Friday, September 06, 2013

民族紛争の事例と理論を探る

月村太郎『民族紛争』(岩波新書)                                                                              Ⅰ部「世界各地の民族紛争」では、スリランカ、クロアチアとボスニア、ルワンダ、ナゴルノ・カラバフ、キプロス、コソヴォの6つの事例を、歴史的に紹介し、民族紛争の発生の要因や、終結へ向かうプロセスなどを考えるための素材としている。Ⅱ部「民族紛争を理解する為に」では、発生、予防、「成長」、終了から再建へのプロセスを理論的に説明している。ざっと読んで勉強になった。                                                                                                      大筋で言うと、書かれていることはよくわかる。表題通りの著作である。なるほど、これら6つの事例の経過がよくわかるし、著者が民族紛争をどのようにとらえて記述しているのかもよくわかる。ただ、書かれていないことは、よくわからない。なぜ、この6事例なのか、11~12頁にそっけない説明らしきものがあるが、わからない。また、発生については、構造的要因、政治的要因、経済的要因、社会文化的要因が解説される。書いてあることは、よくわかり、納得できる。ただ、なぜ、この4要因なのかがわからない。予防の部分でも、連邦制、文化的自治、多極共存制という3つのシステムが解説される。なぜ、この3システムなのかはわからない。多極共存制の特徴は、大連合、相互拒否権、民族的比率に基づく資源配分、各民族の自律性の4点だという。なぜ、この4点なのかがわからない。本書に一貫した特徴は、なぜ、その要因やシステムや特徴が抽出されたのか、その思考過程が示されていないことである。著者のこれまでの研究成果なのだ、ということなのだろうが。そして、もっと気になるのは、Ⅰ部とⅡ部が有機的に結びついていないことだ。220頁ほどの著作で、Ⅰ部の6事例に170頁までを費やしている。その後に、Ⅱ部が50頁ほど続く。だが、記述を見る限り、Ⅰ部の事例編からの帰納によってⅡ部が構成されているようには見えない。もちろん、演繹でもない。Ⅰ部に書いていることは理解できる。Ⅱ部に書いてあることも理解できる(上記の疑問は別として)。Ⅰ部とⅡ部が、事例編と理論編のはずなのに、それぞれ独立しているように見えるのが不思議なところだ。                                                                                              著者の思考様式と、私の思考様式がかなり違うためだろう。著者の思考様式、思考過程を読み取れない私の問題なのかもしれない。一例だけあげると、次の文章は、私を混乱させる。                                                                                                            「本来、宗教とは公的な信仰体系であった。しかし、それが世界観に繋がり、また人間の生活をしばしば外形的に制約する為に、ある宗教を信ずるか否かが、ときにはその属する社会や国家への忠誠の有無と同一視されることもあった。江戸時代の『踏み絵』が恰好の例である。こうした『踏み絵』としての宗教の機能は紛争において一定の役割を果たすことがある。」(183頁)                                                                                                           なぜ、「しかし」という逆接の接続詞が用いられているのかよくわからない。「それゆえ」ではいけないのだろうか。「しかし」ならば、むしろ「宗教とは私的な信仰体系であった」のではないだろうか。このように悩んでしまう。