Monday, July 13, 2015

植民地解放闘争を矮小化する戦略

植民地解放闘争を矮小化する戦略
――朴裕河『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)
*『社会評論』169号(2015年4月刊)に掲載
一 ねじれにねじれを重ねるプロジェクト

 賛否両論が分かれる本だ。賛成・支持する論者の中に、日本の道義的責任を果たすべきという論者と、「慰安婦」問題などなかった、日本に責任はないという論者の両方が含まれ、奇妙な同床異夢状態ができあがっている。批判する論者も一様ではない。その意味で「問題提起」的な著作である。
 書評の難しい本だ。「慰安婦」問題でねじれた日韓関係をさらにねじれさせるために書かれたとしか思えない。加害国側の日本男性である評者が、被害国側の韓国女性の本書を批判しても、ねじれが解消するどころか、いっそうこじれるだけで生産的でない。それでも書評をする理由は、日本側の事情の変化にある。第一に、二〇一四年八月の朝日新聞記事訂正に始まる一連の狂騒によって「慰安婦」問題をめぐる議論が混迷を深めているからである。第二に、一部とはいえ本書礼賛が常軌を逸しているからである。
日本側の事情が変更になったから書評をするというのも奇妙な話だ。しかし、本書は二〇一三年八月に韓国で出版された著作の「日本語版」と宣伝されているが、実は<WEBRONZA>連載の日本語版から書き始められた。最初から日本に向けて発信されたメッセージである。そうであれば本書をどのように読むのか、日本の読者にストレートに問いかけられている。日韓の双方を行きつ戻りつしながら、あえてねじれにねじれを重ねようと奮闘する著者のプロジェクトとは何であるのだろうか。少し考えてみたい。
なお、評者の認識について、『「慰安婦」バッシングを越えて』(大月書店)、『「慰安婦」・強制・性奴隷』(御茶ノ水書房)、『日本人慰安婦』(現代書館)参照。

二 練り上げられた方法論の特徴

 本書の方法にはいくつもの特徴がある。WEB連載、韓国語版を経て、改めて日本語版がまとめられた経緯から言って、本書が採用した方法は意識的自覚的に選び取られ、練りあげられたものである。その方法論的特徴を確認していこう。以下に列挙する方法論的特徴はそれぞれ独立しているのではなく、相互に密接に関連し、補完しあう性格のものである。まずは分説してみよう。
 第一に<物語化>である。「帝国の慰安婦」という表象が「戦争犯罪の犠牲者=生存者」という表象に対する批判として提示され、「慰安婦」たるべく前向きに生きた「主体」が仮構される。そのために「主体の語り」が選定され、著者の論旨に沿わない語りは剪定される。それゆえ著者は千田夏光の「画期的な仕事」である『従軍慰安婦”声なき女”八万人の告発』(一九七三年)に依拠し、千田が「慰安婦」を<愛国>的存在として理解していたことを発掘する。そこに「慰安婦」証言の中から好都合な語りを縫合していく。
ここに本書の言う「記憶の闘い」の特殊な意味が明らかになる。著者は次のような表象を全面批判する。「慰安婦」を利用し、抑圧し、戦後は戦地に放置し(場合によっては殺害し)、戦後も沈黙を余儀なくさせた男性中心的価値観による「慰安婦」イメージの押しつけ、歴史の否認と記憶の抹消を図ってきた日本国家と日本男性(男性的価値観を共有してきた女性も含む)による「記憶の消去」に抗って、韓国をはじめアジア各地で日本国家の責任を追及する「主体」として登場した「慰安婦」被害者=生存者たち――こうした従来の認識枠組みを否認すること。これが本書の戦略目標である。記憶を消去・占有しようとする国家権力に対して抗う被害女性の「記憶の闘い」は無化される。
本書は、「被害者」イメージを強調してきた韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」)などの補償要求運動によって構築された「記憶」に、<愛国>のために生きた女性たちの「記憶」を対置する。これによって二つのことが可能となる。一つは、「記憶」の抑圧が日本国家によってではなく、補償要求運動によってなされたと描き出す。その結果として日本国家の責任を解除する橋頭堡を確保する。二つには、異なる「記憶」を有する女性たちの「記憶の闘い」を主戦場とすることによって、次に指摘する<相対化>を招き寄せる。
第二に<相対化>である。「性奴隷か、売春婦か」、「強制連行か、国民動員か」といった二者択一が次々と繰り出される。いずれかの決着をつけることが目指されているわけではない。二者択一を提示しつつ、双方に一応の根拠があると言えば、著者の論述は「成功」を収める仕掛けになっている。それゆえ著者は概念定義もせず、判断基準も提示しない。定義や基準を明示することは自殺行為となりかねないからである。
同じ理由から、著者は<()権利(ヒト)>を否認する。国内法であれ、国際法であれ、著者の行くところ見事に刈り取られて残骸のみが横たわる。国内法で言えば、従来何度も指摘されてきたように、植民地時代の朝鮮半島に適用された日本刑法には国外移送目的誘拐罪の規定があった。帝国の外に連れ出す目的で行われた誘拐であるが、朝鮮半島で誘拐され、人身売買された女性の事件に適用できた刑法第二二六条を日本政府は適用しなかった。適用しないために国家的努力を積み重ねた。著者はそのことを知悉しているはずだが、軽視する。国際法について従来、一九一〇年の白色奴隷条約(醜業条約)、一九二六年の奴隷条約、国際慣習法としての奴隷の禁止、一九三〇年の強制労働条約、そして人道に対する罪などが議論され、国連人権委員会でもILO条約適用専門家委員会でも、日本政府の責任が問われてきた。ところが、著者は内容の検討抜きに、「日本に法的責任はない」と断定する。定義も基準も検討しないが、結論だけは明快である。<()権利(ヒト)>の否認は徹底しており、理念や規範が瀕死状態となる。
 <法>の否認の背後には、植民地時代の帝国が勝手に制定した法に過ぎないという認識がある。だが、当時の法にさえ違反していたことが内外で確認されているのに、そのことは重視されない。また、当時の法は法として、そこに人権論を読み込む法律家の努力が積み重ねられてきたのに、一顧だにしようとしない。極端な「法ニヒリズム」である。
 しかし、奴隷条約を単なる「帝国の法」と特徴づけることはできない。奴隷条約に至るまでに百年以上の奴隷解放を求める民衆の闘いがあった。カリブ地域の民衆による独立運動と奴隷解放運動(ハイチ革命、グレナダ革命等)に始まり、各地で成果を上げた。最後にアメリカ合州国の奴隷解放につながり、国際連盟での奴隷条約に結実したのである。「帝国」に抗する民衆が新しい「法」を形成する運動のメカニズムこそが重要である。しかし、「慰安婦」は帝国に従って<愛国的>に振る舞わなければならないという本書のテーゼにとって不都合な真実は消去される。
 第三に<主観化>である。<物語化>と<相対化>に呼応し、これらを支えるのが<主観化>である。「慰安所」政策の歴史や背景、その客観的事実とは別に、「慰安所」に置かれた女性たちの体験は主観的に「記憶」され、「証言」されてきた。そうした証言を再び客観的状況に照し合せ、位置づけ直して、その意味を検証するのが歴史学の役割である。ところが、本書における<主観化>は、主観的に構築された物語の絶対化を意味する。それゆえ、主観と記憶を根拠に客観的条件を<相対化>することが可能となる。個別の女性の思いが歴史認識の根拠とされる。しかも、田村泰次郎、古山高麗雄など日本人男性作家が書いた小説が根拠になる。このことを指摘しても批判にならない。著者は最初から物語を語っているのであって、小説に依拠するのは「正しい」作法なのだから。
第四に<分断>と<個別化>である。著者によって、「主体」は「他者によって争奪戦を繰り広げられるべき戦場」に変容される。「記憶の闘い」は「主体をめぐる闘い」に移行し、亀裂と分断がフィールドを覆う。このフィールドで著者はふつふつと滾る憎悪を込めて挺対協を糾弾する。挺対協こそが歴史認識を歪めた元凶であり、運動方針を誤った愚者であり、「実質的」に謝罪した日本政府を根拠もなしに非難して解決の糸口を失った責任者であり、被害女性を利用している、と論難する。
著者の論理は明快である。日本政府を説得しなければならないのに挺対協はそれに失敗したのだから運動を失敗に陥らせた責任がある。著者は、被害女性にもいろいろな考えがあると、被害者の要求を分断しつつ、被害者と「被害者を利用する」挺対協を分断していく。韓国の被害女性とアジア各地の被害女性も分断される。
挺対協の論理は、国連人権委員会に受け入れられ、ILO委員会に受け入れられ、日本の戦後補償運動にも、台湾やフィリピンの被害者団体や支援者にも受け入れられ、そして二〇〇七年にはアメリカ、EUなど世界各国の議会や政府にも受け入れられた。これだけの支持を得たことは、通常は、その論理の正しさの傍証と理解される。しかし、本書によれば、日本政府を説得しなければならないのだから、挺対協の失敗は明白である。つまり、日本政府が絶対の判断基準であり、それと異なる判断をした全世界がすべて誤っている。
批判的読者はこの主体の争奪戦に参入しないように用心しなくてはならない。本書韓国語版に対して被害女性たちが、名誉毀損であるとして出版差し止めと損害賠償を求めて提訴したが、著者は「原告は元慰安婦の方々の名前になっています」としつつ、「実質的」にはそうではないとして、被害女性の主体性を著者の都合に合わせて整形する。分断線を引く権利は、著者にある。「実質的」や「本質」の論定も、誰が主体となるかも、著者の権限で決まる。
 かくして、責任を問われずに済む日本人男性の語りが始まる。「朝日文化人」が欣喜雀躍して本書を歓迎し、著者をハンナ・アーレントに比肩する珍無類の解釈が登場する。九〇年代に「知識人」と自称した人々が国家と一体となって設立した「アジア女性基金」を絶賛する著者は、「男性知識人」たちの「女神」として降臨する。同時に、日本の責任を全否定する歴史修正主義者たち、植民地主義に開き直る論者たちもスタンディング・オベーションで迎える。『和解のために』の前例から言って、著者自身も十分予測していたであろう現象である。「本書が右翼に利用される」という危惧を述べる論者がいるが適切ではない。利用されるのではなく、主体的に確たる自信を持ってハーモニーを奏でているのである。
 <相対化>や<主観化>と結びついた<個別化>が見事に猛威を奮う。個別の「慰安婦」女性にはそれぞれの思いがあり、記憶があり、闘いがあるのだから、一般化を拒否する権利もある。しかし、歴史認識や国家責任を問うフィールドで<個別化>とは何を意味するか。アウシュヴィツ収容所におけるすべての被害者の思いや記憶が同じということはありえない。旧ユーゴの「民族浄化」やルワンダ・ジェノサイドの渦中でも人々の思いは限りなく多様であった。だからこそ一般化しなければ歴史も国家責任も語ることはできない。個別の思いを重ね合わせつつ、いかに一般的認識を形成し、共有するかが重要である。

三 分断の彼方で再び

 本書の特徴は、正当な指摘が不当な帰結を生み出すアクロバティックな思考回路にある。例えば、「慰安婦」強制の直接実行者が主に民間業者であったことは、当たり前の認識であり正しい。ならば民間業者の責任を問う必要があるが、著者はそうしない。民間業者を持ち出すのはひとえに日本政府の責任を解除するためだからである。
 本書は、「慰安婦」問題を戦争犯罪から切り離して、植民地支配の問題に置き換える。植民地であれ占領地であれ交戦地であれ軍事性暴力が吹き荒れた点では同じだが、植民地であるがゆえに「慰安婦」政策を貫徹できた限りで、本書も正しい。ならば植民地支配の責任を問うべきであるが、著者はそうしない。植民地に協力した<愛国的>努力を勧奨するからである。植民地の現実を生きるのだから<愛国的>に植民地支配に協力せざるを得ないこともある。しかし、その体験と記憶を根拠に歴史を裁断すれば、カリブ海でもアルジェリアでもナミビアでも、世界は「善き植民地」に覆われることになる。
 <法>を否認する本書は「人道に対する罪としての性奴隷制」についての法的考察を棚上げし、植民地解放闘争の理論と実践や、国連国際法委員会で審議された「植民地犯罪」論や、人種差別反対ダーバン世界会議で議論された「植民地責任」論も脱色してしまう。植民地支配の責任を問う法論理が出てこない(人道に対する罪について、前田朗『人道に対する罪』青木書店)。
 「慰安婦」問題を日韓関係に閉ざして挺対協叩きに励んでも、問題解決を遠ざけるだけである。植民地支配に抗し、人道に対する罪や戦時性暴力と闘う世界の民衆の法思想は、「慰安婦」、旧ユーゴ、ルワンダ、シエラレオネ、コンゴ民主共和国、アフガニスタン、イラクの現場で、おびただしい犠牲と底知れぬ悲しみに襲われ、翻弄されながら、徐々に鍛えられてきた。「慰安婦」問題の法的解決がリーディング・ケースとなると期待しながら、世界を引き裂いてきた分断の彼方で人々が再び出会うために、謝罪と被害補償を求める運動はさらなる闘いを続けるであろう。