法の廃墟(5)
フランツ・ファノン、ふたたび
『無罪!』2006年8月号
ファノンとの出会い
ファノンの名前を知ったのはいつのことだろう。『地に呪われたる者』を初めて読んだのはいつだっただろう。学生時代であることは間違いないが、それ以上は判然としない。
ポスト全共闘世代のぼくは、全共闘が大学を「解体」して去っていった後に、荒れ果てた神田のキャンパスに足を踏み入れた。学園紛争の余波はまだまだ残っていた。大学一年の時は授業料値上げ反対闘争によって学年末試験が「粉砕」された。四年の時は大学移転反対闘争のためやはり試験中止となった。活動家たちが教授を吊るし上げたり、授業に乗り込んでアジ演説を繰り広げる光景はおなじみであった。生協書籍部にはマルエン全集、レーニン全集、吉本隆明や埴谷雄高が積み上げてあった。もちろんサルトルもずらりと並んでいた。
無所属のまま“ノンセクト・アンチラディカル温泉派”と称して一人で発言していたぼくは、各派の乱戦の邪魔者でしかなかった。対当局交渉、学生集会、自主ゼミ、合コン、そして温泉めぐりと硬軟両派の往復をしていたものの、大学三年以後は法律学のまじめな勉強に専念するようになっていった。
高校時代に衝撃を受けた事件の一つが金大中拉致事件であり、朝鮮半島と日本の歴史と現在に対する関心はこの時に始まった。今日も仲間とともに「在日朝鮮人・人権セミナー」という小さな団体の活動を続けているが、関心の出発点は金大中事件だった。だから学生時代にも差別問題にはずっと関心を持って勉強していた。もっとも、社会的活動にかかわることはあまりなかった。時折、日比谷公園で繰り広げられていた集会の隅に顔を出した程度である。
サルトルを介してその名前を知って、ファノンの『地に呪われたる者』を手にしたのは、大学二年か三年の頃だったように思う。朝鮮人差別について考える参考になると思ったからだ。
みすず書房のフランツ・ファノン著作集は、『革命の社会学』『地に呪われたる者』『アフリカ革命に向けて』(以上は一九六九年)、『黒い皮膚・白い仮面』(一九七〇年)が出版されていたから、その六年ほど後に神田神保町の古本屋で『地に呪われたる者』を買ったことになる。四冊ともそろっていたのに、お金がなかったので一冊だけ買った記憶がある。残りの三冊は後日買うつもりだったが、実際にはそれっきりになってしまった。というのも、『地に呪われたる者』が強烈すぎたためだ。朝鮮人差別について関心を持ち、朝鮮半島と日本の歴史について考えようとしていたものの、現実問題に直面していなかったぼくには、ファノンは劇薬であり、読み通す力がなかったのだ。
今こそファノンを
ファノンを読み返すようになったのは、一九九〇年代に運動の現場で差別問題に取り組むようになってからだ。在日朝鮮人・人権セミナーの活動や、戦後補償問題への取組みの中で、エメ・セゼール、アルベール・メンミとともに、ファノンが座右の書となった。
だから、このたび増補復刊された名著、海老坂武『フランツ・ファノン』(みすず書房、二〇〇六年)の初版(講談社、一九八一年)を、恥ずかしながら当時は素通りしてしまった。初版は一九八一年一二月に出版されている(もっとも、みすず書房版では八一年とも八二年ともある)。ぼくが大学院博士後期課程に進んだ頃である。修士論文は「刑法における『人格権』の視座」という。根本的な問題意識に出発したつもりだったが、極めて稚拙な論文だった。このため後期課程に入って一年目は自分のテーマが見つからず苦労していた。友人の前では偉そうなことを言っていたかもしれないが、自信喪失状態だった。あの時、海老坂武に出会ってファノンを読み返していたら、どうだろうと考えてみるが、読まなくて良かったと思う。
スランプから立ち直ったのは二つの授業がきっかけであった。一つは経済学研究科で開かれていた宮崎犀一先生の資本論ゼミであった。『経済原論の方法』(未来社)の宮崎先生が出講されていると知って、法学研究科刑法専攻のぼくは恐る恐る教室に向かったが、なんとそこには民法や商法専攻の院生が座っていた。われわれ法学研究科院生の発言水準は低かったかもしれないが、宮崎先生には数年間ずっと指導していただいた。特に印象深いのは、『資本論』が提示する客観法則だけではなく、意識論に配慮した宮崎先生の読解方法であった。
もう一つは商学研究科で開かれていた山中隆次先生の『経済学・哲学草稿』ゼミである。当時、広松渉の問題提起をきっかけに『ドイツ・イデオロギー』編纂問題が注目を集めていた。山中先生はこのテーマではラーピンとともに知られた存在であったが、そのゼミに一年だけだが加えていただいて、『経・哲草稿』の実証研究に触れたことは、やはり大きな経験であった。実証研究といっても、刑法学の実証的研究とは大きく異なり、世界史への射程を持った実証研究であった。こうした寄り道を繰り返した挙げくに、ぼくは近代刑法史研究と、差別の法的考察に戻っていくことができた。
いま海老坂の名著を手にし、ファノンの世界にふたたび踏み入ることで、現代世界の新しい相貌が見えてくる。アルジェリアの闘いと悲劇の帰趨を知りつつ、ファノンならどう考えただろうか、ファノンならどう行動しただろうか、と考えることができる。テロと戦争の時代、人種差別と宗教対立が噴出する新植民地主義の時代に、ファノンの思想の射程を再測定することができる。ファノンの読み方は、もちろん多様でありうる。読者それぞれのファノン像を描くことができる。
だが、「九・一一」を経験した今日、『フランツ・ファノン』を改めて送り出す海老坂は、「国家テロリズムと抵抗」について語る。クレオール、ポストコロニアリズム、グローバリゼーション、<帝国>の現在をファノンを通して考えることは、世界システムとしての暴力の前に自らを引きずり出すことである。海老坂はこのことを正面切って訴えている。世界各地で再演されてきた「九・一一」の位相を見定め、アフガニスタンやイラクで繰り返された破壊と殺戮、パレスチナやレバノンで起きている人間性そのものの無視に向き合いながら、それでもなお言葉による抵抗の可能性を追求すること、<全的人間>について考えること――