Monday, August 05, 2013
ビートルズの読み方(ロックの限界も)
武藤浩史『ビートルズは音楽を超える』(平凡社新書)
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レマン湖を見下ろす丘の上で森林浴と読書の日々。雲一つない青空、優しい陽射し、爽やかな風、木漏れ日のベンチでゆったりと時間が流れる。普段のように論文を書くために次々と頁をめくるのではなく、できるだけゆっくりと読んでは休み、休んでは読む。膝の上を蟻が歩いているのを眺めながら。
本書は、ロックで世界を変えたビートルズのサウンドではなく、「彼らの身ぶり、彼らの言葉から見えてくること」に焦点を当てる。著者はイギリス文学研究者(慶応義塾大学教授)で、ドラキュラ論や「チャタレー夫人」論の著者だ。
「ビートルズを知ることなくして20世紀の文化を語ることはできないし、ビートルズを語るためには、音楽の知識だけでは不十分である。本書は、音楽研究とは別の角度から、イギリス文学研究者が、イギリス20世紀文化史の文脈から見つけた『ミドルブラウ文化』、『笑い喋り動く身体』、『つながる孤高』をキーワードとして、ビートルズという現象を歴史的に、しかし時には歴史を超えることも辞さずに、読み解こうとしたささやかな試みである。」
世にビートルズ論は掃いて捨てるほどあるし、ビートルズ辞典やビートルズ全書もあるが、本書は、上記3つのキーワードで切り取ったビートルズの文化史的特質を描き出している。その手法は鮮やかで、面白い。博識だが、時に拍子抜けする。強引だ。かなり強引だ。でも、納得させられる。なんだか騙されていると思うこともないではないが、楽しい本だから、これでいいのだ。
ミドルブラウ文化、リバプールの笑いと大阪の笑い、不思議の国のアリス、ハンプティ・ダンプティ、走ることは生きることである、ビートルズとクレイジーキャッツ、対抗文化と反戦、世界を反転させるジョン。
著者はビートルズを持ち上げるばかりではなく、最後のエピローグ「ビートルズは危険である」において、「ロックとクラシック音楽の共通点は、白人中心主義と男性中心主義である」と断定する。著者は、ビートルズ・ファンであると同時に、クラシック・オタクであるが、「男だらけのロック・グループ、男だらけの作曲家や指揮者、おじさんだらけのオーケストラ(とくにウィーン・フィル)などなど」として、その限界を明示している。クラシックの場合、女性作曲家も多数いたのに、それらが排除され、男性中心主義が意図的に作られてきた。ヨーコ・オノの登場がビートルズ解散の一つのきっかけとなるのも、まさにこの理由だ。その後のジョン、ポール、ジョージ、リンゴのそれぞれの人生と音楽活動は、この分岐点をめぐって展開したと言える面がある。
たのしみながら、口を突いて出たのは吉田拓郎だった。
人が幸せになるのを
批判する権利は誰にもない
みんな幸せになっていいんだ
人に迷惑さえかけなければね
ビートルズが教えてくれた
ビートルズが教えてくれた
ビートルズが
いったい何十年ぶりにこの歌を思い出しただろうか。