Wednesday, August 10, 2016

根源的民主主義への変革を求める脱原発の哲学

佐藤嘉幸・田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院)
 「福島第一原発事故から五年、ついに脱原発への決定的理論が誕生した。」「気鋭の思想家二人の共同作業による決定的巨編」との宣伝文句に嘘はない。目次を一瞥しただけでも、その幅の広さ、分析の深さが推測できる。哲学者の底力をまざまざと見せつけてくれる待望の書であり、読了と同時に脱帽の書である。出版から半年遅れで読んだが、再読三読しなければならない重要著作だ。
 『権力と抵抗』『新自由主義と抵抗』の著者である1971年生まれのフーコー研究者と、『ディドロ 限界の思考』『怪物的思考』の著者である1973年生まれのディドロ研究者が、3.11から5年の歳月をかけて送り出した本書は、ドールーズ=ガタリ、ネグリ=ハートに倣って「四手で」書かれたという。ここにも著者たちの並々ならぬ決意と挑戦が示されている。哲学することの愉しみを教えてくれる書でもある。
 「第一部      原発と核兵器」の3章では、原発と核兵器が歴史的に同根であり、「等価性」を有することを確認し、「核アポカリプス不感症」の現状を指弾し、絶滅技術の正体を撃つ。
 「第二部      原発をめぐるイデオロギー批判」の3章では、低線量被曝をめぐる「しきい値」イデオロギーを批判し、「安全」イデオロギーによる事故の隠ぺいを批判し、「ノーマル・アクシデントとしての原発事故」にいかに向き合うかを語る。
 「第三部      構造的差別のシステムとしての原発」の3章では、電源三法がいかにして地方を服従化させ、周縁地域や原発労働者を構造的差別の下に組み入れたかを解明し、その歴史的起源を系譜論的にたどりなおし、近代日本国家の「富国強兵」と「殖産興業」にたどり着く。
 「第四部      公害問題から福島第一原発事故を考える」の3章では、以上の考察を踏まえて、足尾鉱毒事件に遡行し、「富国強兵」と「殖産興業」の近代史の悲劇の実相を探り、それがゆえに公害が必ず回帰する日本現代史(高度経済成長)の必然性を明るみに出す。四大公害は、単に高度経済成長のひずみだったのではなく、日本国家と資本の必然的帰結であり、その延長に福島原発事故があったのだ。
 科学、科学批判、技術、技術批判、政治、経済、歴史、環境などあらゆる角度から原発問題に迫った末の「結論 脱原発の哲学」では、脱原発、脱被曝の理念をいかに構築し、具体化するか、そして脱原発の実現と民主主義をいかに考えるか、つまり「脱原発によってどのような社会を実現すべきか」に及ぶ。「原子力国家」あるいは「管理された民主主義」から「分権的で直接民主主義的な根源的民主主義へと変革すること」。
 脱原発への道筋として「国民投票」が提起されている点には疑問がないわけではない。「分権的で直接民主主義的な根源的民主主義」に反する面があるからだ。

 ともあれ、脱原発の新たな理論的武器が与えられた。歴史に挑み、時代に体当たりするようにして徹底的に思考することが変革そのものであることを二人の著者は、颯爽と鮮やかに、しかも同時に堅実に重々しく、私たちに突きつけた。