特集「ヘイトスピーチにNOを!」『創』2015年8月号
6月11日に『創』編集部が開催したシンポジウム「ヘイトスピーチとナショナリズム」の記録である。300人 以上が参加したという。私も参加したかったが、日程の都合から参加できなかったので、誌上で読めるのはとてもうれしい。8人の発言が記録されている。
安田浩一「社会的少数者差別の先にあるもの」
有田芳生「今も毎週末に差別扇動のデモが・・・」
佐高信「ヘイトスピーチの背後の弱肉強食」
香山リカ「アイヌに対するヘイトスピーチ」
雨宮処凛「かつて感じた言語化できない怒り」
鈴木邦男「ヘイトスピーチと右翼の内情」
小林健治「ヘイトスピーチと差別表現」
山田健太「『表現の自由』と法規制の是非」
それぞれにコメントしたいところだが、時間の余裕がない。一番注目されるのは、刑事規制反対の論陣を張ってきた山田健太(専修大学教授)の主張である。山田健太とは30年以上前の国家秘密法反対運動にいっしょに取り組んで以来の仲であり、敬愛するメディア法研究者である。しかし、この問題では見解を異にする。にもかかわらず、山田は、私の本『ヘイト・スピーチ法研究序説』出版記念会に出席して、発言してくれた。大変感謝している。上記の創シンポジウムでも、山田は規制反対派の役割を引き受けて、冷静に議論をする努力をしている。
さて、創シンポジウム記録によると、山田は、「公的な差別が公然と行われていること」が問題であると指摘し、「メディアの対応にも問題がある」と述べた。その通りである。そのうえで山田は、人種差別を禁止するという点では国際人権法も日本も同じ道を歩んでいるが、その方法には違いがあると指摘した。山田の主張は次の言葉に顕著である。
「日本国憲法は世界に稀な例外を持たない憲法なんですね。/表現の自由の規定は一切例外なしです。『表現の自 由はこれを保障する』――このような例外を持たない憲法は世界中でもごくわずかなんです。そのような選択肢をとったわけですね。」
そのうえで、山田は日本のメディアの自主規制について論じ、さらにヘイトスピーチ対策のための差別救済法や 人権委員会設置、報道倫理の確立の必要性を指摘した。
私は山田の意見の大半に同意する。これまでも山田の著作に学んできた。しかし、上記の引用個所については、疑問を指摘せざるを得ない。いくつかあるが、今回は2点。
第1に、山田は、憲法21条だけを引用しているが、憲法12条を無視するのはなぜか。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
このように憲法12条は明らかに「例外」を定めている。「例外を持たない」というのは山田の誤解ではないだろうか。このことは、多くの憲法学者が指摘してきたことである。ほとんどの憲法教科書が「表現の自由は絶対的ではなく、優越的地位である」としている。芦部信喜も佐藤幸治も、辻村みよ子も長谷部恭男も、表現の自由は絶対的ではないとしている。最高裁判例も、表現の自由は絶対的ではないとしている。日本政府も、人種差別撤廃委員会の審査の際に、委員に詰め寄られて、表現の自由は優越的地位にあるが、絶対的ではないと、認めざるを得なかった。
にもかかわらず、山田は「例外なき表現の自由、絶対的な表現の自由」という特異な見解を述べる。それはなぜか。どこに根拠があるのだろうか。山田の独自の思想であって、日本国憲法の立場ではないのではないか。
第2に、山田の主張する表現の自由とはマジョリティの表現の自由であって、マイノリティの表現の自由が無視されているのではないだろうか。憲法12条、14条(法の下の平等、非差別)、21条を踏まえるならば、マイノリティの表現の自由こそ最も尊重されるべきではないだろうか。表現の自由が優越的地位にあるのは、人格権と民主主義に根拠があるからであり、それはマイノリティの表現の自由の尊重を意味しているのではないだろうか。そもそも、マジョリティは権力を保有し、望む政策を実現できる立場にあり、表現の自由はふんだんに保障されている。日本国憲法がそのようなマジョリティの表現の自由を、わざわざ絶対的に保障するなどということはあり得ないことではないだろうか。マジョリティの表現の自由を唱えることは、差別の自由、差別表現の自由を認める人権無視の憲法論に堕する危険性はないだろうか。私は「マイノリティの表現の自由の優越的地位を保障せよ」と主張してきた。この点を、山田はどのように考えているのであろうか。
ヘイトスピーチ刑事規制がもたらすかもしれない弊害についての山田の指摘には同意する面もあるが、憲法解釈については疑問である。次の機会には、山田から教示を受けたいところである。