井崎正敏『<戦争>と<国家>の語りかた――戦後思想はどこで間違えたのか』(言視舎、2013年)
吉本隆明、丸山真男、日野葦平、大西巨人、大江健三郎、松下圭一などの著述を読み解きながら、戦後日本における戦争責任意識の欠如と国家意識の欠如の相関を問う。戦後思想の初心を吉本隆明に読み込み、吉本が抱えた矛盾と、矛盾を理解せぬまま吉本教信者たちが歩んだ滑稽とを予感させる。日本の戦争と、その反省の上に立ったことになっている戦後民主主義の実相と射程を測量する試みである。
大江健三郎については「第四章 軍国少年の夢 大江健三郎の『戦争』」で、軍国少年の夢をひそかに実現させながら戦後民主主義のオピニオンリーダとして活躍してきた矛盾を探り当てようとする。『取り替え子(チェンジリング)』、『水死』において、「みずからのうよくてききおくを成仏させるという手の込んだ仕掛けをツクリ、オピニオンリーダ大江健三郎の純粋性を確保したのではなかろうか。そのために大江の文学世界はたしかに豊かに深くなったけれども、オピニオンの射程は逆に狭く固定されてしまったのである」という。
他方、「第五章 大日本帝国V.S.『村=国家=小宇宙』大江健三郎の『国家』」で、『万延元年のフットボール』、『同時代ゲーム』を素材に、「共同幻想」に対するに「共同幻想」で勝負はつくのか?と問い、吉本の発想からすれば、大江の戦略ははじめから蹉跌の運命にあったと見る。「大江が描きつづけた四国山中の幕末・明治の一揆には、小さな共同体という基盤があった。しかし現代の一揆主義には、ただ児戯に類するこけおどしの想像力があるだけなのである」と切り捨てる。大江における、「父と子」(大江の父、大江、息子)の物語の変遷、核時代との闘いの思想拠点としての四国の山の奥、近代に対置するべく構成された前近代=未来、これらを基軸に展開していった想像力の限界を著者は指摘している。そこに戦後思想の限界を見る形で、である。著者は、その限界を超えるために松下圭一の市民自治を持ち出しているが、果たして乗越えは可能だろうか。