Sunday, March 19, 2017

大江健三郎を読み直す(77)「新しい人」はいかにして可能か

大江健三郎『宙返り(下)』(講談社文庫、2002年[講談社、1999年])
上巻では、宙返りのために地獄降りをした元教組が師匠(パトロン)として「復活」し、あらたな補助者たちと四国の森の中の来るべき根拠地へ向かうところまでだった。下巻では、新たな根拠地での魂のこと、生産と生活の再開、社会へのメッセージの話が中心になる。
「新しい教会」づくりに向かうパトロン、主人公格の木津、急進派だった古賀医師と技師団、静かな女たち、そして、新たに加わった荻青年、育雄、ダンサー。さらには、四国の森の中の、かつての「燃え上がる緑の木」の登場人物たち、受け入れ側の地元の人々や、「童子の蛍」のギー少年。それぞれの登場人物の過去と現在が何度も繰り返し、交錯しながら語られ、物語が一つの大きな流れとなっていく。
大江のこれまでの作品と比較しても、登場人物の造形を綿密にしているというか、かなり横道にそれているのではないか、無駄な話に頁を費やしているのではないかという印象を否定できないまま読み進めることになる。必ずしも無駄ではないのだが、剪定は可能だろう。
焦点の「宙返り」と「新しい教会」への道行は、パトロン、技師団、静かな女たちの思惑が火花を散らしながら、思いがけない方向に伸展する。木津、育雄、荻青年、ダンサー、ギーという人格の登場により「宙返り」の意味や「新しい教会」の在り方にも変容が不可避だったからだろう。
物語のピークは、ドタバタと哄笑の果ての悲劇として提示される。『小説の方法』以来の大江文学論の実作の集大成として受け止めることができる。そして、『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/T』『燃え上がる緑の木』がすべて挑戦とその失敗、「根拠地」の崩壊に立ち至ったのに対して、本作品では、パトロンから次へとバトンが渡されることになる。主人公格の木津は癌で亡くなるが、荻青年、育雄、ダンサー、そしてギーたちが未来の新しい教会の可能性に向けて次の歩みを進める。破綻と転落を繰り返してきた大江の再生と救済の物語は、ここに来て、宙返りの果ての宙返りによる再生の紡ぎ直しの途を開いた。
それにしても、パトロンの説教の最後が「カラマーゾフ万歳!」だったのには、半分納得しつつ、半分違和感も残る。『カラマーゾフの兄弟』から120年目の「カラマーゾフ万歳!」。
「最後の小説」を唱えていた時期の最後に当たり、「最後の小説」ではなくなった本作品で、たしかに大江はドストエフスキーと同様に「世界文学」の一角に根拠地を築いた。「世界文学は可能か」は、大江が日本文学に課した課題でもあったから、自ら課題を乗り越えたということだったろうか。
文体の問題は、まだ残るかもしれない。初期作品は別として、大江山脈の主要作品は、いずれも「僕」等の一人称の語りで会った。これに対して、本作品は物語の外部にいる作家が三人称で語り続けている。
(四国の森の奥が舞台となったり、いつもの登場人物が見られはするが、これまでのように大江をモデルにした男性作家や、息子・光をモデルにした人物は登場しない。木津の一部には大江的な面がないではないが、明らかに異なる人物設定である。森生も、天才的な音楽の才能と障害を持つという点では、光の影響があるが、やはり別の人格として設定されている。何しろ、木津も森生も作品の中で死を与えられている。)
とはいえ、別の場所で、大江自身は、ずっとスタイルを変え続けてきたと自評している。本作品で急に転換したとは自己認識していない。たしかに、『治療塔』『治療塔惑星』『キルプの軍団』において多彩な試みをしてきたので、文体の問題として本書が急に転換を示したものとは言えないのかもしれない。