Saturday, May 23, 2015

シャルリ・エブド事件は考え抜かれたか

特集「シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃」『現代思想』3月臨時増刊号(2015年)
事件をめぐってTV、新聞、雑誌の特集がいくつも見られたが、テロだと叫んで思考停止するものや、テロを非難するあまり人種差別や宗教差別を容認するものもあった。歴史的構造的に形成された差別の現状を無視し、欧州におけるヘイト・スピーチ対策の積み重ねを乱暴に放り投げ、新たな差別を加速させる例がフランスでも日本でも見られた。
『現代思想』特集は、西谷修+栗田禎子対談「罠はどこに仕掛けられたか」とともに、バリバール「死者たちのための、そして生者たちのための三つの語」、バディウ「赤旗とトリコロール」、チョムスキー「パリの襲撃事件は、西洋の怒りが偽善であることを示している」、ネグリ「シャルリー・エブドからグローバル戦争へ?」、ジジェク「最悪の者らは本当に強烈な情熱に満ち満ちているのか?」などの短信、そして鵜飼哲「一月七日以前」、港千尋「圏外の名のためにい」、廣瀬純「我々はいったいどうしたら自殺できるのか。」、勝俣誠「パリの連続襲撃事件を考える」などの論考を収める。まだ一部しか読んでいないが、樫村愛子、太田光海、臼杵陽、土佐弘之らの見解も参考になった。

事件に驚愕した叫びや短絡的な議論が横行する中、事件を考え抜くこと、フランスとイスラムの歴史を辿り直し、差別とテロとヘイトと暴力を問い直し、日本を考え抜くことが大切だ。

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(6)

第六章「C・エドウィン・ベイカーと自律の議論において、ウォルドロンはまず衡量アプローチを説明する。「言論の自由の重要性を強調するものの、しかしこれらの事例では、言論の自由が引き起こすかもしれない危害に関連するその他の考慮すべき事柄のほうが、その重要性を上回ることを認める」。続いて内容中立規制や思想の自由市場論について検討し、思想の自由市場論は「迷信」にすぎないと指摘する。
その上で、ウォルドロンはベイカーの自己開示と自律の議論を取り上げる。「自らを開示する諸個人の集まりが、自分と自分の価値を他者に向けてどのように提示するかを選択し、そして他者の自己開示に対してどのように応答するかを選択するという構図である」。ベイカーによると、これこそが「自立を尊重する社会の基盤」ということになる。これに対して、ウォルドロンは、ヘイト・スピーチがベイカーの言う自己開示にふさわしいのか疑問を提示する。ヘイト・スピーチの「遂行的」性格が重視される。第二にヘイト・スピーチがもつ破壊的側面を強調する。仮に自己開示として構築的側面を有する場合であっても、 「重要な社会的財にとっては快適な側面」を持つからである。衡量アプローチの観点からは、ベイカーは一方の衡量されるべき価値を見落としているのである。

ウォルドロンはそこまで述べていないが、ベイカーの議論は相対話する者同士の関係に限定された理屈にすぎない。自己開示と称しているが、「自己開示しない自由」を否定して、一方的に他者に自己開示を強要することを認める点で、人格権や人間の尊厳に対する無理解と言うしかないだろう。

Wednesday, May 20, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(20)「表現の自由の優越的地位」論批判

前田朗「自治体は人種差別を非難し、人種差別撤廃政策をとるべき」『部落解放』710号(2015年6月号)

大阪市審議会のヘイト・スピーチ対策答申の評価。特に「公共団体の施設等の利用制限」について論じた。その際、憲法学における「表現の自由の優越的地位」論を批判した。日本国憲法は「表現の自由の優越的地位」を定めていない。これは憲法学者のイデオロギーにすぎない。表現の自由の優越的地位とは経済的自由に対する優越であって、個人の尊重や法の下の平等に対する優越ではありえない、と。

Monday, May 18, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(5)

第五章「尊厳の保護か、不快感からの保護か」は、第四章「憎悪の外見」とともに本書の中心部分である。表題の通り、ヘイト・スピーチを規制するのは、不快な思いをさせられるからではなく、人の尊厳を傷つけるからであり、両者の間に区別をすることができることを課題とする。
「私は本書で何度も、ヘイト・スピーチを制限する法律は人々の尊厳を攻撃から守ることを狙いとすべきだと述べてきた。尊厳という言葉で私が指しているのは、人々が暮らす共同体の中で誰とでも平等なものとしての彼らの地位、基本的正義への彼らの権限、彼らの評価に関する根本的な事柄である。その意味での尊厳は、攻撃からの保護を必要とすることがありうる。」
他方、ウルドロンは、人々が不快な思いをさせられることを防ぐことを規制の目的とは考えない。「人々の感情を不快感から防ぐことは、法律の適切な対象ではない」。両者の区別は、次のように表現される。
「人々を不快感から、あるいは不快にさせられることから保護するとは、彼らの感情に対するある種の影響から彼らを保護することである。そしてそれは、人々の尊厳と、彼らが社会の中でまともな扱いを受けることに関する安心とを保護することは違うのである。」
この区別をウォルドロンは何度も繰り返し説明する。私にはとても説得力があるように思われるのだが、日本の議論ではこうした尊厳概念が全く理解されていないようにも思える。なかなか難しいところだ。

さらに、ウォルドロンは概念把握をめぐる「複雑性」に配慮してさまざまに議論を進める。また、「アイデンティティの政治」、文化的アイデンティティの議論がもたらす混乱も射程に入れる。その上で、ウォルドロンは「尊厳概念は曖昧だ」という批判に応える。尊厳概念の中核には権利概念がある。また、ヘイト行為者もまた自らの尊厳を唱える場合もある。

Wednesday, May 13, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(19)パリと東京の間で

鵜飼哲「パリ、<一月の惨劇>の後で」『市民の意見』148号(2015年)

1月のパリの事件直後に、パリ在住だった著者が書いた文章。やはり、必読だ。著者はその他にも現地情報に基づいて、重要な意見を公表している。

Friday, May 08, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(4)

第四章「憎悪の外見」で、ウォルドロンは「ヘイト・スピーチがもたらす社会的害悪と、それを抑制しようとする立法の実質的な目的」について論じる。ヘイト・スピーチを禁止する実質的目的、保護法益の議論である。その際、ウォルドロンは、ジョン・ロールズの「秩序ある社会」という概念を活用する。ロールズはヘイト・スピーチ刑事規制を主張したわけではないが、ロールズの概念を用いてロールズとは異なる議論を展開できるとするウォルドロンは「秩序ある社会はどのように見えるか」と問う。あるいは、どのように聞こえるか、どのような匂いがするか、政治的美学の研究である。
「人々が人種差別的、宗教的憎悪を支持しているならば、社会は秩序あるものではありえない。秩序ある社会という考えは、ある社会がある正義の構想によって完全にかつ効果的に規制されているという考えである。細かい専門用語を使えば、それは部分的遵守理論ではなくて完全遵守理論である。この説明によるならば、ヘイト・スピーチを生み出すのに十分な遺恨と分断をともなう社会についての議論は、秩序ある社会についての議論ではありえない。なぜならヘイト・スピーチが表現する憎悪とそれがかきたてることを計算されている憎悪はいずれも、その態度が市民の間に広まっている事実――それどころか、普遍的にその態度が取られていること――が秩序ある社会を定義づけるものと想定されている態度とは、両立しないからである。私たちとしては、そうした憎悪の態度が死に絶えて正義の感情に取って代わられるまでは、社会を『秩序ある』と呼ぶことはしない。」
「秩序ある社会がどのように見えるかが重要であるのはなぜか。外見はなぜ重要なのか。その答えは、安全および安心と関係している。すでに述べたように、秩序ある社会は『そこでは誰もが、まさに同一の正義の諸原理を受け入れており、しかも他の誰もがそれらを受け入れていることを知ってもいる』社会だというロールズの洞察をもとに私は議論を組み立てたい。中心となる考えはこうである。すなわち、社会の見かけは、その成員に向けて、社会が安心を伝える主要なやり方のひとつだということである。その際の安心というのは、たとえば、日常生活の中で遭遇したり向き合わされたりする何百、何千という見知らぬ人々によって、彼らがどのように扱われるはずであるかについての安心である。」

ウォルドロンは「秩序ある社会における安心」の供給を「公共財」と見る。「尊厳に基礎をもつ安心はすべての人に対してすべての人によって供給される公共財であり、それは街灯の利益とは違ってひとつの集中的な供給会社によっては供給されえない」と見る。

Wednesday, May 06, 2015

軍事性暴力の本質を考える

藤目ゆき『「慰安婦」問題の本質』(白澤社、2015年)
日本軍性奴隷制・「慰安婦」問題に20年余り取り組んできた著者の論文集。
序 章 「慰安婦」問題の解決を妨げるもの
第一部 性暴力問題をみる視点
第1章 女性史からみた「慰安婦」問題
第2章 日本人「慰安婦」を不可視にするもの──女性国際戦犯法廷に参加して
第3章 被差別部落と買売春
コラム 女性史の封印を解く仕事
第二部 なぜ「慰安婦」問題を解決できないのか
第1章 日本軍「慰安婦」被害者金学順さん証言から二〇年
第2章 現代の軍事性暴力と「慰安婦」問題
第3章 日米軍事同盟が生み出した性売買をどう考えるのか
第4章 日本軍「慰安所」を作り出した性の歴史

「慰安婦」と公娼制の共通性と差異を問い、女性の分断、女性蔑視と差別がどのように構築されてきたかをていねいに明らかにして、「慰安婦」問題を解決するために重要な視点を確認する。女性に対する暴力、特に軍事性暴力が、いつ、だれによって、なぜ作り出されてきたのかを俎上に載せることによって、日本軍性奴隷制を世界的かつ歴史的視野で考察できるようにする。それゆえ、韓国や日本における米軍基地問題も含めて、解決に向けた連帯の視座が明確に打ち出されている。

Monday, May 04, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(3)

第三章「なぜヘイト・スピーチを集団に対する文書名誉毀損と呼ぶのか」で、ウォルドロンは「ヘイト・スピーチ」という言葉が、イスラム恐怖症のブログ、十字架を燃やすこと、人種差別主義的な罵言、人種的マイノリティの成員を動物として描写すること、1994年のルワンダにおけるジェノサイドを煽り立てるラジオ放送など、幅広い意味内容を有することを指摘し、「ヘイト」が主観的な動機として理解されるべきでないことや、「スピーチ」という表現が誤解を招く面を有することを踏まえて、集団に対する名誉毀損について論じる。ウォルドロンは、1952年のボーハネ対イリノイ州事件最高裁判決の射程と、ニューヨーク・タイムズ社対サリヴァン事件判決の意味を問い、集団の評判を攻撃することを問題とすることは、集団そのものを保護することではなく、集団の成員の属性を取り上げるものであり、個人主義的であることを示す。
「ヘイト・スピーチを規制する立法が擁護するのは、(あらゆる集団のあらゆる成員のための)平等のシティズンシップの尊厳である。そしてそれは、(特定の集団の成員についての)集団に対する名誉毀損が市民から成る何らかの集団全体の地位を傷つける危険があるときには、集団に対する名誉毀損を阻止するためにできることをするのである。」

ウォルドロンは、ボーハネ最高裁判決が明示的には一度も判例変更されていないことを確認しつつ、そうは言ってもボーハネ判決に依拠することがさほど重要な意味を有するとは考えていないようである。むしろ、尊厳とは何かをより具体的に明らかにすることが目指されることになる。

Sunday, May 03, 2015

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(2)

第二章「アンソニー・ルイスの『敵対する思想の自由』」は、本書に収められた文章による論争の出発点となった書評である。
ルイス『敵対する思想の自由』(慶応義塾大学出版会、2012年、原著2007年)は、ピューリツアー賞受賞ジャーナリストによる思想の自由、表現の自由の擁護の書であり、アメリカ最高裁における思想の自由と表現の自由の確立過程を追いかけた著作だが、その中でウォルドロンへの批判があり、ウォルドロンは書評で反論をすることになった。その書評に加筆したのが第二章である。
ウォルドロンは、アメリカ司法における表現の自由の議論の仕方の変遷を概説し、オリヴァー・ウェンデル・ホームズでさえその思考に大きな振れ幅のあったことを示す。重要なのは、政治家など権力者に対する批判の自由と、マイノリティに対する侮辱や差別などヘイト・スピーチとを、乱暴にひとくくりにしないことである。公衆のヒステリーが公論をどのように歪める機能を有するかを知る必要がある。ウォルドロンは次の2点に留意する。
「第一に、私たちが憎悪する思想が争点なのではない。思想が争点だとすると、まるでヘイト・スピーチを規制する法律の擁護者が人々の心の中に入り込もうとしているかのようである。争点になっているのは思想を公にすることであり、また目に見える、公然とした、そして半ば永久的な告示による社会環境の汚染を通じて個人と集団に及ぼされる危害なのである。」
「第二に、争点となっているのは、たんに、私たちが憎む思想を、私たちが寛容に扱うのを学ぶことだけではない――たとえば修正第一条を専門とする法律家としての私たちが。人種差別主義的憎悪の表現がもたらす危害とは、まず何よりも、人種差別主義のパンフレットや看板において非難され、動物呼ばわりされる集団にとっての危害である。率直な言い方を許してもらえば、それは人種差別主義的な罵りを悪趣味とみなす白人のリベラル派にとっての危害ではない。」

このように、ウォルドロンは、ヘイト・スピーチの思想性ではなく表現行為性に着目して、その危害が誰の上に起きているのかを論じている。正当な指摘である。これは日本での議論でも注意するべき点である。

Friday, May 01, 2015

ヘイト・クライム禁止法(91)スウェーデン

スウェーデン政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/SWE/19-21. 5 November 2012)によると、人種差別撤廃条約第四条(a)については前回報告書以後変化はないという。
第四条(b)について、人種、皮膚の色、国民的又は民族的出身、宗教的信念、性的思考に言及して、国民、民俗又はその他の非の集団に対して脅迫又は侮辱を含んだメッセージや情報を口頭又は文書で流布することは、国民又は民族集団に対する煽動として犯罪であり、二年以下の刑事施設収容、当該犯罪が微罪の場合は罰金に処される。犯罪が重大な性質を有すると判断された場合、刑は六月以上四年以下となる。国民又は民族集団に対する煽動は文書による場合もテレヴィ放送による場合も禁止される。組織的な犯罪活動への参加は、犯罪実行の共謀、準備、未遂又は共犯として処罰される。
刑法第二三章第四節の共犯規定によると、犯罪実行をした者だけではなく、助言や教唆によって促進した者にも刑罰が課される。刑法第二三章第一節によると、犯罪実行に着手すれば既遂に至らなくても一定の危険を生じた場合には処罰される。刑法第二三章第二節によると、犯罪実行の準備をした者は、処罰される場合がある。二〇〇八年の組織された犯罪と闘うための欧州評議会枠組み決定に従って、二〇一一年、準備と未遂の適用範囲が拡大された。

第四条(c)について、裁判所、行政機関等は、法の前におけるすべての者の平等を考慮し、客観性と公平性を守ることを要求される。この規定は自然人にも法人組織にも適用される。民族差別の支持や助長は刑法及び民法の適用を受ける。

ヘイト・スピーチ研究文献(18)対談:前田朗✕師岡康子

「対談:前田朗師岡康子 前田朗著『ヘイト・スピーチ法研究序説』」『図書新聞』3206号(2015年5月9日)

一・二面に「憲法特集」として掲載された対談の見出しは「ヘイト・スピーチは『人間の尊厳』の侵害」「表現の自由の重要性とは矛盾しないかたちでヘイト・スピーチ規制は可能であり、しなければならない」。

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(1)

ジェレミー・ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(みすず書房)
原著はJeremy Waldron, The Harm in Hate Speech, Harvard University Press, 2012.出版間もなく入手したが読まずにいた。重要文献なので読まなくてはと思ったが、英語なので苦労が多いし、時間もかかるのでどうしたものか。順次紹介論文を書くことにしようかなどと悩んでいたが、翻訳が出ると聞いたので、それならと翻訳を待った。待望の出版だ。
本書は全八章から成る。順次勉強していきたい。
「第一章 ヘイト・スピーチにアプローチする」は、本書出版の経緯を説明しつつ、ウォルドロンの基本的考え方を提示している。詳細は第二章以下で叙述されるが、第一章で基本線が明示されている。
「何が問題であるかを、私たちは二つのやり方で記述できる。第一に、包括性という、私たちの社会が支持し、コミットしている、ある種の公共財が存在する。私たちは、エスニシティ、人種、外見、それに宗教に関して多様である。しかも私たちは、こうした種類の差異にもかかわらず共に暮らし、働くという壮大な実験に乗り出している。各々の集団は、社会が彼らだけのためのものではないことを受け入れなければならない。しかし社会は、他のすべての集団と一緒に、彼らのためのものでもある。そして各人は、各々の集団の各々の成員は、他人による敵意、暴力、差別、あるいは排除に直面する必要はないという安心とともに、彼または彼女の暮らしを営むことができるべきである。」
「ヘイト・スピーチはこの公共財を傷つける。あるいは、それを維持する仕事を、ヘイト・スピーチなど存在しない場合よりもはるかに難しいものにする。ヘイト・スピーチがこのような働きをするのは、差別と暴力の威嚇をおこなうことによってばかりではない。過去にこの社会がどのようなものであったか――あるいは他の社会がどのようなものであったか――についての生々しい悪夢を呼び覚ますことによっても、そうするのである。」
「何が問題であるかを記述するもうひとつのやり方は、ヘイト・スピーチによって不確かなものとされてしまう安心から恩恵を受けるべき人々の観点から、ヘイト・スピーチに目を凝らすことだ。ある意味では、私たち全員が安心から恩恵を受けるはずである。しかし、脆弱なマイノリティ、近い過去において同じ社会の内部の他の成員から憎悪され嫌悪された経験をもつマイノリティの成員にとっては、安心は彼らが社会の成員であることの確証を提供するものである。安心は、彼らもまた、しかりした立場をもつ社会の成員であることを確証してくれる。……こうした基本的な社会的地位を、私は彼らの尊厳と呼ぶ。ある人の尊厳とは、たんに何かカント的な輝かしさではない。尊厳とは、彼らの社会的地位である。」
「ヘイト・スピーチを公にすることは、この尊厳を傷つけるために計算されている。ヘイト・スピーチの狙いは、それが標的にする人々の尊厳を、その人々自身の目から見ても、社会の他の成員の目から見ても、危うくすることにある。そしてヘイト・スピーチは、その人々の尊厳を確立し支持することをはるかに困難にしようとする。ヘイト・スピーチは、その人々の評価の根本にある事柄を汚すことを狙いとする。」
ウォルドロンはヘイト・スピーチをこのようなものとして捉えて議論を進める。公共財と尊厳を巡る議論は、刑法における保護法益論としての社会的法益か個人的法益かという議論と関連する。ヘイト・スピーチの規制は社会的法益を守るためなのか、個人的法益を守るためなのか。従来の法益体系の三分説を前提とした議論が行われてきたが、三分説を前提とすることでは適切な理解とは言えないかもしれない。ウォルドロンが公共財と尊厳を並列するのも、そのためかもしれない。

ウォルドロンは、表現の自由を極度に強調するアメリカにおける議論を展開するにあたって、ヘイト・スピーチを処罰する欧州各国の情報を紹介し、国際人権法の基本的考え方も紹介しながら、アメリカ憲法の下でもヘイト・スピーチ処罰の議論があり得たことも指摘し、アメリカ憲法に適合的な処罰必要論を唱えることを予告する。

ヘイト・クライム禁止法(90)ジャマイカ

ジャマイカ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/JAM/16-20. 5 November 2013)によると、憲法第三章(基本権と自由の憲章)は人種に基づく差別からの保護を規定している。第一三条三項は男女の性別、人種、出生場所、社会階級、皮膚の色、宗教又は政治的意見に基づく差別からの自由の権利を定める。前回審査結果として、人種差別撤廃員会はジャマイカ政府に対して、人種差別撤廃条約第四条に対する留保を撤回し、特に条約第四条(b)の人種主義団体規制法を制定するよう勧告した。ジャマイカ政府は、条約第二条に関連する憲法上の保障があるので、憲法第三章(基本権と自由の憲章)の下で効果的な措置が存在しており。人種や出生場所に関わらず基本権と自由が保障されていると考える。