Sunday, September 21, 2014

大江健三郎を読み直す(29)『悪霊』が読まれるべきとき

大江健三郎『壊れものとしての人間――活字のむこうの暗闇』(講談社文庫、1972年)

1970年2月に講談社から出版された単行本を文庫化した際に<自注と付録>が追加された。単行本を読んだかどうか記憶していないが、たぶん図書館で手にしたのは単行本だっただろうと思う。もっとも、<自注と付録>を読んでいるから、学生時代に文庫版を読んだのだろう。想像力、言葉の力、言葉の恐怖、言葉による拒絶、政治と文学、「核専制王朝」、世界の終り、強制収容所……。スタイロン、ルフェーブル、アプダイク、ラブレー、ソール・ベロー、メルヴィル、サルトル、ロブ=グリエ、ノーマン・メイラー、フランツ・ファノン……。大学1年の教養ゼミで現代アメリカ文学を読みふけっていたため、当時の大江の世界に登場するアメリカの作家はかなりなじみがあったが、フランスの作家はまったく読んでいなかった時期だ。いずれにしても、本書の記憶は<自注と付録>における「核時代の『悪霊』、または連合赤軍事件とドストエフスキー経験」の部分に限られる。これは連合赤軍事件を前に、大江が埴谷雄高に向けて語った記録の抜粋だ。高橋和巳が亡くなった前後から考えていたことも含まれていて、時代を感じさせる。『悪霊』はその20数年後、オウム真理教事件の頃にも再び脚光を浴びた。世界文学を代表する作品だから、いつでも読まれて当然だが、とりわけ『悪霊』が読まれなければならないときというものがあるような気がする。グローバル・ファシズムが吹き荒れる今、まさに『悪霊』を私たちはどのように読むのか。重い課題だ。