法の廃墟(2)
思想を処罰する時代
『無罪!』2006年5月号
『白バラの祈り』
ナチスに抵抗した「白バラ」の若者たち、特にゾフィー・ショルを中心に、事件発覚から処刑までの五日間を描いた映画『白バラの祈り』が深い感動を呼んでいる。原題は「ゾフィー・ショル――最後の日々」(二〇〇五年、ドイツ)、監督マルク・ローテムント、主演は、ゾフィー・ショル役ユリア・イェンチ、ほかにアレクサンダー・ヘルト、ファビアン・ヒンヌフリフス、アンドレ・ヘンニック。
「白バラ」とは、一九四二年六月から四三年二月まで、ミュンヘンで反ヒトラーのビラを配布したり、街中の壁に反ヒトラーのスローガンを書くなどの抵抗運動をした大学生中心のグループである。主な人物は次の六名で、ミュンヘン大学の学生と教授である。
ハンス・ショル(一九一八年生まれ、医学生)、ゾフィー・ショル(二一年生まれ、哲学生)、アレクサンダー・シュモレル(一七年生まれ、医学生)、クリストフ・プロープスト(一九年生まれ、医学生)、ヴィリー・グラーフ(一八年生まれ、医学生)、クルト・フーバー(一八九三年生まれ、哲学教授)。
一九四二年六月、ハンスとアレクサンダーはナチスに対する抵抗を呼びかける無署名のビラを印刷し、知人やミュンヘン在住の教師、医師などに郵送した。七月、ハンス、アレクサンダー、ヴィリーは東部前線での医療実習のためロシアに向かった。前夜に開かれた送別会に、フーバー教授も招待されていた。やむをえずナチスに入党したが、ナチスと相容れない思想家たちへの敬意をはっきりとあらわした講義をしていた教授である。
一一月、ミュンヘンに戻った彼らは活動を再開する。「赤い楽隊(ローテ・カペレ)」と呼ばれるベルリン反政府地下組織とも連絡をとっていた。またハンスは一二月にフーバー教授を訪ね、自分が白バラのビラ作成者であることを告白する。
一九四三年一月、ハンスが書いたビラ第五号が印刷され、ヴィリーはラインラントヘ、ゾフィーはアウグスブルクへ行き投函した。二月になると、ハンス、アレクサンダー、ヴィリーの三人はミュンヘン市内の通りの壁に、深夜、反ナチ・スローガン「自由」「打倒ヒトラー」を書いてまわった。二月一八日、ハンスとゾフィーは第六号ビラを大学構内で撒いているのを発見され逮捕される。翌日にはクリストフも逮捕された。
ショル兄妹とクリストフは取調べの後、二月二二日、民族裁判所で死刑判決を受け、その日の午後、シュターデルハイム刑務所内で処刑された。死刑執行までの三人の毅然とした態度については、警察や刑務所付聖職者など多くの人が証言している。結局、六人全員が処刑された。ハンスは処刑される際にも「自由!」と叫んだことが知られている。
一九四三年一月、ハンスが書いたビラ第五号が印刷され、ヴィリーはラインラントヘ、ゾフィーはアウグスブルクへ行き投函した。二月になると、ハンス、アレクサンダー、ヴィリーの三人はミュンヘン市内の通りの壁に、深夜、反ナチ・スローガン「自由」「打倒ヒトラー」を書いてまわった。二月一八日、ハンスとゾフィーは第六号ビラを大学構内で撒いているのを発見され逮捕される。翌日にはクリストフも逮捕された。
ショル兄妹とクリストフは取調べの後、二月二二日、民族裁判所で死刑判決を受け、その日の午後、シュターデルハイム刑務所内で処刑された。死刑執行までの三人の毅然とした態度については、警察や刑務所付聖職者など多くの人が証言している。結局、六人全員が処刑された。ハンスは処刑される際にも「自由!」と叫んだことが知られている。
映画は、最後の打ち合わせとビラ作成の場面から始まり、ショル兄妹が大学内でビラを配布し、事件が発覚した場面、そして逮捕後の身柄拘束、取調べ、民族裁判所の審理、そして処刑の場面へと続く。時間の流れに従って淡々と進行する比較的単純な構成である。
映画は、第一に、戦争を知らない若い世代による制作である。第二に、当局側の資料や友人たちの回想を含めて、非常に綿密な調査に基づいた作品である。第三に、唯一の女性ゾフィーに焦点を当てて、ナチスと対峙する女子学生の必死の闘い、揺れ動く内面、判断ミスも含めた現実を描ききったことで高い評価を受けた。絶望のなかで追い求めるかすかな希望がテーマである。ベルリン国際映画祭銀熊賞、ドイツ映画賞優秀作品賞、欧州映画賞主演女優賞などを受賞し、アカデミー賞外国語映画賞ドイツ代表にもなった。
思想を処罰するもの
映画最大の山場は民族裁判所所長フライスラーとの対決である。ヒトラーを想起させる奇矯で独断的な裁判官として描かれているが、確かに「法廷のヒトラー」にふさわしい人物である。
ローラント・フライスラーは一八九三年、ツェレ生まれ。イエナ大学を卒業、第一次大戦に士官候補生として志願し、ロシアで捕虜となった時にマルクス主義に出会い、十月革命時にはボリシェビキに与したという。一九二四年に弁護士となった頃から民族主義団体に接触し、翌年のナチス党再結成の際に入党した。ナチスが政権を獲得すると、フライスラーは、三三年、プロイセン法務次官、三五年、帝国法務次官となり、四二年八月に民族裁判所所長に就任した(前田朗『鏡の中の刑法』水曜社、一九九二年参照)。
フライスラーの基本用語は、指導者原理、民族共同体、ゲルマン人の血と忠誠、反ユダヤ主義であった。
「血。血を自覚し、血から物を見よ、血のために意欲し、血と闘い、受苦し、勝利せよ、血のために生きよ。/ドイツの血は千年王国を基礎づけ、築き、聳え立たせる・・・この血は、われらドイツに二つの言葉を呼び醒ます。すなわち、全体! そして義務!」(一九三九年二月二八日のアーヘンでの演説より)
フライスラーの刑法思想は、次のような表現を与えられる。
「ドイツ民族、その構成員と力、その生活の平穏、それゆえとりわけ生殖と出産の力や労働休息を内部からの侵害に対して守ること、それが刑法の任務である。それゆえ刑法は闘争の法であり、刑法が闘うべき敵とは、まさに民族の存立、力、平穏を内部から脅かすものである。・・・闘争の法としての刑法の認識から、当然のことながらこの法の目標が帰結される。すなわち敵と闘うだけではなく、敵を絶滅すること。」(一九三五年の論文「意思刑法」より)
民族の敵を絶滅するための迅速果敢な刑罰の思想は、民族裁判所の実践においてその具体化をみた。フライスラー所長の三年間に、民族裁判所は約一万〇一〇〇人の被告人に対して四九二一件の死刑を言い渡し、戦時ファシズムのテロリズムの代名詞となった。
ハンスとゾフィーは「私が立っている場所に、もうすぐあなたが座ることになる」と挑んだ。しかし、フライスラーは二年後、四五年二月三日の連合軍の空襲にあって即死するまで、この殺人業務に励んだ。ナチスと相容れない思想、ゲルマンの血と忠誠に沿わない思想や行動、ユダヤ的なるもの、反戦や平和などという軟弱な思想の絶滅を目指して。
関連文献として、インゲ・ショル『白バラは散らず』(未来社、一九六四年)、C・ペトリ『白バラ抵抗運動の記録』(未来社、一九七一年)、山下公子『ミュンヒェンの白いバラ』(筑摩書房、一九八八年)、関楠生『白バラ』(清水書院、一九九五年)、フレート・ブライナー・スドルファー『白バラの祈り』(未来社、二〇〇六年)。