Saturday, November 24, 2012

原発訴訟における司法官僚の無責任


新藤宗幸『司法よ! おまえにも罪がある』(講談社)


 

<国民の常識と乖離した、行政への「ものわかりのよすぎる判決」はなぜ出されるのか?
この国に真の三権分立を打ち立てるための警世の書>

 

<行政学の第一人者として日本政治における「過度の行政化」の問題に警鐘を鳴らしつづけてきた新藤氏が、これまでの原発訴訟の判決を仔細に、わかりやすく検討し、市民の常識からあまりにも浮き上がっている「ものわかりのよすぎる司法」の現状を徹底的に批判すると同時に、あるべき司法への具体的提言を記します。>

 

目次

序章 裁判所は“最後の砦”だろうか

Ⅰ章 原発訴訟と司法の論理構造

Ⅱ章 志賀原発二号機訴訟を分岐させたもの

Ⅲ章 司法の責任と司法改革

終章 福島原発事故が突きつけたもの

 

著者は立教大学教授、千葉大学教授を経て、東京都市研究所研究担当常務理事。著書に『行政指導』『技術官僚』『司法官僚』(岩波新書)『日本の予算を読む』『政治主導』(ちくま新書)など多数。

 

日本民主法律家協会の機関誌『法と民主主義』459号(2011年6月)の「特集・原発災害を絶対に繰り返さないために(パートⅠ)」に書いた論文が出発点となって、本書が執筆された。


 

原発絶対安全神話で国民をだましたのは、政府や東電だけでなく、これにお墨付きを与えた司法も共犯である。
 
1990年3月20日の仙台高裁判決に至っては「我が国民が、原子力と聞けば、猛烈な拒否反応を起こすのはもっともである。しかし、反対ばかりしていないで落ち着いて考える必要がある」などと信じがたい無責任ぶりである。
 
元最高裁判事・園部逸夫は「最高裁には、行政庁の言うことは基本的に正しいという感覚があるのです」と堂々と語る。こうした異常で無責任な司法が原発政策を容認してきた。原発推進に歯止めをかけた判決は2つしかない。それも上級審で覆されている。

 

本書はこうした司法官僚の犯罪的無責任を洗い出し、特に志賀原発二号機訴訟を素材として、司法の論理の異様さを暴露している。

 

原発訴訟の全体動向については、海渡雄一『原発訴訟』(岩波新書)があるが、本書も併せ読むことで理解が深まる。