佐々木敦『ニッポンの文学』(講談社現代新書)
文学といえばかつて「純文学」と「大衆文学」という区分があったが、いまは文学とエンターテインメントになっている。しかし、エンタメ出身の作家が文学に越境し、文学作家がエンタメに越境するのは当たり前になっている。そもそも「文学」とは何か。「文学」と「小説」はどういう関係にあるのか。おもしろい小説こそ重要ではないか。ということで、著者は80年代以後の文学を対象に、文学とエンタメ、文学とサブカルの相互浸透の歴史を探る。芥川賞、直木賞受賞作品をもとに、この30年の変化はどうかを問う。言うまでもなく牽引車は村上春樹と吉本ばななである。ミステリでは本格と社会派の後に登場した「新本格」(島田荘司、綾辻行人ら)はどう進化したか。SF御三家以後(山田正紀、神林長平ら)の深化と停滞を乗り越えて現在どうなっているか。これらをデッサンしたうえで、サブカルとしての「文学」を高橋源一郎、赤瀬川原平をもとに、ポストバブルの文学状況を保坂和志、阿部和重、中原昌也、町田康、麻耶雄高、京極夏彦に。そしてゼロ年代におけるジャンル拡散を、舞城王太郎、佐藤知哉、西尾維新、そして現在へと辿る。
この30年程の文学状況を1時間でおさらいできるのでとても便利な本だ。もっとも、説得的とはいいがたいところも多々ある。村上春樹の特質の一つを「僕」という一人称の主体の語りと見るのは良いが、その説明のために引証されるのは栗本薫と新井素子である。間違っていないが、一寸待って、という思いもある。30年前すでに文芸評論では次のような3段階で語られていたからである。
A 大江健三郎『われらの時代』、柴田翔『されどわれらが日々』
B 栗本薫『僕らの時代』
C 三田誠広『僕って何』
フォークソングにおいてもっと急速に同じ変化が起きていた。岡林信康から、吉田拓郎を経て、井上陽水とユーミンに至る流れと照合して理解されていたのだ。佐々木敦は、このうちAとCについて言及せず、栗本薫、村上春樹、新井素子を素材に文体と語りの変化を語る。まあ、いいけど。ついでに言えば、文学・純文学の最前線を走り続けた「われら」派の大江健三郎の作品に「僕」がいくつも書かれているのだが。