Wednesday, July 18, 2012

裁判員はどこへ行く

裁判員はどこへ行く



『救援』453・454・455号(2007年1~3月号)





 裁判員制度の導入が二〇〇九年に迫ってきた。司法制度改革推進本部検討委員であった池田修(東京高裁判事)による注釈書『解説裁判員法』(弘文堂、二〇〇五年)が出版され、裁判所における検討の基礎材料となっている。裁判所では裁判員導入に向けて予行演習が続いているという。最高裁は一三億円の広報費を使って宣伝に努めてきた。

 日弁連も宣伝ビデオを作成し、テレビ番組に出て宣伝する一方「裁判員裁判における審理のあり方についての提言案」「裁判員休暇制度の導入についての会長談話」等々を発表して準備を進めている。法廷のレイアウト、裁判員の選出手続きなど具体的な問題も逐次処理されている。

 推進派弁護士による出版も進められている。かつて「陪審裁判を考える会」事務局長だった四宮啓(弁護士、早稲田大学法科大学院教授)らの『もしも裁判員に選ばれたら――裁判員ハンドブック』(花伝社、二〇〇五年)、日弁連司法改革調査室に属した河津博史(弁護士)らの『ガイドブック裁判員制度』(法学書院、二〇〇六年)など出版も相次いでいる。研究者によるものとしては、丸田隆(関西学院大学法科大学院教授)『裁判員制度』(平凡社、二〇〇四年)がある。

 にもかかわらず、「裁判員がやってくる」というよりも、始まる前から「裁判員はどこへ行く」とのため息が聞こえてきそうな現状である。



裁判員の「壁」



 「朝日新聞」二〇〇六年一二月一五日付の特集記事「裁判員時代」は、その意味で興味深い。朝日新聞は、まず朝刊一面で「市民が裁く『壁』次々――同じ事件異なる評決」として、全国各地の地裁における予行演習に参加した市民たちが「人を裁くことのむずかしさに戸惑う」として「本番までに乗り越えなくてはならない壁は、予想した以上に高い」とする。記事の中心は強盗傷害事件の模擬裁判である。東京地裁での模擬裁判では、裁判官三人と裁判員四人が有罪と判断し、残る裁判員二人が「有罪とするには疑いが残る」として無罪。多数決で有罪が決まり、懲役六年という評決に達した。ところが、千葉地裁でも同じ事件の設定で模擬裁判が開かれた。千葉地裁では、裁判官三人が有罪、裁判員六人が無罪に分かれ、無罪となった。朝日新聞記事は、さらに三九面で「揺れる審理悩む市民――『模擬』でも『重いもの残る』」として、詳しい経過を紹介している。模擬陪審に参加した市民の職業や年齢、争点の設定や、弁護側の反論内容も紹介した上で「最終的に何が有罪・無罪を分けたのかは当事者にもわからない。被告からすれば、どの法廷で審理されるかによって、運命が大きく変わることになる」とする。また、最高裁の見解として「プロの裁判官と裁判員がいかに協働するか」が課題としつつ「裁判員に自由に意見を言ってもらうのは大変」「誘導的になってはいけない」という裁判長経験者の声を紹介する。

 この記事は、裁判員導入に向けて克服するべき課題を指摘している。しかし、どこかおかしくはないか。この記事はなぜ書かれたのか。記者はどこに取材したのか。

 第一に、記事の情報源はすべて裁判所(最高裁と東京地裁だけ)である。千葉地裁も登場するが、これはせいぜい電話での確認か、単なる又聞きの可能性が高い。あたかも数人のコメントがあるかのように書かれているが、実名で登場するのは伊藤雅人・最高裁刑事局第二課長だけである。弁護士や刑事法学者のコメントもなければ、模擬裁判員のコメントもとってつけたようなものしかない。

 第二に、刑事裁判についての認識である。裁判員だと評決が分かれると繰り返す一方で、「従来の刑事裁判は、法廷によって判断が大きく異なることは想定されていない」などと断定する。「法廷によって判断が大きく異なること」が「想定」されている裁判など、世界中のどこにもない。あるはずがないことを引き合いに出している点ですでに異常である。他方「想定」とは無関係に、現実には「法廷によって判断が大きく異なること」はいくらでもある。一審有罪・二審逆転無罪(あるいはその逆)は、何度も朝日新聞の紙面をにぎわせてきたではないか。迎賓館・横田事件のように、控訴した検事側の証拠請求を全て棄却しても、逆転の破棄差し戻しという例もある。記者の刑事裁判観は普通の市民とかけ離れている。「最終的に何が有罪・無罪を分けたのかは当事者にも分からない」というが、これは裁判員制度の問題ではない。従来の職業裁判官による裁判でも、同じ事はいくらでもあった。



裁判官のための裁判員



 裁判員制度の認識はどうか。東京地裁では裁判員の判断が分かれた。千葉地裁では裁判員は全員が無罪の意見だった。だから問題だという。ここには決定的な誤解があるのではないか。

 第一に、朝日新聞記事に掲載された表を見れば、裁判員の間では無罪の判断が多いのに、裁判官はつねに全員一致で有罪としている。そのことへの疑問こそ示されるべきである。裁判員が刑事裁判に「普通の市民の健全な常識」を持ち込むための制度だという建前からいっても、条件反射のごとくつねに有罪とする裁判官の問題が浮上するはずだが、記事は沈黙する。

 第二に、裁判員の意見が分かれたから問題だという発想自体、裁判員制度の無理解を示すものでしかない。裁判員は意見が分かれるから意味があるのだ。意見が分かれることもなく、裁判官の言いなりになるのなら、そもそも裁判員など必要ない。模擬裁判で裁判員の意見が分かれたら「よかった」と喜び安堵するべきなのだ。記事にはこうした意識がなく、意見が分かれるのが問題だという。裁判員の意見が分かれたからといって、いったい誰が困るのか。職業裁判官にとって苦労が多少増えるというだけであろう。この記事は裁判所の情報だけに基づいて、裁判官の悩みを代弁しているだけなのである。「悩む市民」ではなく「悩む裁判官」と書くべきだろう(あるいは「悩まない記者」)。

 司法制度改革審の段階で、市民の健全な常識を導入する陪審制の導入が否定されて、裁判員制が採用された。そして今起きているのは、裁判員を従来の刑事裁判の枠組みに押し込めてしまうのか、それとも裁判員導入を契機に従来の刑事裁判を少しでも変えようとするのか、その対立である。しかし、この問題は表面的な議論だけではすまない。裁判員が何であり、何のための制度であるのか、根本に立ち返った議論がまだまだ必要である。



多様な立場



 出版物でも各種の法律雑誌でも裁判員制度をめぐる議論が増えている。その多くは導入が決まった裁判員制度の実施に向けた実務的な議論である。裁判員選任手続きをどのように具体化するのか。裁判員を説得するための立証や弁論はどのようなものか。裁判長の説示はどのようになすべきか。職業裁判官の事実認定と裁判員の事実認定はどのような関係にあるのか。裁判員による量刑はどのような問題を孕むのか。裁判員の守秘義務はどの範囲まで及ぶのか。裁判員制度導入に向けて、裁判所、検察庁、弁護士会のそれぞれが着々と準備を重ね、研修も行っている。個別の弁護士による論文も、刑事法研究者による問題提起も増えている。それらに対して発言したいことも山のようにあるが、まだまだ裁判員とは何か、何のために導入されたのか、裁判員制度導入によって刑事司法の何がどのように変わるのか根本問題を考えたい。

 裁判員制度導入に至る議論やその目的については、司法制度改革審のウェブサイトなどで多くの資料が公表されているし、国会審議でも議論されたのでそれ自体を改めて検討するつもりはない。制度導入の可否をめぐる議論を蒸し返すことになるだけだからである(別の形で蒸し返す必要があるが)。裁判員をめぐる議論は、単に賛成と反対とに分かれるのではない。主要な立場だけでも次のように分かれる。

   裁判員積極推進論(司法制度改革審など)

   裁判員賛成論+陪審論

   裁判員反対論+職業裁判官論

   裁判員反対論+違憲論

   裁判員反対論+陪審論

このように複雑な配置に分かれている。そのことがもつ意味をまず確認しておきたい。

 第一に、一般論として、単なる賛否の対立ではなく、多様な立場からの実質的な議論が起きたことは積極的に評価できる。しかし、司法制度改革審の議論は、国民の意見を聞くというのは建前だけで、内部の議論で裁判員制度導入を固めていった。事後的な「多様な立場」、つまりアリバイとしての「多様な立場」ではなかったか。



陪審論者の分岐



 多様な立場に分かれた中でも注目されるのが、陪審論者の分岐である。陪審制を求めてきた論者が、裁判員をめぐっては大きく立場を異にした。その理由を見ていくことで、現在の刑事裁判への評価、刑事司法改革への姿勢、そして司法民主化の理解の違いが浮き彫りになると思われる。

 ①第一は、裁判員制度は陪審制度への一里塚という理解である。かつて陪審裁判を考える会事務局長であり、司法制度改革推進本部(内閣府)裁判員制度・刑事検討会委員となった四宮啓(弁護士、早稲田大学法科大学院教授)は、陪審裁判を考える会共同代表の伊佐千尋との対談「裁判員制度は、陪審制の一里塚になるか」(伊佐千尋『裁判員制度は刑事裁判を変えるか』現代人文社、二〇〇六年)において、陪審ではなく裁判員が採用された経過を説明し、「純粋な陪審制度にはならなかったとしても、主権者である市民が主体的、実質的にかかわる仕組みの一つが、今回第一ステップとして実現した」と述べている。委員の中には市民参加に対する反対意見もあった中で、懸命の努力にもかかわらず陪審論は多数を獲得できなかったため、裁判員制度に落ち着いた。

 裁判員制度が市民参加の第一ステップであるならば、陪審論者がこれに賛成するのは正当である。しかし、これは四宮の主観的願望にとどまる。なぜなら、司法制度改革審以後の議論のどこにも第二ステップは示されていない。裁判員法に「三年後の見直し」が示されているが、三年で裁判員から陪審への移行という議論が出てくるとは思われない。それならば最初の三年の無駄な努力は何なのかという話になってしまう。そして、同じく委員であった池田修(東京高裁判事)による注釈書『解説裁判員法』(弘文堂、二〇〇五年)では、「この制度を陪審型の制度へ移行する前段階ととらえるようなことはできない」と断定されている。

 他方、やはり熱烈な陪審論者である丸田隆(関西学院大学法科大学院教授)は、三年後の見直しにおいて「裁判員制度を限りなく陪審制度に近づける」ことを提言している。徹底した直接主義、口頭主義、裁判官の参加しない評議、全員一致制などである(丸田隆『裁判員制度』平凡社、二〇〇四年)。とはいえ否定された陪審論議を盛り返す具体的方策は示されていない。

 ②もう一つの裁判員賛成論は、裁判員によって従来の「絶望的な刑事裁判に変化がもたらされる」という期待である。陪審論者にとっては、司法の民主化と刑事司法改革とは密接不可分の論点である。四宮啓は次のように述べている。「今度の司法制度改革について、私が全体的に見て評価している点は、全部がセットになっていることなんです。つまり刑事手続改革なら刑事手続改革だけで議論しましょう、市民参加は市民参加だけで議論しましょう、あるいは法律家の養成制度は養成制度だけでやりましょう、とばらばらに議論しているのではなく、全部がガラス細工のように密接に結びついて、これも批判がありますが、この国の社会のあり方を変えようという発想でできている」。

 高野隆(弁護士、早稲田大学法科大学院教授)も、「裁判員制度を支持する一番大きな理由は、いまの裁判があまりにもひどい」、「冤罪製造マシン」であるからとして、裁判員制度になれば、弁護人が裁判員に訴えるチャンスがある。職業裁判官こそメディアの影響を受けること、公判前整理手続きには疑問点もあるが、証拠開示を認めたことは前進であるとして、刑事司法改革の前進に向けた努力を強調する。端的に「裁判員は官僚司法を変える」という(高野隆「事実認定は市民に任せた方が良い」『月刊マスコミ市民』四五五号、二〇〇六年)。

 刑事司法改革を推進するためにも裁判員制度を一定程度評価して、制度の運用の中から次の改革を引き出していこうとする前向きな姿勢は当然のことながら評価できる。

 問題は、第一に、裁判員制度によって刑事司法改革が前進するという評価が可能なのか。第二に、裁判員制度導入の弊害はないのか、その弊害は刑事司法改革に悪影響をもたらさないのかである。四宮のガラス細工は自ら崩れ落ちるのではないか。



世論と不祥事



 二月一日、内閣府が裁判員制度に関する世論調査(二〇〇六年一二月実施)の結果を発表した。裁判員制度が始まることを「知っている」が八〇・七%、「知らない」が一九・三%。参加したいか否かについては、「参加したい」が五・六%、「参加してもよい」が一五・二%、「あまり参加したくないが、義務であるなら参加せざるをえない」が四四・五%、「義務であっても参加したくない」が三三・六%、「わからない」が一・二%である。「あまり参加したくない」と「義務であっても参加したくない」の合計は七八%である。しかし、「義務であるなら参加」を参加容認と見れば、六七%が参加する方向になるので、法務省は「一定の評価ができる」としている。最高裁の担当者も、参加ムードが低調であることを認めつつも、参加する方向の回答は「高い」とし、制度の具体的な姿を国民に伝える努力をするという。日弁連も「不安に思うのは当たり前」として、学校での模擬裁判などを通じて広めていくという(朝日新聞二月二日)。

 広報に努めるというが、実は不祥事が続発している。第一が「やらせタウンミーティング」である。やらせタウンミーティングは特に教育基本法改正問題の中で話題となったが、実はやらせの多くは司法制度改革のタウンミーティングであった。東京、宇都宮、金沢、高松、宮崎、那覇などでやらせがあった。東京では過半数の発言者がやらせであった。

 第二の不祥事は、最高裁と全国地方新聞社連合会主催の「裁判員制度フォーラム」で、大阪では産経新聞、千葉では千葉日報が、謝礼を払って「動員」していた。大阪、和歌山、千葉など各都市で数回にわたって繰り返されている。大阪では、産経新聞は人材派遣会社を通じて一人当たり五千円を払って七十人を動員。和歌山では一二五人を動員した。千葉日報も三八人を動員した。盛岡では岩手日報、仙台では河北新報、福岡では西日本新聞も動員していた。つまり全国的組織的に行われていた。最高裁と電通が切り盛りして、地方新聞社連合会に協力を要請したフォーラムであり、二〇〇六年度だけで三億四千万円の発注である(朝日新聞一月三〇日など)。動員について最高裁は知らなかったと言訳しているが、疑惑が残るし、知らなかったとしても多額の税金をやらせにつぎ込み、山分けした結果責任は免れない。



止まらない批判



 裁判員制批判は、実施が迫ってきた今も、止まっていない。法案審議過程において批判が強かった法律であっても、いったん国会を通過すれば、もはや実施する以外に選択肢はないから、ほとんどの場合、法案に反対した研究者や弁護士も、制定された法律の解釈・運用をどうするかに関心を集中させるものだ。ところが、裁判員制に関しては、今なお批判が次々と公表されている。

 伊佐千尋(作家)『裁判員制度は刑事裁判を変えるか――陪審制度を求める理由』(現代人文社、二〇〇六年)は、「市民による市民のための司法制度」を求める立場から、「裁判員は、裁判官と対等な立場で議論し判断できるか?」「捜査・公判が現状のままで裁判員制度は機能するか?」を問い、「市民のための司法改革」からほど遠い改革を批判する。「裁判員制度の設計段階で、現状の刑事裁判の問題点を指摘する視点は取り除かれていきました。刑事裁判の病巣には一顧も与えず、被疑者・被告人の人権保障への手立てがほとんどなくなってしまったのは遺憾のきわみとしか言いようがありません」。

 高山俊吉(弁護士)『裁判員制度はいらない』(講談社、二〇〇六年)は、裁判員制徹底批判の書であり、「本書は、裁判員法はこのままではまずいからここを改めようというような修正提案の書ではない。法の施行に真っ向から反対する裁判員法全否定の書である」と宣言する。法律論としては、制定過程における審議の不十分さ、違憲論に代表される根本的疑問に耳を閉ざした強引な採決、官僚統制の強化ばかり目に付くことなどが指摘される。模擬裁判員の経験に立っても、納得できる説明がない、玄人と素人の差、実施強行のための「耐震偽装」を批判する。裁判員制があたかも陪審類似制度であるかのような虚偽の説明がなされていることも的確に批判している。結局、裁判員制によって人権と民主主義が破壊されるという。

 小田中聰樹(東北大学名誉教授)『刑事訴訟法の変動と憲法的思考』(日本評論社、二〇〇六年)に収録された「裁判員制度の批判的考察」は、司法改革のイデオロギー批判(新自由主義的構造改革批判)を前提として、裁判員制の基本的発想とイデオロギーを解剖する。裁判員制の擬似民主性と非独立性、裁判員就任の強制と選別・排除、裁判員関与裁判の強制といった疑問点を指摘する。さらに、公正な裁判を受ける権利との関連で、公判簡略化への疑問、防御権無視や弁護活動規制の問題を摘示する。「欠陥や問題点を抱えるとしても、裁判員制度により司法への国民参加が実現することそれ自体に大きな意義があり、欠陥や問題点は今後改善、改良していけばいい」という意見に対しては「現実的基礎が果たしてあるのだろうか」と疑問を投げかけている。

 伊藤和子(弁護士)『誤判を生まない裁判員制度への課題』(現代人文社、二〇〇六年)は、留学中の調査活動に基づいてアメリカ刑事司法の実情を詳細に報告している。アメリカ司法も死刑冤罪ラッシュによる反省が進められている。ミランダ原則と取調べの可視化、証拠開示の拡充、DNA鑑定問題、公設弁護人制度の問題、公判準備活動の保証、周知徹底される無罪推定の原則など、有益な情報が多数紹介・検討されている。本書の内容はアメリカ陪審実情だが、日本の裁判員制が失敗しないようにとの提言でもある。著者は裁判員制を否定していない。しかし、著者の提言を総体としてみれば、導入が迫っている裁判員制の抜本的見直しが必要となることは明らかであり、本書の実質は始める前からの裁判員制改革でもある。

 司法改革を裁判員制に歪曲して押し込んだ推進派は、批判に耳を貸さず、やらせに訴えてでも法施行を強行しようとしているが、立ち止まって再点検する勇気を持つべきではないだろうか。