神奈川新聞「時代の正体」取材班編『ヘイトデモをとめた街』(現代思潮社)
川崎・桜本をターゲットにしたヘイトデモとの闘いの記録である。
共に生きる街をつくってきた人々の努力に泥をかけるためにやってきたヘイト集団に対して、いのちと尊厳を守るために、人々は立ち上がる。川崎市ふれあい館、そして青丘社。在日コリアン集住地域だが、いまはアジア各地からの住民も増えている。在日コリアン、日本人、アジア各地からの住民がともに生きるために長年の模索を続けてきた街である。人々の思いがぶつかり合い、重なり合い、支え合って、つくってきた街である。
この街を標的とした悪質な差別とヘイトを許さないため、人々は自ら立ち上がらなくてはならなかった。行政も警察も守ってはくれない。それどころか、警察はヘイト集団を守り、カウンターの市民を排除しようとする。逆境をのりこえるために人々は手をつなぐ。心を重ねる。声を上げる。
2016年5月、国会でヘイト・スピーチ解消法が成立したが、その過程と、川崎・桜本の闘いは正に同時並行であった。川崎市や公安委員会への訴えだけではなく、国会への働き掛けも続けた。ヘイトの罵声を浴び続け、メディアに身をさらし、ネット上でも差別の攻撃を受けながら、懸命の闘いが続き、ついに法律制定を勝ち取った。ヘイト・スピーチ解消法制定は、京都朝鮮学校襲撃事件、徳島県教組襲撃事件、川崎ヘイトデモ事件の被害当事者たちのたゆみない努力の成果である。身を挺して差別に立ち向かい、行政や警察に要請を繰り返し、裁判闘争を闘い、アピールし続ける苦難の成果である。
本書は、『時代の正体』を2冊送り出した神奈川新聞取材班の3冊目の著作となる。ヘイト・スピーチとの闘いに焦点を絞り込んで、記者たちは走り、悩み、取材し、書き続けた。現場で悩み続けた記者の思いが随所に込められている。
例えば、いつまで「差別する自由」を許すのかと問い、「表現の自由は守られなければならず、言論には言論で対抗すべきという、前提である差別の現実を欠いた空論」という言葉は、現場の思考がなければ書けない言葉だ。これまであまりにも多くの記者たち、ジャーナリストたちが「表現の自由は守られなければならず、言論には言論で対抗すべき」という無責任な言葉を吐いて、差別を容認してきた。差別が起きていることを熟知しながら差別を容認してきた。しかも、差別を容認する言葉を堂々とメディアに載せて、「マジョリティが差別する自由」を満喫してきたのだ。しかし、神奈川新聞の記者たちは「表現の自由」というごまかしの言葉で立ち止まらない。ヘイトの現場で何が起きているのか。何が壊され、何が奪われているのか。現実を見抜いた記者は「桜本のリアル」を語り、「どっちもどっち」論を乗り越え、ヘイト・スピーチに「中立」はない、と書きつけることができた。本物のジャーナリズムが、ここにある。
もう一例をあげよう。多くの憲法学者が、「表現の自由」を振りかざして、ヘイト・スピーチの予防や刑事規制を否定してきた。国会における人種差別撤廃推進法案の審議においても、専門家の意見陳述がなされた。大東文化大学教授、浅野善治は、表現の自由を委縮させる恐れがあるとして「公権力行使の対象を明確に線引きすべきだ」と慎重な検討を求めたという。刑罰規定のない同法案に対してさえ、こうである。ここまでして「差別する自由」にしがみつくのは異常としか言いようがない。これについて、本書は「現状認識を欠いた空論といえた。現行法では対処がなされず、野放しのヘイトスピーチへの恐怖から被害当事者は沈黙を強いられ、自由な議論など成り立たないからだ」と断定する。的確な指摘である。日本国憲法の精神を無視し、被害事実を無視して、表現の自由を振りかざす憲法学者に騙されるのは、現場を知らない自称ジャーナリストだけである。
ヘイト・スピーチは人間の尊厳を侵害する暴力的な事態であって、単なる言説ではない。被害の深刻さを考えるならば、予防し、刑事規制するが当然である。この当然のことが徐々に認識されるようになってきた。川崎・桜本の人々と、神奈川新聞記者が果たした役割は大きい。
ジャーナリストも憲法学者も弁護士も、現場に行くことができないのなら、ヘイト・スピーチについて発言する前に本書をじっくり読むべきである。