Saturday, September 20, 2014

「大衆の原像」から「大衆の幻像」へ

竹内洋『大衆の幻像』(中央公論新社、2014年)は「超ポピュリズム時代の希望とは」と問いかける。3.11以後の日本社会に蔓延する反知性主義、排外主義、ナショナリズム、ポピュリズム、そして超ポピュリズム。かつて吉本隆明は「大衆の原像」というちゃぶ台返しによって知識人論を混乱させ、崩壊に導いた。取り残された知識人たちの動揺と混迷は戦後民主主義の限界を示すものだった。それでも「知識人と大衆」という枠組みは必然的に残る。文化人と呼び換えようが、大学人や研究者と言おうが、実質は変わらない。竹内は「大衆高圧釜社会」、「大衆御神輿ゲーム」の時代の殺伐とした風景を描くことから始める。そして、メディア知識人論として、清水幾多郎、吉本隆明、加藤秀俊をとりあげ、歴史に見る知識人として、正力松太郎、徳富蘇峰、岩波茂雄を取り上げる。また「自分史から見る」として、大学の変容、教養主義の死滅を語る。
「不定形で移り気で不気味な大衆は、メディアこそがつくっているのだ。したがって、メディアが生み出す『国民』や『民意』の大半は、メディアチックな大衆をもとにした『幻像としての』国民、『幻像としての』民意である。ポピュリスト政治家というのは、このようなメディアチック、まさしくメディオ(凡庸)チックな大衆人の幻像に振り回されながら、人々を大衆人に作り上げていくことに大きく手を貸す輩である。幻想としての大衆や民意と戯れることで利益を得る商人政治家である。/保守の指導者は、メディアが掬い上げていないし、掬い上げることもできない庶民を遠望する想像力をもって、草の根保守の心に響き合うものであってほしい。自ら身を匡し、粛々と率先垂範する姿である。その姿が草の根保守の心の習慣と響き合う。それこそが、日本型ノブレス・オブリージュの真髄というものではなかろうか。」

言わんとすることはよくわかる。ただ、著者のいう「庶民」や「草の根保守」が『幻像』でない保証はどこにもない。