Sunday, December 06, 2020

性暴力被害者の語りを「聴く」ために(2)

金富子・小野沢あかね編『性暴力被害を聴く――「慰安婦」から現代の性搾取へ』(岩波書店)

II部 日本ではどう聴いてきたか

 第3章 語るにまかせて ……………川田文子

 第4章 語れない記憶を聴く――「慰安婦」サバイバーの語り ……………梁澄子

 第5章 聞く歴史のなかで 川田文子『赤瓦の家』を受けとめる ……………大門正克

 第6章 AV性暴力被害を聴く――語り出した被害者と聴く者の責任 ……………宮本節子

川田論文は、沖縄のペポンギさんの人生を描いた記念碑的著作『赤瓦の家――朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房、1987年)に至る、著者自身の取材とインタヴューの旅を振り返る。『つい昨日の女たち』にまとめられた取材でも各地の女性の人生を聞き取り続けた体験から、質問事項をあらかじめ用意するのではなく、「語るにまかせ」で、耳を傾け続けるスタイルが生み出されたことを確認する。「語れないこと、語らないことの中に重要なことがらがある」が、そこに辿りつくまでに積み重ねるべき取材とインタヴューの熟成の意味を噛みしめる。

梁論文は、吉見義明(中央大学教授)の取材に通訳として同行した際のインタヴュー体験から、水原在住の安点順の沈黙、表情を通じて知ることのできた体験と記憶の壮絶な意味――「獣の生活」の核心に、いかにして近づくことができたかを、証言者の苦悩と勇気、取材者の熱意と努力、取材協力者の努力の積み重ねの輪の中で検証する。在日の宋神道との長い旅行きを辿り直しながら、「慰安時を生き延びるということ」に思いを馳せ、被害者から活動家への困難な歩みを支えるものは何か考察する。

大門論文は、『赤瓦の家――朝鮮から来た従軍慰安婦』の川田文子の取材方法が形成された過程を追跡する。『赤瓦の家』以前、1970年前後からの川田の聞き書きの歴史を踏まえつつ、大門自身が検討した『語る歴史、聞く歴史』における聞き書き史の中に位置づける作業を行っている。川田の方法は、森崎和江らが実践してきた聞き書きの系譜につらなり、後の2000年代の日韓における聞き書きにもつながる、要の位置にあることが明らかにされる。女性誌における聞き書きと、「慰安婦」研究における聞き書きの両方を発展させる取り組みであることがわかる。

宮本論文は、一転して、現在のAvの制作過程、流通過程、消費過程における性暴力被害に取り組んできた「ポルノ被害と性暴力を考える会(ぱっぷす)」の実践を通じて、AV性暴力被害者が自分の被害を認識し、ぱっぷすに相談し、被害回復を求めて立ち上がる過程を検討している。性暴力被害の訴えにくさがどこにあるか。被害者掘り起こしの意義。被害の重層性。被害者が語ることの必然と、聴くことの意味を論じている。「被害は掘り起こした。私たちが果たさなければならない社会的責任はまだ諸に着いたばかりである」と言う。

女性史、「慰安婦」問題、そしてAV被害の聞き書きの姿勢と方法論をめぐる考察は、性暴力に典型的だが、性暴力に限らず、性差別、さらには多様な差別にかかわる体験の聞き書きに共通する面を持つだろう。権力(政治権力に限らず、経済的、社会的権力)の側が書き記す歴史ではなく、語られなかった歴史、声なき者の歴史、小さき者の歴史を刻み、記録するには、そのための方法論が必要だ。オーラルヒストリーにはそれなりの歴史があるが、当初は意識されていなかったのだろう。

私自身はこれまで多数のインタヴューを行い、その記録をまとめて出版してきたが、そこでインタヴューしたのは、語る用意ができていて、積極的に語ろうとしている相手であった。学者や弁護士や市民運動家である。私の経験をもとにしていては、性暴力被害者への聞き取りは出来ないことがわかる。

性暴力被害者の証言記録を読む場合、その読み方に注意が必要なことは言うまでもない。「慰安婦」問題をめぐる論争でずっと争点となってきたことだ。いかなる歴史的事態の中で、いかなる体験をして、証言するまでにどのような歴史を刻み、そしていかなる環境で証言しているのか。想像力を駆使して、証言を読む必要がある。このことを改めて考えさせる。

歴史、体験、記憶、証言をめぐる研究には、研究者による研究者のための議論が少なくないことに、私自身、幾度も疑問を提起してきた。とはいえ、私自身はそれに代える方法論を持っているわけではない。本書のおかげで、議論の水準が飛躍的に高まることが期待できる。