Wednesday, September 15, 2021

非国民がやってきた! 002

三浦綾子『氷点(上下)』(角川文庫)

7月に田中綾『非国民文学論』(青弓社)を読んだ。ハンセン病療養者や徴兵忌避者を取り上げて、「抵抗の文学」や「反戦の文学」と区別される「非国民文学」という枠組みを設定する著作だ。

非国民がやってきた! 001

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html

私は「抵抗の文学」や「反戦の文学」と「非国民文学」を区別せず、重なるものとして理解してきたが、田中綾の著書を読んで、「非国民文学」にはもっとさまざまな広がりがあるのだろうと思った。そもそもかつての日本では女性はすべて「非国民」扱いだったと言って構わないだろう。私が取り上げた女性非国民は、管野すが、金子文子、伊藤千代子、そして治安維持法と闘った女たちだが、他にも多くの非国民女性たちの歴史がある。

田中綾は三浦綾子記念文学館館長だという。私は三浦綾子をきちんと読んでいない。なんと、『氷点』だけだ。『銃口』を青年劇場で見た時にきちんと読んでおくべきだった。『銃口』はまさに非国民の闘いだが、それ以前に三浦綾子は小林多喜二の母をモデルにしたと言う『母』を書いている。にもかかわらず三浦綾子による「非国民文学」を私は読んでいない。遅まきながら少しは読まなくてはと思い、まずは、確かに読んだのに、いつ読んだかさえ定かでない『氷点』を読んだ。

三浦綾子(19221999)のデヴュー作であり、大ベストセラー、代表作である『氷点』は196412月から朝日新聞に連載され、その後、単行本になったという。映画化され、何度もテレビドラマになった。映画は見ていないが、テレビの一部を確かに見た記憶がある。小説を読んだのは高校時代か大学時代だと思うが、定かでない。大雑把なあらすじは、その主題が明確なだけに、覚えているが、細部は全く覚えていない。唯一覚えているのは、最後のどんでん返しに不満を持ったことだけだ。

『氷点』の主題は人間存在の根源に関わる原罪である。三浦綾子自身が、幼い時に妹を亡くしており、肺結核の療養中に洗礼を受けてクリスチャンとなり、愛と信仰を生きた作家である。その後の30数年に及ぶ作家活動で送り出した数々の名作においても、問い続けた主題である。生涯をかけたテーマと言って良いだろう。

「大衆文学」と「純文学」が截然と分けられていた時代に、「大衆文学」の代表作ながら、日本の「純文学」がなしえなかった問いに挑み続けた稀有の作家である。江藤淳が「この作品は文壇への挑戦である」と言ったという。その後の日本文学史において、三浦綾子の名前が登場しない文学史がいくらでもある。まして文壇史には一切登場しない。だが、どちらが文学の名にふさわしいか言うまでもない。

と、ここまで書いて思い出した。岡和田晃()『北の想像力――《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅』(寿郎社、2014年)にも三浦綾子は登場しない。「《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅」と銘打った800頁の大著である。

 「安部公房・荒巻義雄の古典的作品から清水博子・円城塔の実験的作品、アイヌ民族の口承文学、北海道が描かれた海外作品、北の風土にかかわる映画・アニメ・ソフトウエア・音楽にいたるまで――。ジャンルを超えた批評家たちの倦まざる批評実践によって日本近代文学の限界を炙り出し、〈辺境文学〉としての北海道文学と北海道SFを〈世界文学〉〈スペキュレィティヴ・フィクション〉として読み直すことで、文学とSFの新たな可能性を〈北の大地〉から見出した、空前絶後の評論大全、北海道の出版社から刊行。」

 この宣伝文句にふさわしい大著であり、私も感銘を受けた。北海道出身なのに、北海道文学に無知であり、荒巻義雄のファンであるが、他の北海道SFを知らない私にとって、『北の想像力』は素晴らしいナビゲーターだ。しかし、『北の想像力』に三浦綾子は出てこなかったと思う。

確認したところ、やはり出てこない。「《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅」に北海道文学の最高峰・三浦綾子の名前が登場しないのは信じがたいことだ。編者である岡和田に何らかのポリシーがあって、三浦綾子には絶対言及しないと決めたのだろうか。よくわからない。

『氷点』をかつて読んだ時に気にも留めなかった、忘れていたことで2つ。

1つ、主人公夏枝の友人の辰子のセリフに、戦争中に東京で付き合った男のことが出て来る。

「相手はマルキストでね。節を曲げずに獄死したのよ。万葉集なんか読んでね。死なすのが惜しい人だった。」

非国民という観点からは気になるセリフだ。これ以上のことは分からないが、小林多喜二をはじめ、治安維持法と闘い、倒れた人々を想起する。

もう1つ、主人公啓造が娘陽子を連れて、アイヌの墓地に連れて行くシーンだ。

「ここがアイヌの墓地だよ。旭川に住んでいる以上、一度は陽子にも見せたかったのだがね」。

「明治三十八年には一万坪だったアイヌ墓地が、今は九百五十坪に減らされたということだけでも、アイヌの人たちに気の毒なことだと啓造は思った。」

この文章を三浦綾子は1964年に書いた。その後、半世紀を超える歳月、この大ベストセラーのこの文章を日本文学は如何に読んできただろうか。

アイヌ遺骨返還が裁判で戦われている現在、つまり日本の学問と行政がアイヌの墓地を暴いて盗んだ遺骨をいまだに返さない現在、私たちはこの一節をどう読むのか。