国際人権メカニズムの現在(一)
『統一評論』526号(2009年8月)
相次ぐ人権機関からの勧告
二〇〇八年一〇月に自由権規約委員会から日本の人権状況についての改善勧告が出た(本連載①本誌五一九号)。
①日本軍性奴隷制問題について被害者の人間の尊厳を回復する方法で謝罪・解決。②在日朝鮮人に対する国民年金差別の是正。③朝鮮学校に対する助成金差別や大学受験資格差別の是正。④アイヌ民族を先住民族と認めること。琉球/沖縄の権利を認めること。⑤人身売買被害者の救済。⑥外国人研修生・技能実習生に対する搾取や奴隷化の是正。⑦拷問を受ける恐れのある国への送還を行わないこと。⑧裁判官へのジェンダー教育。⑨子ども虐待への対処。⑩性的マイノリティへの差別をなくすこと。⑪死刑廃止。⑫代用監獄廃止。⑬刑事施設視察委員会の改善。⑭立川テント村事件など表現の自由の侵害をやめること。⑮裁判官に国際人権法教育を行うこと、などである。
日本の人権状況を改善するための国際的勧告には長い歴史があるが、最近のものとしては、二〇〇八年五月の国連人権理事会の普遍的定期審査(UPR)における勧告(本連載③本誌五二一号)が知られる。さらに、二〇〇七年五月の拷問禁止委員会による勧告も重要である(前田朗「拷問大国から脱却するために」『未決勾留一六年』編集工房朔)。
社会権規約委員会、自由権規約委員会、人種差別撤廃委員会、女性差別撤廃委員会、子どもの権利委員会、拷問禁止委員会という、国際人権の基本六条約に基づく委員会のすべてが次々と改善勧告を出してきた。
他方、日本軍性奴隷制については、一九九六年の国連人権委員会におけるラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」による勧告をはじめとして、国際機関からも勧告が相次いでいる。二〇〇八年三月に国際労働機関(ILO)の条約適用専門家委員会は、日本軍性奴隷制問題や強制連行強制労働問題について勧告を出している。一九九六年以来、十回目の勧告だ。
このように実にさまざまな勧告が続いてきたが、それでは国際人権はどのようなメカニズムになっているのか。いかなる根拠で日本政府に対する勧告が出されているのか。たくさんありすぎて、何がどうなっているか、わからない人も多いようだ。その概要を整理して見ておこう。
国際人権法の体系
ファシズムによる重大深刻な人権侵害を反省した国際社会は、国連憲章前文で、「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」を目的に掲げた。
国連憲章第一条二項は「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること」とし、
国連憲章第一条三項は「経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」としている。
そして、国連経済社会理事会に人権委員会(Commission
on Human Rights)が設置され、約六〇年にわたって活動してきた。人権委員会はさまざまの人権宣言や人権条約を起草する場となった。しかし、二〇〇六年の国連改革において、人権委員会は人権理事会(Human
Rights Council)に改組・格上げされた。
他方、世界人権宣言を手始めに各種の人権宣言・条約がつくられた。一九四八年の世界人権宣言は、国際法の世界において個人の人権がもっとも重要な価値であることを宣言し、人権尊重を国連加盟各国と国際社会の課題として掲げた画期的な文書であった(世界人権宣言については本連載④⑤本誌五二二・五二三号)。その後、いくつもの人権条約が採択された。
つまり、国連には大まかに分けると二種類の人権機関が並立している。
Ⓐ国連憲章に基づく人権機関--人権理事会(旧・人権委員会)とその下部機関である諮問委員会(旧・人権小委員会)
Ⓑ国際条約に基づく人権機関--社会権規約委員会、自由権規約委員会、人種差別撤廃委員会、女性差別撤廃委員会、子どもの権利委員会、拷問禁止委員会など
前者の人権委員会・人権理事会は主に人権宣言や人権条約などの人権規範を起草する役割を果たしてきた。そうして採択された人権条約に基づいて設立された人権機関としての諸委員会は、人権条約に基づいて、当該条約を批准した諸国の報告書を審査したり、個人通報を受理してきた(条約委員会については次回参照)。
もっとも、人権機関は国連レベルだけではなく、地域別の人権機関もあり、国際人権法の発展に寄与してきた。
欧州人権条約は一九五〇年に採択されたが、その後、多くの追加議定書が採択されてきた。例えば第六議定書は死刑廃止、第一一議定書は差別の一般的禁止、第一三議定書は戦時死刑廃止に関するものである。また、欧州人権条約に基づいて欧州人権裁判所が設立され、個人からの提訴も受理して国際人権裁判を行ってきた。重要な判決がいくつも出ている。
米州人権条約は一九六九年に採択され、追加議定書(サンサルバドル議定書)もある。同様に米州人権裁判所が設立されている。
人及び人民の権利に関するアフリカ憲章(バンジュル憲章)は一九八一年に採択され、一九九八年にはアフリカ人権裁判所設立議定書が採択された。さらに二〇〇三年には女性の権利に関する議定書も続いた。
イスラム圏では、一九八一年にイスラム評議会により世界イスラム人権宣言が採択され、一九九〇年にイスラム会議機構によりカイロ人権宣言が採択された。
日本が位置する東アジアなど、アジアにはこのような人権条約も人権機構もない。今後の課題である。
発足した人権理事会
二〇〇五年九月の国連首脳会合において設立が基本合意され、二〇〇六年三月一五日に国連総会で採択された「人権理事会」決議により、国連総会の下部機関としてジュネーブに人権理事会が設置された。国連における人権の主流化の流れの中で、人権問題への対処能力を強化するため、人権委員会に替えて新たに設置されたものである。人権理事会は、人権委員会と同様に、ジュネーヴ(スイス)の国連欧州本部で開催される。
開催地がジュネーヴであり、途上国の人権状況を取り上げることが多いため、西欧中心主義との批判が出ることもある。一面当たっているところがないわけではないが、東欧はもとよりアフリカや中近東からも近い。中南米から見ても、ニューヨークよりは遠いものの、そう大きな違いはない。東アジアや南アジアからはニューヨークもジュネーヴも遠いが、人権理事会の開催にふさわしい代替場所があるわけでもない。夢のまた夢だが、万が一、日本政府が人権に力を入れてきたならば、東京で人権理事会を開催することも不可能ではなかっただろう。他方、ニューヨークでは安保理事会など国際政治そのものの議論を行っているので、人権理事会の開催地をニューヨークから切り離してジュネーヴとすることに意味がないわけではない。
人権委員会は、例年三~四月に六週間開かれていたが、人権理事会は少なくとも年三回の会期を開催し、合計一〇週以上の期間にわたる。人権委員会よりも機動的で、即応的な態勢になった。
理事会は四七ヶ国で構成される。地域的配分は、アジア一三、アフリカ一三、ラテンアメリカ八、東欧六、西欧七である。総会で全加盟国の絶対過半数で直接かつ個別に選出される。任期は三年で、連続二期を務めた直後の再選はできない。また、総会の三分の二の多数により、重大な人権侵害を行った国の理事国資格を停止することができる。
従来の人権委員会は五三ヶ国であった。アメリカは、その少し前に人権委員会理事国選挙で落選したこともあり、人権委員会改革を主導していたが、その際に強調した点の一つが、人権侵害が多発するなど人権委員会理事国にふさわしくない諸国が選出されているので、これを改めるために理事国を二〇以下に減らすべきだという主張であった。アメリカや欧州などの「先進国」だけが人権理事会にふさわしい、世界の人権問題はアメリカ主導の先進国だけで議論し決定するべきだという意味である。
いささか驚いたのは、人権委員会の議論に際して、著名で評価の高い一部の国際人権NGOが、アメリカ政府に同調する場面が見られたことだ。人権NGOにも南北格差が厳然として存在する。
アメリカの提案は受け入れられなかったが、理事国を五三から四七に減らすことによって、いくつかの人権侵害多発国家が理事国ではなくなった。
アメリカはこの決定を不服として、人権理事会発足当初から理事国には立候補しなかった。人権理事会がきちんと機能しなければ協力しないと名言し、アメリカは人権理事会より上級の判断機関であると主張しているようなものであった。もっとも、その後、アメリカは人権理事会に加わって今日に至っている。
人権理事会は、二〇〇六年六月の第一会期以来、一年の間に合計九回にのぼる理事会会合(五回の通常会期と四回の特別会期)や各種ワーキング・グループ等を開催し、テーマ別及び国別の人権状況にかかる報告や審議等のほか、人権委員会から引き継いだ活動や組織の見直しを行った。二〇〇七年六月には、作業方法や組織等の制度構築にかかる包括的な合意がなされた。手続き問題が一応決着を見たので、二〇〇九年三月以後の会期では世界の人権状況をめぐる討論や人権規範作りのための議論が行われている。
諮問委員会
人権委員会の下にあった特別報告者の制度は継続となった。特定国を対象とする国別報告者の廃止を求める国もあれば、特別報告者などの行動規範を求める国もあった。特別手続の縮小、制限につながる議論も出されていたが、最終的にベラルーシとキューバの特別報告者がなくなり、国別、テーマ別の手続が継続されることになった。
さらに、人権委員会の下部組織であった、人権促進保護小委員会(差別防止少数者反故小委員会)に代わって人権理事会のシンク・タンクの役割を努める諮問委員会についても合意が得られた。
諮問委員会は、国連加盟国が推薦する候補者の中から、理事会が選出する個人の資格による専門家一八人によって構成される。諮問委員会は、理事会の要請を受けて調査・研究を行い、決議や決定を採択することはできない。諮問委員会は、その任務を行うにあたって、国家、国内人権機関やNGOと対話することが求められ、これらの機関、団体なども諮問委員会の作業に参加することができる。
二〇〇八年八月、諮問委員会第一会期がジュネーヴの国連欧州本部で開催された。諮問委員会は人権小委員会とは違うということが強調されていて、第一会期の議論でも大きな論点になっていたが、実際は三分の一以上が人権小委員会委員からの「継続」である。議長選出の際、人権小委員会委員であったベンゴア委員やワルザジ委員がマルティネス委員を推薦して、その通り決まった。推薦理由は、マルティネスはベテランで経験豊富で「人権小委員の経験も長い」ということが繰り返されていた。その後の議論も、ベンゴア、デコー、ワルザジ、カルタシュキン委員がリードしていた。その意味では人権小委員会の継続である。もっとも、人権小委員会とは異なる権限や議題となるので、単なる継続でないことは言うまでもない。
第一会期の議題は、①議長団選出、②議題の採択、③人権理事会決議「諮問委員会」付録の履行、④人権理事会からの要請、⑤第一会期の報告書であった。
④の人権理事会からの要請は、さらに分かれて、ⓐ人権教育・訓練、ⓑ食料の権利、ⓒ 女性の人権、ⓓ民主的公平な国際秩序の促進、ⓔ失踪者、ⓕ障害者の人権、ⓖハンセン病者とその家族に対する差別の撤廃である。
諮問委員会は、二〇〇九年一月に第二会期を開催し、同年八月に第三会期が開かれる。
人権高等弁務官事務所
国連人権高等弁務官(The
United Nations High Commisioner for Human Rights)は、一九九三年六月の世界人権会議の最終文書として採択された「ウィーン宣言及び行動計画」の勧告に基づき、同年一二月二〇日に国連総会決議により創設された。人権高等弁務官事務所は、同弁務官を長とし、国連事務局の人権担当部門として機能する。
国連人権高等弁務官事務所は、ジュネーブ(レマン湖畔のパレ・ウィルソン)に本部を置く。人権享受の普遍的な促進、人権に関わる国際協力、国際的基準の普遍的実施等の促進などを任務とし、本部は、人権高等弁務官オフィス、プログラム・調査部、人権手続き部、調査・発展の権利部、条約・委員会部、特別手続部、キャパシティビルディング・現地事業部、等で組織される。また、ニューヨーク事務所の他、世界各地に地域オフィス、カントリー・オフィス、技術協力オフィス等がある。
国連人権高等弁務官は国連事務次長の地位を有し、国連事務総長の指揮及び機能の下で、国連の人権活動に主要な責任を有している。
人権高等弁務官事務所の主要な活動は、人権理事会の事務局としての役割である。また、人権理事会の諮問機関である諮問委員会や各種作業部会の事務局としても活動している。その他にも、人権理事会が任命した国別及びテーマ別特別報告者の業務支援を行う。
このような各種機関の事務局としての機能のほか、同事務所は、人権理事会が任命した、国別及びテーマ別の特別報告者の業務支援を行う。さらに、主要人権条約委員会の法律調査や事務局機能を担う(条約委員会については次回参照)。
国際人権機関の政治性
人権理事会、諮問委員会、人権高等弁務官事務所などが連携して世界の人権状況の発展がめざされている。
しかし、国連システムの枠内での話であるから、国際外交に直接のつながりを有する。人権機関といえども、純粋に法的議論を行い、人権問題を扱うのではない。むしろ、人権問題の政治化が頻繁に生じる。
例えば、人権委員会時代、アメリカは何度も中国の人権状況に関する非難決議の採択をめざした。これに対して、中国は第三世界諸国の支持を得て、決議を否決に追い込むことに成功してきた。討論の際には、アメリカは次々と中国における人権侵害情報を並べ立てたが、中国もアメリカこそ人権侵害の代表国であるとして猛烈に反論した。中国非難決議は採択されず、やがてアメリカは提案することさえできなくなった。
同様に、キューバの人権状況に関する決議や特別報告者の任命などのたびに、アメリカと、アメリカの意をていした諸国がキューバ非難の発言を続け、キューバは反論を繰り返していた。政治的非難合戦を何度繰り返したことか。
ルワンダ、スーダン、コンゴ民主共和国など重大人権侵害の頻発するアフリカ諸国に関する決議も何度も採択されたが、そうした状況が続くと、アフリカ諸国からは、欧米中心主義ではないかとの不満も表明された。
特定の国家や地域における人権状況を取り上げると、非難する側と非難される側の対立状況が生み出され、議論がしだいに政治化していく。人権状況改善以外の隠された目的を有した発言ではないかとの疑いをもたれるような発言も増えてくる。そうなると、隠された目的などない発言に対しても、同様の疑いを差し向けることによって議論を封じようとする国も出てくる。
日本軍性奴隷制をめぐる議論は、人権委員会への最初の問題提起がNGOメンバーである日本人(戸塚悦朗弁護士・当時)によってなされたこと、被害関係国が朝鮮や韓国だけでなく、中国、フィリピン、オランダなどにも関係したこと、女性に対する暴力特別報告者や戦時性暴力特別報告者が勧告を出したこと、国連以外にILO条約適用専門家委員会も次々と勧告を出したことによって、問題が政治化せずに、正面から議論されることが比較的多かったように思われる。
ところが、二〇〇二年九月、朝鮮政府が「拉致問題」への関与を認めたことから、翌〇三年三月以後の人権委員会では、日本政府が拉致問題を、それまで日本軍性奴隷制を議論してきた同じ議題にぶつけた。このため朝鮮と日本の間の非難合戦に陥ってしまい、〇三年以後の人権機関における議論は実りあるものとはならなかった。
人権理事会でも同じことの繰り返しに陥る心配があったが、新たに設けられた普遍的定期審査(UPR)の場で日本の人権状況に関する集中的な審議が行われ、充実した審議が実現した。
人権理事会等における議論は、国際外交の場であり政治化を完全に避けることはできないにしても、人権状況を具体的事実に基づいて整理し、国際人権法体系に即して判断する作業を続けることによって成果を積み重ねることができるだろう。国際人権法は特効薬でも万能薬でもないが、どの国家もタテマエとしては国際人権の理念を認めざるを得ない。理念と現実の相克を前に、人権NGOの役割はますます大きくなっている。