Monday, February 29, 2016

わたしたちはいつだって暴動を生きているのだ?

栗原康『現代暴力論――「あばれる力」を取り戻す』(角川新書)
楽しい本だ。危ない本だ。暴言の山だ(笑)。
「もし大正時代のアナキストが、大杉虐殺の黒幕を正力だと考えていたらどうだったろうか。もし、ちゃんとうちはたしていたとしたら、日本に原発はあったろうか。もしあったとしても、ここまで原発に執着する言説はあったろうか。正力松太郎の首を大杉栄の墓前にそなえよ。妄想だ。」
「右翼に簒奪されたこのことばをあえてつかっておきたいとおもう。永遠のゼロをつかめ。」
こうした爆笑表現の連続で、気が付いたら読者も暴動寸前(笑)。
大杉栄、幸徳秋水、管野スガ、伊藤野枝、中浜哲、はだしのゲン、水滸伝の武松、源氏物語の浮舟、ガイ・フォークス、バクーニン、ギロチン社だ。何でもありだ。いい加減なのではない。正しく何でもありなのだ。文体は軽快なタッチで、ジャジィというよりも、ラップだ。「気分はもう焼き討ち」。国家暴力を批判するとはどういうことなのか。物理的暴力以上に怖ろしい抑圧の内面化、隷従の空気としての暴力にいかに抗するのか。アナキズムの理論と決起と血気盛んな体質を咀嚼して、空気なんか読まずに、ストレートに進撃する。易しい文体、巧みな喩、その先に待ち構える断崖絶壁。
著者は早稲田の大学院で政治学、専門はアナキズム研究、東北芸術工科大学講師だ。何を教えているのだろう。芸工大で政治学を教えているのかな。ちょっと共感。

でもちょっと残念なのは、「終わりに」に至って、著者の暴力論は生き様論であるとともに主観的な心構えの問題に収斂していく。さすがに街頭で暴動をとか、資本家にテロを、と呼びかけるわけにもいかないから、暴動の、つもり。祝祭論にいかなかったのはなぜだろう。いまや祝祭も予定調和だからか。