Monday, September 08, 2014

現場で鍛えられた稀有の憲法学

遠藤比呂通『希望への権利――釜ヶ崎で憲法を生きる』(岩波書店、2014年)

私は以前『9条を生きる』(青木書店)という本を出した。9条擁護のため、9条を世界に広めるため、9条の精神を実践する生き方を選んだ人々を紹介した本だ。著者が「憲法を生きる」とは、どういう意味なのだろうと思いながら本書を手にした。
著者は、東京大学法学部助手を経て、27歳になる年に東北大学法学部助教授になり、新進気鋭の憲法学者としての道を歩み始めながら、36歳にして宣教師になるために職を辞し、釜ヶ崎の現実に取り組むために弁護士になり、法律相談を続けながら、現場で理論を組み立てながら、自らの独自の憲法学を生きている。『不平等の謎』や『人権という幻』に続く著書である。権利の主体として認められていない人々、人間扱いされていない人々、住民としても認められていない人々、ホームレス、在日コリアン、日雇労働者の側に立って闘い続けている。釜ヶ崎の絶望的な状況で闘い続けている人々の絶望と希望――本書は憲法学の恩師である芦部信喜、部落差別に取り組み続ける沖浦和光、釜ヶ崎の人々と共に生きた牧師・金井愛明、釜ヶ崎の公民権運動を闘い抜いた南美穂子。これらの人々との出会い、想い出を語りながら、その時々の事件――人権侵害、人間性の無視、人間の尊厳への攻撃との闘いを紹介するそれは同時に著者の闘いの記録である。
京都朝鮮学校襲撃事件に直面した著者は、ヘイト・スピーチへの対処の必要性を説き、正当にも次のように述べている。
「確かに、日本においてヘイト・スピーチを規制することは困難でしょう。しかし、その理由は、憲法の保障する表現の自由と規制に抵触するからではありません。アウシュヴィッツに匹敵する『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』について、戦争責任の追及も戦後責任の追及も余りに不十分であるからなのではないでしょうか。」
「日本ではヘイト・スピーチが繰り返され、『慰安婦』の苦しみを卑小化するような政治家の発言が後を絶ちません。人種差別撤廃条約四条(c)の公の当局又は機関による人種差別の禁止には、『留保』はありません。まず、公人による『慰安婦』発言を禁止することを緊急にやらなければならないのです。」

実は著者はかつてヘイト・スピーチ規制に否定的な論文を書いていた。『自由とは何か――法律学における自由論の系譜』(日本評論社、1993年)だ。私も読んだ。優れた研究書だが、現実とは関係のない学者の頭の中だけの研究書だ。本書では、その中から引用して、「見解の変更」と明言している。しかも、「私は部落差別とは何かについて何の経験もないまま、『もし差別的表現がまったく用いられない状態になったとして、差別感情はなくなるのだろうか』という問いを発していたのです」と反省し、「本当に問われるべきであったのは、『差別感情にもとづく差別的表現によって、被害者はどのような苦しみを受けるだろうか』という問いであったはずです」と続ける。その上で、ヘイト・スピーチ規制の必要性を唱えている。的確だ。釜ヶ崎の現場で現実と格闘した著者は、自分自身の思想の練り直しに大変なエネルギーを注いだことだろう。信用できる本物の憲法学が、ここにある。今後も著者の思索に学びたい。