Sunday, February 27, 2022

歴史学の真髄に触れる03 『歴史のなかの朝鮮籍』c

鄭栄桓『歴史のなかの朝鮮籍』(以文社)

第6章 日韓条約体制と朝鮮国籍書換運動

補 章 再入国許可制度と在日朝鮮人

終 章 朝鮮籍という錨

第6章では、日韓条約締結による在日朝鮮人の国籍理解の変化とこれに対する批判を扱う。日本と韓国は双方の妥協の結果としてあいまいな条約を結び、自国の都合に合わせて解釈した。国籍について、日本は韓国籍だけが真実の国籍であるとして、朝鮮籍を否定しようとした。これに対して、朝鮮民主主義人民共和国が厳しく批判を加えた。朝鮮総連も、日本の法律家による在日朝鮮人の人権を守る会も、政府方針を批判し、朝鮮籍を唱えた。朝鮮総連は朝鮮民主主義人民共和国籍を想定した。守る会の森川金寿はポツダム宣言受諾により朝鮮籍を認めたという論理を提示した。

1970年代、朝鮮国籍書換運動が本格的に始まる。法務省の指令に抵抗する革新自治体が登場し、福岡県田川市が第1号となった。国と地方自治体が意見を異にし、正面から激突する事態となった。鄭栄桓は、法務省見解、田川市長見解、福岡県、そして田川市の弁護団などの主張と法理を突き合わせ、守る会の若手だった床井茂(弁護士)の証言も聞きながら、攻防のドラマを描き出す。

床井茂弁護士は、1989年~2006年、「在日朝鮮人・人権セミナー」を組織し、実行委員長だった。私が事務局長を務めた。当時、床井弁護士から多くのことを教わったが、朝鮮国籍書換運動のことは具体的には聞いていないため、私の知らないことが書かれている。

補章「再入国許可制度と在日朝鮮人」では、近代国家の出入国管理の基本、戦前日本における制度設計、戦後日本における再入国許可証制度の形成を辿り、現在に至る再入国許可制の問題点を描き出している。指紋押捺拒否闘争に対する制裁としての再入国許可の取り消しも記憶に新しい。1990年代以後は、新たな移住者の増加に伴って制度改編が続くが、そこでも出入国の自由という観点ではなく、日本側の都合――高度人材、円滑な移動、不法入国者の排除という在留管理制度が揺るぐことはない。朝鮮に対する制裁に伴って、在日朝鮮人の再入国許可の制限も行われた。

「そもそも植民地支配のもとで渡日を余儀なくされ、結果として朝鮮人の生活圏は日朝をまたぐものとなったにもかかわらず、戦後の入管体制はこれを強引に寸断し、旅券を持たない大多数の在日朝鮮人は事実上日本に閉じ込められることになったが、それを制度的に支えたものの一つが法務大臣の自由裁量を前提とした再入国許可制度であった。戦後日本において再入国許可制度が演じてきた役割は、在日朝鮮人の歴史的形成の在り方と真っ向から対立するものであったといえる。」

法務官僚がしばしば「わが国の在留管理や入国管理は精緻に設計された素晴らしい制度である」かのごとく自慢をする。それは在日朝鮮人を犯罪者扱いして徹底管理・抑圧するという公安目的に照らして「よくできている」という意味でしかない。憲法が保障するはずの移動の自由は根こそぎ否定され、法務大臣の自由裁量に委ねられている。もう1点、日本の出入国管理制度は実際は極めてずさんである。というのも、日米安保条約に基づいて、米軍関係者は自由に出入国し、在留しており、日本政府はこれを正確に把握することができない。一方で在日朝鮮人に異様に厳しく、他方で米軍関係者にフリーパス同然のいびつな出入国管理制度である。

終章「朝鮮籍という錨」では、本書の骨子をまとめた上で、朝鮮籍であるがゆえに被る不利益が大きいにもかかわらず、なぜ少なからぬ人々が長年にわたって朝鮮籍を選び続けたのかと問う。

「朝鮮籍者の韓国入国問題」として、朝鮮籍であり、朝鮮民主主義人民共和国訪問歴もある著者自身が国際学術シンポジウム参加のために韓国入国を申請したがこれを拒否され、ソウルで裁判を闘い、結果的に敗訴した経験が語られる。韓国籍であること、韓国籍でないこと、朝鮮籍であること、朝鮮籍でないことが持つ意味には、近代日本による朝鮮植民地支配とその帰結に由来する極めて特殊な来歴と記憶が関り、戦後の朝鮮半島の分断、冷戦構造と日本の政治的位置に由来する、更に特殊な来歴が影を落とす。歴史に翻弄されながら、しかし、朝鮮籍の人々はいかなる願いと、いかなる決意で自らの選択を行い、いかに生きてきたのか。

「朝鮮籍者はなぜ、この不安定な『国籍』にあえて踏みとどまってきたのか。それは一見すると『足枷』にみえるこの朝鮮籍が、ある人々にとっては『分断状況』の激流のなか、自らの尊厳を守るための『錨』であったからではないだろうか。なぜ朝鮮籍なのかという問いは、なぜ錨を手放さないのかという問いに等しい。それゆえに『なぜ』という問いは、錨を必要とする状況を作り出してきた者たちにこそ、向けられねばならないのではないだろうか。」

こうして鄭栄桓の歴史研究は、日本列島と朝鮮半島の近代史そのものを撃ち抜きつつ、鄭栄桓自身の生き様を照らし出す。歴史研究を遥かに超えた歴史研究が、その全貌を現す。だが、その真義を私はまだ十分把握することができていない。

日本人であることとは、この社会で自分が何者であるかを問われることがないこと、自分が何者であるかを説明し続ける必要のないことを意味する。日本人であることとは、自分の立ち位置をつねに測定する必要のないことを意味する。

誰もが個人的で、卑小な、だが本人にとっては枢要な「自分探し」を迫られることはあるだろう。それは「普通」は個人の内面の物語であり、家族の物語である。

在日朝鮮人の場合、自分探しが歴史と国家と民族に直結している。個人の内面が国際関係に縫い取られている。「普通でない」。日本人であれば、安直に「普通」という言葉を選択できるが、在日朝鮮人は「普通でない」人生を予め強制されている。巨大な歴史の歯車に押しつぶされそうになりながら、これを乗り超える歴史学――在日の歴史学とは、生きることが闘いであるような生き様を実践する学問である。

朝鮮籍については、中村一成による在日朝鮮人への聞き取りも名著である。

中村一成『ルポ 思想としての朝鮮籍』(岩波書店)

https://maeda-akira.blogspot.com/2017/02/blog-post_3.html

20055月、イスタンブールのホテルで会った韓国籍の在日朝鮮人と一緒にイスタンブール空港に行った時のことだ。搭乗手続きの際に、彼は、フライトチケットと、韓国政府発行のパスポートと、日本政府発行の再入国許可証を提示した。ところが、パスポートには「Lee」と記載されているのに、チケットと再入国許可証には「Ri」と記載されていたため、搭乗手続きの職員が入管職員を呼んだ。異なる複数のパスポートを所持していると見做されたからである。怪しい人物になってしまう。駆け付けた入管職員に取り囲まれる。再入国許可証とは何か、在日朝鮮人とは何かを説明したが、混乱するばかり。パスポートを引っ込めて、チケットと再入国許可証による出国と登場を認めてもらうまでに時間を要した。フライトにぎりぎり間に合ったが、運が良かったというべきか。これがイスタンブールでなくてニューヨークだったらと思うと油汗。

ソロモン諸島のガダルカナルに滞在してオーバーステイになったことがある。オーバーステイと気づいた瞬間、背筋がぞっとした。大村収容所、強制送還という言葉が頭をよぎった。

フィジーからソロモン諸島に行き、1週間のビザだった。最終日の飛行機でナウルへ行く予定だったが、ナウル航空のフライトがダブルブッキングで乗れなかった。やむをえずホテルに戻って部屋に入った時に、「オーバーステイだ」と気付いた。慌ててホテルで相談したところ、「土曜の午後だから役所はあいていない。月曜日まで待たないと」と言われた。オーバーステイの恐怖から、日曜は外出せずにホテルにこもっていた。月曜の朝に役所に行くと、「帰りのチケットは持ってるんだろ。特に問題ないよ」と言われ、事後的に滞在期間を延長してくれて、ほっと一息ついた。

ちなみに、ガダルカナルでの用件は下記の通り。

ガダルカナルの空と海に

https://maeda-akira.blogspot.com/2011/01/blog-post_03.html

非国民がやってきた! 013 幸徳秋水の手紙

朝日新聞22227日朝刊によると、幸徳秋水がクロポトキンに宛てた英文の手紙9通が発見されたという。190708年の手紙だから110年以上も前だ。

無政府主義への傾斜、にじむ交流 幸徳秋水からクロポトキンへ書簡9通

https://www.asahi.com/articles/DA3S15217303.html

田中ひかる(明治大学教授)、山泉進(明治大学名誉教授)らのアナーキズム研究、初期社会主義研究の成果で、オランダの国際社会史研究所やロシア連邦国立文書館から発見されたという。なるほど、そうか。

これまでクロポトキンから秋水あての手紙が5通あり、これに秋水からクロポトキン宛の9通りを加えると、そのやりとりがわかるという。

「日本語訳『麺麭の略取』は、政府によって販売禁止の処分をうけました。私の家は警官によって捜索され、すべての部数が押収されました。しかし、彼らが見つけることができたのはわずか20部だけでした。何と、良い政府であり、賢明な警察であることか!」(0924日付、ロシア連邦国立文書館蔵)

2000部の秘密出版に成功した報告だという。

「韓国の動乱をご存じですか? 私たち東京の社会主義者は、昨日次のような決議を宣告しました。すなわち、私たちは日本の帝国主義政策に抗議する。また私たち日本人は韓国の人々の独立、自由、自治の権利を尊重する、という内容です」(07723日付、同館蔵)

秋水は大逆事件で1911年に処刑されてしまうから、その少し前の時期だ。大逆事件がなければ、日ロの社会主義者の思想的交流がもっと深まったのに、と思わずにいられない。

私の「非国民論」は、男では秋水、啄木、多喜二、鶴彬、槇村浩を中心に、女では管野スガ、金子文子、長谷川テルを中心に考えている。非国民論で秋水を欠くわけにはいかない。

前田朗『非国民がやってきた!――戦争と差別に抗して』(耕文社、2009年)

前田朗『国民を殺す国家――非国民がやってきた!Part.2』(耕文社、2013年)

前田朗『パロディのパロディ 井上ひさし再入門――非国民がやってきた!Part.3』(耕文社、2016年)

戦後については井上ひさしを取り上げたが、他にも取り上げるべき非国民は多数いる。夏堀正元『非国民の思想』(話の特集)や斎藤貴男『非国民のすすめ』(ちくま書房)もある。

前田朗編『平和力養成講座――非国民が贈る希望のインタビュー』(現代人文社、2010年)

本書には、鈴木裕子、根津公子、安里英子、金静寅、辛淑玉、木村朗、立野正裕へのインタヴューを収録した。

Saturday, February 26, 2022

歴史学の真髄に触れる02 『歴史のなかの朝鮮籍』b

鄭栄桓『歴史のなかの朝鮮籍』(以文社)

第3章 戦時下の「国籍選択の自由」──朝鮮戦争と国籍問題

第4章 国籍に刻まれた戦争──いかにして朝鮮籍は継続したか

第5章 同床異夢の「朝鮮国籍」──停戦から帰国事業へ

3章は、朝鮮戦争時の日本政府の外国人登録に関する方針変更を扱う。南北朝鮮の戦争時、米軍が国連軍となって朝鮮半島に出兵し、日本もこれに協力したため、朝鮮敵視と韓国支援が全面化した。このため外国人登録においては、在日朝鮮人の国籍を韓国籍に一本化しようとする動きが始まる。1965年にまとまった日韓条約のための日韓会談は朝鮮戦争勃発直後に始まった。「北鮮系」朝鮮人取り締まりの強化、韓国籍と「韓国政府の在外国民登録証」の連動、朝鮮人強制送還論、そのための出入国管理令、さらにサンフランシスコ平和会議からの南北朝鮮の排除、さらには日韓会談における国籍・強制送還問題と、激動する戦後史に在日朝鮮人が翻弄されていく。これに対して、民戦や祖国防衛全国委員会による強制送還反対運動がおこるとともに、「国籍選択の自由」論が登場する。日本政府による「韓国籍」の強要に対する抵抗である。ここでの朝鮮籍は、将来の統一朝鮮、あるべき朝鮮国籍としての意味を有することになるだろう。日本人側では平野義太郎が「国籍選択の自由」を論じていたという。

4章は、サンフランシスコ条約によって日本が朝鮮の独立を承認し、在日朝鮮人の国籍を韓国籍にしようとしたが、在日朝鮮人の強い反対のため、韓国籍への統一ができず、朝鮮籍が継続することになった経緯を、外国人登録法の制定、サンフランシスコ条約発効後の外国人登録一斉切替を中心に分析する。

日本は平和条約発効に伴いすべて韓国籍にする方針をとったが、国会においても、韓国だけを正統政府と認定すること及び国籍強要への疑問が示された。第一次日韓会談が決裂し、法的地位に関する協定を締結することができず、「空白」が生じた。空白を埋めるために、朝鮮戦争において韓国が「国連軍」とともに戦っていることなどを掲げたものの、法理論的には説明になっていない。そして外国人登録一斉切替反対闘争に直面した日本は、民団の要請に応じて、「旧朝連系」朝鮮人を弾圧しながらも、韓国籍の押し付けには無理があると判断し、朝鮮籍の継続を認めることになった。平和条約による日本の国際社会への復帰、南北分断と朝鮮戦争の影響、在日朝鮮人の南北分断、外国人の在留資格の安定化といった諸要因が絡み合う。

さらに、韓国籍への切り替えをしない者には多様性があった。日本国籍を希望する者、朝鮮民主主義人民共和国の公民を望むもの、将来の統一朝鮮の国籍を考える者である。国籍選択の自由の幅はかなり広かったといえよう。しかし、現実政治の狭間に置かれた在日朝鮮人は、朝鮮民主主義人民共和国の公民を選択していく。「共和国の国籍」である。とはいえ、日本政府はこれを「符号」とする姿勢を変えていない。正規の国籍ではなく、外国人登録法上の国籍表示が政治闘争の焦点であった。

5章は、朝鮮戦争停戦から日韓条約締結までの12年間を、在日朝鮮人の国籍問題の「過渡期」と位置づけ、朝鮮総連結成後の朝鮮人運動の高まり、朝鮮籍への書き換え運動が登場したことを扱う。「外国人登録上の国籍」表示を韓国から朝鮮へ、あるいは朝鮮民主主義人民共和国へ書き換え、変更、訂正することを求める動きが出て来る。在日朝鮮人は朝鮮半島南部出身者が多かったので、韓国とするのは自然であったが、「内戦」状態のため、統一されるまでは朝鮮としたいという者もいたし、知らない間に韓国と記載されたので訂正したいなど多様な理由があった。強制送還問題、警察による朝鮮人弾圧問題、そして朝鮮人学校閉鎖などが続く中、在日朝鮮人への迫害を朝鮮民主主義人民共和国への敵対行為と見る意識も生まれた。指紋押捺反対も始まった。ふたたび国籍選択の自由に光が当たる。警備公安警察は、国籍書換えを公安情報収集の機会ととらえ、活動を活発化させてもいた。

法務省は、指紋押捺制度の実施、朝鮮・韓国籍者数の分離公表の停止、外国人登録法の改正により運動の封じ込めを計った。1950年代後半には帰国事業が始まる。1959年には死刑囚だった孫斗八裁判が提訴される(1963年死刑執行)。他方、司法の場で国籍確認訴訟が提訴され、裁判所の判断として朝鮮国籍を認める判決も出て来る。

このように鄭栄桓は、戦後日本における在日朝鮮人処遇を、日本と朝鮮半島の政治変動の中に位置づけ、ていねいに検証している。日本側の植民地支配への無反省と開き直り、サンフランシスコ条約及びアメリカの意向を背景に、朝鮮と韓国の南北対立状況をみながら(利用しながら)、在日朝鮮人の在留資格、法的地位の不安定さを微修正しつつ維持していったのである。その変容過程に日本を国民国家として再形成する欲望が絡み合っていた。

5章の冒頭に、平賀健太「平和条約の発効に伴う朝鮮人の国籍について」(1956年)が引用されている。懐かしい名前だ。1970年代の「司法の危機」の端緒となった「平賀書簡問題」の平賀健太だ。札幌地裁に係属していた長沼訴訟において、自衛隊の合憲性が問われたときに、札幌地裁所長の平賀が、担当の福島重雄裁判官に裁判干渉の手紙を渡した。これに端を発して、青年法律家協会裁判官部会に対する攻撃が激化した。「赤狩り」ならぬ「青狩り」だ。司法の独立を踏みにじり、戦後司法における民主主義を圧殺した司法の危機の主役が、1956年当時は在日朝鮮人抑圧の担当だったことがわかる。

19739月の長沼訴訟札幌地裁判決は、自衛隊の憲法論・法律論・実態論を詳細に検討して、自衛隊違憲の判断を下すとともに、平和的生存権を高らかに宣言した。当時、札幌の高校3年生だった私にも大きな影響を与え、文学志望を法学志望に変えて、法学部に進学することになった。私の『平和のための裁判』(水曜社、1995年)は、高校3年生の時の課題に自分なりに答えた著書だ。

19953月末、国連人権委員会(当時)に参加するため友人と一緒に成田から出立してジュネーヴ空港に着いた。入国手続きで彼が日本政府発行の再入国許可証を提示すると、ジュネーヴ空港の職員は驚いた。直前に阪神淡路大震災が起きていた。その直後に日本から再入国許可証を持った人間がやって来た。担当職員には「大地震が起きた日本から難民が逃げてきた」と映ったのだ。

なぜスイスに来たのか、何処へ行くのか。国連人権委員会? そこで何をするのか。そもそも再入国許可証とは何か。なぜパスポートではなく再入国許可証なのか。在日朝鮮人とは何か。

これらを丁寧に説明しないとスイスに入国できない。丁寧に説明と言っても、背景知識のないスイス人に在日朝鮮人とは何かを説明するのは並大抵のことではない(当時、スイスはまだシェンゲン協定に加入していなかったので、スイス入国の際に大きな問題となった。その後スイスはシェンゲン協定に入ったので、EU域に入域する際にパスポート入国審査となる)。

日本政府の外国人登録法と入国管理法による朝鮮人管理政策の非道ぶりを目の当たりにすることになったが、日本の政治家や官僚には己の無責任さを自覚する機会がない。

もう一つ思い出した。たしか1999年8月の国連人権委員会・差別防止少数者保護小委員会に参加した時のことだ。ロビー活動に来ていた朝鮮籍の在日朝鮮人が再入国許可証を紛失した。ジュネーヴの日本領事館に届け出たところ、「領事館は何もできません。お帰りください」だった。

私も海外でパスポートを紛失したことがある。その時は地元ジュネーヴの警察に紛失届を提出して、その受領証を持って日本領事館に行き、申請すると数日後にパスポートが再発行された。領事館の担当職員はとても親切だった。

ところが、在日朝鮮人が同じ手続きを取ろうとしても、日本領事館は「知りません」と追い出す。結局、彼はフライト当日、ジュネーヴ空港に行ってスイス入管に関連書類を提示し、事情を詳しく説明して、出国とフライト搭乗を許された。成田空港には、家族が本人確認の書類をたくさん持参して待ち受けて、かろうじて入国できた。

再入国許可証はパスポートではないから、諸外国では通用しない。日本に再入国できるだけだ。とはいえ、パスポートに準じる機能をする。にもかかわらず、紛失した場合、日本政府は冷たく見放すため、再発行されず、何もない状態で国際フライトに乗り、成田を目指すしかない。成田で入国できる保証もない。どれほど辛いことか。

Thursday, February 24, 2022

歴史学の真髄に触れる01 『歴史のなかの朝鮮籍』a

このところ日本の近現代史については、「帝国の慰安婦」だの「反日種族主義」だのラムザイヤー論文だのと、デマ垂れ流しのフェイク歴史学に付き合わされてばかり。まともな歴史学に触れる機会が減っている。私は歴史家ではなく、法学研究者なので法学文献に学ぶ時間が多いから、歴史学文献を読むための時間は限られているのに、フェイク歴史学を批判的に検討しなくてはならない。時間の無駄なのだがやむを得ない。

年が明けて、ようやくまともな歴史研究書数冊に巡り合ったので、徐々に読み進めることにした。

鄭栄桓『歴史のなかの朝鮮籍』(以文社)

http://www.ibunsha.co.jp/new-titles/978-4753103683/

194752日、日本の外国人法制に登場し、今日に至るまで存続している「朝鮮籍」。植民地支配からの解放後も日本で暮らし続けた朝鮮人たちに与えられたこの奇妙な「国籍」の歴史を、日韓の外交文書、法務省や地方自治体の行政文書、裁判記録、そして政党・民族団体の残した文書などの一次史料を精緻に読み解くことで明らかにする。>

<目次>

序 章 朝鮮籍をめぐる問い

第1章 朝鮮籍の誕生──「地域籍」から「出身地」へ

第2章 南北分断の傷痕──韓国籍の登場

第3章 戦時下の「国籍選択の自由」──朝鮮戦争と国籍問題

第4章 国籍に刻まれた戦争──いかにして朝鮮籍は継続したか

第5章 同床異夢の「朝鮮国籍」──停戦から帰国事業へ

第6章 日韓条約体制と朝鮮国籍書換運動

補 章 再入国許可制度と在日朝鮮人

終 章 朝鮮籍という錨

あとがき 

『朝鮮独立への隘路――在日朝鮮人の解放五年史』『忘却のための「和解」――『帝国の慰安婦』と日本の責任』の著者にして、権赫泰『平和なき「平和主義」』の訳者による500頁の本格的研究書である。

序章は、なぜ「歴史のなかの朝鮮籍」なのかという問いを提示する。朝鮮民主主義人民共和国の国籍とはまったく別に、日本政府は、朝鮮半島にルーツを持つ在日朝鮮人に「朝鮮籍」「韓国籍」の表記を与えつつ、韓国籍は大韓民国国籍としながら、朝鮮籍とは国籍ではなく、「符号にすぎない」とした。韓国籍を取得しなかった人々を指し、無国籍の者も、朝鮮民主主義人民共和国の公民も「朝鮮籍」としてきた。正式の朝鮮籍を持つ者に対しても「符号としての朝鮮籍」を付与するという奇怪な話である。

植民地支配の清算をすることなく、朝鮮民主主義人民共和国を敵視し、韓国と国交正常化しながら差別意識を持ち越した日本社会は、この二重のねじれ状態を続けてきた。在日朝鮮人の法的地位、出入国の自由が日本政府の恣意的で身勝手な理屈で大幅に制限されてきた。

第1章「朝鮮籍の誕生──「地域籍」から「出身地」へ」は、朝鮮籍という奇妙な「符号」が、なぜ、いかにして登場し、それが最高裁による合憲判断というお墨付きを得て、定着していくのかを解明する。「地域籍」として考案された朝鮮籍が、朝鮮独立との関係で揺れ動き、外国人登録令の施行によって「出身地」表記に変容していく過程である。

後に韓国と朝鮮という二つの国家が形成されるのを横目で見ながら、日本側は、戦前から戦後への国家の換質を計り、日本社会は平和主義と民主主義という欺瞞的アイデンティティをつくり始める。そのために在日朝鮮人を排除し、日本人による日本人のための国家――単一民族国家への道を整備しなければならない。それが日本国憲法と外国人登録令をセットにした整備マシーンの創設であった。国内的には、日本国憲法と外国人登録令は矛盾すると受け止められるだろう。しかし、当時の日本国家にとって、日本国憲法と外国人登録令は補完的であった。「朝鮮人」を「日本人」から切断し「朝鮮人」に変容させる仕組みであり、「外国人」の創設である。自由も人権もない「外国人」が必要とされたのは、「日本国民」の自由と人権を確保するためでもある。

第2章「南北分断の傷痕──韓国籍の登場」は、済州島4・3事件、麗水・順天事件、など「内戦」状態を経て、朝鮮半島の南北分断が現実化した時期、在日朝鮮人の「国籍」がいっそう複雑化させられていく。日本側は冷戦状況での占領政策の「逆コース」の時期でもあり、輝ける「平和憲法」と「戦後民主主義」の下でのナショナリズムと「国民」再統合の時期でもある。

本書では、金斗、金日成の書簡、宋性らの見解を確認し、朝連による民族教育の権利と在日朝鮮人の法的地位をめぐる議論を明らかにしている。阪神教育闘争である。朝鮮民主主義人民共和国の成立後、団体等規正令により朝連は解散させられ、全財産が没収された。独立朝鮮国国民として認められるどころか、基本的人権そのものを全否定される。

他方、大韓民国の成立、韓国国籍法の制定、金正柱論文、全斗論文を検討した上で、韓国籍の登場(朝鮮籍への批判)の過程を分析する。韓国政府の主張を一部取り入れて、日本政府は韓国籍表示を認めるが、朝鮮表示と併用になる。

かくして、在日朝鮮人が分断される。外国人登録上の国籍表示をめぐって、南北対立が生み出される。祖国の分断が在日の分断につながる。そこに日本政府が介入する。朝鮮民主主義人民共和国表示は否定する。

20188月に国連人権高等弁務官事務所で、国連人種差別撤廃委員会が日本政府の報告書を審査した。この時、ある委員が日本政府に対して「たった一晩で100万人単位の朝鮮人の国籍が剥奪されるという出来事があった。これは人類史において他になかった出来事である。なぜこのようなことが起きたのか」という趣旨の質問をした。日本政府はまともに答えようとしなかった。

たった一晩で100万人単位の朝鮮人の「国籍」が剥奪されるという異常事態をつくり出したのは日本政府・法務官僚だが、日本社会も憲法研究者もその後、このことを疑問視しない異常さである。

この異常さの真の原因を解明するため、鄭栄桓は歴史資料の海に漕ぎ出す。国際法や在日朝鮮人運動史には優れた先行研究があるが、それでもまだまだ事実が明らかでないし、歴史的評価も定まっていない。鄭栄桓は、戦後日本国家の異形ぶりに驚愕しながら、その変容を丹念に追跡する。これと対峙した在日朝鮮人運動の側の対応も含めて、戦後日本の動態の中に位置づけるために、日本国家の論理と心理を抉り出す。つまり、「歴史のなかの朝鮮籍」とは「日本国家論」そのものである。

Wednesday, February 23, 2022

サイバー警察局・サイバー特別捜査隊の創設に反対する学者・弁護士共同声明

  128日、岸田政権は警察法「改正」案を閣議決定し、直ちに国会に上程、いま内閣委員会で審議が行われている。しかしこの警察法「改正」案は、戦後警察の骨格であった自治体警察を中央集権的な国家警察に変えるものであり、絶対に許されない。ましてや、国家公安委員会・警察庁は同法案の骨格をなすサイバー警察局を41日に発足させるとし、予算関連法案として拙速審議しているが、あまりにも乱暴であり、十分に審議を尽くすべきである。

1.警察法「改正」は、国家警察を復活させる。

法案は、国家公安委員会の任務及び所掌事務として「重大サイバー事案」を規定し(544号)、同項16号で「重大サイバー事案に係る犯罪の捜査その他の重大サイバー事案に対処するための警察の活動に関すること」と規定、国家公安委員会の任務・所掌事務として犯罪捜査を認めている。さらに警察庁の内部部局として、サイバー警察局を設置し(19条)、その所掌事務を「サイバー事案に関する警察に関すること」(25条)とし、その「警察活動」を関東管区警察局に分掌させ(30条の2)、しかも関東管区警察局の管轄区域を全国とし、一元管理させるという。更に、重大サイバー事案での警察庁と各都道府県警察の共同処理を認め、警察庁長官が任命した者に、その指揮を委ねている(61条の3)。

しかし、国家公安委員会及び警察庁はこれまで、自らが犯罪捜査を行うことを認められていなかった(事務を行う行政機関、都道府県警の総合調整機能のみ)。これは、特高警察の幾多の人権侵害に象徴される戦前型の中央集権的な国家警察が否定され、戦後改革によって地方警察が警察活動を行うこととしたことに由来している。

 ところが、今回の「改正」で、54項16号を設け、犯罪捜査を認めている。これは、戦後改革で否定された国家警察の復活以外でないと思われるが、それについての納得できる説明はなされていない。生活安全局も同様な規定を持っているが、それは、捜査指揮等に限られているのであり、逮捕など具体的な捜査権は持っていない。

また関東管区警察局にサイバー警察局の所掌事務の一部を分掌させ、逮捕や捜査権を付与しているが、それは、管区警察局の本質を根本的に変更するものである。このような規定ぶりを許してしまえば、今後、他の警備公安・交通など警察庁の所掌事務についても警察活動を認めることになりかねない。市民に開かれた慎重な審議が必要になる。

 

2.国家警察にする立法理由がない。

立法理由は、「最近におけるサイバーセキュリティに対する脅威の深刻化に鑑み、国家公安委員会及び警察庁の所掌事務に重大サイバー事案に対処するための警察の活動に関する事務等を追加するともに、警察庁が当該活動を行う場合における広域組織犯罪等に対処するための措置に関する規定を整備する」とされている。しかしこれは理由になっていない。

「サイバーセキュリティに対する脅威の深刻化」などというが、2013年以来、既に14都道府県警察(北海道、宮城、警視庁、茨城、埼玉、神奈川、千葉、愛知、京都、大阪、兵庫、広島、香川、福岡)で活動しているサイバー攻撃特別捜査隊にその任務を委ねれば十分ではないか。今回新設されるサイバー特別捜査隊には、全国的規模での捜査権が与えられているが、その法的・現実的根拠はどこにあるのか?サイバー特別捜査隊とサイバー攻撃特別捜査隊との任務分担が不明瞭である。

いまサイバー犯罪増加と共にその検挙率は急激に上がっており、むしろサイバー攻撃特別捜査隊の活動の総括・点検が問われている。盗聴法「改正」によってどのような警察盗聴が行われているのか闇に包まれてしまったが、その公開も含め、サイバー社会・ネット監視のあり方が深刻に点検される必要がある。

もう一つ大きな立法理由とされているものは、国際連携の必要性である。昨年12月に公表されたサイバーセキュリティ政策会議の報告書では、サイバー隊の国際共同オペレーションへの参加が強調されている。国家間での協力を推進し、共同捜査を行うためには、国を代表する捜査機関が必要であり、サイバー隊を設けるのである。

国際連携は、何も警察庁に警察活動を認めなくてもできることであり、立法理由にはならない。国際協力を改正理由の一つとしているが、それと全国的捜査権とは別問題である。既に共謀罪創設に関わる国際的組織犯罪条約やサイバー犯罪条約、日米刑事共助条約など国際的な組織犯罪への取組みについて、警察庁は国際協力しているが、それについての警察活動は認められていない。

 

3.警察活動に係る規定は厳格でなければならず、警察権力の自己増殖は許されない。

そもそも提出法案の各種の規定ぶりが曖昧すぎる。たとえば警察法改正法案とその法案概要では、「重大サイバー事案」などの規定ぶりが異なっている。法案の規定ぶりによれば、海外からのサイバー事案はすべて含まれることになる(国外に所在する者であってサイバー事案を生じさせる不正な活動を行うものが関与する事案)が、「概要」では、サイバー攻撃集団に適用範囲を限定し、世論受けのするものに書き換えている、などである。

 警察庁によれば、2021年の刑法犯認知件数は568000件、19年連続で戦後最少を記録する一方、検挙率は46.6%と上昇し続けている。そのうちサイバー犯罪の検挙件数は過去最多だが12275件に過ぎない。なぜいまサイバー犯罪のみをことさら取り上げ、捜査体制の拡大・強化を図るのか説明がなされていない。コロナ禍での生活・生命危機など市民の不安に便乗することは許されない。

 我々は、このような多くの問題を抱え、警察制度を根源的に改悪しようとする警察法の改正には強く反対する。

20223

 

呼びかけ人

学者・研究者

足立 昌勝(関東学院大学名誉教授・刑法)

飯島 滋明(名古屋学院大学教授・憲法)

石塚 伸一(龍谷大学教授・刑事学)

岡田 正則(早稲田大学教授・行政法)

岡田 行雄(熊本大学教授・刑法)

清末 愛砂(室蘭工業大学大学院教授・憲法)

佐々木光明(神戸学院大学教授・刑事学)

清水 雅彦(日本体育大学教授・憲法)

新屋 達之(福岡大学教授・刑事訴訟法)

豊崎 七絵(九州大学教授・刑事訴訟法)

福島 至(龍谷大学名誉教授・刑事法)

前田 朗 (東京造形大学名誉教授・人権論)

宮本 弘典(関東学院大学教授・刑法)

村井 敏邦(一橋大学名誉教授・刑法)

 

弁護士

五十嵐二葉(東京弁護士会)

岩村 智文(神奈川県弁護士会)

海渡 雄一(第二東京弁護士会)

藤井 光男(沖縄弁護士会)

 

世話人代表 足立 昌勝    adamasa@fg7.so-net.ne.jp

ラクダが針穴を通るまで(第7章 高壁)

中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年) 

7章は楽園と火獄の間の高壁の話にちなむ。悪魔の誘惑によるアーダムの楽園からの追放に始まり、高壁の住人の話、天地の創造、最後の審判がいつかは預言者ムハンマドも知らないことが語られる。朝も夕もアッラーを唱えることが命じられる。

「われらの諸々の徴を嘘だと否定し、それに対して高慢な態度を取った者たち、彼らには天の扉は開かず、ラクダが針穴を通るまで、彼らが楽園に入ることはない。そしてこのようにわれらは罪人に報いる。」(740)

ラクダが針穴を通る喩えはさまざまに用いられてきた。日本では刑事裁判における再審で、「再審開始は、ラクダが針穴を通るよりも難しい」などと言ってきた。なぜ、日本でラクダの喩えなのだろう。馬でも熊でもよかったはずなのに、日本にいなかったラクダを引き合いに出したのはなぜだろう。

「どんな道でも、信仰する者を待ち伏せして脅かし、アッラーの道から逸らしたり、その歪曲を望んではならない。そしておまえたちが少なかった時のことを思い起こせ。彼はおまえたちを多くし給うた。そして、見よ、害悪をなす者たちの末路がどのようなものであったかを。」(786

「それらの町は、われらがおまえにその消息を語った。そして彼らには彼らの使徒が明証と共に既に訪れた。だが、以前から嘘だと否定していたことを彼らは信じなかったのである。このようにアッラーは不信仰者たちの心を封じ給う。」(7101

クルアーンはどこまでも熱心な進行を求め、信仰した者に褒賞を与え、不信心の者に懲罰を与える。信仰者と不信仰者、イスラム教徒と異教徒、敵と味方を裁断し、明確に分け隔てする。それは誠実な信仰のためだが、信仰以外の場でもおなじことが求められてきたきらいがないだろうか。

「そしてわれらは火獄のために多くの幽精と人間を既に作った。彼らには心があるが、それで悟らず、彼らには目があるが、それで見ず、彼らには耳があるが、それで聞かない。それらの者は動物のようである。いや、彼らはさらに迷っている。それらの者、彼らや虚け者たちである。」(7179)

自分の心で悟り、自分の目で見、自分の耳で聞くこととは――

Wednesday, February 16, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 06

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

最後にまとめておこう。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

表現の自由の大切さは言うまでもない。権力が表現に介入するためには正当性、必要性、合理性を十分に満たした場合でなければならない。権力は暴走する。それゆえ、権力行使にはつねに市民的統制を確保する必要があり、立法・行政・司法のすべてにわたって慎重に検討を施すことが求められる。

そのために憲法学が長年の努力を積み重ねてきた。立法や判例への批判的検討も重要である。日本に限らず、国家権力が市民の表現の自由を不当に規制してきた歴史があるので、表現の自由の格別の重要性を説くのは学説の重要な役割である。その意味で松井の努力は貴重である。

しかし、表現の自由は個人の人格権の一部であるだけでなく、民主主義社会にとって枢要な価値である。民主主義に適った表現の自由とは何かを解明しなければならない。論者によって民主主義のイメージは異なるかもしれないが、住民の一部を排除・迫害・殲滅するレイシズムが民主主義と相容れないことは否定できないだろう。民主主義とレイシズムは両立しない。民主主義を実現するためにレイシズムを抑止しなければならない。レイシズムの典型であるヘイト・クライム/スピーチを容認しておくと、民主主義は実現できず、社会が壊れて行く。前田朗『増補新版ヘイト・クライム――憎悪犯罪が日本を壊す』(三一書房)参照。

表現の自由の口実の下、人間の尊厳を侵すことを放任してはならない。人間の尊厳は国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約その他の人権条約において人権の基盤とされている。日本国憲法第13条は個人の尊重をうたうため、日本国憲法は人間の尊厳を保障していないという憲法学説もあるが、日本国憲法前文、第13条、第14条及び第24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」等に照らして、日本国憲法の下でも人間の尊厳を保障するべきである。

ヘイト・スピーチは人間の尊厳を否定し、侵害し、人間の尊厳を基本価値とする現代国際人権法を敵視する。表現の自由の名のもとにヘイト・スピーチを容認すると人間の尊厳を損なう。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

しかし、憲法解釈は憲法の条文と体系に即して行うべきである。憲法解釈に当たって、私が重視するのは次の4つである。言うまでもないが優先順である(前田『ヘイト・スピーチ法研究要綱』119121頁)。

①日本国憲法(前文及び各条文)

②確立した判例

③日本が批准した国際条約

④慣習国際法

ここには比較法的知見、外国法情報は含まれない。とはいえ、比較法研究も重要であるので、

⑤比較法的知見も参照することはある。

私は世界150カ国のヘイト・スピーチ法制定状況を紹介してきた。これを「前田は世界150カ国でヘイト・スピーチを処罰するから日本も処罰するべきだと主張している」と誤解して非難する論者がいるが、私はそうした主張をしていない。

私は比較法研究や外国法研究にはあまり関心を持っていない。私が世界各国の状況を紹介してきたのは、③の国際条約、及び④の慣習国際法への関心であり、国際法の「実行例」を確認するためである。もちろん、日本国憲法第21条と同じ条文の憲法(あるいは類似した憲法条文)があれば、その国の憲法解釈も参考にすることはできる。

松井はどうであろうか。本書を見る限り、松井は、①の日本国憲法前文、第12条、第13条、第14条にまったく関心を示さない。

②の最高裁判例を批判し、それとは異なる法理を唱える。

③の国際条約、及び④の慣習国際法についても、ほとんど言及しない。

松井が重要視するのは、アメリカ判例法理及びカナダ判例法理だけである。特にアメリカ判例法理を基準にして、日本国憲法の体系的解釈を度外視し、日本最高裁の判例(確立した判例)を否定し、ヘイト・スピーチ解消法を批判し、地方自治体条例を批判し、ヘイト・スピーチ規制論を批判する。一網打尽の勢いは結構だが、松井説は、日本国憲法第21条、第12条(公共の福祉)、第13条(個人の尊重、人格権、公共の福祉)、第14条(法の下の平等、差別の禁止)の解釈論とは言えない。日本国憲法の解釈ではなく、改憲論と見るべきである。

松井は、憲法第1条の解釈においてアメリカ法を基準にするだろうか。憲法第9条、第10条、第25条、第41条、第65条、第92条の解釈に際して、アメリカ法を基準にするだろうか。それはあり得ないだろう。ところが、第21条だけは絶対的にアメリカ法を基準するべきだと主張する。そして勢い余って憲法第12条、第13条、第14条を「削除」する。過激なまでのアメリカ絶対主義であり、属国主義、脱日入米である。権力の暴走も怖いが、憲法学の暴走も危険だ。

アメリカ憲法の表現の自由と日本国憲法の表現の自由が同じ条文であるのなら、まだ理解できるだろう。しかし、両者に類似性はない。日本国憲法の表現の自由の規定上の特徴は欧州諸国の憲法の表現の自由規定により近いし、国際人権規約と同じ構造を持っている。しかし、松井は、理由を示すことなく、ひたすらアメリカ法理を参照する。

日本国憲法の条文を無視して、外国判例法理に従えと言うのは、憲法解釈ではなく、改憲論である。「アメリカ憲法も日本国憲法も表現の自由を保障しているから同じであり、アメリカ憲法の判例法理に従え」などという暴論は改憲論としても水準が低すぎる。「表現の自由という価値を守るのがアメリカであり、日本でも同じ精神を持つべきだ」というのは、あまりに粗雑である。憲法解釈はもっと慎重かつ緻密であるべきだ。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

だが、「表現の自由を守れ」と念仏を唱えても、表現の自由を守ることはできない。表現の自由には同時に責任が伴わなければならない。憲法第12条が明示している。憲法第12条は自由の行使に伴う責任と、公共の福祉を明示している。憲法第21条の適用もこの要請を満たす必要がある。表現の主体についても、表現の自由と責任を十分認識する必要がある。

ところが、憲法学は表現の責任を一切論じない。憲法教科書を10数冊見ても、表現の自由という言葉だけが乱舞し、「表現の責任」は一度も登場しない。ひたすら責任なき表現の自由だけが語られる。これでは表現の自由は守れない。むしろ、自ら表現の自由を掘り崩してしまう。前田朗『メディアと市民――責任なき表現の自由が社会を破壊する』(彩流社)参照。

また憲法学は表現の自由の主体を論じない。実際、憲法学が絶対視するのは「マジョリティの表現の自由」であり、「マイノリティの表現の自由」は一顧だにしない。ヘイト・スピーチはマイノリティの排除や差別を唱え、マイノリティの表現の自由を否定する。しかし、憲法学は「マジョリティがマイノリティを排除し差別する表現の自由」を必死になって擁護する。

表現の自由とは国家権力による介入を規制する原理であって、私人間の関係を規制する原理ではないというのは理由にならない。憲法第11条、第12条、第97条を踏まえて、適正な表現の自由と責任を考えるなら、何よりもまずマイノリティの表現の自由を擁護し、マイノリティの人間の尊厳を保障することが、マジョリティの憲法学の最大任務であると理解できるはずだ。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

だが、「表現の自由だけに守る価値がある」のではない。民主主義にも人間の尊厳にも人格権にも法の下の平等にも差別の禁止にも守る価値がある。日本国憲法は数多くの価値を擁護し、数多くの自由と権利を保障する。その基本原理は民主主義であり、主権の民主的構成であり、人間の尊厳であり、法の下の平等と非差別であり、個人の自由と権利である。表現の自由は、民主主義、人間の尊厳、法の下の平等と非差別という原理と調和しなければならない。無責任な表現の自由を呼号することをやめて、表現の自由と責任を考えれば足りるだけである。(完)

表現の自由に守る価値はあるか!? 05

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

2月15日、最高裁判所は大阪市条例によるヘイト・スピーチを行った者の氏名公表について初めての判断を下した。

氏名公表のヘイトスピーチ抑止条例は「合憲」 最高裁が初判断

https://www.asahi.com/articles/ASQ2H4VY9Q2HUTIL008.html

最高裁「合憲」判断、ヘイトスピーチ抑止の大阪市条例

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE1508L0V10C22A2000000/

大阪市ヘイト規制条例「合憲」 表現の自由巡り、最高裁が初判断

https://mainichi.jp/articles/20220215/k00/00m/040/292000c

なお、一審判決について

https://www.asahi.com/articles/ASN1K4W12N1KPTIL00R.html

前回も引用したが、松井は大阪市条例における、ヘイト・スピーチをした者の氏名公表等について検討し、「脅威を感じただけで、表現行為が制約されうるというのは、あまりにも広すぎるのではなかろうか」、「あまりに主観的であり、客観的な基準に欠けるのではないだろうか」(69頁)、「おそらく、この条例では、市長が法的な措置をとることまでは想定されていないのではないかと思われるが、このような広範な基準を欠く、包括的な権限付与は、憲法上疑問ではないかと思われる」(6970頁)という。

しかし、最高裁は、「表現の自由の制限は合理的で必要やむを得ない限度にとどまる」と述べ、合憲と判断した。裁判官5人の全員一致である。

一審の大阪地裁も二審の大阪高裁も同じ判断であった。一審と二審の合議の内容は不明だが、最高裁は全員一致である。つまり、11人の裁判官のうち、少なく見積もっても9人が合憲と判断したことが明らかであり、私の推測では一審・二審を含めて11人全員一致だろうと思う。違憲論にはまともな根拠がないからだ。

大阪市条例は、橋下徹市長(当時)の諮問を受けた審議会が答申を出し、吉村洋文市長(現府知事)時代に大阪市議会で制定された。審議会には弁護士や法学者が参画している。

朝日新聞によると、現在同様の条例が9つあるという。神戸市、東京都、国立市、世田谷区などが有名だ。それぞれの条例制定にあたって、審議会・協議会等で弁護士や法学者の意見交換を踏まえている。

大阪市条例が制定されて以後、少なくない弁護士と法学者がコメントを発表したし、論文も多数書かれている。その多くが、大阪市条例を違憲とは想像だにしていない。神戸市、東京都、国立市、世田谷区の条例についても、これを違憲と主張する法学者が果たしているだろうか。

全体としてはこれまで数十人の法律家たちが、大阪条例方式を合憲と見ていることは、いちいち引用するまでもない。

たとえ百人の法律家が合憲と主張しようとも、疑問があれば疑問を表明するのは当然であるし、違憲の疑いがあればそのように主張するのも当然である。だが、私なら、具体的に、事実と論理に基づいて違憲であると論証しようとするだろう。一般論を並べて「憲法上疑問ではないかと思われる」と念仏を唱えても意味があるとは考えられない。

さて、松井は「1-8 ヘイトスピーチの現在」において、ヘイト・スピーチ解消法制定4年経た段階での状況に言及し、「1.8.2 ヘイトスピーチの合憲性を支持する最近の学説」という項目を設ける(7783)。これは「ヘイトスピーチ禁止の合憲性を支持する最近の学説」の誤りである。

ヘイト規制合憲論として松井が取り上げるのは、師岡康子、小谷順子、桧垣伸次、奈須祐治である。

さらに「1.8.4 ヘイトスピーチの将来」と題して、ここでもヘイト規制合憲論として、師岡、桧垣、奈須説を検討している(8488頁)。

松井は「最も積極的にヘイトスピーチ禁止の合憲性を支持するのは、師岡康子教授である。師岡教授は、批判的人種理論に従って、ヘイトスピーチが社会生活全般に及ぶ差別の構造の構成要素の一つであり、その煽動が差別構造全体を強化するという特質をっ重視する。」と言う(7778)。さらに、ヘイト・スピーチの深刻な人権侵害、社会の破壊という害悪、被害者となるマイノリティの自己実現、対抗言論との関係などについて師岡の主張を紹介した上で、松井は合憲論に批判を加える(8688頁)。

松井は「師岡康子教授」を最大の批判対象に据えている。具体的には師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書、2013年)を取り上げる。それ以外の師岡の論考は一つも取り上げない。

松井は本当に『ヘイト・スピーチとは何か』を読んだのだろうか。この本の著者である師岡康子(弁護士)が「教授」であるとは聞いたことがない。ヘイト・スピーチ問題に関心のある者なら誰でも知る通り、師岡はヘイト・スピーチ問題にいち早く取り組み、国際人権法や外国法における議論を紹介し、現場でヘイトに対抗言論を駆使し、被害者救済に奔走し、立法や条例制定についても理論的に多大の貢献をしてきた。この10年間、ヘイト・スピーチの議論を牽引してきた理論的指導者と言って良い。大学教授に相応しい資質と研究業績が十分すぎるほどあるが、「教授」ではないはずだ。

肩書問題は些細なことだが、ここで私が言おうとしているのは、師岡弁護士が、上記新書だけではなく、数多くのメディアを通じて、その都度意見表明をし、論考を発表してきたことだ。2020年段階の著書で師岡説を批判的に検討するのなら、7年前の新書だけではなく、ヘイト・スピーチ解消法制定後に出た師岡の編著や、雑誌『世界』に掲載された諸論文等々も踏まえるべきだろう。

松井は、現在はブリティッシュコロンビア大学教授であり、「はしがき」には「バンクーバーにて」とある。このため日本におけるヘイト・スピーチ関連文献をあまり参照していない。偶然手にしたごく一部の文献を引用するだけだ。在外研究だから仕方がないのだろうか。

どの学問分野でも当然のことだが、まず先行研究を踏まえて、それらを批判的に乗り越えることが重要な課題である。それゆえ、すべてではないにしても、主要な先行研究をチェックして、論ずべき論点を明確にし、批判対象を正しく批判することが出発点である。

日本でもヘイト・クライムとヘイト・スピーチの長い歴史がある。そして、現在論じられているように、2000年代からあらためて注目されるようになり、2009年の京都朝鮮学校事件、徳島県教組事件、2012年頃の大久保ヘイトデモ、2013年以後の川崎ヘイトデモ等々を通じて議論が高まり、法律や自治体条例の制定につながった。この10年余りの間に、論点が増え、研究が次々と公表され、膨大な新しい情報が追加され、それらを踏まえてさらに議論が進められている。師岡はその討議の中心に立ち続けてきた。松井は、そのほとんどに関心を示さない。

一昔前なら、在外研究の場合、日本語文献の入手は容易でなかった。しかし、いまではネットを通じて、あるいはネット販売を通じて、かなりの程度の文献入手が可能である。私自身、昨年までの勤務先が美術大学であったため、大学図書館に法律文献はない。法律文献は自分で入手しなければならなかった。重要な法律文献が各大学の研究紀要に掲載されるため、その入手に腐心したものだ。この10年は、Repositoryのおかげでネットを通じて入手することが容易になっている。在外研究だからといって7年前の新書本を批判するだけでは、師岡説の検討としても極めて限界があるだろう。

ヘイト・スピーチ関連文献は膨大だが、法的研究に限っても例えば次の様な重要文献がある。

師岡康子監修『Q&Aヘイトスピーチ解消法』(現代人文社)

櫻庭総『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服』(福村出版)

金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社)

金尚均『差別表現の法的規制: 排除社会へのプレリュードとしてのヘイト・スピーチ』(法律文化社)

在日コリアン弁護士協会編『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』(影書房)

在日コリアン弁護士協会編『在日コリアン弁護士から見た日本社会のヘイトスピーチ』(明石書店)

法学セミナー編集部編『ヘイトスピーチとは何か』(日本評論社)

法学セミナー編集部編『ヘイトスピーチに立ち向かう』(日本評論社)

また、各大学で発行されている研究紀要類には数多くのヘイト・スピーチ法関連論文が公表されている。その多くがオンライン上で公表され、容易に入手できるようになっている。私の『序説』『原論』『要綱』では、各大学の研究紀要類に掲載された論文を数十本紹介した。このブログでも紹介し続けている。

まともな社会科学の世界では、先行研究を検討して議論の到達水準を確認・共有し、その上で論者のオリジナルな主張を展開するのが常識である。そうしなければオリジナリティの有無を確認できない。先行研究のほとんどを無視して、ひたすら自説を託宣することが憲法学の世界では通用しているのだろうか。

Tuesday, February 15, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 04

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

松井は「1. 7 ヘイトスピーチ対策法および大阪市条例・川崎市条例の合憲性」において、対策法、大阪市条例、川崎市条例を取り上げる。

1に、松井は対策法について、「表現の自由の観点からは、たとえ明示的な禁止規定がおかれておらず、違反行為に対する刑罰が明記されていないとはいえ、この法律の合憲性には重大な懸念が表明されざるを得ない」(65頁)とし、「本邦外出身者」のみを対象としていることについて「比較法的に見て、このようないびつなヘイトスピーチ排除法は見られない」(66頁)と述べる。結論として「もしこれが法的な措置を認めたものであれば、『本邦外出身者』の定義も含め、どのような措置が認められているのか法律上明記されていない点で、明らかに憲法違反と言わざるを得まい」(67頁)という。

「本邦外出身者」に対するヘイト・スピーチに限定した立法例はないと思われ、私もこの規定方式には疑問がある。ヘイト被害者は「本邦外出身者」に限られない。しかし、ヘイト・スピーチの対象を限定した点では、諸外国よりもはるかに範囲を絞り込んでいる。定義がいびつだとか、不明確だという批判にも一理あるが、他の定義より絞り込んでいるという評価もあり得る。これだけ限定したことを積極的に評価する論者が多いのではないだろうか。

松井は「比較法的に見て、このようないびつなヘイトスピーチ排除法は見られない」と言うが、松井が検討した比較法なるものはアメリカ、ドイツ、カナダだけである。ヘイト・スピーチを処罰せず、レイシズムを容認し、ヘイトを放置する極端な主張のいびつさをどう見るかの方が重要だ。何度も指摘するが国際人権法は処罰を要請しており、国連人権理事会も人種差別撤廃委員会も日本に処罰を勧告してきた。世界150カ国に規制法がある。いびつな比較法研究に説得力はない。

松井はここで突如として「ヘイト・スピーチ排除法」と表現する。処罰規定がなく、ヘイト・スピーチを規制しないため、一般に「解消法」と呼ばれている法律を、松井は最初に「対策法」と呼び、次に「排除法」と言い換える。粗雑な印象操作ではないだろうか。

松井は「明らかに憲法違反と言わざるを得まい」と主張する。だが、ヘイト・スピーチ解消法について論究した多くの憲法学者の中に、刑罰規定すら持たない解消法を違憲と主張する例はほとんどないようである。

2に、松井は大阪市条例における、ヘイト・スピーチをした者の氏名公表等について検討し、「脅威を感じただけで、表現行為が制約されうるというのは、あまりにも広すぎるのではなかろうか」、「あまりに主観的であり、客観的な基準に欠けるのではないだろうか」(69頁)、「おそらく、この条例では、市長が法的な措置をとることまでは想定されていないのではないかと思われるが、このような広範な基準を欠く、包括的な権限付与は、憲法上疑問ではないかと思われる」(6970頁)という。

大阪市条例についてはこれまで多くの憲法学者、刑法学者、弁護士が論じてきたが、違憲の疑いを指摘した論者はあまりいない。また、実際に大阪市長による指名公表がなされたことから、これを違憲とする訴訟が提起されたが、裁判所は詳細に検討した上で合憲判断を下した。その後、大阪市条例方式が違憲であるという特異な主張は消えつつあるように思われる。

3に、松井は川崎市条例による罰則の導入について検討する。条例の内容を2頁にわたって紹介した上で数多くの批判を加えている。

(1)松井は「本邦外出身者」に言及し、「この定義の曖昧さ及び過度の広範さに照らせば、それに刑罰を科すのは到底正当化されえ得ないであろう」という(72頁)。

  あいまいだという主張には一理あるが、むしろ対象を絞り込んだという評価のほうが多いのではないか。

(2)  松井は、条例で用いられている「煽動」概念を取り上げ、「それが違法な物理的な力の行使の直接的な煽動かどうかも問わない点、およびそれが実際に遂行される危険性がどの程度あるのかも問わない点で大きな問題であろう」という(72頁)。煽動概念を安易に用いて刑事法に取り込むことには慎重さが求められる点で、松井の指摘には一理ある。

  ただ、煽動概念は現行刑法で用いられているし、最高裁判例によって正当化されてきた。日本における煽動概念の問題は、実は「煽動」そのものの問題ではない。国公法等の場合は労働権、破防法の場合は結社の自由という、憲法上の権利行使を「煽動」概念を用いて安易に犯罪化してきたことの問題である。民主主義の擁護と差別の禁止のために煽動概念を用いるのとは位相が異なる。国際人権法においても煽動概念は繰り返し用いられてきたし、その解釈例の積み上げもある。煽動概念だからと言って一般論で批判してもおよそ説得力がない。いかなる煽動概念であるかの検討が必要だ。

(3)  松井は、川崎市条例が「本邦外出身者」を「人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱するもの」としていることについて、「ゴキブリにたとえるなり、野良犬にたとえることなどが想定されているものと思われる。だが、『人』以外のものにたとえることが常に侮辱になるかどうか定かでなく(ある人をその力強さや頑丈さのゆえに『超人』だと呼んだり、ある人をその正確性のゆえに『コンピューターのようだ』と呼んだりすることも果たして著しい侮辱なのであろうか)。しかも単なる『侮辱』と『著しい侮辱』の境界線はあまりにも不明確かつ主観的である」(72頁)という。

  レイシズムの抑止に関心がなく、ヘイトの規制を何が何でも許さない松井の強烈な意思が表明された個所と言えよう。言うに事欠いて、「超人」や「コンピューターのようだ」と非難する。しかし、ヘイト・スピーチ解消法は「本邦外出身者」という表現で実質的に人種・民族差別による排外主義と侮辱の表現を対象とした。川崎市条例も法律と同じ定義を採用した。物理的・社会的排除、身体等への危害煽動、著しい侮辱が屁併記されている(法務省が提示した類型による)。この水準で用いられる「人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱するもの」の意味は、当然のことながら、侮辱罪の保護法益及びこれまで積み上げられてきた判例上の侮辱概念によって明らかになる。保護法益は、判例では外部的名誉(社会的評価)という理解が確立しており、これが不明確だなどという主張は学説上も存在しない。仮にそう唱えたとしても、あまりに特異な主張として退けられるだけである。侮辱概念についても、他人の人格を蔑視する価値判断を表示することとされている。「超人」や「コンピューターのようだ」というたとえが、「他人の外部的名誉(社会的評価)を貶めるような、他人の人格を蔑視する価値判断を表示すること」だなどということが考えられるだろうか。批判するのなら、ふざけ半分のたとえではなく、少しはまともな例を示すべきだろう。

  なお、ヘイト・スピーチ規制における保護法益については、社会的法益説が有力であり、私も社会的法益を基軸に個人的法益も考慮するのが妥当ではないかと考えているが、それは別論である。

(4)  松井は、川崎市条例では市長による勧告、命令、そして処罰という方式について「処罰の前に、裁判所の判断を仰ぐ仕組みはない」と批判する(72頁)。

  不可解な批判である。川崎方式は、市長による勧告にもかかわらず2回目のヘイトが行われた場合に、市長による命令が出され、それに従わず3回目のヘイトがなされた場合に、裁判を通じて刑罰を科すとしている。裁判所の判断を仰ぐのだ。自治体条例における罰則のスタイルとして合理的な方法である。

(5)  松井は、「ヘイトスピーチが行われるおそれがあるだけで、公の施設の利用を拒否したり、公道上のデモを禁止したりすることは、明らかに憲法第21条の表現の自由を侵害し、さらに地方自治法にも反するものである」と批判する(73頁)。

  ヘイト活動に対する公共施設利用問題及びヘイトデモ規制問題は、2009年以来、激しく議論されてきたテーマであり、下級審判例、地方自治体の審議会の審議、地方自治体議会の審議、弁護士会意見書、多くの学説による議論を通じて徐々に共通認識が形成されてきた(前田『ヘイト・スピーチと地方自治体』三一書房)。ところが、松井は具体的な論点を子細に検討することなく、憲法第21条違反と主張する。目に余る乱暴な議論である。2009年段階ならともあれ、2020年段階でこのような粗雑な議論をする論者がいるとは驚異的である。

新たな刑事規制が行われる場合に、不当な人権侵害が生じないよう慎重を期すために厳しいチェックをかけるのは学説の重要任務なので、松井説にはそれなりの意義がある。しかし、法解釈はもっと緻密に行うべきであって、スローガンを繰り返すだけの杜撰な批判でチェック機能を果たすことができるとは考えにくいのではないか。

Sunday, February 13, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 03

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

松井は「1. 6 提案されているヘイトスピーチ禁止は正当化されるか」において、これまで提案されているヘイト・スピーチ規制について検討する。その際、最高裁判所の判例によれば、ヘイト・スピーチ規制は合憲とされるかもしれないとしつつ、最高裁判例を否定して、カナダ最高裁判例に準拠して検討する。

松井は、カナダ憲法の多文化主義を紹介した上で、日本国憲法には多文化主義の規定がないとして、多文化主義を根拠とするヘイト・スピーチ規制を疑問視する。理由は次の5つである。

1に「日本は移民国家ではない」。「カナダと異なり、日本の民族的構成は、はるかに多様性に欠ける」。(61頁)

2に「伝統的に日本の社会は協調と調和に重きを置いてきた」(62頁)。

3に「日本の保守的な人々の間では、日本の伝統と文化の保持に特にこだわる人々が少なくない」(62)

4に、「韓国にはヘイトスピーチ、とりわけ日本人に対するヘイトスピーチを禁止した法律は存在しない。そうした中で、日本に対してのみ多文化主義を受け入れて、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチを禁止すべきだという主張が、どこまで説得力を持ちうるのか定かでないと言えよう」(63頁)。

最後に、「ヘイトスピーチの禁止を導入した時、政府に少数者集団の保護と言う名目のもとに、政府に不都合な表現の抑圧を許す危険性はないのかどうかも、真剣に検討する必要があろう」(64頁)

若干のコメントを付しておこう。

1に、ヘイト・スピーチの規制の要否と移民国家であるか否かは無関係である。日本が移民国家であろうとなかろうと、また日本政府が「日本は移民国家である」と認めようと認めまいと、現にヘイト・スピーチが起きてきたし、今も起きている。

松井は「カナダと異なり、日本の民族的構成は、はるかに多様性に欠ける」という奇妙な主張をする。世界には150か国にヘイト・スピーチ規制があり、それぞれの国の民族的構成は実にさまざまである。「どの程度の民族的構成ならばヘイト・スピーチ規制が必要だ(あるいは必要ない)」という主張を支えるような統計データはない。日本の民族的構成は、「はるかに多様性に欠ける」というが、日本人、先住民族(アイヌ民族、琉球民族)、移住マイノリティ(在日朝鮮人)、来日外国人など多様な民族的構成がすでに存在するのではないか。そもそも、多様性があろうとなかろうと、現に深刻なヘイト・スピーチが起き続けている。

2に、「伝統的に日本の社会は協調と調和に重きを置いてきた」というが、これは憲法解釈だろうか。俗流日本文化論にすぎないだろう。松井流のお国自慢ナショナリズムの表明でしかない。

3に「日本の保守的な人々の間では、日本の伝統と文化の保持に特にこだわる人々が少なくない」というが、これは憲法解釈だろうか。やはり俗流日本文化論にすぎない。政策論としてこのように主張するのなら理解できるが、合憲性判断の根拠として持ち出す合理性があるとは考えられない。

4に、韓国にはヘイトスピーチ法は存在しないという。およそ意味不明である。ヘイト・スピーチ規制が日本国憲法に照らして合憲か否かを論じているのに、なぜ韓国に規制法があるかないかが関係するのか。憲法論に突如として「相互主義」を持ち出すのはあり得ない話だ。

こんな暴論が通用するのなら、ドイツにはヘイト・スピーチ規制法があるが、その適用に際して「日本人に対するヘイト・スピーチだけは禁止しなくてよい」という議論になりかねない。フランスでもスイスでもイタリアでも、EU加盟国の全てで「日本人に対するヘイト・スピーチだけは禁止しなくてよい」という議論を採用すべきことになる。

5に、政府に不都合な表現の抑圧という「濫用の危険性」論である。刑事法にはつねに当てはまる一般論であって、ヘイト・スピーチ規制に固有の問題ではない。また、「政府に少数者集団の保護と言う名目のもとに、政府に不都合な表現の抑圧を許す危険性」というのは、具体的に何を意味しているのか不明だ。

現実に心配されるのは、「少数者集団の保護の法律を制定しても、政府が逆用して不都合な少数者集団による表現の抑圧を許す危険性」である。警察や裁判所にはこの」危険性があるので、弁護士・メディア・市民による厳しい監視が必要だ。

そもそも、ヘイト・スピーチの禁止要請には少数者集団の自由と人権(表現の自由)の保護が含まれる。「多数者集団の表現の自由の保護という名目のもとに、少数者集団の表現の自由を否定する」日本政府や松井説の下では「ヘイト・スピーチ天国」になり、重大人権侵害が放置され、民主主義が壊れていく。

多文化主義についてもコメントしておこう。

1に、私は多文化主義に基づいた議論をしない。松井が多文化主義に言及しているので、それにコメントしただけである。また、多文化主義を採用するか否かとヘイト・スピーチを規制するか否かは、まったく関連がないとは言わないが、そこから直ちに結論を引き出すことができるわけでもない。多文化主義を採用しようとしまいと、人種主義への批判、反差別と反ヘイトは当然である。

2に、私は日本政府(及び日本の自治体)が唱える多文化主義には一定の留保を付している。ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーンの企画参照。

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/01/20.html

3に、松井はカナダ憲法の多文化主義を特別視するが、深刻な疑問がある。2007年に国連が先住民族権利宣言を圧倒的多数の賛成により採択した時に、反対投票した4カ国の一つがカナダである。人種差別撤廃委員会でのカナダ政府報告書の審査を2度傍聴したが、先住民族差別やマイノリティ差別に関するカナダ政府の姿勢には重大な疑問がある。カナダは先住民族の遺骨を盗掘し、博物館に展示してきた。昨年発覚した先住民族の子どもに対するジェノサイド事件を見ても、カナダが根深いレイシズム国家であることは否定できない。カナダが多文化主義をとり、レイシズム克服の努力をそれなりにしているからと言って、特別に持ち上げる理由はない。

Saturday, February 12, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 02

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

1章 ヘイトスピーチと表現の自由

 はじめに

 1. 1 日本におけるヘイトスピーチ問題の歴史

 1. 2 在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチ

 1. 3 民事的救済および刑事処罰の可能性

 1. 4 ヘイトスピーチ禁止を求める声の高まり

 1. 5 ヘイトスピーチ禁止の合憲性

 1. 6 提案されているヘイトスピーチ禁止は正当化されるか

 1. 7 ヘイトスピーチ対策法および大阪市条例・川崎市条例の合憲性

 1. 8 ヘイトスピーチの現在

 結びに代えて

 松井は、ヘイト・スピーチの歴史として中世以来の部落差別に言及し、日本には古くからヘイト・スピーチがあったが、これを規制しようという刑事法の議論は近年のヘイト・スピーチ論議からと見る。特に在日朝鮮人に対するヘイト事件の頻発として、在特会によるヘイト活動があるという。そして、京都朝鮮学校事件民事訴訟の裁判経過を確認し、現行法でも十分、民事的救済の可能性があるという。京都事件の判決は、人種差別撤廃条約を引証したが、民法の不法行為による救済が可能であるから、「人種差別撤廃条約違反の違法性を付け加える実益はあまりない」(22)という。

 次に松井は、刑事法について検討し、現行法にはすでに威力業務妨害罪、脅迫罪、名誉毀損罪等があると指摘し、特定の人に向けられたヘイトは処罰できるが、在日朝鮮人一般に対するヘイトの処罰は難しいかもしれないと確認する。さらに公安条例等のデモ規制の限界も指摘する。その上で、ヘイトの禁止を求める声が高まってきたとし、その先駆けとして内野正幸の見解、及び2015年に参議院に提出された人種差別撤廃法案(廃案となった)を検討する。

 「1. 5 ヘイトスピーチ禁止の合憲性」において、松井は「国際的比較」と称して、まずアメリカ法を紹介する。内容に新味はなく、従来紹介されてきたことの再確認である。次にドイツ法の民衆扇動罪を紹介する。さらにカナダ刑法を紹介する。以上全てすでに紹介されてきたものであり、新味はない。三番煎じ、四番煎じといったところだろう。唯一明確なことは、松井にとって世界はアメリカ、ドイツ、カナダだけでできているということだろう。現代世界の深刻な問題の一つがレイシズムの跋扈であり、その具体的行為としてのヘイト・スピーチの流行である。レイシズムにいかに対処するべきかを考える時に、なぜ、レイシズム対策に前向きとは言えない代表的な国であるアメリカとカナダを参照するのか、理由が示されることはない。

その上で松井は「果たして日本国憲法の問題として、ヘイトスピーチを禁止し、違反行為に刑罰を加えることは正当化されるであろうか」と問う(34頁)。

松井は「まず、はじめに確認しなければならないことは、ヘイトスピーチも憲法上保護された表現であるということである」と断定する(34)。最初に断定ありき。「憲法上保護された表現である」からヘイト・スピーチの刑事規制は許されない。

松井は、ヘイト・スピーチは言葉による暴力であって、もはや表現と呼ぶことはできないという主張を取り上げ、「ヘイトスピーチはまさに『表現』である」と宣言し、「それは表現ではなく暴力行為そのものだと特徴づけることは適切とは思われない」という。

ヘイト・スピーチは表現の自由の保護を受けるので、表現の自由の制約の合憲性を判断する際にどのような枠組みを用いるべきなのかが問題となる」(36)という松井は、アメリカのブランデンバーグ判決や、カナダ最高裁判所の判例理論を再確認し、次のように述べる。

「ヘイトスピーチ禁止の合憲性を判断する際に、どのようなアプローチをとるべきか、具体的にはアメリカとカナダのアプローチのどちらが優れているのかは微妙な問題である」としつつ、カナダの判例法理には予見可能性が欠け、表現の自由の保護は危ういものとなるとして、「これらのことを考えると、カナダのような(そしてドイツのような)比例原則ではなく、アメリカのような厳格な枠組みの方が望ましいのではないかと思われる」と結論付ける(38頁)。日本国憲法の条文など無視して、アメリカ判例の法理を採用するべきと主張するのは憲法学の「主流」の典型であるが、なかなか理解しがたいことはすでに何度も指摘してきた。最近では前田『要綱』第2章第4節参照。

なお松井はヘイト・スピーチと言っても一括に論じることはできず、少なくとも4つの類型に分けて論じるべきとして、1)少数者集団への危害の煽動、2)少数者集団に対する名誉毀損、集団的誹謗、侮辱、3)差別の助長、4)ヘイトの増進、の4類型に分けて論じる。

ヘイト・スピーチには異なる類型が含まれることは、私も主張してきたし、成嶋隆もこれを論じてきた。奈須祐治も一段階と二段階という類型を設定している。この点では松井の指摘はもっともである。論者によって類型の分け方は異なるので、更に検討が必要だ。その際、松井の類型論も参考になる。

Friday, February 11, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 01

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641228009

松井は大阪大学名誉教授で、現在はブリティッシュコロンビア大学教授。著書に『司法審査と民主主義』『二重の基準論』『情報公開法入門』『マス・メディアの表現の自由』『インターネットの憲法学』『インターネットと法』『表現の自由と名誉毀損』『図書館の表現の自由』『マス・メディア法』『犯罪加害者と表現の自由』など多数。憲法学における表現の自由研究の大家として知られる。

目次

1章 ヘイトスピーチと表現の自由

2章 テロリズム促進的表現と表現の自由

3章 リベンジ・ポルノと表現の自由

4章 インターネット上の選挙活動の解禁と表現の自由

5章 フェイク・ニュースと表現の自由

6章 「忘れられる権利」と表現の自由

松井の『表現の自由と名誉毀損』ではヘイト・スピーチについてほとんど言及していなかったが、本書では第1章で90頁にわたってヘイト・スピーチについて論じている。ここ数年、ヘイト・スピーチが社会問題化し、憲法学を始め多くの法学者がヘイト・スピーチについて論じてきた。表現の自由研究で知られる憲法学者の多くは早くに論陣を張っていたが、松井は本書において詳しく論及している。

「表現の自由に守る価値はあるか」という表題は、憲法学が「表現の自由の優越的地位」と称して、表現の自由という価値を守るために努力を積み重ねてきたのに、現実には表現の自由への制約が増えてきており、不当な制約が多いのではないか、表現の自由に守る価値はないのか、という思いからの挑発が込められている。

「かつては表現の自由保護の大切さを信じていた人々の間でも、表現の自由の政府による制約を容認し、あるいは積極的に支持する人が増えているように感じられる」(はしがき)という松井の危機感がある。本書で取り上げるのは、ヘイト・スピーチ、テロ表現、リベンジ・ポルノ、ネット上の選挙活動等であり、その冒頭に置かれているように、何よりもまず、ヘイト・スピーチの規制を求める声が強まっていることに対抗して、表現の自由を死守するための著書である。

昨春、本書を購入して読み始めたが、早々に挫折してしまった。読み進める気力がなくなったためだ。というのも、いきなり次の記述にぶつかってしまった。松井は、在日朝鮮人の国籍について、朝鮮籍・韓国籍の説明をして、次のように述べる。

「これら朝鮮人の国籍は微妙である。朝鮮戦争の結果、北朝鮮と韓国が認められ、その後、日本政府と韓国の間で外交関係を正常化するための条約が締結され、韓国の国籍を持つ朝鮮人には韓国の国籍が認められた。しかし、日本はなお北朝鮮との間に正式の外交関係がない。それゆえ北朝鮮の支配下の地で生まれた朝鮮人は、未だ正式の国籍がない。」(本書16頁)

この短い文章にはいくつもの疑問がある。

1に、松井は「朝鮮戦争の結果、北朝鮮と韓国が認められ」という。

意味不明である。

1948815日 大韓民国建国

194899日 朝鮮民主主義人民共和国建国

1950625日 朝鮮戦争勃発

「~認められ」の主語が書かれていない。国家承認の意味であれば、国際社会がどのように国家承認をしたのか。「朝鮮戦争の結果」というのは意味不明。「日本政府が認めた」という趣旨ではないだろう。日本政府は「北朝鮮」を認めていない。二重三重の意味で奇妙な文章だ。

2に、松井は「韓国の国籍を持つ朝鮮人には韓国の国籍が認められた」という。

これも意味不明である。「韓国の国籍が認められた」というのは、どうやら「日本政府が認めた」という意味である。しかし本来、在日朝鮮人のAが韓国籍を保有するかどうかは韓国政府が決めることであって、日本政府が決めることではない。そもそも、「日本の国籍を持つ日本人には日本の国籍が認められた」と言い換えればわかる様に、ナンセンスギャグでしかない。善意で解釈すれば、上の一文は次の意味となる。「韓国が承認した国籍を持つ朝鮮人には、日本の外国人登録法上の韓国の国籍表記が認められた」。

3に、松井は「北朝鮮の支配下の地で生まれた朝鮮人」という。

何を言っているのだろうか。在日朝鮮人の圧倒的多数の出身地は慶尚北道、慶尚南道、済州島である。つまり、「朝鮮半島南部で生まれた朝鮮人とその子孫」である。植民地時代の江原道、平安北道、平安南道、平壌出身の在日朝鮮人とその子孫はせいぜい1~2%であろう。まして1948815日以後に朝鮮半島北部から日本に移住した朝鮮人の存在はほとんど知られていない。

4に、松井は「北朝鮮の支配下の地で生まれた朝鮮人は、未だ正式の国籍がない」という。

日本政府が外国人登録で用いる「朝鮮」は朝鮮民主主義人民共和国を指していない。もともと朝鮮半島出身を指していた。後に「朝鮮半島出身者で、韓国国籍でない者」を指すようになった。「朝鮮籍」の朝鮮人は「北朝鮮の支配下の地で生まれた」訳ではない。どこで生まれたかではなく、「韓国籍を選択しなかった」のである。

国籍そのものについて言えば、朝鮮籍の朝鮮人とは、朝鮮民主主義人民共和国が国籍を承認した朝鮮人のことである。日本の外国人登録法上の「朝鮮」籍の朝鮮人は、大雑把に言うと、「朝鮮民主主義人民共和国の公民」であることを選択した者と、韓国籍を選択しなかった者の両方を含む。

5に、松井は「未だ正式の国籍がない」と言う。

朝鮮籍の朝鮮人のうち「朝鮮民主主義人民共和国の公民」であることを選択した者の正式の国籍は朝鮮籍である。在日朝鮮人のBが朝鮮籍を保有するかどうかは朝鮮民主主義人民共和国が決めることであって、日本政府が決めることではない。「未だ正式の国籍がない」のではなく、「正式の国籍」があるのに日本政府と松井が勝手にこれを否認しているのである。これは、本人の国籍が何処であるかと、日本政府がそれを認めているかの混同に由来する。

松井は国籍を「日本政府が認めるか否かの問題」としているが、国際社会では国籍は権利の問題でもある。国際人権法では次のように考える。

世界人権宣言第15条は「1 すべて人は、国籍をもつ権利を有する。2 何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。」とする。

市民的政治的権利に関する国際規約(国際自由権規約)第243項は「すべての児童は、国籍を取得する権利を有する。」とする。

人種差別撤廃条約第5条1項(d)「他の市民的権利」の(iii)「国籍についての権利」は、国籍の権利について非差別と法の前の平等を定める。

④女性差別撤廃条約第9条は「締約国は、国籍の取得、変更及び保持に関し、女子に対して男子と平等の権利を与える。締約国は、特に、外国人との婚姻又は婚姻中の夫の国籍の変更が、自動的に妻の国籍を変更し、妻を無国籍にし又は夫の国籍を妻に強制することとならないことを確保する。」とする。

同条第2項は「締約国は、子の国籍に関し、女子に対して男子と平等の権利を与える。」とする。

児童の権利条約(子どもの権利条約)第71項は「児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」とする。

以上のように、国籍は権利の問題である。人の権利である国籍について、他人が勝手に変更したり、否認することは許されない。なぜ松井は国家権力を振り回すのだろうか。

松井の議論は誤謬だらけで粗雑であり、他人の人権を侵害している。フェイク爆発本に6,800円という値段をつけて売り出すのは詐欺商法ではないか。

と言う次第で、絶句のあまり、松井の本を読む気力が失せて、放置していた。しかし、本題のヘイト・スピーチについて何が書かれているか、やはり読む必要がある。