Monday, August 15, 2016

反原連・しばき隊・SEALDsの叛乱のゆくえ

笠井潔・野間易通『3.11後の叛乱――反原連・しばき隊・SEALDs』(集英社新書)
<左翼の終焉と21世紀型大衆運動のゆくえ>
<七〇年安保闘争以来、およそ半世紀近くの時を経て、路上が人の波に覆いつくされた。議会制民主主義やマスメディアへの絶望が、人々を駆り立てたのか。果たしてそれは、一過性の現象なのか―。
 新左翼運動の熱狂と悪夢を極限まで考察した『テロルの現象学』の作者・笠井潔と、3.11後の叛乱の“台風の眼”と目される野間易通が、反原連、しばき隊、SEALDsを始めとする現代の蜂起に託された、時代精神を問う!>
『バイバイ、エンジェル』『テロルの現象学』の笠井と、反原連・しばき隊で社会運動の在り方に変革をもたらした野間の、往復書簡である。
特徴的で魅力なのは、第1に、しばき隊の編成原理と行動様式が野間自身によって語られていることである。野間は、本来の「レイシストをしばき隊」と、世間で言われている「しばき隊」が、重なりつつも別の存在であり、行動原理も全く違うことを詳しく語っている。「レイシストをしばき隊」の発想、行動については、当時、こんなやり方があったのか、と痛感させられた。野間の語りはとても説得的だ。野間は、ヘイト・スピーチは他者の尊厳を傷つけるだけでなく、社会を壊すという的確な認識を有している。
第2に、世代の異なる笠井と野間が随所ですれ違いながらも、それぞれの立場から過去と現在を突き合わせ、ときほぐしながら対話を重ねていることである。立場や経験は異なるが、未来の運動に向けてのメッセージと言う意識を共有しているからだろう。
第3に、世界的視野で語っていることである。笠井はフランス革命、ブランキ、ルクセンブルク、ロシア革命、レーニンを語り、そこから日本の社会運動の位置を見定めようとする。かなり強引なあてはめだが、楽しく読める。野間は、「70年代のブラック・アフリカと80年代末の東欧、21世紀のアラブ世界と歴史的な連続性」を意識しながら、運動の展望を語る。
違和感を抱くところもないではない。
例えば、「左翼の終焉」という点で笠井と野間は一致するが、これって30年以上、何百回と聞かされたフレーズだと思うのは私だけだろうか。笠井は「マルクス葬送派」宣言以来、一つ覚えのように、終わった、終わった、と言い続けてきたのではないか。「それでもまだゾンビがうごめいている」ということなのだろうか。
もう一つ、笠井と野間の攻撃は安倍政権にではなく、ほとんどすべて運動内部に向けられる。安倍政権批判は当たり前のことで、本書で今更書くことではないからだろうが、それにしても運動内部の亀裂を探すことに精力を傾けているように見える。野間は、ネグリ=ハートが「左翼」を「教会」に喩えて、「左翼の教会を空っぽにし、その扉を閉ざし、それを焼き払うことなのだ!」を引用して、3.11以後の運動の課題について、「私はこれを、教義も教会も修道院も持たない新たなレフトの誕生ととらえたい」と締めくくる。思わず共感してしまうが、ちょっと待ってみよう。笠井と野間の特徴は、現存する社会運動の共同行動に向けられるのではなく、社会運動の内部での優位を論じる方向に向けられている。歴史にかなった正しい我々の運動と、時代遅れの彼らの運動を区分けし、反原連・しばき隊・SEALDsがひらいた新しい地平こそ運動の未来への手掛かりとなるという。
否定するつもりはないが、やはりちょっと待ってほしい。異なる意識や理論の運動体が、それぞれのイッシューを抱えた運動体が、古臭い運動体であっても、斬新な方法論の運動体であっても、別々にではあっても、ゆるやかにではあっても同じ方向を向いて、それぞれの課題にチャレンジし、ともに進むことが枢要なのではないか。焼き払うべきは、「左翼(教会)」ではなく、権力(永田町)ではないだろうか。

この点で本書の最大の特徴は、2016年に21世紀の社会運動を論じているにもかかわらず、「オール沖縄」の闘いを無視していることである。翁長知事を生み出し、辺野古でも永田町でもジュネーヴの国連欧州本部でも裁判闘争でも、あらゆる場所で、それぞれの場に応じて展開してきた「オール沖縄」の闘いを、野間はどのように位置付けているのだろうか。そこが一番知りたい。