Sunday, September 30, 2012

ニコニコニコン、恥かきニコン


新藤健一編『検証・ニコン慰安婦写真展中止事件』(産学社)


 

韓国写真家・安世鴻氏のニコンサロン写真展「事件」をめぐる経過と真相を世に問うブックレットである。

 

「慰安婦」問題の真実を訴えようとすると、ただそれだけで固まってしまう社会。見えざる手によって表現が押しつぶされる社会。日本はこの20年、変わらない。

 

歴史の事実に目を向けることを恐れ、ひたすらごまかす。事実を歪めたり、なかったことにして、安心を得ようとする。

 

それだけならまだしも、被害者を貶めたり、他人の意見や表現を抑圧し、国際社会で恥をかき続ける。そんな「日本的」行動様式をニコンも見事に再演してくれた。NHK番組改ざん事件を思い出した人も多いだろう。

 

本書は日本語とハングルの対訳つきだ。最近はこうした出版も増えてきたようだ。西欧に行けば、英語フランス語とか、フランス語ドイツ語の対訳本は珍しくない。手間暇かかるし、コストもかかるが、こうした出版によって日韓の間の垣根を少しでも低めていくことも大切だ。編者及び担当編集者に敬意を表したい。

 

新藤健一:1943年、浅草生まれ。1964年、共同通信社入社。ニュースカメラマンとして帝銀事件・平沢貞通被告の獄中写真、韓国の朴正煕大統領暗殺事件、連合赤軍事件、ダッカでのハイジャック事件などをスクープ。写真部次長、編集委員などを経て、2003年に退職。現在、東京工芸大学非常勤講師。20123月、国連本部で開催された写真展 3.11 ユニセフ東日本大震災報告写真展』(日本ユニセフ協会主催)のキュレーターを務める。著書に『疑惑のアングル』(平凡社)、『写真のワナ』(情報センター出版局)、『映像のトリック』(講談社)など。

 

まえがき
Chapter
 1 ニコンサロンと写真家、安世鴻
Chapter
 2 突然の中止通告の理由
   寄稿① ニコンサロン・安さん写真展取り消し問題 豊田直巳
Chapter
 3 地裁の正論、ニコンの暴論
Chapter
 4 厳重“すぎる”警備体制
   寄稿② 慰安婦問題――河野談話とマイク・ホンダと安世鴻 溝上明
Chapter
 5 日本社会の縮図、ニコン事件
   寄稿③ ニコンの「政治的」介入が映し出したもの 綿井健陽
政治的なカメラ――あとがきに代えて
   ■資料 全記録 ニコン慰安婦写真展中止事件の経緯

はるなつあきふゆ芸術実行犯


ChimPom『芸術実行犯』(朝日出版社)


 

今日は、相模大野グリーンホールで、社会派コント集団ザ・ニュースペーパー公演だった。


 

夕方から台風接近で激しい風なので、早々に帰宅して、UAの「HORIZON」や「太陽手に月は心の両手に」など聞きながら、本書を読んだ。

 

<美術館で拝むだけがアートではない。アートは社会のリアルに切り込むための「武器」である。

 原爆ドーム上空に飛行機雲で「ピカッ」の文字を描き、事故直後の福島第一原発敷地内に放射能マークの国旗を掲げ、岡本太郎の巨大壁画に原発の絵を付け足す。現代日本のアートシーンで最も物議をかもしてきたアーティスト集団ChimPom(チン↑ポム)が自由を新たに塗りかえる。

 世界のアートの動向と共におくる生き方としての美術入門。「これからのアイデア」をコンパクトに提供するブックシリーズ第3弾。画期的なブックデザインはグルーヴィジョンズ。>

 

『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(河出書房新社)でも社会的に話題となり、岡本太郎壁画「追加」事件でも大騒ぎとなった、「自称美術家」「騒がせや」「一発屋」のChimPomだ。

 

どんな奇想天外の話で楽しませてくれるかと思ったら、本書は、ChimPomの歴史、歩みを概説しつつ、ストリート・アート、アクテヴィズムについて論じた著作だった。美術館におけるアート、制度化されたアートとは別に、屋外で、路上で、社会に、現実に介入し、人々に価値観の転換を迫る問題提起の書だ。

 

「スーパーラット」「オーマイゴッド」「アイムボカン」から、「広島の空」を経て、3.11以後におけるアートの可能性に挑戦し、自らの退路を断ったChimPomの「覚悟」「心意気」がよくわかる。

 

「アートで世界はひっくりかえる」、そして「アートが新しい自由をつくる」へと、手を変え、品を替え、自分を作り、アートをつくり、アートを楽しみ、世界を愉しむChimPom

 

まもなく第二作品集が出ると予告されている。楽しみだ。

Thursday, September 27, 2012

鹿砦社編集部編『憂国か革命か テロリズムの季節のはじまり』


鹿砦社編集部編『憂国か革命か テロリズムの季節のはじまり』(鹿砦社)

 

「テロリズムの季節のはじまり」と宣言されると嫌な気分になってしまうが、「夕刻」ならぬ「憂国か革命か」という問いかけを、鈴木邦男、若松孝二、板坂剛、佐藤雅彦らが提示しているのと、大江健三郎「政治少年死す セヴンティーン第二部」、深沢七郎「風流夢譚」が収録されているので、購入した。

 

はじめにに次のように書かれている。

 

<そもそも<テロリズム>とは何か?

1960年代から70年代の疾風怒濤の時代を知るわれわれは、左右両翼による政治テロの生々しい実態に接してきた。

いや、60年代、70年代に限らず、現代史を紐解くと、歴史の結節点に幾度となく政治テロが起きていることが分かる。

(中略)

本質的に政治テロをなくそうとするのであれば、<テロリズム>について根源から探求することが必須だろう。

しかし、われわれはこれまで、そうした本質的な捉え返しをしてきたであろうか?>

 

<非暴力・非武装・不服従・無防備・非国民の平和力>を探る立場からは、テロリズムは全面否定の対象であるが、なぜテロリズムが起きるのか、そもそもテロリズムとは何か、いかにしてテロリズムの倫理と論理をあらかじめ解体するべきか、を検討しておく必要があることは言うまでもない。ロシアのテロリストを思い、啄木とともにテーブルを叩いてもテロリズムの考察にはならない。

 

国家権力と暴力――9.11や3.11を経た現在、まっさきに議論するべきは国家テロであることも言うまでもない。にやけたテロリストたちが権力をふるう現実をどう見るのか。

 

とはいえ、そこから反転して個人テロを擁護することはできない。個人テロを全面的に批判するために、国家テロと個人テロの総体を構造的に読み解いていく必要がある。

 

鈴木邦男の思索は長いこと、この点に集中してきたと言ってよい。名著『愛国の昭和』にいかに向き合うのか――それをかつてなんと平壌で読んだのだが。私たちの課題はますます重く、深くなるが、逃げ出すわけにはいかない。テロリズムは、昭和の愛国の発明品ではない。アイルランドでも、イタリアでも、チェチェンでも、パレスチナでも、イラクでも、時代の悲鳴が響き続けてきた。

 

まだ答えはない。当面の反問は「軍隊は国民を殺す」であり、「国家は国民を殺す」である。これは逆説ではなく、普遍命題であるからだ。


 

なお、鈴木邦男の『新・言論の覚悟』について

Wednesday, September 26, 2012

郷原信郎『検察崩壊――失われた正義』


郷原信郎『検察崩壊――失われた正義』(毎日新聞社)


 

<緊急対談! 「小沢事件」の中、東京地検特捜部で起きた虚偽公文書作成事件。
小川敏夫前法務大臣、石川知裕衆院議員、大坪弘道元特捜部長、八木啓代氏ら注目の論者と共に、検察の嘘をすべて暴く。

6
27日の記者会見時、報道関係者・一部国会議員のみに配布され、最高検察庁がいまだ一般市民への公開を拒否している、本事件の内部調査についての「最高検報告書」、本事件の発端となった「田代報告書」も全文掲載!>

 

元東京地検特捜部検事で弁護士、組織のコンプライアンス問題の第一人者・の郷原信郎が、東京地検特捜部事件(小沢一郎・陸山会事件、田代検事報告書偽造事件)をテーマに4人の人物と対談している。4人の人選が凄い。

 

元法務大臣・小川敏夫、元小沢一郎秘書で衆議院議員の石川知裕、元大阪地検特捜部長でフロッピディスク改竄事件の犯人隠避罪・被告人にされている大坪弘道、そして歌手で「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」代表の八木啓代。

 

いずれも「渦中」の人物であり、4つの対談すべてを通じて、事件の真相を多角的に、文字通りえぐり取るように解明している。待望の書である。

 

“最高検、東京高検、東京地検の犯罪者集団”はグーの音も出ないだろう。

 

どの対談も具体的で明晰ですぐれているが、特に鮮やかなのは「これは日本という国で検察が起こしたクーデター」という八木啓代の指摘である。この視点が従来欠けていた、ないし弱かったのは否めない。小沢一郎がどうかという問題ではなく、検察による民主主義破壊を許してはならないという立場から、検察犯罪を徹底的に追い詰める八木のたたかいは見事である。凛としてたたかう八木に拍手喝采。

 

なお、本書は、この間の大阪地検特捜部事件と東京地検特捜部事件によって検察の正義が失われたという立場である。つまり、それ以前の検察には正義があったという前提である。郷原、小川、大坪は検察出身なので、自分たちは正義を遂行していたと言いたいのだろう。

 

しかし、国際人権規約の自由権規約委員会や、拷問禁止委員会から繰り返し指摘されてきたように、日本の刑事司法は重大人権侵害を続けてきており、検察実務は違法な実務である。本書においても、検察の正義が失われたことが繰り返されるが、刑事司法における身柄拘束や取調べの在り方そのものが人権侵害であることには触れられていない。







Tuesday, September 25, 2012

朴三石『知っていますか、朝鮮学校』


朴三石『知っていますか、朝鮮学校』(岩波ブックレット)


 

 

<目次>

 

はじめに

 

1 事実を知ることの大切さ

――学生の感想から考える

 

2 朝鮮学校で学ぶ生徒たち

――日本の学校・地域社会との交流

 

3 なぜ日本に朝鮮学校があるのか

――在日朝鮮人と朝鮮学校の由来

 

4 どのような教科書を使っているのか

――反日教育でなく友好のための教育

 

5 朝鮮学校と日本社会

――何をどうするべきか

 

 

<著者の言葉>

このブックレットは,つぎのような五つの内容で構成した.

 第一に,朝鮮学校や在日朝鮮人にかんする日本の大学生の素直な感想,意見を紹介することにしたい.そのなかに朝鮮学校を正確に知るための論点が示されていると思うからである.そこには普通の日本人がもちやすい印象や感覚,情報の特徴も反映されていると思う.

 第二に,朝鮮学校とはどのようなところなのかを知るために,生徒たちの学校生活のさまざまな様子を紹介することにしたい.

 第三に,そもそも近代において朝鮮人がなぜ日本で暮らすようになったのか,なぜ日本に朝鮮学校があり,なぜ子どもたちは日本の学校に通わず,あえて朝鮮学校に通うのか,などについて述べたい.

 第四に,教科書から朝鮮学校を知るという視点から,朝鮮学校で使われている教科書の内容と特徴について述べたい.

 第五に,朝鮮学校は日本社会にとってどのような存在であるのかについて述べたい.このなかで朝鮮学校の生徒や親たちや教師たちが,日本社会と日本人の皆さんに何を訴えたいと考えているのかということについて紹介したい.

 

 このブックレットが,今まで朝鮮学校についてあまり知らなかった,あるいは知る機会がなかったという大学生や高校生,先生方など多くの日本人の皆さんの参考になれば幸いである.なお,本書の内容については,すべて筆者の責任においてまとめたものであることを付記しておきたい.

 

日本による植民地支配の結果として、日本に強制連行されたり、渡航を余儀なくされた朝鮮人が自分たちの手で作り上げた朝鮮学校の歴史と現在を、ブックレット1冊でわかりやすく提示している。世界的には植民地支配下で移住した人々は宗主国社会に同化・統合されるのが一般的だが、朝鮮人は在日朝鮮人と呼ばれるように、民族性を保持して日本社会に在住し続け、朝鮮学校を守り育ててきた。朝鮮語を学び、朝鮮の歴史を学び、朝鮮の文化を身につけることで、朝鮮人としてのアイデンティティを育んできた。日本社会による差別と同化圧力、帰化行政にもかかわらず、今も朝鮮学校に子どもたちの声が響き渡る。その秘密を本書は教えてくれる。朝鮮高級学校を高校無償化から排除するという執拗な差別政策を続ける日本の異様さが浮き彫りになる。

Sunday, September 23, 2012

越田清和編『アイヌモシリと平和――<北海道>を平和学する!』


越田清和編『アイヌモシリと平和――<北海道>を平和学する!』(法律文化社)

 



 

北海道ピーストレード事務局長である編者による「序章 アイヌモシリから考える平和――『人間の静かな大地』という平和」は、「北海道」を「アイヌモシリ」と呼ぶことによって、和人(日本人)によるアイヌに対する「植民地支配という認識」が可能になるという。アイヌモシリは、北海道、樺太、千島列島全体をさす言葉でもあるが、明治維新の翌年1869年にアイヌモシリに北海道という呼び名をつけて、日本政府がアイヌ民族に何の断りもなく、大地を略奪し、アイヌ民族を弾圧し始めた。1899年には「北海道旧土人保護法」という差別法によって徹底弾圧が完成する。これに対して、編者は脱植民地化を現在の課題として掲げ、国連先住民族権利宣言を一つの手掛かりとする。

 

本書は13本の論文と、7本のコラムから成る。アイヌ民族共有財産紛争、アイヌモシリの軍事化、北海道の強制労働と朝鮮人強制連行、民衆史掘り起し運動、憲法から見る北海道、女性自衛官人権裁判など、いずれも興味深い論文が続く。執筆者は、さっぽろ自由学校「遊」共同代表、北海道大学准教授、弁護士、世界先住民族ネットワークAINU事務局長、ドキュメンッタリ映画監督、福島の子どもたちを守る会北海道事務局長など。研究者、教育者、平和運動家など幅広い協力の成果である。

 

井上勝生(北海道大学名誉教授)「近代アイヌ民族のたたかい――十勝アイヌ民族を中心に」は特に興味深い。アイヌ民族共有財産裁判の過程での掘り起し、研究成果であり、和人による一方的な収奪に抗して、アイヌ民族が平和的に抵抗を組織した歴史が明らかにされている。

 

また、越田清和「アイヌモシリの軍事化――旭川における陸軍基地の創設をめぐって」は、北海道の「軍都」旭川の形成過程――屯田兵の進出、陸軍基地の形成、土地収奪、アイヌ民族の抵抗が、明らかにされている。

 

表題通り、「アイヌモシリと平和」について多角的に論じた著作であり、これまで類書が存在しない。アイヌモシリ(北海道)への侵略者・屯田兵の子孫の一人としても、本書に学ぶところが多かった。

 

他方、「ヒロシマと憲法」「オキナワと憲法」「ナガサキから平和学する!」「ピース・ナウ沖縄戦」など、地域で平和づくりの実践を試み、地域から平和を発信する著作が増えている。本書もそうした試みに新しい重要な成果を付け加えるものだ。

 

ちなみに先住民族の権利については





 

なお、本書では北方領土問題は扱っていないが、アイヌモシリの「返還」問題にはごくわずかだが触れている。この点に関連して、



保阪正康・東郷和彦『日本の領土問題――北方四島、竹島、尖閣諸島』


保阪正康・東郷和彦『日本の領土問題――北方四島、竹島、尖閣諸島』(角川ONEテーマ21)

 

目次

まえがき なぜ今、領土問題を考えるのか

第1部 外交交渉から見た領土問題(二十五年間の交渉に敗北した北方領土問題、新しい議論が期待される竹島問題、武力衝突の危険をはらむ尖閣諸島問題)

第2部 対談 領土問題を解決に導く発想と手がかり(領土問題を考える前提、現実的対応が求められる北方領土、日韓共存、交流の道を探る竹島、抑止力と対話が必要な尖閣諸島)

あとがき 領土をどう考えるか

 

ノンフィクション作家・保阪正康と、元外交官で長年北方領土問題を担当した京都産業大学教授の東郷和彦による新書である。

 

新書1冊で3つの領土問題を取り上げているので、それぞれについての詳細な検討はなされていない。すべて日本の領土であるという前提を設定し、領土問題として議論されるようになってきた背景、議論の経過の要点の整理と、東郷の現場体験をもとにした立論、そして外交交渉による解決のための模索がなされている。「今、すぐに対処しないとあの領土は永遠に戻ってこない」と危機をあおりながら、他方で冷静な議論が必要と主張してみせる。

 

特に北方領土問題は東郷が担当しただけあって、思い入れのほどが伝わってくる。冷静に、と言いながら、実は感情論も交じっている。それは欠点ではなく、むしろ「外交敗北」を正直に認める本書の意義は高い。北方領土交渉における日本側の失敗を列挙して、これだけ失敗すればもうおしまいだということも明らかにしつつ、それでも機会が全く失われたわけではないとして、次の日ロ交渉にいかに臨むべきか、外交の知恵の必要性が求められる。

 

尖閣諸島についても、菅内閣時の中国漁船事件への対処の誤りを的確に指摘している。これによって事態をこじらせ、中国側の姿勢が変化してしまったことの意味を考えるスタイルになっている。本書は12年2月に出版されているが、著者の危惧は、まさに12年夏に明瞭に現出してしまう。「国有化」問題がふたたび中国を刺激して、反日事件が起きる一方、日本側にも異様なナショナリズムが浸透し、差別意識むき出しの世論が蔓延している。

 

歴史的事実に基づき国際法に照らして判断すること、そして、領土問題を単なる対立に終わらせずに、領土交渉を通じて双方の理解を深め、将来展望をもてるような議論をすべきことを説いている点が、本書の最大の特徴と言ってよいだろう。

 

もっとも、事実に基づいて、と言いながら、明らかな虚偽に基づいた主張も忍び込ませている。一例だけあげると、次のように書かれている。

 

「戦後日本側は、多くの人が竹島は日本領だと思いつつも、1954年の韓国の武力による占拠ののちも・・・」(112頁)

 

これは正しくは次のように書くべきだろう(笑)。

 

「戦後日本側は、多くの人が竹島にはまったく関心を持たず、その存在も、どこにあるのかも、何一つ知らないままに・・・」

Wednesday, September 19, 2012

「韓原爆被害者を救援する市民の会結成40年記念集会


7月14日、広島まちづくり市民交流プラザで「韓国の原爆被害者を救援する市民の会結成40年記念集会」が開催された。

 市場淳子(会長)の基調講演によると、1971年12月に大阪で同会が結成されたが、そこに至るまでに6年の闘いがあったという。その後、孫振斗訴訟をはじめとして、郭貴勲(カク・キフン)訴訟、在日ブラジル被爆者訴訟、さらには在韓被爆者健康手帳交付申請訴訟など、日本において訴訟が数多く闘われてきた。その多くが苦難の末に勝訴を勝ち取ったとはいえ、勝訴しても一気に制度改革には結びつかず、幾度も幾度も立ちあがって闘う必要があった。一部は敗訴になっている。

市民の会は、結成40年という節目を迎え、韓国憲法裁判所判決や大法院判決を活用して世論に訴えかけを続けて行くだろう。被爆者問題は日本人被爆者や韓国人被爆者だけではなく、朝鮮半島北部の被爆者や、アメリカやブラジルなどにいる被爆者の救済も必要であるとし、「被爆者はどこにいても被爆者」という姿勢で活動を続けるだろう。

重要文献として、市場淳子『ヒロシマを持ちかえった人々――「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』(凱風社、2000年)、茅野丈二・平野伸人『命つないで――在韓被爆者・金文成さん救援の記録』(長崎新聞社、2010年)。

Tuesday, September 18, 2012

村山治『検察――破綻した捜査モデル』


村山治『検察――破綻した捜査モデル』(新潮新書)

https://www.shinchosha.co.jp/book/610481/

 

<最強の捜査機関は「時代遅れのガラパゴス」に

記者クラブとの関係、「国策捜査」の深層、不祥事続発の背景まで検察取材の第一人者が徹底解説>

 

大阪地検特捜部事件、小沢一郎事件などで証拠改竄・捏造が批判を浴び、繰り返し醜態をさらした検察を長年取材してきた朝日新聞記者による新書だ。これまでに『特捜検察vs金融権力』『市場検察』を書いているという。

 

取り上げられている話題、事件、具体例はほとんど知っていることばかりだが、随所に匿名で検察関係者の話が出て来るところが、いちおうのウリだ。

 

厳しい検察批判というよりは、検察取材を続けてきた立場からの検察再生の期待を込めた批判であろう。

 

これまでの新聞記者による検察ほんと違うのは、第一章が「諸悪の温床『取調べ』」というところだ。これも大阪地検特捜部事件や小沢一郎事件のおかげか。「人質司法」批判にもきちんと言及している。もっとも、相変わらず、昔の平野龍一の議論程度しか見ていない。その後の刑事法研究の水準を踏まえていないが、やむをえないか。

Monday, September 17, 2012

パレ・ウィルソンの人権像


レマン湖のほとりに立つパレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所)の食堂を出ると中庭にこの像が建っている。前から気になっていたが、今回、写してきた。

インデペンデントWHO


ジュネーヴの世界保健機関(WHO)の前でチェルノブイリ問題を訴えてきたNGO「WHO独立せよ Independent WHO」訪問の写真。この日は、8月13日で、フランス人、ドイツ人が立っていた。もう何年も続いているので、何度も訪れたが、いつも違う人たちが交替で続けている。日本の新聞記事も見られた。

http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/08/blog-post_7119.html


原発民衆法廷第5回広島公判


7月15日・広島(まちづくり市民交流プラザ)で原発民衆法廷第5回公判が開かれた。

広島公判は、原発民衆法廷全体の呼びかけ人に加えて、広島独自の呼びかけ人として、足立修一、岡原美知子、豊永恵三郎、日南田成志、藤井純子、森瀧春子、湯浅正恵、横原由紀夫が名を連ねた。また、元国際司法裁判所判事で、核兵器の投下は国際法違反であるとの判断を下したクリストファー・ウィーラマントリー国際反核法律家協会会長からメッセージが送られた。

 広島公判の主題は、第1に、原発そのもの及び原発事故の違法性・犯罪性であり、第2に、中国電力の島根原発及び工事が強行されようとしてきた上関原発問題であった。

 民衆法廷は原発の犯罪性を次のように指摘した。

 「原子力発電事故による最も深刻な被害は、放射能被曝による死亡または多種にわたる癌や白血病などの発病、さらには被曝の恐怖が原因の精神的疾患である。原爆攻撃の被害者、核実験場、核兵器製造工場、ウラン採掘場ならびにその近辺地域で被曝した人たちと同様、原発事故によって放出された放射能による外部・内部両被曝が、後発性の癌や白血病、心臓病などの内臓疾患、眼病など、様々な病気を引き起こすことは、チェルノブイリ事故の被災者、とくに幼児の発病ケースが多いことからも明らかである」。

 「これまで、『人道に対する罪』は、紛争時あるいは戦時にのみ犯される残虐な戦争犯罪の一種と一般的には考えられてきた傾向がある。しかし『人道に対する罪』とは、『戦前、戦中における、一般人民に対しての殺害・殲滅・奴隷的扱い・強制移動などの非人道的行為と、政治的・人種的・宗教的理由による迫』と定義されており、『戦前』、すなわち平時おいても起こりうる犯罪であるということを忘れてはならない。しかも、地震や津波によって引き起こされる過酷事故の場合には、必然的に無数の市民を放射能被曝の被害者にするということを明確に知りながら原発や放射能関連施設を稼働することは、『人道に対する罪』を予防しようとする意志が完全に欠落していることを表明している。したがって、原発の建設・設置そのものが、犯罪行為と称せるのではなかろうか。いわんや、地震が起きれば大事故を引き起こすような活断層の存在する地域に原発を建設することは、犯罪行為と言えるのではないか」。

ジュネーヴ2012(3)モンブラン





久しぶりにモンブランに登った。以前行ったときは8月なのに山頂は猛吹雪だったが、今回はよく晴れて素晴らしい景色だった。

ジュネーヴ2012(2)レマン湖










8月上旬のジュネーヴ祭は、レマン湖畔にお店が出る。大噴水、観覧車、そして観光客。花火大会もゆっくり見ることができた。

ジュネーヴ2012(1)








例年、8月はジュネーヴ(スイス)で国連人権機関に通っている。今年も国連人権理事会諮問委員会と、人種差別撤廃委員会を傍聴して、資料を収集してきた。

Sunday, September 16, 2012

原発犯罪の刑事責任を問う『原発民衆法廷③』(三一書房)


原発犯罪の刑事責任を問う『原発民衆法廷③』(三一書房)


 
さんいちブックレット003
『原発民衆法廷』5・20郡山公判
福島事故は犯罪だ! 東電・政府、有罪!
原発を問う民衆法廷実行委員会編


3冊目のブックレットは、5月20日に郡山で開催した第3回公判の記録である。郡山公判では、第1回東京公判で起訴された被告人らに対する判決(決定第3号)が言い渡された。ブックレットに全文収録しているが、主文は次のとおりである。
 

1.被告人・東京電力株式会社(代表取締役社長西澤俊夫)は、人の健康に関わる公害犯罪の処罰に関する法律第2条につき有罪とし、同法律第4条を適用する。
2.被告人・勝俣恒久、同・清水正孝、同・武藤栄は、いずれも、人の健康に関わる公害犯罪の処罰に関する法律第2条及び業務上過失致死傷罪(刑法211条)につき有罪。
3.被告人・班目春樹、同・寺坂信昭、同・近藤駿介は、いずれも、業務上過失致死傷罪(刑法211条)につき有罪。
4.被告人・菅直人、同・海江田万里、同・枝野幸男は、いずれも、業務上過失致死傷罪(刑法211条)につき有罪。

 

*東電以外の個人の被告人は次の九人である。勝俣恒久(取締役会長、以下肩書きは当時)、清水正孝(取締役社長)、武藤栄(取締役副社長兼原子力・立地本部長)、班目春樹(原子力安全委員会委員長)、寺坂信昭(原子力安全・保安院院長)、近藤駿介(原子力委員会委員長)、菅直人(内閣総理大臣)、枝野幸男(内閣官房長官)、海江田万里(経済産業大臣)

差別集団・在特会に有罪判決


ヒューマン・ライツ再入門32

差別集団・在特会に有罪判決

                    

雑誌「統一評論」550号(2011年)

 

 

  京都朝鮮第一初級学校襲撃事件を惹き起こした「在日特権を許さない市民の会(在特会)」に有罪判決が出た。暴力による学校授業に対する妨害を威力業務妨害罪、差別的暴言を侮辱罪と認定し、執行猶予付きとはいえ懲役刑を言い渡すなど、明快な判決が出たといえる。

  もっとも、起訴から判決に至るまで、本件をヘイト・クライム(憎悪犯罪)として論定することはできていない。ヘイト・クライム法がないため、刑法の威力業務妨害罪等を活用することになった。そのこと自体に異論があるわけではないが、威力業務妨害罪で有罪としたのだからそれで足りると考えるべきではない。やはり、ヘイト・クライム法が必要である。以下、検討したい。

 

京都朝鮮学校襲撃事件

 

  四月二一日、京都地方裁判所は、在特会や「主権回復を目指す会」の構成員が京都朝鮮第一初級学校等に対して行った差別(暴言・虚言)と暴力事件について、四人の被告人による犯罪事実を認定し、それぞれ懲役一~二年(いずれも執行猶予四年付)を言い渡した。東日本大震災と原発事故のニュースが報道の大半を占めていたため、この判決は関西以外ではほとんど報道されなかった。

  事件は二つの事実からなる。第一に、京都朝鮮学校襲撃事件である。二〇〇九年一二月四日、被告人ら四名(ABCD)が、共謀の上、京都朝鮮第一初級学校前に押しかけて暴言を撒き散らし、スピーカーに接続された配線コードを切断した(威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪)。第二に、徳島県教組乱入事件である。二〇一〇年四月一四日、右の四名のうち三名(ABC)が、共謀の上、徳島県教職員組合事務所に乱入し、暴行や暴言を伴う大騒ぎをした(建造物侵入罪、威力業務妨害罪)。

京都朝鮮学校襲撃事件について、判決理由の第一・第二は次のように述べている。

被告人四名は、京都朝鮮第一初級学校南側路上及び勧進橋公園において、被告人ら一一名が集合し、日本国旗や『在特会』及び『主権回復を目指す会』などと書かれた各のぼり旗を掲げ、同校校長Kらに向かってこもごも怒声を張り上げ、拡声器を用いるなどして、『日本人を拉致した朝鮮総連傘下、朝鮮学校、こんなもんは学校でない』『都市公園法、京都市公園条例に違反して五〇年あまり、朝鮮学校はサッカーゴール、朝礼台、スピーカーなどなどのものを不法に設置している。こんなことは許すことできない』『北朝鮮のスパイ養成機関、朝鮮学校を日本から叩き出せ』『門を開けてくれ、設置したもんを運び届けたら我々は帰るんだよ。そもそもこの学校の土地も不法占拠なんですよ』『戦争中、男手がいないところ、女の人レイプして虐殺して奪ったのがこの土地』『ろくでなしの朝鮮学校を日本から叩き出せ。なめとったらあかんぞ。叩き出せ』『わしらはね、今までの団体のように甘くないぞ』『早く門を開けろ』『戦後。焼け野原になった日本人につけ込んで、民族学校、民族教育闘争ですか、こういった形で、至る所で土地の収奪が行われている』『日本から出て行け。何が子供じゃ、こんなもん、お前、スパイの子供やないか』『お前らがな、日本人ぶち殺してここの土地奪ったんやないか』『約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません』などと怒号し、同公園内に置かれていた朝礼台を校門前に移動させて門扉に打ち当て、同公園内に置かれていたサッカーゴールを倒すなどして、これらの引き取りを執拗に要求して喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と同校及び前記学校法人京都朝鮮学園を侮辱し、被告人Cは、勧進橋公園内において、京都朝鮮学園が所有管理するスピーカー及びコントロールパネルをつなぐ配線コードをニッパーで切断して損壊し」た

これらが威力業務妨害罪(学校の授業運営などを妨害した)、侮辱罪(朝鮮学校に対する侮辱)、器物損壊罪(配線コード切断)と判断された。

 

徳島県教組乱入事件

 

 判決理由の第三は次の通りである。

被告人ABCは、共謀の上、あしなが育英会等に寄付するとして集められた募金の中から徳島県教職員組合が四国朝鮮初中級学校に支援金を渡したとして糾弾するなどして同組合の正常な業務を妨害する目的で、四月一四日午後一時一五分ころ、徳島県教育会館二階同組合事務所内に、『日教組の正体、反日教育で日本の子供たちから自尊心を奪い、異常な性教育で日本の子供たちを蝕む変態集団、それが日教組』などと記した横断幕、日章旗、拡声器等を携帯して、『詐欺罪』などと怒号しながら侵入した上、約一三分間にわたり、同事務所において、同組合の業務に係る事務をしていた組合書記長T及び組合書記Mの二名を取り囲み、同人らに対し、前記横断幕、日章旗を掲げながら、拡声器を用いるなどして、『詐欺罪じゃ』『朝鮮の犬』『売国奴読め、売国奴』『国賊』『かわいそうな子供助けよう言うて金集めてね、朝鮮に一五〇万送っとんねん』『募金詐欺、募金詐欺じゃ、こら』『非国民』『死刑や、死刑』『腹切れ、お前、こら』『腹切れ、国賊』などと怒号し、『人と話をするときくらいは電話は置き』『置けや』などと言いながら前記Tの両腕や手首をつかむなどして同人が一一〇番通報中であった電話の受話器を取り上げて同通話を切った上、同人の右肩を突き、『朝鮮総連と日教組の癒着、許さないぞ』『政治活動をする日教組を日本から叩き出せ』などとシュプレヒコールするなどした上、机上の書類等を放り投げ、拡声器でサイレン音を吹鳴させるなどし、事務所内を喧噪状態に陥れて同組合の正常な業務を不能ならしめ、もって同事務所に正当な理由がないのに侵入した上、威力を用いて同組合の業務を妨害した」。

  これらが建造物侵入罪と威力業務妨害罪と判断された。

  以上が在特会事件第一審判決の概要である。事件の法的評価について言えば、起訴状自体が不十分なものであったため、判決も不十分である。朝鮮学校を舞台とする朝鮮人差別と暴行の事件は、本質的にはヘイト・クライムであるが、日本にはヘイト・クライム法がない。また、名誉毀損罪があるにもかかわらず、検察官は名誉毀損罪を起訴状(訴因)に含めず、威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪に絞った。

 

有罪判決が出た意義

 

これまで各地で蛮行を繰り返してきた在特会に、刑事裁判で初めて有罪判決が出たことは大きい。蕨市におけるカルデロン事件、三鷹事件、名古屋博物館事件、西宮事件、秋葉原事件など各地で、在特会は警察に見守られながら激しい差別と暴力を繰り返してきた。京都朝鮮学校事件でも、現場に立ち会った警察官は差別と暴力を規制するそぶりも見せなかった。朝鮮学校関係者や弁護団の度重なる要請によって、ようやく重い腰を上げて京都地検が動き、本件が立件された。被告人らが逮捕されたのは事件から八ヶ月も後のことであった。このように遅れがちであったが、ともあれ威力業務妨害罪や侮辱罪で有罪となった。執行猶予四年の間は蛮行が収まることが期待できる。

 本判決は刑事裁判判決であるため、認定事実は、検察官と被告人側の主張・立証に基づいたものである。被害者である朝鮮学校側の主張は、検察官の主張を通じて法廷に一部顕出したにすぎない。むしろ、被害者の主張は正面から登場しなかったといってよいだろう(被害者側の主張は、これとは別の民事裁判で示されている)。それゆえ、本件決について論評する場合、それが検察官と被告人側の主張・立証だけをもとにした事実認定であることを意識しておく必要がある。

 これに関連して、以下ではいくつか感想を記しておきたい。

 第一に、被害者側の朝鮮学校による勧進橋公園利用に関して、都市公園法違反容疑での取り調べが行われるなど、あたかも「喧嘩両成敗」のような手続きが取られた。この点では、差別と暴力に専念する在特会の主張に、それなりの正当性があったかのような観を呈することになった。少なくとも、在特会は、朝鮮学校による違法行為を告発し、捜査機関が捜査を行う契機を与えたことを自慢することができる。現に刑事裁判の法廷で、被告人らは正当行為であるとの主張を続けた。朝鮮学校側は捜査に協力を余儀なくされ、捜査機関による不当介入の恐れも感じさせられる事態であったようだ。犯行現場に駆け付けた警察官が、在特会の犯行を阻止することなく、見守り続けたことも、在特会側に「警察官も認めていたのだ」という主張の口実を与えていたが、検察の事案処理も同様の効果を持ちうるものであった。

 第二に、名誉毀損罪(刑法第二三〇条)を適用せず、侮辱罪(刑法二三一条)での起訴となった。事実の摘示の有無に関する法的評価のわかれともいえるが、実際には名誉毀損罪一般につきまとう立証の困難があったのであろう。憲法上の表現の自由との関係があり、被告人側が争えば、検察側は立証に多大の精力を注ぐ必要が出てくる。「三年以下の懲役若しくは禁錮または五十万円以下の罰金」が法定刑とされた名誉棄損罪ではなく、「拘留又は科料」しか予定されていない侮辱罪を選択したことには疑問が残る。もっとも、立証上の困難をもつ名誉毀損罪を回避して侮辱罪で起訴しつつ、「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」の威力業務妨害罪(刑法第二三四条)および「三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料」の器物損壊罪(刑法第二六一条)を介して懲役刑を選択する余地を生みだしたと見ることもできる。その点では検察官の工夫が功を奏したともいえよう。

京都朝鮮学校襲撃事件だけではなく、建造物侵入罪と威力業務妨害罪の徳島県教組乱入事件もあるので、懲役刑の選択は必至であったから、名誉毀損罪と侮辱罪のいずれを選択するかはさして重要ではないとの判断もありうる。名目よりも実質を重視して、ヘイト・クライム法への関心を度外視すれば、適切な事件処理が行われたと評価できることになる。

 なお、仄聞するところでは、在特会メンバーの三人(ABC)は控訴せず、本判決が確定したという。他方、主権回復の会メンバーのDだけは控訴したようである。在特会と主権回復の会との間に方針の差異が生じたようである。

 第三に、逮捕・起訴・有罪判決によって在特会の違法活動に一定の制約がかかったように思われる。京都朝鮮学校襲撃については、仮処分命令と合わせて、抑止効があった。執行猶予の四年間は一定の効果が期待できる。もっとも、京都以外の各地の在特会にどこまでの効果が及ぶかは不明である。五月には大阪の鶴橋駅前で在特会による朝鮮人差別の街宣が行われている。とはいえ、暴力に踏み出せば、これまでとは違って警察による規制が入る可能性は大きくなった。本来なら、長期にわたって在特会の暴力を見逃してきた警察の責任問題なのだが、ともあれ有罪判決によって、暴力は許されないという当たり前のことを在特会にも思い知らせることになったし、各地の警察も今後は適切な対処をすることが期待できる。また、各地の市民運動は、これまで以上に在特会に毅然と対応できるだろう。

 第四に、インターネットを活用して行動への参加を呼び掛け、ユーチューブなど映像による宣伝を行ってきた在特会に、「新しい運動だ」「問題提起だ」などと勘違いして参加してきた若者たちが、過ちに気づいて差別や暴力から遠ざかることも期待できる。

 

在特会とは何か

 

ジャーナリストや市民による在特会の監視も強まってきた。ジャーナリストの安田浩一「『在特会』の正体」『G2』第六号(二〇一〇年)の続編である、同「ネット右翼に対する宣戦布告」『G2』第七号(二〇一一年)は、在特会代表について、「意見の異なる他者をすべて『朝鮮人』だと決め付けることで、どうにか自分を保っている人々に対して、私は何も反論する言葉を持たない。語彙の乏しさと貧困な想像力を憐れむだけである。そもそも在特会がしていることは、社会変革を目的とした『運動』と呼べるものなのか――。それこそが取材当初から私が抱かざるを得なかった疑問のひとつである」と述べている。

 安田は、在特会のみならず、類似のネット右翼を丹念に取材した結果として、次のようにまとめている。

 「ネット右翼は決して右翼や民族派なんかじゃない。それらしい味付けを施しながら、自らの存在を国家に投影しつつ、ダイナミックに自分自身を描こうとしているに過ぎない。そして集団で他社を貶め、『正義』に酔っているだけだ。」

 安田の指摘は、在特会などの差別団体の性格と行動様式を考える上で重要である。筆者はかつて「どこが『保守』なのか」と題して次のように書いたことがある。

 「ところで、在特会は『行動する保守』と称している。果たして彼らは『保守』なのだろうか。/『保守』とは何かという定義に深入りするまでもなく、『保守』は日本の政治・社会・文化のあり方を、歴史や伝統に引き寄せて理解してきた。日本の歴史、日本の美を強調し、伝統回帰、または伝統の再構築を図ってきた。その特徴は、日本らしさを引き受け、変わらざるものを慈しみ、変化する場合にも穏健で自然な変化を遂げることを願ってきた。そうした保守には、穏健で、歴史的淵源と深みのある『思想』があった。同時に、保守思想は、日本の奥の深さ、懐の深さ、日本的寛容を唱えてもきた。保守にはそれなりの論理と、何よりも気概というものがあった。/このような保守と照らし合わせてみると、歴史に学ばず、他者との対話を拒否し、憎悪と差別を撒き散らす暴力集団を『保守』と自称するのは、レッテル詐欺でしかないだろう。/それでは、在特会は『右翼』なのだろうか。政治的立場としては右翼に位置することは確かであろう。戦前・戦後を通じて右翼は『テロ』と親和的であったから、在特会も右翼に見える面がある。/しかし、右翼には右翼の歴史があり、思想の積み重ねがあったはずである。そうした気配を微塵も感じさせない暴力集団を右翼に数えることが適切なのかどうか、疑問は残る。/『保守か革新か』『右翼か左翼か』という二項対立を前提として把握しようとすれば、在特会が保守や右翼に位置するかのように見えることもあるかもしれない。/だが、在特会の実態を見るならば、保守や右翼というよりも、単なる暴力集団という特徴こそが本質的である。/むしろ、真の保守や右翼こそ、弱いも者いじめに専念し、差別と排外主義に走るだけの暴力集団を批判するべきではないだろうか。」(前田朗『ヘイト・クライム』三一書房労組、二〇一〇年)

 安田の指摘は、筆者の疑問を裏付けるものと言えよう。

 

人はいつ、どこでレイシストになるのか

 

 他方、鵜飼哲(一橋大学教授)は、二〇一〇年一一月一〇日に、第二東京弁護士会人権擁護委員会主催の講演会において、「人はいつ、どこでレイシストになるのか」と問いを投げかけて、次のように述べた。

 「人はいつ、どこでレイシストになるのかということについていえば、『どこ』かを確定することは難しいですね。今、日本の学校がどうなっているのかということも不安な気はします。しかし、大きく言ってやはりテレビやネットの情報環境でこうした考え方が拡大していることは確かでしょう。現在日本では、単にネットだけではなく、テレビの状況が相当深刻です。北朝鮮や中国に関するテレビ報道は、映像や言葉のレベルで、これは明らかにレイシズムと言える例があふれていると思います。/分類上の『狂信派』は秘教的な集団を形成し、勉強会を通じてイデオロギー的な集団性を獲得するに至るわけですけれども、どうも今大衆的に街頭行動に出てきているグループには、そのような集団性はないような気がします。広がりと裏腹の脆弱さもあるような気がしていて、この両面をどう把握するのかはひとつの課題とみなしていいかと思います。」(第二東京弁護士会主催のシンポジウムの記録『現代排外主義とヘイトクライム法の検討』第二東京弁護士会、二〇一一年)

 「ネット右翼は決して右翼や民族派じゃない」という安田と、「広がりと裏腹の脆弱性」を見る鵜飼の見解は共振しているだろう。

 鵜飼はさらに社会現象としてのレイシズムについて、キャピタリズムやナショナリズムとの関係を解きほぐそうとする。「社会の病気」としてのレイシズムは資本主義との連関で、とりわけ新自由主義との関係で理解できる。ナショナリズムとの関係を的確に理解することは案外難しい面が残るが、ナショナリズムが行きつく先にレイシズムが用意されていることは間違いない。鵜飼は次のように指摘している。

 「今の日本のナショナリズムは排除によってしか自己主張ができない。何か積極的に守るべきものがあってそれを防衛しようというナショナリズムではない。・・・/何か自負するものがあるかというとない。理念もない。具体的な目標が何かあるかというと、これもない。だから、今の民主党のポスターではありませんが、『元気な日本』とか、昔は何かいいものがあったようなことを言っているだけ。このナショナリズムは、米軍基地をなくそうという方向には絶対に行かない。自分自身に対する自負がないのですから、それでも自分が高まるという幻想に浸りたいと思うと他者を自分より劣ったものとする、蔑視するしかない。/そうすると、坂道を転落するようにレイシズムに向かっていってしまう回路が、どうも今の日本にはあるような気がする。」(同右)

 理念も目標もないが、自己意識だけは肥大化したナショナリズムのなれの果てとしてのレイシズムであり、ヘイト・クライムである。

 なお、鵜飼哲「鎧と毒矢・原発震災の中で外国人排斥運動を再考する」『月刊社会民主』六七四号(二〇一一年)の次の指摘も重要である。

 「憲法二五条一項に規定された『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』が、現在福島県の広域にみられるように、あからさまな虚言によってかくも安易に踏みにじられ、秩序優先の国家意志が強制されるのであれば、そしてそのとき、家族にも、市民社会にも、地方自治体にも、無防備な個人を守り支える意志、思想、能力が欠如しているのであれば、『棄民』の恐怖は『国民』ひとりひとりの頭上に、つねに、ダモクレスの剣のようにぶら下がっているのである。このような社会に、『非国民』とみなされた人々におぞましい言葉の『毒矢』を射ちまくり、そのことによって幻想の『鎧』を身にまとい、つかのまの、むなしい高揚感を得ようとする人々が続々と現れることは不思議ではない。震災直後の日々にも、外国人犯罪に関する悪質なデマが、日本語のネット環境には多数流された。」

 大気圏と太平洋に放射能をばらまき、垂れ流しているのが日本政府と東京電力であり、ネット上に外国人差別のデマを垂れ流しているのが日本社会である。鵜飼はさらに次の事実を指摘する。

 「郡山市の朝鮮学校は震災直後、避難所として校舎を解放、数十人の日本人被災者を受け入れた。その朝鮮学校に、文科省から県内すべての学校に配布された線量計は、ついに届くことはなかった。」

 

 

京都事件判決の法理

 

  在特会による蛮行は、現代日本における人種差別と排外主義の典型事例である。人種差別禁止法やヘイト・クライム法について議論するための素材として、京都事件に焦点を当てて、判決の法理を検討してみよう。

  被告人らは、「京都朝鮮学校南側路上及び勧進橋公園において、日本国旗などを掲げ、同校校長Kらに向かってこもごも怒声を張り上げ、拡声器を用いるなどして」、差別的な発言を怒号し、「同公園内に置かれていた朝礼台を校門前に移動させて門扉に打ち当て、同公園内に置かれていたサッカーゴールを倒すなどして、これらの引き取りを執拗に要求して喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と同校及び前記学校法人京都朝鮮学園を侮辱し、被告人Cは、勧進橋公園内において、京都朝鮮学園が所有管理するスピーカー及びコントロールパネルをつなぐ配線コードをニッパーで切断して損壊し」たものである。

  六月二四日、龍谷大学で開催された第二回ヘイト・クライム研究会において、本判決の検討を行った。そこでの議論も参照しつつ、ヘイト・クライムとの関係で目につく点を検討すると、第一に、罪名は威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪である。名誉毀損罪が訴因に含まれていないため、判決も侮辱罪を適用するにとどめた。侮辱罪の刑は拘留又は科料にとどまるが、威力業務妨害罪などとセットのために、懲役刑(執行猶予付)が選択されている。名誉毀損罪の適用には立証上の問題があるため、これを適用せず侮辱罪にしたが、刑は威力業務妨害罪等の適用によって適切なものになし得たということであろうか。逆にいえば、威力業務妨害罪に問える場合でなかったとしたら、名誉毀損罪ではなく侮辱罪だけで拘留又は科料ということがありえたことになる。

  第二に、判決の文脈によると、怒号その他の行為によって「喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と侮辱し、損壊し」たという流れになる。「妨害するとともに」というつながりから「喧騒を生じさせ、公然と侮辱し」と読む可能性もないわけではない。侮辱罪は名誉毀損罪と異なって事実の摘示を必要としないし、平穏侵害の要件もないので、喧騒と侮辱は関係ないはずだが、つながりがあるという読み方もありうるということだろうか。

第三に、被害者は朝鮮学校と学校法人朝鮮学園とされている。集団侮辱罪のあるドイツとは異なって、日本刑法の侮辱罪の法益は個人的法益であって、集団侮辱には適用できない。このため、被害者として法人等の組織があげられている。逆にいえば、在日朝鮮人一般に対する攻撃の場合は侮辱罪が成立しない場合があることになる。

 

ヘイト・クライム法の必要性

 

 在特会の蛮行は朝鮮学校を直接の対象としている。判決において引用された差別発言も、なるほど朝鮮学校を名指ししている。しかし、「約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません」のように、朝鮮学校ではなく、朝鮮人全体を対象とした表現も使われている。判決に引用されていない発言の中にも、やはり朝鮮人全体をターゲットにしたものがある。まして、在特会の従来の言動からいっても、在特会の名称や組織の性格からいっても、朝鮮人一般に対する差別と迫害を行うことを目的とし、その主要な活動内容としていることは明らかである。

  判決の文脈を、被害者は誰かという観点から見直してみると、威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪の三つの罪について同一の被害者を認定することが便宜であり、それに従って判決文が書かれていると考えられる。威力業務妨害罪として構成すれば、学校の授業運営が妨害されたのだから、当然、被害者は学校及び法人になる。器物損壊罪も同様である。侮辱罪もこの二罪ととともに掲げられている。三つの罪名は実行行為の順に従って列挙されている。このため侮辱罪に関する判決文が、威力業務妨害罪と器物損壊罪の間に挟まれて、前者との関係で記述されているように見える。

  名誉毀損罪の場合と異なって、侮辱罪の認定・評価には特段の理論的争いはないし、本件事案もくだくだしく解釈を展開するまでもなく、当然、侮辱罪との認定ができるので、このような判決文になったのであろう。この限りでは、本件では起訴状の構成に対応して穏当な判決が書かれたということができよう。

 しかし、判決が実際に起きた事案を適切に反映したものかという観点で検討すれば疑問も少なくない。ヘイト・クライムや集団侮辱罪の規定がないことに由来するが、このことをどのように評価するかは判断が分かれうる。第一に、ヘイト・クライム法がなくても、検察・裁判所は別の罪名を活用して事案を的確に把握したという理解である。第二に、ヘイト・クライム法がないため、事案が縮小認定され、事件が矮小化されたという理解である。後者の立場からは、実態に即した法的評価を可能とするような人種差別禁止法やヘイト・クライム法の整備が課題となる。「日本には人種差別禁止法を必要とするような人種差別はない」と断言する日本政府の現状を是正するために、やはり事実に即した評価こそが重要である。日本にはヘイト・クライムがあり、在特会はヘイト・クライムを教唆・煽動し、率先して実行してきた。ヘイト・クライムは許されないというメッセージを明瞭に発することが求められている。

 そのために、ヘイト・クライムとは何か、その定義を的確に行う必要がある。前田朗「ヘイト・クライムを定義する(一)~(六)」本連載18、19、23、24、28、29参照。

 ヘイト・クライムによって何が侵害されるのか。保護法益を解明することも重要である。前田朗「ヘイト・クライムはなぜ悪質か(一)~(四)」『アジェンダ』三〇~三三号(二〇一〇~一一年)。

 さらに、ヘイト・クライム法規制の比較法的考察も不可欠である。そのための基礎研究が必要である。前田朗「ヘイト・クライム法研究の課題」『法と民主主義』四四八号・四四九号(二〇一〇年)、同「ヘイト・クライム法研究の展開」第二東京弁護士会前掲パンフ、同「ヘイト・クライム法研究の現在」『村井敏邦先生古稀祝賀論文集・人権の刑事法学』(日本評論社、二〇一一年)など参照。

 こうした研究の積み重ねによって、日本に必要なヘイト・クライム法についての議論を深めることが可能となるだろう。

 先に紹介したヘイト・クライム研究会は、本年五月、龍谷大学で第一回研究会を開催した。金尚均(龍谷大学教授)がドイツの民衆扇動罪について検討し、筆者が「人種差別表現の自由」という議論を批判した。六月の第二回研究会では、桜庭総(九州大学助教)がドイツのヘイト・クライム厳罰化法と統計法を紹介し、金尚均が、在特会有罪判決を検討した。今後も研究会を継続する予定である。

 

追記:二〇一一年四月二一日、京都地裁判決は、三名につき確定した。一名のみ控訴したが、同年一〇月二八日、大阪高裁で棄却、二〇一二年二月二三日、最高裁で上告棄却となった。