金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)第Ⅱ部「表現の自由とヘイト・スピーチ」は、3本の論文を収める。
第4章「表現の自由とは何か――或いはヘイト・スピーチについて」(遠藤比呂通)は、「アウシュヴィッツが二度とあってはならないということは、教育に対する最優先の要請です」というアドルノの言葉を引用して、この視点から「表現の自由とヘイト・スピーチ」について再検討する。それは「日本国憲法下の表現の自由を考えるとき何よりも重要なのは、民主主義と憲法9条の思想的連関を明らかにすることであろう」と述べる。実に重要な指摘である。
その具体化として、京都朝鮮学校事件について、「人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動を違法であると禁止する必要は、攻撃にさらされる立場からすれば、あまりにも当然なことなのである。/それができないのは、本当に表現の自由の観点からみて問題があるからなのだろうか。/『日本国憲法下の表現の自由』からすれば、そうではない。/日本において、アウシュヴィッツに匹敵する『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』について、戦争責任の追及も戦後責任の追及も余りに不十分であるからなのではないだろうか。」と述べる。
遠藤はかつて差別的表現の刑事規制に消極的だったが、所説を改めて、「苦しみを受けている被害の再発がどの程度抑止できるのか」という問いに向き合い、結論として、「まず、公人による『慰安婦』に対するヘイト・スピーチを禁止することを緊急にやらなければならない」という。
遠藤は大阪の西成法律事務所の弁護士だが、かつて東北大学の若き憲法学助教授だった。切れ味鋭い理論法学者の地位を捨てて、西成で弁護士となり、人権擁護に邁進している。現実に向き合い、現場で人権論を展開してきた経験を踏まえて、ヘイト・スピーチ規制を唱えるようになった。著者の『希望への権利』も好著である。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2014/09/blog-post_8.html
<コメント>
第1に、被害から議論を始めることの重要性に気づいたことが改説の最大のポイントであろう。被害にどう向き合うか。この当たり前のことを平然と無視する憲法学者が多い。――私が被害実態を事実根拠、憲法及び人種差別撤廃条約を法的根拠としてヘイト・スピーチ処罰を唱えつつ、欧州諸国の法律状況を紹介した論文を、ある憲法学者が批判しているが、この憲法学者は被害にまったく言及せずに「外国で処罰しているから日本でも処罰しろと言う議論にはならない」などと馬鹿げたことを書いている。被害認識が完全に欠落している。遠藤は的確に被害から出発している。
第2に、ヘイト・スピーチと憲法9条の関係を問う立場が明確であり、重要だ。賛成である。これまで、私は「ヘイト・スピーチの憲法論」として、
(1)解釈の基本原理として、憲法前文の平和主義と国際協調主義、
(2)憲法13条の人格権、
(3)憲法14条の法の下の平等、
(4)憲法21条の表現の自由と憲法12条の「権利に伴う責任」、
(5)マイノリティの表現の自由、
以上を根拠に「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰する」と主張してきた。まだ、この主張に対する賛成論文も反対論文も見ていない。市民運動の現場では好評だが、憲法学者から無視されてきた。遠藤の「憲法9条とヘイト・スピーチ」という視角は私の主張と相当程度重なっていると思う。遠藤の指摘に学びつつ、私の主張をさらに補強したい。
第3に、「慰安婦」に対するヘイト・スピーチである。2013年の社会権規約委員会の勧告を引用して、人種差別撤廃条約第4条(c)を日本は留保していないので履行すべきと言う。今年の自由権規約委員会勧告、及び人種差別撤廃委員会勧告から言っても、ヘイト・スピーチの処罰、特に「慰安婦」に対するヘイト・スピーチ処罰が必要である。私はこの論点では、「慰安婦の嘘」処罰法を作ろうという論文を書いて、日韓条約50周年キャンペーンのシンポジウムで発表した。遠藤も同じ発想であることに、勇気づけられる。
第4に、遠藤は、「表現の自由」派の第一人者である奥平康弘の議論を引用しつつ、「耐え難い人間の尊厳の侵害が行われている事実を前にすれば、奥平氏の実際の立場はともかく、規制積極論の論拠に転換しうる」と指摘している。ヘイト・スピーチ規制消極派の論述にも、積極論に転換しうる点を見出す姿勢は重要だ。私は奥平説を批判・克服の対象としてしか見てこなかったが、それでは単純すぎる。遠藤に倣って、既存の憲法学への批判の仕方を再考する必要がある。