

 「差別的表現とは、少数者集団に対する侮辱、名誉毀損、憎悪、排斥、差別などを内容とする表現行為である。アメリカ合衆国ではこのような表現行為は、憎悪の言論と呼ばれてその合憲性が議論されているが、これには必ずしも少数者ではない特定の集団に対する直接的・間接的な、その存在意義を揶揄あるいは否定するような誹謗中傷的・皮肉的表現も含まれる。このような表現の対象者が特定されれば、侮辱罪、名誉毀損罪等で処罰可能であるが、対象者が特定されない集団の場合、既存の実定法秩序によっては対応できないので、新たな規制の是非が問題となる」(三四八頁)。

 「憎悪の言論と呼ばれてその合憲性が議論されている」とあるのは意味不明であるが、「憎悪の言論の刑事規制の合憲性が議論されている」という趣旨であろうか。

 渋谷は、続いて刑事規制に関する合憲説と違憲説を、内野正幸説(『差別的表現』明石書店、本連載次回で取り上げる)に従って説明した上で、次のように述べる。

 「政府の規制を肯定すると、差別的言論の認定権を政府にゆだねることとなり、その恣意的な適用が懸念される。また、特定人が対象ではないので、不利益は拡散される。ここでは表現の自由のもつ思想の市場機能を信頼して、差別的表現については、対抗表現によって対処すべきである」(三四八頁)。

 合憲説と違憲説の論拠を対比して説明している点や、「対抗表現」によるべきと明示している点で踏み込んだ記述と言えよう。

 さらに、渋谷は「犯罪の煽動」について、食糧緊急措置令違反事件最高裁判決及び渋谷暴動事件最高裁判例を紹介した上で、次のように述べる。

 「学説は、法令の合憲性の審査基準に、また具体的行為の可罰的違法性の判定に、より厳しい基準を適用すべきとする。例えば、明白かつ現在の危険の基準の修正版であるブランデンバーグの基準、すなわちそのような行為が、差し迫った非合法な行為を煽動し、または生ぜしめることに向けられており、かつそのような行為を煽動し、または生ぜしめる蓋然性のある場合を除き憲法はその処罰を禁止するとする基準を取り入れるべきであるとする」(三四九~三五〇頁)。

F 赤坂正浩

赤坂正浩(神戸大学教授)の『憲法講義(人権)』(信山社、二〇一一年)は、「煽動的表現の自由」と「差別的表現の自由」を明言する。

赤坂によると、「煽動的表現の自由とは、『犯罪や違法行為を煽動する表現を国家から妨害されない市民の権利』を意味する」(七一頁)という。その規制の合憲性審査については明白かつ現在の危険やブランデンバーグ原則を紹介しつつ、破壊活動防止法に関する最高裁判例を紹介している。 

続いて、赤坂は「差別的表現の自由」について「差別的表現の自由とは、『マイノリティに対する差別・排斥・憎悪・侮辱等を内容とする表現を国家から妨害されない市民の権利』ということになる」(七二頁)と定義する。

 そして、赤坂は、人種差別撤廃条約第四条(a)(b)の適用を日本政府が留保していることに触れた上で、学説について次のように述べる。

 「学説には、差別的表現を規制する法律の制定もまったく許されないわけではないが、その合憲性は『明確性の原則』と『ブランデンバーグの原則』によって厳格に審査されるべきだという見解もある。しかし、日本では、差別的表現に関するメディアの広汎な自主規制がすでにおこなわれており、過度の自主規制が表現の自由に対して萎縮効果を及ぼす面があることにも注意が必要だ」(七二頁)。

 「しかし」以下は文意を読み取りにくいが、「差別的表現を規制する法律の制定はまったく許されない」という趣旨であろうか。

 

三 憲法学の特徴

 

 以上、憲法学の代表的な教科書から、差別表現に関連する記述を紹介してきた。その検討は、次回、学説の変遷を再確認した上で、行うことにしたい。

 ここでは、憲法学教科書におけるこの問題の記述における特徴をいくつかまとめておくことにしたい。

 第一に、「表現」の理解であるが、憲法学は「表現」をあらゆる表現としている。言語表現に限らず、人間の意思表示に関連するあらゆる事柄が表現になりうるというのが一般的であるが、その具体的根拠はほとんど示されていない。「表現」とはそういうものだという説明が多い。「憲法第二一条で保障される表現の自由に関する表現の概念定義を行う」という問題意識が見られないのが特徴である。

  第二に、「表現の自由」の理解についても同じことが言える。あらゆる表現の自由の保障であり、表現内容に関する区別は認められないとされる。憲法第二一条に「一切の表現の自由」とあるため、「一切の」表現の自由の優越的地位を認めるとされる。絶対的保障ではないものの、憲法上の自由権の中で別格の保障を認めるという理解が一般的である。

  第三に、それゆえ「表現の自由」と「差別表現の自由の刑事規制」との関係について、あらゆる表現の自由を保障するのだから、差別表現の自由に対する刑事規制には慎重でなければならないとされる。明白かつ現在の危険の原則やブランデンバーグ原則が参照される。ここでは、突如として、日本国憲法には書いていないがアメリカ憲法判例だから当然そう認めるべきだという論調が一般的である。表現の自由と差別表現の自由の刑事規制とを絶対的に対立させる理由が示されることはない。教科書という性格のためなのか、日本の憲法学教科書は理由を示さずに結論を述べることが非常に多い。

  第四に、国際自由権規約第二〇条第二項に言及がない。前回紹介したように、国際自由権規約委員会は日本政府に刑事規制の勧告をしているが、憲法学はこれを無視する。無視する理由は明らかではない。

  第五に、人種差別撤廃条約第四条(a)(b)については、いくつかの教科書が、日本政府がこれを留保していることを肯定的に紹介している。人種差別撤廃委員会から留保の撤回や、ヘイト・クライム規制法を制定するよう勧告を受けていることはきちんと取り上げない。この点に言及することがないため、議論の余地もない。

第六に、差別表現問題と犯罪煽動問題を、まったく別問題として分離する傾向が一般的である。両者の関連や重なりには言及がない。人種差別撤廃条約第四条やヘイト・クライムの問題は「差別煽動」問題であるが、問題を切り離したまま論じている。

 第七に、渋谷秀樹は、差別的表現に「対抗表現」を対置すべきと明言している。他の論者はそのように明言していないが、おそらく同様の考えであろうと推測される。人種差別問題に取り組んできた人権NGOであれば、人種差別の煽動に対して対抗表現・対抗言論は意味をなさず、実践不可能であると考える者が多いと思われる。これに対して、憲法学者は、対抗表現によるべきだと述べる。しかし、具体的内容は示されない。

 以上、さしあたりの思いつきのレベルだが、憲法学教科書における差別表現に関する記述の特徴を列挙してみた。

 次回は、もう少し以前にさかのぼって、差別表現の自由をめぐる議論に視線を送り、どのような議論の経過を経て、右に見たような憲法学の現状に立ちいたったのかを検討した上で、さらに議論を深めて行きたい。