大江健三郎『河馬に噛まれる』(文藝春秋、1985年[講談社文庫、2006年])
ウガンダで河馬に噛まれた元革命党派の若者と、そのパートナーと「僕」の交流を描きながら、連合赤軍事件への著者のかかわりと、その後の時代をたどる。大江は、『壊れものとしての人間』において「自註と付録――核時代の『悪霊』、または連合赤軍事件とドストエフスキー経験」を提示していたが、10年以上後に、改めて連合赤軍事件に向き合った。
発表当時、私にはなんだか物足りない小説に思えたのだが、読みが足りなかったのだろう。文庫版解説で、小嵐九八郎は「敗戦後60年と少し、イラクへの自衛隊の派兵が見えにくいように、実は隊内で少なからずの自殺者を出しても見えにくいように、暴力とその圧迫する力は見えにくい。正義と不正義を交錯させ、差し違え、越えるように賭ける、膂力のある作家は大江健三郎氏のほかに探しにくい。改憲の動きが急で、一番影響を受けそうな十代二十代がこの小説をどう体内に生かしていくか。思想家の“偉い人”すら、暴力論は、この40年とんと書かない。」と述べている。吉本のことだろう。
その後のオウム真理教事件や、各種の「重大凶悪犯罪」を素材とした文学作品は多数あるが、他者の暴力を糾弾するか、第三者的な安全を確保するか、どちらかだ。不正義の暴力と「差し違える」文学は、やはり困難だろう。その困難に挑み続けたのが大江だということを再確認できた。