大江健三郎『いかに木を殺すか』(文藝春秋、1984年)
初読の印象があまり残っていなかったが、収録された短篇8篇の最後の表題作「いかに気を殺すか」に辿りついて、「世界舞台」を思い出した。幕藩体制に抗う四国の森の中の村と一族。あるいは、戸籍制度と徴兵制に抗う四国の森の人々。そして、第二次大戦中の国策、戦争協力に抗う村の人々。そうした重層的な伝承と記憶の装置としての「世界舞台」で演じられる「木が人を殺す」芝居。それ自体が、核時代、環境破壊の時代に「人が木を殺す」現実に抗う物語である。
初読の印象があまり残っていないのは、第1に、大江の作品系列として、『同時代ゲーム』から『M/Tと森のフシギの物語』を経て『懐かしい年への手紙』『治療塔』に至る過程で書かれた作品群のなかでは、『「雨の木」を聴く女たち』『新し人よ眼ざめよ』は話題性もあり、『河馬に噛まれる』も川端康成賞を受賞したので、『いかに木を殺すか』は話題性が引く方ことがあるかもしれない。第2に、より現実的には、当時私自身がオーバードクターの苦労の最中だったため、自分の研究テーマに取り組むので精一杯だった時期ということもあるだろう。多忙な時期にもかかわらず小説をたくさん読んだが、大半がエンターテインメントだった。漫画も手当たり次第、一番読んだ時期のような気がする。とはいえ、精神的に余裕がなく、大江作品に集中して読んだのではなかっただろう。
文藝・音楽評論家の円堂都司昭は、ネット時代における「N次創作」(濱野智史)を引き合いに出し、引用やアレンジによる集団作業のスタイルを、大江が個人で書く「小説」の形でシミュレートしていたと見ている。匿名性の高いN次創作と違って、大江は個人性が強い点が異なるが、大江作品で多用される村の伝承や神話はN次創作とも言えるのではないかと言う(『早稲田文学6』。うがち過ぎと思うが、そうした観点で作品を読み込むことにも意味はあるのだろう。