抗議への回答第二便を下記に公表します。
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拝啓
お手紙(2021年9月11日付)、ありがとうございました。
前便(第一便)ではご指摘への直接の「回答」をお届けしました。
ただ、前便では、「沖縄が歴史的に置かれている差別構造」が基地押し付けとして現象していること、その差別構造を作っているのは政府のみではなく「それを支えるヤマトの人たち」であることについての私の認識をお示しすることはできておりません。
お手紙に示された歴史認識を、私はある程度共有しております。しかし、歴史認識は多様であり、立場性の認識も人それぞれです。このように言うと、「相対化している」とご批判をいただくかもしれませんが、自らの歴史認識を絶対化して議論することは避けなければなりません。対話を拒否して性急に「絶版」を要求する前に、歴史認識をめぐって言葉を紡ぐことが必要ではないでしょうか。
さて、お手紙では「基本的な認識」として、次のように述べられています。
「沖縄が歴史的に置かれている差別構造は、現在も変わらず、普天間の代替施設と称し、『軍事的には沖縄でなくても良いが、本土の理解が得られないから』という不合理な区分=差別により決定され、強行されていることがそれを象徴しています。そしてその社会構造を作っているのは、なにも政府のみではなくそれを支えるヤマトの人たちです。しかもこれは積極的に政府を支持するヤマトの人たちのみならず、『沖縄に要らないものはどこにもいらない』という左派も含めて、その『本土の理解が得られないから』という差別を可能にしている社会構造があるからなのです。この構造を踏まえた抗議や告発などの抵抗を、『独立系』という雑な括りで、『在特会』などのレイシストと並列に扱い『複雑な排外主義という課題を背負う状況』と述べる西岡氏は、自身の立場性・暴力性にあまりにも無自覚です。こうした『本土と沖縄』という権力構造を踏まえず、政府や1%の超富裕層のみと対峙するだけで、差別やヘイトスピーチが解消・克服できるわけがありません。」
さて、本論に入る前に、お願いしておくべきことがあります。元の文章を書き換えることなくお読みいただきたいということです。
例えば、上記引用の「この構造を踏まえた抗議や告発などの抵抗を、『独立系』という雑な括りで、『在特会』などのレイシストと並列に扱い『複雑な排外主義という課題を背負う状況』と述べる西岡氏」という記述では、西岡氏の元の記述を書き換えています。
前便でもご説明しましたが、西岡氏は「独立系の団体のなかには」「一部の琉球民族独立系による」と対象を明示しております。「『独立系』という雑な括り」ではなく、明確に「なかには」「一部の」と絞り込んでいます。西岡論稿は該当箇所で「沖縄一般」を対象にしておりませんし、「沖縄の人たち」「ウチナーンチュ一般」を対象にしていません。元の文章を「この構造を踏まえた抗議や告発などの抵抗を、『独立系』という雑な括りで」という具合に読み替えて批判をいただいても、困惑するしかありません。
また、上記引用の「政府や1%の超富裕層のみと対峙するだけで、差別やヘイトスピーチが解消・克服できるわけがありません」との記述も、元の文章を書き換えています。前便でもお願いしました通り、元の文章を書き換えることのないようにお願いします。「対話」のための最低限の条件ですので、よろしくお願いします。
以上をお断りした上で、お手紙の「基本的な認識」に関連して、私の認識をごくかいつまんでご説明します。
1 私たちはなぜ植民地主義者になったのか
私がここ数年用いてきた言葉で言えば、「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」という問題があります。ここで「私たち」とは主に「本土」の日本人(ヤマトンチュ)・日本国籍・男性・健常者を指します。
朝鮮民族に対して、先住民族であるアイヌ民族及び琉球民族に対して、あるいは移住者、難民、難民認定申請者を含めた「外国人」に対して、日本社会に根深く定着している植民地主義について、歴史を振り返り、現在を問うことが必要であると考えます。
私は「500年の植民地主義」「150年の植民地主義」「70年の植民地主義」と呼んでおりますが、日本の対外進出に伴って形成された植民地主義はまさに500年の歴史を持ちます。このことを私は各所で論じてきましたが、近刊の『ヘイト・スピーチ法研究要綱』(三一書房、2021年10月予定)の「第3章 日本植民地主義の構造」にて詳しく展開しております。
沖縄に絞っていえば、「薩摩の琉球侵攻」に始まり、「琉球併合(琉球処分)」、そして沖縄戦、昭和天皇のメッセージ、間接占領からの沖縄切り離し(米軍統治)、沖縄返還、その後も続く基地押し付けの歴史は、日本社会に根深い植民地主義を形成しました。
にもかかわらず、「本土」の側の多くの人々の歴史認識において、このような意味での植民地主義は忘却されているように見えます。朝鮮半島に対する日本軍性奴隷制(慰安婦)問題や徴用工問題をめぐる日本社会の反応をみるならば、過去の植民地支配への反省どころか、尊大な自己肯定、自己中心主義から他者を貶める言説が幅を利かせています。朝鮮学校に対する制度的差別や、在日朝鮮人に対するヘイト・スピーチはいっそう悪質なものとなっています。アイヌ民族を先住民族と認めたはずなのに、先住民族の権利は全く認めていません。日本政府は琉球民族の先住性を認めようとしません。沖縄(琉球)への基地押し付けと差別も連綿と続いています。
私自身がこのように考えるようになった経緯についてご説明します。私は1980年代末から、仲間と「在日朝鮮人・人権セミナー」を結成して事務局長として活動を始め、在日朝鮮人に対する差別や人権侵害に取り組み、日本軍性奴隷制問題をはじめとする戦争責任と植民地支配犯罪について研究し、運動に取り組んできました。植民地主義について研究すればするほど、その克服の困難性に気づかされてきました。「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」と問い続ける必要性を痛感しております。
沖縄についても同様です。現在の基地問題の根源を考える時、「500年の植民地主義」「150年の植民地主義」「70年の植民地主義」の総体を踏まえて議論しなければならないと考えます。沖縄の歴史(日本による植民地化とこれに対する抵抗・闘いの歴史)を学ぶことで、日本の植民地主義の構造がよく見えてきました。私の歴史認識の形成に影響を与えたのは、主に沖縄の研究者、論客たちの著作ですが、特に最近の重要な思索と運動を4つだけ明記しておきます。
第1に後多田敦『琉球救国運動――抗日の思想と行動』(出版舎Mugen、2010年)は、近代における琉球の歴史――琉球処分、謝花昇の闘い、沖縄戦、昭和天皇の沖縄メッセージ、沖縄復帰――を知っているつもりの私がいかに無知であるかを悟らせてくれました。「救国」が「抗日」を射程に入れ、東アジアにおける「抗日」と真っ直ぐに繋がっているという歴史認識は私の歴史認識を塗り替えざるを得ないものでした。その後の、後多田敦『「海邦小国』をめざして――「史軸」批評による沖縄「現在史」』(出版舎Mugen、2016年)、同『救国と真世――琉球・沖縄・海邦の史志』(琉球館、2019年)に学び続けています。
第2に、野村浩也『無意識の植民地主義』(御茶の水書房、2005年)の鋭い問題提起に感銘を受けたのは、私も皆さんと同様です。出版直後にパレットくもじの書店で購入して、那覇から羽田への機内で読了した私は、野村氏が提起する問題の強烈さと深さに呆然としていたのを覚えています。知念ウシ『ウシがゆく――植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社、2010年)も見事な問題提起であり、沖縄だけでなく「本土」で広める必要があると考えた私は本書を100冊、東京で販売しました。
第3に、新垣毅『沖縄の自己決定権――その歴史的根拠と近未来の展望』(琉球新報社、2015年)を挙げることができます。本書出版後、私は著者の新垣毅氏のご協力をいただいて、友人たちと「琉球沖縄シンポジウム実行委員会」を立ち上げ、東京で数回のシンポジウムを開催することになりました。そこでの中心テーマは、後述する「基地引き取り論」です。
第4に、松島泰勝『琉球独立論』(バジリコ、2014年)をはじめとする松島氏の一連の琉球独立論です。北海道出身の私は、以前からアイヌ民族は先住民族であると認識しており、上村英明氏(恵泉女学園大学教授)の立論に学んできましたから、アイヌ民族と琉球民族はいずれも先住民族の地位と権利を享有するべきだと考えます。ですから、松島氏の研究は非常に説得的であり、琉球民族には先住民族としての権利を認めるべきであり、独立論が実際に政治課題となれば私自身も独立論を支持すると判断するに至っております。
また、近年の琉球民族遺骨返還問題でも松島氏の研究と運動には敬意を抱いており、木村朗・前田朗編『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房、2018年)には、島袋純氏、高良沙哉氏、新垣毅氏、宮城隆尋氏とともに、松島氏の寄稿をいただくことができました。他方、松島泰勝・木村朗編『大学による盗骨――研究利用され続ける琉球人・アイヌ遺骨』(耕文社、2019年)に私の文章を収録していただきました。
以上の4つの思索と運動を列記したのは、この10数年の間に私が琉球沖縄の思想にいかに影響を受けたかを示すためですが、そのことは同時に、私がいかに無知であり不勉強であったかを裏付けることでもあります。
これらの思索と運動に学ぶことを通じて、ようやく私は「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」を自らの研究テーマの重要な軸に加えることになりました。ここにたどり着くまでの自分を振り返ると、たんに無知であるだけでなく、その都度「わかったつもり」になりながら実は問題の根源を十分理解していなかったこと、そのため何度も思考がぶれたり、変遷を重ねてきたことを痛感させられます。
これは決して自虐的に表現しているのではありません。日本の対外進出に伴って形成された植民地主義はまさに500年の歴史を持ちます。日本植民地主義がいかに歴史的に根深く、日本社会において「自然」であるかを知る必要があります。日本で生まれ育った日本人は植民地主義の中で自己形成するため、普通は植民地主義者になるのです。野村浩也氏の卓抜な表現を借りると「無意識の植民地主義」です。
しかし、問題は「無意識の植民地主義」にとどまりません。野村浩也氏の問題提起がなされた後は、「無意識の植民地主義を解体する課題に気づきながら、その課題に向き合おうとしない植民地主義」になりかねないからです。
植民地主義の克服が口で言うほど容易ではないにしても、常にそのために努力しなければならないことは言うまでもありません。私自身、「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」を問いながら、試行錯誤を続けてきたのが実情です。①私のヘイト・クライム/スピーチ研究についてはすでにお知らせしました。②徐勝・前田朗編『文明と野蛮を超えて――わたしたちの東アジア歴史・人権・平和宣言』(かもがわ出版、2011年)においては、日本植民地主義と人種主義について掘り下げました。③他方、木村朗・前田朗編『21世紀のグローバル・ファシズム――侵略戦争と暗黒社会を許さないために』(耕文社、2013年)では、特定秘密保護法、集団的自衛権、国防軍創設の憲法「改正」、他方で領土問題やヘイト・スピーチなど偏狭なナショナリズムの煽動が続く現状を批判的に解剖しました。④レイシズムやナショナリズムを相対化するための非国民研究として、前田朗『非国民がやってきた!』(耕文社、2009年)、『国民を殺す国家――非国民がやってきた!Part2』(耕文社、2013年)、『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(耕文社、2016年)の3冊も公にしました。⑤他方、平和主義研究としては、前田朗『軍隊のない国家』(日本評論社、2008年)『9条を生きる――平和を生きる民衆』(青木書店、2012年)、『旅する平和学』(彩流社、2017年)と続き、最近では『憲法9条再入門』(三一書房、2020年)を出しています。ここでは平和主義と植民地主義の関連について検討しています。そして、国連平和への権利宣言づくりに参加しましたので、笹本潤・前田朗編『平和への権利を世界に』(かもがわ出版、2011年)、共著『いまこそ知りたい平和への権利48のQ&A』(合同出版、2014年)も編集することができ、国連レベルでの世界の平和運動の視点から日本と沖縄を考える良い機会となりました。⑥沖縄・尖閣諸島を含む領土問題について、民族派の代表である木村三浩氏(一水会代表)とともに『領土とナショナリズム』(三一書房、2013年)及び『東アジアに平和の海を』(彩流社、2015年)を出したことは、異なる立場の間での「対話」の経験として貴重でした。⑦また、原発問題をめぐる権力と民衆の対峙について、共著『原発民衆法廷①~④』(三一書房、2015~16年)に続いて、共著『思想の廃墟から――歴史への責任、権力への対峙のために』(彩流社、2018年)を刊行し、さらに共著『「脱原発の哲学」は語る』(読書人、2018年)、『福島原発集団訴訟の判決を巡って――民衆の視座から』(読書人、2019年)を公刊することができました。
以上の経験を経て、不十分ながら、私なりの歴史認識――日本植民地主義論、人種主義論、日本ナショナリズム論、それを乗り越えるための平和主義、国際的な平和への権利論を形成してきました。
2 基地引き取り論(県外移設論)について
以上を踏まえて、お手紙のバックボーンとなる「新しい提案」における「県外移設論」又は「基地引き取り論」についての私見をお知らせします。
沖縄への米軍基地押し付け、そのもとで起きた事故や米兵犯罪による被害等についてはあらためて述べるまでもありません。
1995年の「米兵少女暴行事件」以後、長期にわたって沖縄の人々が基地撤去をはじめ基地問題の解決を求めてきたことも言うまでもありません。鳩山民主党政権が「県外移設論」を掲げながら、失敗に終わったことも記憶に新しいところです。
県知事選、総選挙、市長村長・議員選挙などを通じて、沖縄県民が何度も繰り返し「県外移設」を求める明確な意思を表明してきたことも言うまでもありません。
こうした中、例えば野村浩也『無意識の植民地主義』、知念ウシ『ウシがゆく』といった問題提起を受けて、「本土」の側から応答したのが高橋哲哉『沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える』(集英社新書、2015年)でした。同様の思考をした方は他にもいらしたかもしれませんが、「県外移設」を単に論評するのではなく、「基地引き取り論」を「本土」の側の責任として明快に論じたのは高橋氏が初めてと言って良いと思います。
私自身の思考の変遷という点で言いますと、1995年には沖縄基地問題の解決は「基地縮小論」のレベルでした。2005年に野村浩也『無意識の植民地主義』に出会った時に、「基地を持って帰れ」という言葉に驚き、半ば納得しつつ、半ば思考停止に陥っていたと思います。そして、2015年に高橋氏の著作に接することで、私は基地引き取り論に説得され、基地引き取り論を「本土」で広める努力を始めることになりました。
なお、高橋氏にはそれ以前に『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)があり、そこですでに沖縄における米軍基地問題を「犠牲のシステム」批判の形で論じていますが、一般に高橋氏の基地引き取り論が知られるようになったのは『沖縄の米軍基地』だったと言って良いでしょう。
2015年は、高橋氏の基地引き取り論が明快に打ち出された年であり、同時に新垣毅『沖縄の自己決定権』が出版された年でもあります。そこで、私は友人たちと「琉球沖縄シンポジウム実行委員会」を立ち上げ、東京で数回のシンポジウムを開催することになりました。このシンポジウムには新垣毅氏(琉球新報社)と高橋哲哉氏にご協力いただきました。そこでの中心テーマは、「沖縄の自己決定権」と「基地引き取り論」です。
最初のシンポジウム(2015年9月23日)は「『基地過重負担は差別』 自己決定権めぐり東京でシンポ」(琉球新報2015年9月24日)に報道されている通り、新垣毅氏、高橋哲哉氏、阿部浩己氏(神奈川大学教授・当時)、上原公子氏(前国立市長)をパネリストとしてお迎えしました。
第3回シンポジウム「『植民地主義と決別を』 東京で自己決定権シンポ」(2016年4月24日)は、新垣毅氏、中野敏男氏(東京外国語大学名誉教授)、上村英明氏(恵泉女学園大学教授)をパネリストにお招きしました(琉球新報2016年4月30日)。
第4回シンポジウム「沖縄シンポジウム ヤマトンチュの選択――問われる責任、その果たし方」(2016年9月25日)は、高橋哲哉氏に基地引き取り論を展開していただき、基地引き取り論に反対する成澤宗男氏(ジャーナリスト)と対論していただきました(琉球新報2016年9月30日)。
連続シンポジウムの第9回「県民投票を受けて、いま何をすべきか~沖縄の自己決定権と『本土』の応答」(2019年4月27日)には、パネル発言者として元山仁士郎氏(「辺野古」県民投票の会代表)、佐々木史世氏(沖縄の基地を引き取る会・東京)、野平晋作氏(ピースボート共同代表)とともに、米須清真さんに登壇していただきました。その節はありがとうございました。
また、連続シンポジウムとは別に、新横浜のスペースオルタの協力を得て、私は高橋哲哉氏にインタヴューする機会を得ることができました。その記録は高橋哲哉・前田朗『思想はいまなにを語るべきか――福島・沖縄・憲法』(三一書房、2018年)としてまとめることができました。
以上の通り、不十分ながら、私自身も基地引き取り論を受容して、微力ながら行動してきたつもりです。
本年、高橋哲哉『日米安保と沖縄基地論争――〈犠牲のシステム〉を問う』(朝日新聞出版、2021年)が出版されました。本書で高橋氏は、基地引き取り論への批判に応答しています。批判対象は、沖縄の映像批評家・中里効、沖縄近現代文学・ポストコロニアル批評の新城郁夫、思想史家・鹿野政直、ドゥールーズ=ガタリをはじめとする現代思想研究者の廣瀬純と佐藤嘉幸、そして社会思想史の大畑凛――いずれも私たちが敬愛してきた研究者であり、豊かな研究業績、鋭い分析、幅広い視野で私たちに思想と理論の輝きを教えてくれた論客です。高橋氏の基地引取り論がそれだけ論争誘発的な意欲作だったためです。
ただ、この論争は主に「琉球新報」「沖縄タイムス」をはじめとする琉球沖縄のメディア上での論争です。
私の観点からは、この論争は「本土」のメディアにおいて行われる必要があります。高橋氏の果敢な取り組みや、東京、大阪、福岡などで動き始めた市民による基地引き取り論を「本土」でさらに広めることが課題です。
3 歴史認識について
さて、冒頭で述べた通り、沖縄に対して歴史的に形成された差別構造に関する歴史認識については、私もある程度共有しているつもりです。ただ、上記引用のような形で、これを「基本的な認識」と表現されても、いったい何についての「基本的な認識」であるのか不明です。また、どのレベル、どの論者の「基本的な認識」であるのかも不明です。
「沖縄が歴史的に置かれている差別構造は、現在も変わらず」という点は私も同感です。
「普天間の代替施設と称し、『軍事的には沖縄でなくても良いが、本土の理解が得られないから』という不合理な区分=差別により決定され、強行されていることがそれを象徴しています」というのも、その通りだと思います。
「そしてその社会構造を作っているのは、なにも政府のみではなくそれを支えるヤマトの人たちです」というご指摘もまさにその通りです。
「しかもこれは積極的に政府を支持するヤマトの人たちのみならず、『沖縄に要らないものはどこにもいらない』という左派も含めて、その『本土の理解が得られないから』という差別を可能にしている社会構造があるからなのです」というのも適切なご指摘だと思います。
上記引用の最後の4~5行において西岡論稿を書き換えている点は是認できませんが、それ以外は私も「その通りです」とお答えします。
しかし、上記引用の10行余りの文章「全体」については「その通りです」とは言えません。個別のパーツが正しくても、全体としては正しいとは限らないからです。これらが「基本的な認識」であると主張されても、残念ながら理解しかねます。なぜなら、これらの文章は2013年の西岡論稿に向けられた非難だからです。これは奇妙なことと言わなければなりません。
2013年当時、このような歴史認識が一般的であったとは到底考えられないからです。もちろん、沖縄に対する歴史的な差別についての認識はもっと以前からありました。しかし、米軍基地の県外移設論とこれらの歴史認識が一体のものとして語られるようになったのはいつのことでしょうか。
こうした歴史認識は現在の沖縄においてさえ、一般的と言えるかどうか疑問です。なるほど県外移設は沖縄県民の明確な意思です。しかし、県外移設論を支える歴史認識が一枚岩であるわけではありません。歴史認識は多様です。「県外移設論」には多様な思いが含まれており、「県外移設論」=「基地引き取り論」という訳ではないことは明らかです。そのことは、2015年の高橋哲哉氏の基地引き取り論に対して、他ならぬ沖縄の中からも次々と批判と反論が寄せられたことから明らかです。
また、『沖縄発新しい提案――辺野古新基地を止める民主主義の実践』が公表されたのは2018年のことだと承知しています。その紹介の文章には「2017年ごろ、沖縄県内外のさまざまな世代のウチナーンチュによって、憲法や民主主義の観点から県外移設論を検討するネットワークが生まれました」という記述を見ることができます。
2018年の「新しい提案」の歴史認識を根拠にして、2013年の西岡論稿にはそれが欠けていると非難することが、いかにして可能となるのでしょうか。
繰り返しますが、私は「基本的な認識」をある程度共有していますが、それも上記の通り、時にぶれたり、変遷した結果としてようやくたどり着いた認識です。
そして、残念なことに、「本土」ではこのような認識は全く共有されていません。高橋氏や引き取り運動のみなさんが苦労しているのはこのためです。
私はこの認識を「本土」に広めることが重要であると考えます。そのために東京でシンポジウムを繰り返し開催してきました。その際、他人の文章を書き換えたり読み替えたりすることなく、議論を進めました。2018年の認識を基に2013年の文章を非難するのではなく、その都度、正確な事実に基づいて対話を進めることに留意しました。
以上で、ご指摘への「回答」とさせていただきます。
お手紙をいただいたおかげで、改めて私自身のこれまでを振り返ることができました。思考の及ばなかったところ、浅かったところが見えてきました。我ながら迂闊だったと思うところもあれば、それなりに努力してきたのにと言い訳したくなるところもありました。
いずれにせよ、過去を変えることはできませんので、至らない点はご容赦を願うしかありません。私にできることは、とりあえず基地引き取り論を本土で少しでも広げるよう努力を続けることです。
さらに疑問点がございましたら、お知らせいただけますと幸いです。「対話」が遮断されることなく、議論を始める端緒となることを期待して、私なりのお返事とさせていただきます。
なお、第一便と同様に、本便は公開していただいて結構ですが、書き換えたり前後を入れ替えたりすることのないようにお願いいたします。
ありがとうございました。
敬具
2021年9月22日
前田 朗