Monday, December 20, 2010

ぐろ~ばる・みゅ~ぢっく(24)あまむ・ぽんど











南アフリカで買ったCDです。




AMAM PONDO  Feel the Pulse of Africa, Incorporating Zimkile Inkomo




軽快な打楽器グループです。太鼓、ティンパニ、木琴、各種の笛が入り乱れるサウンド。ヴォーカル、叫び、口笛などもはいります。








Sunday, December 19, 2010

検察崩壊--必要な改革とは何か

『救援』500号(2010年12月)
入門セミナー・刑事法批判第9回報告
検察崩壊――必要な改革とは何か
「入門セミナー:現代日本の刑事法批判」第九回は、一一月一九日、佃区民館(東京都中央区)で開催された。大阪地検特捜部事件によって、ついに社会的に明らかになった検察崩壊を徹底批判し、真の刑事司法改革に繋げるための議論を始めるために。
「押収資料の改竄にまで手を染めた大阪地検特捜部の所業は論外にせよ、前田や大坪といった不良検事は、腐りきった刑事司法システムの末端で薄汚く蠢いた芥の如き存在に過ぎない。徹底的に指弾するべきは、法務・検察権力全体の暴走構造であり、それを許してきた刑事司法システム全体を覆っている劣化の構図である。当面は少なくとも、取り調べの全面可視化導入が必須作業となるだろう。さらには特捜検察など解体し、検事総長の民間登用なども推し進めるべきだ。しかし、それだけではまったく十分ではない。「代用監獄」の廃止や検察・警察が押収した証拠類の全面開示、そして何よりも司法官僚に牛耳られた裁判システムの抜本改善が、何よりも求められている。」(宮岡悠、本紙より)
 パネリストは、青木理(ジャーナリスト)、宮本弘典(関東学院大学教授)、山下幸夫(弁護士)の三名である。
メディアの役割
 青木報告は、冒頭に、一九七六年のロッキード事件における田中角栄首相逮捕や、一九八九年のリクルート事件における調査報道の「金字塔」(竹下政権の崩壊につながった)以来、「権力悪を撃つ」「巨悪を撃つ」という大いなる勘違いが始まったと振り返る。なるほど、それ以来、調査報道と特捜検察の活躍によってほぼ毎年のように腐敗政治家が逮捕された。スクープの時代であった。しかし、メディアと特捜の蜜月は何を産み出したか。第一に、メディアによる垂れ込み、特捜捜査開始、メディアによる巨悪叩きという一連の流れは、メディアによる「チクリ」構造をつくり上げた。しかも、検察批判はタブーとなった。警察不祥事はメディアが暴いたが、検察批判はできなくなった。それを破ったのが今回の朝日新聞記事である。メディアと検察の蜜月が崩れ始めた。この間、流行語となったように「国策捜査」の批判的解明は二〇〇六年から始めた。検察に狙われ追い落とされた政治家や官僚が使った言葉が「はじめにストーリーありき」であった。否認すれば保釈のない「人質司法」、代用監獄を利用した密室取調べ、弁護人接見の異常な制約、自白の強要にもとづく九九・九%有罪の「暗黒地帯」が現在の刑事司法である。可視化と証拠リスト開示、特捜廃止、自己完結型制度の改革(捜査と公訴権の独占の見直し)など数々の課題が指摘された。
解体されなかった検察
 宮本報告は、かつての戦時刑事特別法が現在の刑事司法を貫いていることを指弾した。治安維持法や国防保安法は解体され、新憲法と新刑事訴訟法によって刑事司法は大幅な衣装変えをした。刑事訴訟法学は、戦後改革を肯定的に評価してきた。しかし、証拠法は、一九四〇年代の戦時刑事特別法がそのまま残っていると見るべきである。大正刑事訴訟法でさえ検察官には強制処分権がなかったし、全証拠開示が原則であった。戦後改革で特徴的なのは、国家の暴力装置としての軍隊の廃止、警察・内務省の解体であったが、検察だけは維持された。GHQとの綱引きの結果、応急措置規定を通じて全面改革を引き伸ばした。被告人以外の供述調書には特信性(特段の信用性を担保する状況)が必要なのに、自白調書は任意でありさえすればいいとされた。検察の処分権限は一般刑事事件ではなく主に治安事件に発揮された。裁判所の任意性判断は非常に緩やかで、検察の思い通りになった。裁判所も、判決書で本来の証拠説明も必要なく、証拠の標目を示すことで足りるようになり、自由心証主義が悪用され、上訴・再審でチェックできない。暗黒裁判を打破するためには全面的改革が必要だが、当面早急に必要なのは、検察官の強制処分権の剥奪、当事者主義の貫徹、捜査段階の調書の証拠能力の制限(本人が死亡した場合などに限定すべき)であると述べられた。
全証拠開示を
 山下報告では、大阪地検特捜部事件を契機に始まったあり方検証チームや検証アドバイザーの動向紹介に続いて、まず村木事件無罪判決で裁判所が変わろうとしていることが指摘された。特捜事件を無罪にするなどと言うことは、これまでの裁判所には考えられないことであった。特捜の呪縛は、客観的証拠がなくてもストーリーに沿った調書さえあれば「質より量」で、同じ内容の調書が複数あればそれで有罪としていた。いくら調書があっても客観的証拠に合わないものは信用しないという当然のことさえ、無視されてきた。村木事件では、捜査があまりにも杜撰だったこともあるが、裁判所が検察主張を否定した。裁判所が変わろうとしているが、その流れを止めずに、コペルニクス的転換を実現することが必要である。改革については、民主党は可視化法案を出していたのに、政権についたら法案を捨ててしまい、新たに研究会を作ってゼロから始める有様である。可視化しないための研究をやっているようなものだ。証拠全面開示が必要だ。公判前整理手続きである程度出るようになったというが、被告人に有利なもの、必要なものは出さない。隠したままである。全面開示を追及する必要がある。可視化は捜査機関にとっても利益のはずだ。その意味で可視化は中立であることを強調したい。可視化した諸国では、警察も無用な疑いを避けることが出来るので、可視化が良かった、と言っている。可視化とともに弁護人立会いが必要だ。一部立会いは却って不利になることもあるので、立会い原則とすべきだ。さまざまな改革をばらばらにではなくセットで実現しなければならないとまとめられた。
参加者の声
 参加者からは、三井環元大阪高検検事などが進めている検察問題のデモへの参加呼びかけや、健全な法治国家の会が進めた前田検事に対する特別公務員職権濫用罪告発の報告があった。刑事訴訟法改革の歴史的意味についての質問に関連して、被逮捕者を悪人視し、はじき出す「善良な国民」というメッセージ装置の検証の重要性が指摘された。さらに、検察官上訴禁止も指摘された。さらに、三井環元検事が参加者として発言し、権力に安住し、濫用する検察官の意識の問題性が明らかにされた。
 報告の中では、検察改革は必須不可欠枢要な課題だが、それだけでは不充分である。代用監獄を始めとする弊害は警察改革を必要とする。警察・検察のやりたい放題を許してきたのは裁判所である。裁判所改革も必要である。権力に擦り寄る一部弁護士や刑事法学者にも問題があることが繰り返し指摘された。根本的な刑事司法改革が必要である。現実的にはあり方検証チームの結論を待たざるを得ないことになるが、元検事総長や御用学者が名を連ねるあり方検証チームのメンバー構成を見れば、根本的改革が提起される可能性はあまりない。徹底監視が必要である。       (文責・前田朗)

Friday, December 10, 2010

「軍隊は国民を殺す」

「週刊MDS」1085~1099号に隔号掲載(2009年5~9月)

非国民がやってきた!(61)

軍隊は国民を殺す(1)

 軍隊で平和はつくれない。

軍隊は国民を守らない。

 私たちは、日本国憲法9条の意義を語る際に、一方で平和の大切さ、平和主義の積極的意義を述べるとともに、軍隊が平和には役立たない、軍隊では国民を守れないことを強調してきました。国民を守らない軍隊が非国民を守らないことは言うまでもありません。

 平和学の泰斗ヨハン・ガルトングの「構造的暴力」概念が明らかにしたように、平和とは単に戦争のない状態ではありません。戦争ではなくても、平和とは言えない状態があります。生態系の破壊によって人々の暮らしの基盤が失われたり、極端な社会的な不平等によって共同体の絆が断ち切られた場合に、その社会は平和とは言えません。平和を破壊する暴力はさまざまな現れ方をします。

従来、「平和」とは「戦争のない状態」と定義されることが多かったのですが、これでは人種差別など、戦争ではないが平和とはいえない状態を理解するのが難しかったのです。そこでガルトゥングは「平和」をひとまず「暴力のない状態」と定義しました。「平和」は「暴力」をいかに定義するかにかかってきます。

「暴力」には「個人的(直接的)暴力」と「構造的(間接的)暴力」があり、「個人的暴力」のない状態を「消極的平和」、「構造的暴力」のない状態を「積極的平和」としました。「積極的平和」をより追求すべきであると主張しました。戦争がなくても、例えば食糧危機のように人々の暮らしも生命も危機に瀕している場合があります。軍事基地による被害もあります。

平和学者の岡本三夫は次のように述べています。

「積極的平和概念の内実は、経済的、政治的安定、基本的人権の尊重、公正な法の執行、政治的自由と政治プロセスへの参加、快適で安全な環境、社会的な調和と秩序、民主的な人間関係、福祉の充実、生き甲斐などであるが、このような平和指標は弾力的である。消極的平和は最も狭義に定義された固定的・静的平和概念であり、積極的平和は広義に定義された発展的・動的平和概念だということもできる」。

平和概念の再検討によって、平和学によるさまざまな理論的成果が生み出されましたが、ここでは、軍隊の存在そのものが平和を脅かすという点に注目してみましょう。

戦争と平和を対概念とすれば、抑止力としての軍隊も平和に役立つかのような外見を示すことができます。しかし、均衡理論こそが軍拡の原因であり、恐怖の核軍拡をもたらしたことは言うまでもありません。抑止力とは、より強い側が攻撃する観点に立っての抑止力にすぎません。抑止力が機能するのは、弱い側の抵抗を圧倒的に叩き潰す戦争のさなかだけです。

暴力と平和を対概念とすれば、さまざまな暴力のない状態を作り出す営みこそが平和を意味することになります。軍縮、そして非武装化こそが平和に繋がる唯一の方法なのです。

冷静に考えてみれば子どもでもわかること、それが「軍隊で平和はつくれない」「軍隊は国民を守らない」なのです。

それでは、軍隊は平和をつくろうとしても結果としてつくれないのでしょうか。国民を守りたいのに結果として守れないのでしょうか。この問いこそが本当の問いです。

<参考文献>

ガルトゥング『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、1991年)

岡本三夫『平和学は訴える――平和を望むなら平和に備えよ』(法律文化社、2005年)

非国民がやってきた!(62)

軍隊は国民を殺す(2)

 軍隊は平和をつくろうと努力したけれども失敗するのでしょうか。国民を守ろうとしても果たせないのでしょうか。

 構造的暴力のない状態を平和と定義すれば、そうではないことに気づきます。軍隊こそが構造的暴力の最たるものだからです。軍隊で平和をつくることができないだけでなく、そもそも軍隊は平和と矛盾するのです。国民生活を破壊するのです。

 日本軍の歴史はよく知られています。沖縄戦では日本軍は住民を守りませんでした。

 近年、沖縄戦における集団死(集団自決)について日本軍の責任をもみ消すために、「軍による自決命令はなかった」などと主張して、作家の大江健三郎や岩波書店を相手にした裁判が行われました。原告は大江健三郎の本を読んでいないのに、右翼弁護士に唆されて政治的目的で裁判を起こした疑いが指摘されています。歴史を偽造するための政治裁判です。本当の問題を見えなくさせるための煙幕が多用されました。

 第1に、日本軍は沖縄を「捨石」にして本土決戦を引き伸ばし、あるいは回避しようとしました。沖縄の犠牲の上に「本土」を守ることを考えたのです。

 第2に、そのため持久戦をめざして、住民を兵力の一端に位置づけました。軍人・軍属だけでなく、現地独断の民間人徴用、非正規の学徒隊・民間防衛隊を組織させ、戦闘予定地域に多数の民間人を配置しました。

 第3に、日本軍は住民を引き連れて移動しました。県民防衛隊や義勇隊、さらにひめゆり部隊などの女性たちまでも軍が引き回したのです。日本軍は「軍民分離」の原則を一切無視しました。

 日本軍は住民の生命・安全を守る配慮は何一つしなかったといって言い過ぎではありません。激戦のさなか多数の住民が亡くなったのは、日本軍に殺されたようなものです。

 それでは日本軍は何をしたのでしょうか。

 第1に、日本軍は沖縄住民を集団死に追い込みました。事実上の自決命令があったことも知られています。仮に個別具体的な命令のなかった場合でも、状況を支配し、住民を窮地に追い込み、助けもしなかったため、精神的に追い詰められた住民には選択肢が失われていました。

 第2に、日本軍は直接自らの手で住民を殺しました。限られた地下壕に避難したため、住民を追い出して避難壕を独占したり、米軍に所在が発覚することを恐れて壕の中で住民を殺したり、死なせたりしました。住民をスパイ容疑で裁判手続きもなしに不法に即決処刑しました。そうした中で自決に追い込まれた人も多数います。

 このように日本軍は自分たちを守るために積極的に国民を殺したのです。単に見捨てたのではありません。

戦時に軍隊は国民を守りません。それどころか、軍隊は軍隊自身を守るために平気で国民を殺すのです。

 日本軍に連れまわされた住民に被害が集中し、日本軍と一緒に行動しなかった住民が生き延びたことや、日本軍がいなかった前島のように被害を受けずに住んだ場所があることを見ても、軍民分離こそが民間人を守る唯一の方法であることが明らかです。

 では、戦時でなければ軍隊は国民を守るのでしょうか。

<参考文献>

林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)

沖縄タイムス社編『挑まれる沖縄戦――「集団自決」・教科書検定問題報道総集』 (沖縄タイムス社、2008年)

謝花直美『証言沖縄「集団自決」――慶良間諸島で何が起きたか』 (岩波新書、2008年)

非国民がやってきた!(63)

軍隊は国民を殺す(3)

 軍隊は戦時に自国民を殺します。それでは戦時でなければ殺さないのでしょうか。

 法律上の死刑だけでなく、法律外の死刑、つまり虐殺も含めて検討した、アメリカン大学のリタ・サイモンとダグニィ・ブラスコヴィチは「ジェノサイドとデモサイド」と題して国家による大量殺人を取り上げています。

 デモサイドという言葉はジェラルド・スカリーによるものだそうですが、国家が普通の住民・市民を殺すことがデモサイドであり、少数者など特定集団を殺すジェノサイドと区別されます。サイモンとブラスコヴィチは20世紀にジェノサイドかデモサイドを行った国を約100カ国も列挙しています。

 デモサイド概念から明らかになるのは、国家は国民を守らないこと、それどころか「国家は国民を殺す」ことです。国民を殺した国家の一覧表は容易につくれますが、国民を殺さず守った国家の一覧表をつくることは決して容易ではないでしょう。「普通の国家」は国内において国民を殺し、少数者や外国人を殺し、余裕があれば外国に出かけてもっと殺すのです。一番余裕のある国がアメリカです。

 日本軍は関東大震災に際して多数の朝鮮人を殺しました。韓国併合条約以後ですから、朝鮮人は「日本人」でした。

 一般には、「朝鮮人が井戸に毒を投げた」という流言飛語のため、興奮した日本人が各地で朝鮮人を殺してしまったとされています。しかし、これは不正確な表現です。日弁連調査報告によると、大震災に際して真っ先に朝鮮人を殺したのは日本軍です。

 地震発生は1923年9月1日午前11時58分です。翌2日、政府は緊急勅令の戒厳令を宣告しました。3日、東京戒厳司令官は、集会禁止、検問所設置、家屋検察など諸権利の制限を定めました。

 震災当日の1日、早くも東京府月島で日本軍兵士が朝鮮人1名を撲殺しました。

 2日、千葉県南行徳村で騎兵15連隊兵士が朝鮮人1名を射殺しました。

 3日には虐殺が広がりました。東京府両国橋付近で兵士が朝鮮人1名を射殺。東京府下谷区三輪町で朝鮮人1名を刺殺。大島町で兵士が朝鮮人を殴打したことがきっかけとなって群集・警察官も巻き込んだ乱闘となり朝鮮人200名が殺害されました。永大橋付近で朝鮮人17名が射殺。大島丸八橋付近で朝鮮人6名射殺。亀戸駅構内で朝鮮人1名射殺。千葉県浦安町役場前で朝鮮人3名射殺。

 4日、千葉県松戸で兵士が朝鮮人1名射殺。南行徳村で2名射殺。同日同所でさらに朝鮮人5名射殺。これ以外にも朝鮮人や中国人が虐殺されています。

 6600名ともいわれる朝鮮人虐殺の相当の部分は民衆によるものでしたが、日本軍が真っ先に虐殺して民衆に模範を示したのです。

 しかも、内務省が都道府県に通知を出しました。「朝鮮人が毒を投げた」という流言飛語も、民衆ではなく、当局から流されたのです。都道府県から市町村を経て降りてきた通知に基づいて、民衆は自警団などを組織して、混乱と興奮のなか朝鮮人を虐殺してまわったのです。事実上、軍や内務省が民衆に朝鮮人虐殺を行わせたのです。事件の本質は、日本政府・日本軍による朝鮮人虐殺です。それを民衆に責任転嫁してごまかしてきたのです。

<参考文献>

サイモン&ブラスコヴィチ『死刑の比較分析』(レキシントン書店、2007年)

日本弁護士連合会『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』(2003年)

非国民がやってきた!(64)

軍隊は国民を殺す(4)

 軍隊は国民を守りません。そもそも軍隊が守る「国民」とは誰のことでしょうか。軍隊に動員された若者たちは「国民」に数えられるのでしょうか。

 自国の若者をまったく無意味に大量死させているのが米軍です。アフガニスタンとイラクにおいて、米軍が殺したアフガン人とイラク人の数は知れません。大半は民間人です。同時に米軍兵士も大量に死んでいます。戦闘だけではなく、自殺爆弾によって、地面に埋められた地雷に触れて、あるいは思わぬ事故によってイラクだけで4000人を超えたといわれます。アフガンでも1000人に迫るでしょう。

 劣化ウラン弾の重金属毒性と放射能汚染による被害も計り知れません。夥しい米軍兵士が汚染され、人体にさまざまな被害を受けています。帰国後に発病したり、家族・子どもたちに障害が生じたりしています。

 さらに戦場体験によるトラウマで病気になり、自殺した元兵士も少なくありません。

 それ以前に、アブグレイブやグアンタナモで異常な拷問や性拷問に励んでいた米兵たちは、自らの精神を冒されていたのではないでしょうか。拷問以外にも民間人虐殺や虐待の現場に居合わせた米兵たちが受けたトラウマも無視できないはずです。

 遡って考えれば、イラクに行く以前にすでに精神の荒廃が始まっています。殺人や破壊の訓練を受けて、すでに人格に見えない亀裂が入っていたというべきでしょう。自国の若者に殺人訓練を行うことで、若者の精神を蝕むのが軍隊なのです。

 こうして死んだり、自分を破壊してしまった米兵の多くが貧しく学歴のない若者で、従軍の代償として得られる奨学金で大学進学を希望しています。

 大量の兵士を無意味に餓死させマラリアで死なせた日本軍についても同じことがいえます。特攻隊も若者を無惨な死に追いやりましたが、歴史学者の藤原彰によると、例えば1942年8月から43年1月にかけてのガダルカナルの戦いで、第8方面軍は船団輸送の失敗を繰り返し補給物資を送れず、米軍上陸に対する奪回作戦に失敗しました。ガダルカナル島上陸兵3万1400名のうち戦死は6000名に対して、餓死・病死は1万5000名です。

 1943年6月から44年1月にかけてのソロモン諸島のブーゲンビル島では「座して餓死せんよりは戦って最後を全うす」という今村均司令官の精神主義的暴挙により攻撃失敗を繰り返し動きが取れなくなります。上陸兵4万のうち戦後まで生き延びたのは2万3000名にすぎません。

 1943年1月からのニューギニア戦線では、大本営はモレスビー攻略に固執して、5000メートル級の高山を踏破する無謀な作戦を強行し、投入兵力14万8000名のうち戦没が13万5000名、うち餓死が9万という惨憺たる結果に終わりました。

 これで驚いてはいけません。1944年3月に始めたビルマ(ミャンマー)のインパール作戦では、補給計画もなしに携行食糧2週間分しか持たない部隊を次々と出動させ、方面兵力30万3500名、戦没18万5000名、推定病餓死14万5000名という信じがたい記録を残しています。反省能力のまったくないのが日本軍です。

 こうして第2次大戦における戦没者230万、うち60%の140万が戦病死と推計されます。「戦死」といっても戦闘ではなく、飢え死にしただけです。大本営によって殺されたも同然の若者を「英霊」などと讃えているのです。

<参考文献>

藤原彰『餓死した英霊たち』(青木書店、2001年)

非国民がやってきた!(65)

軍隊は国民を殺す(5)

 軍隊は自国の若者に無意味な死を強制します。

自衛隊について見てみましょう。自衛官の殺人訓練は、2008年6月10日に、訓練中の自衛官の死亡事件が発覚したことで注目を集めました。

海上自衛隊第1術科学校(広島県江田島市)の特殊部隊「特別警備隊」(特警隊)養成課程で2007年9月、隊員の3曹(25歳)が15人を相手にした格闘訓練中に死亡した事件で、海自警務隊は2008年6月10日、安全配慮を怠ったとして、現場にいた教官と教育担当の小隊長ら計4人を業務上過失致死容疑で広島地検に書類送検しました。2日後に移動予定だった3曹に対する「はなむけ」と称して、対15人訓練で死なせたもので、要するに一方的ななぶり殺しです。

 自衛官の劣化ウラン弾被害は明らかになっていません。イラク派遣から帰国した自衛官について十分な医療検査が行われていないとも言われています。

 他方、自衛官の自殺は深刻です。

 1999年11月8日、和歌山県潮岬沖を演習航海中だった海上自衛隊の新鋭護衛艦「さわぎり」船内で一人の乗組員(21歳)がロープで首吊り自殺しました。生前から「上官に嫌がらせを受けている」と訴えていました。通夜に参列した分隊長もイジメがあった事実を認めていました。高級酒を貢がせ、人格を否定する暴言によるイジメです。しかし、自衛隊の調査報告はイジメの事実を否定しました。

 2004年10月、 横須賀基地に所属する護衛艦「たちかぜ」の電測員(21歳)が駅のホームから飛び降り自殺しました。遺書には、たちかぜ乗組員の一人を名指しで「お前だけは絶対に許さねえからな」とありました。たちかぜ内では、それまでに暴行や恐喝が何度も起きていました。しかし、自衛隊は暴行・脅迫と自殺の間には因果関係がないとしています。

 さわぎり事件もたちかぜ事件も、遺族は自衛隊を相手に裁判を起こさざるを得ませんでした。自衛隊は、組織の責任を隠蔽する調査報告書を作成し、裁判においても事実を否定し、証拠を隠匿して抵抗しています。

 2008年4月14日、05年11月に首吊り自殺した航空自衛隊浜松基地所属の三等空曹(29歳)の遺族が自衛隊を提訴しました。暴行や暴言による激しいイジメのための自殺です。ここでも自衛隊はイジメはなかったと強弁しています。

 日本経済新聞2008年4月16日夕刊によれば、自衛隊員の年間自殺は他の公務員の2倍です。2004年度には93人、05年度、06年度は93人も自殺しています。08年3月24日にはイージス艦「あたご」の乗組員が手首を切って病院に運ばれました。

 自殺理由は、借金問題が24%、家庭が11%、職務が4%です。「イラクへの海外派遣やテロ関連警備の強化もストレス増になっている」との内部の声もあるそうです。ところが、自殺の約6割は「その他・不明」と分類されています。6割というのは異常な数字です。実際はイジメによるのではないかと推測されていますが、自衛隊はそれを否定します。あくまで理由は不明なのです。

 2008年8月25日、福岡高裁は、さわぎり事件について「自殺は隊内のイジメが原因」として、国に遺族への賠償を命じました。もはや自衛隊員が隊内のイジメによって自殺に追い込まれていることは否定しようがありません。

<参考文献>

三宅勝久『悩める自衛官――自殺者急増の内幕』(花伝社、2004年)

三宅勝久『自衛隊員が死んでいく』(花伝社、2008年)

非国民がやってきた!(66)

軍隊は国民を殺す(6)

 「権力は殺す。絶対権力は絶対に殺す。この新しい権力原則こそ、今世紀における戦争原因に関する私の従来の研究およびジェノサイドと政府大量殺害に関する本書に端を発するメッセージである。政府が権力を持てば持つほど、政府はエリートの気まぐれや欲求に従って、ますます恣意的に行動するようになり、他国への戦争や、外国人住民や自国民に対する殺害を始めるだろう。政府権力が抑制されればされるほど、権力は拡散し、監視され、均衡が取れるようになり、他国を攻撃したり、デモサイドを行うことが少なくなる」。

 ルドルフ・ラメル(ハワイ大学名誉教授)は、ジェノサイド、政府大量殺害、デモサイド(民衆殺害)についての研究『政府による死』冒頭にこの言葉を配しています。ラメルは「20世紀デモサイド」と題する表を掲げています。1987年までの統計をもとに、1994年にラメルがつくった表です。そこでは大量殺害を5段階に分類しています。

第1は、最大規模の「デカ・メガ殺害」。ソ連邦(1917~87年)におけるデモサイドは6191万人、現在の中国(1949~87年)は3524万人、ナチス時代のドイツ(1933~45年)は2095万人、内戦と戦争の時代の中国(1928~49年)は1008万人とされています。さらに、国内における殺害とジェノサイドを区別しています。ソ連邦の場合、国内における殺害が5477万、ジェノサイドが1000万です。殺害率は0.18%となっています。

 第2は、「レッサー・メガ殺害」。日本(1936~45年)、596万。クメール・ルージュ(ポルポト派)のカンボジア(1975~79年)、204万。オスマン・トルコ時代のアルメニア・ジェノサイドなどでトルコ(1909~18年)、188万。ポーランド(1945~48年)、159万など。日本の場合、国内における殺害とジェノサイドに区分した数値は不明とされています。カンボジアの場合、国内における殺害は200万、ジェノサイドは54万、殺害率は8.16%です。ポーランドの場合、国内における殺害のすべてがジェノサイドで159万、殺害率は1.99%です。

 第3は、「メガ殺害の疑い」です。朝鮮(1948~87年)、166万。メキシコ(1900~20年)、142万。帝政ロシア(1900~17年)、107万。メキシコの場合、国内における殺害が142万、ジェノサイドは10万、殺害率0.45%です。

 第4は、「センチ・キロ殺害」。戦争期の中国(1917~49年)、91万。アタテュルク時代のトルコ(1919~23年)、88万。イギリス(1900~87年)、82万。独裁政権期のポルトガル(1926~87年)、74万。インドネシア(1965~87年)、73万。トルコの場合、国内における殺害が70万、ジェノサイドが88万、殺害率が2.64%です。

 第5は、「小規模殺害(レッサー殺害)」。表には具体例がのっていませんが、本文中には、アフガニスタン、アンゴラ、アルバニア、ルーマニア、エチオピア、ハンガリー、ブルンジ、クロアチア、チェコスロヴァキア、インドネシア、イラク、ロシア、ウガンダがあげられています。そして、「ドイツと日本の文民に対する無差別爆撃ゆえに、アメリカもこのリストに追加されねばならない」としています。

 5段階のメガ殺害の集計として、ラメルは20世紀(1900~87年)におけるデモサイド総数は、1億5149万人としています。2000年までの集計をすれば、数字はどのくらい跳ね上がるのでしょうか。

<参考文献>

ルドルフ・ラメル『政府による死(第6版)』(トランザクション出版、2008年[初版1994年]

非国民がやってきた!(67)

軍隊は国民を殺す(7)

 20世紀における世界のデモサイド(民衆殺害)とジェノサイド(集団殺害)を研究したルドルフ・ラメル(ハワイ大学名誉教授)は、主要なデモサイド事例21を列挙しています。さまざまな資料や統計に依拠しているため、叙述が一義的でない面もありますし、歴史的に検証されたといえるか否かは争いもありえますが、概ねの理解を得るには十分なものです。

第1にソ連邦の強制収容所(1917~87年)が犠牲者3946万人。続いてユダヤ人ホロコースト(1942~45年、529万人)。ウクライナの意図的飢餓(1932~33年、500万人)。中国土地改革(1949~53年、450万人)。ソ連の集団化(1928~35年、313万人)。カンボジア(1975~79年、200万人)。中国文化大革命(1964~75年、161万人)。ポーランドによるドイツ人排斥(1945~48年、158万人)。ベンガル地方のヒンドゥー・ジェノサイド(1971年、150万人)。アルメニア・ジェノサイド(1915~18年、140万人)。スターリンの大粛清(1936~38年、100万人)。セルビア・ジェノサイド(1941~45年、66万人)。インドネシア大虐殺(1965~66年、51万人)。ウガンダ大虐殺(1971~79年、30万人)。ヴェトナムのボートピープル(1975~87年、25万人)。スペイン内戦(1936~39年、20万人)。南京大虐殺(1937~38年、20万人)。コロンビア虐殺(1948~58年、18万人)。ブルンジ虐殺(1971~72年、15万人)。東ティモール虐殺(1975~87年、15万人)。ドイツによるナミビア虐殺(1900~18年、13万人)

ここには1990年代の旧ユーゴスラヴィア、ルワンダ、その後のスーダンのダルフール・ジェノサイドなどは含まれていません。ヒロシマ・ナガサキも、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争などにおける米軍による民衆殺戮も含まれていません。

ラメルはさまざまな観点での分析が可能であることを示しています。例えば地域別に見ると、旧ソ連邦地域、アジア、欧州、アフリカなどの人口構成とデモサイドの率を比較することができます。あるいは民主主義国家・権威主義国家・全体主義国家の比較も可能です。もっとも、こうした分析は時にイデオロギー論争の種にもなります。重要なことは、いかなる国家体制のもとでデモサイドが多いのか、少ないのかではありません。民主主義国家でさえもデモサイドを経験していることに注目するべきでしょう。

ラメルは「デモサイド対戦場の死」という比較もしています。非民主的国家と民主的国家の対比も含まれていて、非民主的デモサイドが82.2%、非民主的な戦場の死が14.6%、民主的な戦場の死が2.2%、民主的なデモサイドが1%といいます。

かくしてラメルは、デモサイドや惨事についての知見に合致するような政府概念の再構築が必要であるといいます。従来の政治学における政府や政策の概念は、政府や政策が住民のための安全や福祉を提供する積極的な意味合いだけを基にして定義されています。ラメルが提起しているのは、逆の事態です。デモサイドの現実に見合った政府・政策の理解が求められます。「実際、ジェノサイド、殺害、死亡、処刑、虐殺に言及した政治学や政策論の書物を見出すことができないのだ。ソ連邦や中国に関する書物でさえそうである。強制収容所、労働収容所について、たかだか一小節触れられることはあるが、これらが指標とされることはない」とラメルは言います。

 ラメルの結論は単純明快です。「戦争を終わらせ、デモサイドを根絶する方法は、権力を制限・監視し、民主的自由を育てるしかない」。

非国民がやってきた!(68)

軍隊は国民を殺す(8)

 軍隊で平和はつくれない。

軍隊は国民を守らない。

この言葉の意味は、軍隊は国民を守ろうとしても守れないということではありません。軍隊はそもそも国民を守らない。むしろ、まず国民を殺すものだということです。

それでは軍隊とは何なのでしょうか。その定義を明らかにしないまま議論を進めてきました。従来の軍隊の定義自体が必ずしも適切とは思われないからです。一般に軍隊は、一定の組織編制のもとにある軍人集団と定義されます。これでは定義になっていません。軍人とは何かが明示されていないからです。それでは軍人とは何でしょうか。軍隊構成員ということになります。別の定義では、軍隊とは陸・海・空の武装勢力とされます。武装勢力とは軍人などの武装した団体のことですから、これも定義になっていないのです。

国際法上は、交戦権を有する存在が軍隊とされます。その特徴は、責任ある指揮官に指揮され、軍隊と識別しうる標識を有し、武器を公然と保持し、戦争法規を遵守するものを指しています。交戦権の主体とは、一部の例外があるとはいえ、実質は国家(または国家となろうとする勢力)です。りんごと識別しうる標識を備えたものがりんごだと言っているにすぎません。

要するに、国家の暴力装置のひとつが軍隊なのです。近代以前であれば、国家と軍隊とが論理必然的に結びついていたわけではありませんが、近代以降は国家と軍隊は不可分の存在となっています。ですから、軍隊の定義は国家概念に依存せざるをえません。

 ところが、国家の定義も非常に不十分です。イェリネク以後のもっとも有名な国家3要素説は、国家とは領土・人民・主権から成るとしていますが、国家の要素を羅列しているだけです。さまざまな国家学説は、国家イデオロギーを説明したり、国家構造を解明したりしますが、国家の現実を説明しません。

 国家の要素、イデオロギー、構造を抽象的に解明する国家学説は、理念的な国家の論理を明らかにしていますが、国家のタテマエを表明しているにすぎません。

 国家の存立がいかなる論理に依拠しているのかを解明する理論も、形成された国家のあれこれの現象を説明するだけです。国家形成過程における排除と統合の実態を踏まえているとはいえません。

 国家が国家として形成・存立するために、軍隊や警察という暴力装置を独占し、徴税や各種立法という権力を行使することは自明のことですが、暴力装置が何に対して向けられるのかを注意する必要があります。

 国家暴力装置は、対外的には自らの国境を確定するために、自国領とそれ以外、自国民とそれ以外を区別するために発動されます。それだけではありません。国家暴力装置は同時に内部に対しても発動されなければなりません。統合と排除とは1つの過程の2つの側面です。

 ここで国民概念も問い直す必要が出てきます。国家形成以前に当該国家の国民が自立的に存在していることはありません。国境画定によって外部を排除するとともに、内部に抱え込んだ異質分子を同定(または排除・せん滅)しなければ、国民国家はそもそも形成できません。

 国家は国民/非国民を必要とします。非国民を排除・せん滅することなしに、国民を同定することは容易ではありません。国民の中に非国民を探り、狩り出します。軍隊は非国民を殺し、非国民候補を殺します。そうして初めて国民を形成できるのです。国民国家とはつねに同時に非国民国家でなければならないのです。結局、国家は国民を殺します。国民を殺さなければ国家になりえないといって過言ではありません。

ぐろ~ばる・みゅ~ぢっく(23)すうぇ~でん・だらるな


北欧諸国もスカンジナビア・ポップスヤロックが盛んですが、ふぉ~く・みゅ~じっくを聞くとほっとします。


このCDのダラルナ地方の伝統的バイオリン・サウンドは人々の日常の暮らしや冠婚葬祭の音楽です。


カール・ヨハンの行進曲

もっとも美しい朝

オマス・パーによるジャンピング・ゲーム

マクリンの結婚行進曲

悲しみの力

悪魔の糸巻き

狂った糸巻き

心から君を愛す

幸せの歌

レジスメ・パーのワルツ


Wednesday, November 24, 2010

人間疎外とたたかう刑事法学の可能性(2)

『救援』499号(2010年11月)

厳罰化政策批判

  森尾亮・森川恭剛・岡田行雄編『人間回復の刑事法学』(日本評論社)は、「厳罰化政策と人間疎外」(第一部)「差別の克服」(第二部)「人間回復に向けて」(第三部)に、一三本の論考を収める。

陶山二郎「謙抑主義に関する一考察」は、集合住宅でのビラ配布が住居侵入罪とされた立川テント村事件を素材に、一審無罪判決と控訴審・最高裁有罪判決の間に、刑罰による処罰は「最後の手段」とする謙抑主義に対する態度の相違があるのではないかとして、戦前日本における謙抑主義に関する学説をフォローし、謙抑主義の法的根拠をめぐる議論を検証した上で、謙抑主義を源とする可罰的違法性の理論を、基本原理の実体刑法解釈への具体化の例として素描し、佐伯千仭の可罰的違法性論がもつ実践的意義を確認する。

福永俊輔「教唆犯規定の意義に関する一考察」は、刑法典における「正犯」と「共犯」をめぐる規定の齟齬に着目し「教唆犯は正犯ではない」という命題を俎上に載せる。フランス刑法、特にオルトランの刑法思想の影響を受けた刑法における正犯と共犯の意味を探るために刑法史を詳細に追跡し、現行刑法の理解として「教唆犯は正犯ではない」ではなく「教唆犯は身体的正犯ではない」と理解すべきとし、教唆犯が「知的正犯」である可能性を浮上させる。

雨宮敬博「入札談合等関与行為防止法の処罰規定について」は、独占禁止法に発しつつ、二〇〇〇年の入札談合等関与行為防止法に発展した処罰規定について、法律制定過程を検討した上で、職員による入札等の妨害の罪の成立範囲に疑問があり、正犯への「格上げ」に伴う処罰範囲の拡大や、処罰規定を設けたこと自体の当否について検討し、拙速な処罰規定導入であったとし、本質的な問題解決にならないと批判する。

春日勉「刑事弁護と防御権」は、「司法改革で被疑者・被告人の防御権保障は拡大したか」を問うために、戦後刑訴法理論における防御権論を踏まえ、司法制度改革審議会における議論に被疑者・被告人の権利の理解が十分ではなく、権力を行使する側から見た「適正な弁護」の議論が前面に出て、捜査の現状に対する批判を抜きに公判前整理手続きが導入されたと見る。

以上の諸論文は、前号で紹介した二論文とともに「厳罰化政策と人間疎外」としてまとめられている。刑法原則を直接取り上げたもの、刑法総則規定に関するもの、特別刑法に関するもの、そして刑事訴訟法を主題とするものと、研究領域は多様であるが、現代日本における厳罰化政策・重罰化が刑事司法にもたらしている歪みとその原因をていねいに明らかにしている。

差別の克服と人間回復

本書後半では、「差別の克服」と「人間回復に向けて」がテーマとされる。

櫻庭総「差別煽動行為の刑事規制に関する序論的考察」は、副題が「刑法におけるマイノリティ保護と過去の克服」であり、差別煽動行為に関する議論状況を見据えつつ、差別煽動行為と表現の自由に関する従来の刑法学説を検討して、「差別表現の自由」という論理に焦点をあて、「無制約な表現の自由を盾に差別煽動行為の規制を否定することは、必ずしも表現の自由を保障することにはならない。つまり、保障されるべき表現の自由が持つべき価値、ないし質に関する検討が阻害され、結果として何が許されない差別表現かを議論する土台が一向に築かれないという矛盾に陥っている」とする。筆者は最後に次のように述べる。「差別事件を刑事罰によってのみ対応することは、何ら問題の解決にならない。しかし、『表現の自由』を盾に問題を市民社会の『見えざる手』に全権委任することもまた、厳しい現実に直面している当事者にとっては差別の放置にしかならない。マジョリティたる『市民』の『表現の自由』を保障するため、マイノリティの人権が犠牲にされてきた側面はないだろうか」。

稲田朗子「戦前日本における断種法研究序説」は、医師による議論と優生学の広がり、法律家の反応を詳細に検討し、ここにも「新派」と「旧派」の対立があるが、真の対抗関係には立ち入っていない疑問を指摘する。

平井佐和子「ハンセン病問題と刑事司法」は、熊本県菊地市で起きたダイナマイト事件など菊地事件をとおして、ハンセン氏病患者に対する差別による隔離と「みせしめ」としての処刑にほかならなかったことを明らかにする。

森川恭剛「ヨーロッパ中世のハンセン病と近代日本の隔離政策」は、日本における隔離政策の意味を考察するために、ヨーロッパ中世における隔離思想の展開を跡付け、排除と救護と感染予防の歴史的相関関係を踏まえ、「慈善の覚醒における関心が施す側にあったことは強調されているが、そこに隔離が排除の意味に傾くというハンセン病療養所の機能転換の一因がある」と指摘する。

第三部「人間回復に向けて」では、鈴木博康「福知山線列車事故報告書をめぐって」が、業務上過失致死事件として処理された事件について、刑事責任追及型システムから原因究明型システムへの転換を強調する。

大藪志保子「フランスの薬物政策」は、薬物自己使用罪の非刑罰化をめぐってフランスの経験を歴史的に検証して、非刑罰化、非犯罪化の議論を展望する。

岡田行雄「少年司法における科学主義の新たな意義」は、少年事件における鑑別や社会調査における科学主義とは何であり、いかなる実践がなされるべきかを問い返し、新たな科学主義の構築を試みる。

以上、極めて簡潔に紹介してきたが、本書の特質は、執筆者が内田博史門下の研究者であるという人的なつながりだけによるのではない。内田刑法学に学んで、「近年における人間疎外の刑事法改革を批判的に検証し、人間回復の刑事法学への転換を提起する」という問題意識を共有しながら、各自の課題に応じて、独自のスタイルで各自の論考を書き上げたことが重要である。一つひとつの論考それぞれに学ぶべき点を列挙する余裕がないが、若手研究者中心の意欲的な挑戦に感銘を受けたことを表明しておきたい。第三部が分量的に非常に少なく、個別論文しか収録されていない点はやや物足りないが、言うまでもなくこの挑戦はこれからも続く。九州発の人間回復の刑事法学は、他の刑事法研究者に対する見事な挑発であり、それぞれの応答を求めている。より若い世代の研究者を含めて、第二、第三の挑戦が世に問われるであろうことを期待して本稿を閉じたい。

人間疎外とたたかう刑事法学の可能性(1)

『救援』498号(2010年10月)

 森尾亮・森川恭剛・岡田行雄編『人間回復の刑事法学』(日本評論社、二〇一〇年)が公刊された。内田博文(現・神戸学院大学教授)の九州大学法学研究院退官を記念して、門下生たちが編んだ論文集である。

 編者は、一九九〇年代からの刑事法改革が「厳罰化」「犯罪化」「処罰の早期化」「処罰のボーダレス化(国際化)」や、犯罪被害者の保護や司法参加、公判前整理手続き、裁判員制度の導入、公訴時効の廃止に結びついているが、これは市民の声を反映したとされているものの、「今や日本の刑事司法における人権保障はきわめて希薄化ないしは限定化され、さらには刑事法改革を評価しているはずの犯罪被害者やその遺族にさえ孤立感・疎外感をもたらす事態になっている」という認識に立っている。日本刑事法学は伝統的に欧米学説の翻訳紹介によって成り立ってきたが、内田刑事法学の方法論的関心は、「『孤人』主義化した現代社会システムはグローバルな偏在性をもっており、私たちの眼前で進行している。そうであるならば私たち一人一人がベッカリーアの目をもち、正面からこれと向き合うべきであろう。私たちの課題は、人間疎外の深刻化した現代社会において、片隅に追いやられ、声をあげることすらできない人々の苦痛や哀しみを理性と感性で受け止め、必要に応じて刑事法学から踏み出して学び、これを打開しようとすることである」とまとめられ、編著者たちはこれを自らのものとして継承し、発展させようとしている。正面切って『人間回復の刑事法学』と命名したのは、旧来の刑事法学への挑戦状とするためである。各論文に言及する余裕がないので、構成・目次を掲げておこう。

第一部は「厳罰化政策と人間疎外」をテーマに、梅崎進哉(西南学院大学教授)「厳罰化・被害者問題と刑法の存在理由」、森尾亮(久留米大学准教授)「刑事立法の活性化と罪刑法定主義」、陶山二郎(茨城大学講師)「謙抑主義に関する一考察」、福永俊輔(九州大学法学研究院協力研究員)「教唆犯規定の意義に関する一考察」、雨宮敬博(宮崎産業経営大学講師)「入札談合等関与行為防止法の処罰規定について」、春日勉(神戸学院大学准教授)「刑事弁護と防御権――司法改革で被疑者・被告人の防御権補償は拡大したか」が収録されている。

第二部は「差別の克服」をテーマに、櫻庭総(九州大学法学研究院助教)「差別煽動行為の刑事規制に関する序論的考察」、稲田朗子(高知大学准教授)「戦前日本における断種法研究序説」、平井佐和子(西南学院大学准教授)「ハンセン病問題と刑事司法――菊地事件をとおして」、森川恭剛(琉球大学教授)「ヨーロッパ中世のハンセン病と近代日本の隔離政策」を収録する。

第三部は「人間回復に向けて」をテーマに、鈴木博康(九州国際大学准教授)「福知山線列車事故報告書をめぐって」、大藪志保子(久留米大学准教授)「フランスの薬物政策――薬物自己使用罪の非刑罰化をめぐって」、岡田行雄(熊本大学教授)「少年司法における科学主義の新たな意義」が収録されている。

刑事立法と刑法原則

 近年における刑事立法の活性化は、凶悪犯罪増加キャンペーンに代表されるように、犯罪被害を恐れる市民の法感情に牽引された。立法事実の冷静な検証は割愛され、立法が社会に与えるさまざまな波及効果の測定も省略され、刑法原則との整合性も抜きに、情動的な拙速主義が貫かれていた。このことがもたらしている負の影響を的確に認識し、是正することが刑法学の課題となっている。

 梅崎進哉「厳罰化・被害者問題と刑法の存在理由」は、厳罰化・被害者問題の噴出の構造を検討したうえで、刑法学の理論的特質を分析していく。まず機能主義刑法学について、社会を形成する「価値の共有」の観点で、「機能主義刑法学は、人間が本来的に有している結合の絆をわざわざ断ち切り、『法』を多数決原理にもとづく実定法規に置き換える。それ故、結局は、価値中立の装いをこらしながら多数者による少数者の『効率的な』支配と排除に資するものとならざるをえない。今回のように、厳罰化の要求が『国民の意思』の形をとって現れた場合、機能主義刑法学にはそれを制止する論理はなく、相互不信に基づく『不安感の拡大再生産過程』に同調するしかないのである」と見る。そして一般予防論と人間疎外に関連して、「おそらく問題は、近代以降の刑法学が『国家』に秋波を送ることに熱心なあまり、人間存在への洞察をなおざりにしてきたことにあるだろう」とし、刑罰を根拠付ける応答とはいった何であるのかを問い直す。「刑罰自体の問題としては、『修復』は『目指されるべき方向』ではあっても『到達目標』ではない。刑罰の最も本質的な意味は、社会による『赦し』にある」とする梅崎は「テクノクラーティックな刑法理論を捨てて本来の共生の法則として市民のものに戻し、真の応報を超えた厳罰化や侵害原理を超えた処罰範囲拡大要求はきっぱりと拒絶すべきだ」と結論付ける。一つひとつの刑事立法の必要性や効果への疑念はもちろんであるが、これら刑事立法の活性化の根底にある思考様式と人間観の問題性を抉る論稿である。

 森尾亮「刑事立法の活性化と罪刑法定主義」は、同じ問題を解釈方法論のレベルで捉え返すために、「客観的解釈としての目的論的解釈」が「国民の予測可能性」の保障を損なう帰結をもたらすことを、判例を素材に跡付ける。二〇〇六年二月二〇日の最高裁判決は児童ポルノ禁止法違反事件につき、画像データのダビング行為は同法が禁止する児童ポルノの「製造」に当たると解釈した。立法当局は、ダビング行為のような「複製」は「製造」には当たらないとしていたものを、最高裁は、処罰を求める目的論的解釈を採用して、ダビング行為は製造に当たるとしたのである。同様の解釈方法は公害罪法違反の大東鉄線事件最高裁判決にも見られる。判例の「柔軟な」方法を、学説も「国民の法意識論」を媒介に肯定してきた。森尾は「近時の刑事立法の活性化は、決して司法府における罪刑法定主義違反の抑制に繋がるものではないこと、換言すれば、これまでの通説的理解であった刑事立法の活性化によって判例の罪刑法定主義違反を抑制するという処方箋はきわめて観念的なレベルにとどまっていたものであることが明らか」であり、それ故、近代刑法原則の歴史的意義を踏まえた「現代的再構成」が求められるという。立法と司法の関係性の現代日本的形態、すなわち癒着と瞞着を射抜くと同時に、刑法学説と立法の関係性、および刑法学説と司法の関係性の、ほとんど戯画的な縺れ合いを暴露している。

  ここでは国家刑罰権によって推進される人間疎外と、国家刑罰権に添い寝して自らを貶める人間疎外とが、重層し、競合している。刑法学に求められる「内破」、それが問題である。

Monday, November 22, 2010

虚妄の民衆思想(2)

『無罪!』67号(2010年11月)/法の廃墟36

花崎平『田中正造と民衆思想の継承』(七つ森書館、二〇一〇年)に見られる花崎民衆思想とは侵略容認の民衆思想にほかならない、というのが前回の暫定的結論であった。同じことを別の視点で確認していこう。花崎は、民衆思想家として四人の男性思想家をとりあげる。男女平等が、正造の言葉でも花崎自身の言葉でも示されるが、アリバイづくりの印象を否めない。「四〇年以上にわたるライフワークの集大成」として四人の男性思想家だけを取り上げているのだから、女性思想家は取り上げるに値しないと判断したということだ。石牟礼道子、森崎和江、田中美津の名前だけは記している(二二七頁)が、人物や思想について紹介も検討もしない。その必要はないというのだ。いささか揚げ足取りであるが、このことをしっかりと確認しておきたい。次の論点にかかわるからである。

正造の「妾問題」

 江刺県官吏時代、一八七一年、三〇歳の正造は、一四~五歳の少女を妾とし、少女と同棲生活をしている。地元の人間から繰り返し批判されたが、「正造はそれらの意見、忠告を意に介さなかった」。このことは東海林吉郎『歴史よ 人民のために歩め--田中正造の思想と行動』(太平出版社、一九七四年)で指摘されているという。

花崎はその紹介した上で、東海林の本について「しばしば推測を加えた断定的な結論を下している憾みがある」と批判している(四一頁)。ところが、花崎は、正造が妾をもった事実を否定する根拠・資料について何も述べていない。正造が周囲から批判された事実を否定する事実も述べていない。東海林の著述のどこが「しばしば推測」なのか具体例を一つも指摘していない。本書の読者には何が何だかわからないようになっている。

一八七一年当時の日本社会において妾がどのように見られていたのか、妾を持つことがどのように評価されていたのかはここでは重要ではない。正造が妾を持ったことを現在の価値観から評価することも、とりあえずここでの課題ではない。

重要なのは、正造の思想と行動それ自体ではなく、二〇一〇年の現在、このような記述をしている花崎の思想である。東海林による正造への批判的言及に対して、事実に基づく反論をせずに「しばしば推測」とレッテルを貼ることによって花崎は何をしているのか。妾問題の焦点をずらしているに過ぎない。何のために焦点ずらしをしているのか。「妾問題」を前にして、精神のバランスを失っている花崎を見ることになったのは残念である。

花崎の正造「民衆思想」論の中心は、著作の第六章、第七章に詳しく紹介されている。「無私、無所有、無宿の生活」というものである。

正造は、各地を転々と訪ね歩き、支持者の家に宿泊しながら調査と活動を続けた。では、正造は、どこで何を食べて生きていたのであろうか。花崎の記述からわかることは、ほとんどの場合、正造は支持者の家で食事をしていたであろうことだ。もちろん、支持者たちは正造を歓迎し、喜んで食事を提供したであろう。正造は、農民たちのために懸命に調査と活動をしていたのだ。これは正造ほどの人物であるが故に可能となったことである。

ここでの問題は、家事労働なき正造の生活とその上に成り立っている思想を「民衆思想」と呼ぶことが適切かどうかである。これは、特権的な高等遊民の思想としか呼びようがないのではないだろうか(善し悪しを問題にしているのではない)。当時、家事労働を担ったのは誰か。封建制の残滓を色濃く残していた農民たちの生活の現実の中で、個人の判断など抜きに、女性たちが家事労働専門の役割を与えられていたことは明らかである。正造が女性たちの家事労働を搾取した、などと言いたいのではない。正造の無私の闘いに感銘を受けて、正造のために女性も男性も懸命に尽くしたであろうことは間違いない。

ともあれ、女性たちの家事労働の上に正造の高等遊民生活が可能となっていた。このことに花崎は全く言及していない。そして、「民衆思想」を語るのである。

「民衆思想」とは何か

 はたして花崎/正造の「民衆思想」とは何であろうか。花崎は「晩年の田中正造は、無私、無所有、無宿の生活に徹底していた。そこから発せられる言葉は透徹し、単純で誇り高く、一切を捨てた虚心、虚位の精神的自由の境地を現している」(九五頁)と言う。「定住する家はもちろんのこと、着替えの衣服さえ持たず、村から村へ、或いは町へ、一ヶ所に一晩以上滞在することもあまりなく文字どおり行脚する日常」(九六頁)とも言う。直訴事件以後の正造の思想の発展について、第六章、第七章で詳しく論じている。

ただちに疑問がわく。いったいどこが「民衆思想」なのだろうか。確かに正造は民衆の側に身を置き、民衆とともに闘った。正造は、日清戦争認識(侵略戦争を容認したこと)はともかくとして、基本的に民衆の平和、平穏、生活、暮らしを守り、権力の横暴を批判し、闘いつづけた。このことに疑問をさしはさむ必要はない。

しかし、正造の思想は「民衆思想」ではないと言うべきだろう。正造の生活は民衆の生活とは無縁だからである。民衆には生産があり、現実の生活がある。正造はあちこち流転し、各地の支持者の家に宿泊し、運動や調査をしながら移動して行った。高等遊民のごとく民衆の生活に寄宿していたのである。元国会議員でありながら民衆のために闘い続ける正造であるがゆえに、数多くの支持者に支えられていたのである。無私、無所有、無宿の思想は、民衆の生活実践とは関係のない思想である。民衆とともにありつつ、けっして民衆にはなれなかった正造の独自の思想である。それを高く評価するのは理解できるとしても、「民衆思想」と呼ぶのはレッテル詐欺でしかないだろう。レトリックだけなら、正造と農民全体が一つの共同体であったという形で説明することは一応はできるだろう。しかし「女性差別構造の上に乗っかった民衆思想」「女性差別容認の民衆思想」にとどまると言わざるを得ない。

 花崎は、随所で「これが民衆思想だ」と断定しているが、「なぜ」「民衆思想」であるのか説明がほとんどない。正造の思想が重要であるということは理解できるが、これが「民衆思想」であると断定されても、疑念が残る。花崎/正造の「民衆思想」とはいったい何なのだろうか。花崎は「私が知る限りの民衆思想家は、軍備全廃、戦争反対論者であり、(新井)奥邃も民衆思想家の共通の非暴力平和主義を基調に置いていた」(一六一頁)と述べている。しかし、先に紹介したように、正造は「日清戦争によって国民の正直を発見したとして『戦争、国民万歳』と日清戦争を肯定している」と書いていた(五三頁)。「戦争万歳」と言う戦争反対論者――アジアに対する侵略戦争を容認し、女性差別を容認する花崎/正造の「民衆思想」とは何なのだろうか。

Wednesday, November 17, 2010

アイヌ先住民族の権利(3)

旅する平和学(36)

人種差別撤廃委員会勧告

 九月一八日、阿部ユポ(北海道アイヌ協会副理事長)は、カトリック正義と平和協議会の第三六回全国集会においてアイヌ民族の歴史と権利について講演した。

 北海道アイヌ協会(旧ウタリ協会)は、北海道に居住しているアイヌ民族で組織し、「アイヌ民族の尊厳を確立するため、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展を図ること」を目的とする団体である。

アイヌ民族については、戦後も長い間、行政サイドでは無施策のまま過ぎ、追って生活格差是正の一環としての施策が現在まで続いている。ほとんどの日本国民がアイヌ民族は同化されたと思い込み、その誤まちにも気づかないまま、社会に「単一民族国家」幻想が蔓延していた。

北海道アイヌ協会は一九九〇年代から、国連総会、先住民族作業部会、人種差別撤廃委員会などに参加して、世界の先住民族と交流を深め、先住民族の権利の形成、そしてアイヌ民族に対する差別の是正に取り組んできた。和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践や人種主義の根絶は、人権思想を根付かせ発展させようとする国連システムの取り組みに符合する。

阿部も、長年にわたって国際人権活動に取り組んできたので、講演においても人種差別撤廃委員会の勧告を紹介した。二〇一〇年二月に開催された人種差別撤廃委員会は、アイヌ民族に関連して、日本政府に対して次のような勧告を公表した(以下、村上正直監訳による)。

       *

20.委員会は、アイヌ民族を先住民族と認めたことを歓迎し、締約国による約束を反映する諸施策(象徴的な公共施設の設置に関する作業部会の設立、および北海道外のアイヌのおかれた状況に関する調査を行なうための作業部会の設置を含む。)を関心をもって留意しつつも、以下のことに懸念を表明する。

(a)各種の協議体や有識者懇談会においてアイヌ民族の参画が不充分であること。

(b)アイヌ民族の権利の発展および北海道におけるその社会的地位の改善に関する国レベルの調査がなされていないこと。

(c)「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の実施に向けたこれまでの進展が限定的であること(第二条、第五条)。

委員会は、アイヌ民族の代表者との協議の結果を、アイヌの権利を取り扱う、明確で焦点を絞った行動計画を伴なう政策およびプログラムに結実させるべく、アイヌ民族の代表者と協力してさらなる措置をとること、および、そのような協議へのアイヌ民族の代表者の参加を増大させるよう勧告する。委員会は、また、締約国が、アイヌ民族の代表者との協議のもと、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」などの国際約束を検討し、実施することを目的とした第三番目の作業部会の設置を検討するよう勧告する。委員会は、締約国に対し、北海道のアイヌ民族の生活水準に関する国レベルの調査を実施するよう要請し、締約国が委員会の一般的な性格を有する勧告二三(一九九七年)を考慮するよう勧告する。委員会は、さらに、締約国が、国際労働機関の「独立国の先住民および種族民に関する第一六九号条約」の批准を検討するよう勧告する。

       *

 右の勧告に「第三番目の作業部会」とあるのは、日本政府がすでに二つの作業部会を設置しているからである。象徴的な公共施設の設置に関する作業部会と、北海道外のアイヌのおかれた状況に関する調査を行なうための作業部会である。いずれも必要な部会である。 しかし、問題は、日本政府が二つの作業部会しか設置しようとしないことである。

先住民族の権利から考える

 もともと「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」は、二〇〇七年に国連総会で先住民族権利宣言が採択され、日本政府がアイヌ民族を先住民族と認めたことから始まった。当然のことながら、先住民族権利宣言が保障する諸権利に照らして、アイヌ民族の権利を保障しなければならない。

 NGOの「市民外交センター(代表・上村英明)」は、先住民族権利宣言の日本国憲法上の重要な位置づけとして、条約や「確立された国際法規」を「誠実に遵守すること」が定められているとし、先住民族権利宣言は、国内法体系の中で、「参考」以上に重要な役割をもつことを確認すべきだと主張している。日本では、国連宣言に準拠して、アイヌ政策を改善することが、二〇〇八年六月六日に衆参両院で満場一致の決議として採択された。「確立された国際法規」を国内の視点で考えれば、国連宣言が、国連総会で採択された一般の宣言とは異なる重さを認めなければならない。

 それゆえ、先住民族の自己決定権、民族的アイデンティティに関する権利、文化・宗教・言語の権利、教育・情報などの権利、経済的社会的権利と参加の権利、土地・領域・資源の権利、自己決定権を行使する権利など全面点検が必要だ。先住民族の土地所有権を始めとする様々な権利や、同化を強制されない権利の観点での検証も重要である。アイヌ民族の権利状況について総合的見直しの必要性がある。

 例えば、アイヌ民族の「民族議席」に関する日本国憲法上の妥当性も検討の余地がある。 アイヌ民族が独立を主張するのではなく、日本国の内部にあって自己決定権を享受するのであれば、民族自治機関の構築問題とは別に、国会に民族の希望を反映させるための「民族議席」を設置することは当然の要求である。

 本来ならば、アイヌ民族のアイヌモシリ(北海道)に対する土地所有権返還も検証される必要がある。今さら北海道を返還するのは現実的でないと言うかもしれないが、北海道アイヌ協会は北海道全面返還を求めているわけではないだろう。幸にして北海道の半分ほどが国有地である。その順次返還を進めつつ、返還しない場合でも土地利用権を十分に保障していく方策が求められる。

 ところが、日本政府は象徴的施設と、北海道外のアイヌ調査しか考えていない。これでは先住民族権利宣言を踏み躙るものと言わざるを得ない。

 人種差別撤廃委員会は第三番目の作業部会設置を勧告した。そして、先住民族権利宣言第二条(平等の原則、差別からの自由)と第五条(国政への参加と独自な制度の維持)を特に取り上げている。日本政府は、勧告を受け止めて、誠実に対応するべきである。

アイヌ先住民族の権利(2)

旅する平和学(35)

先住民族の権利

 二〇〇七年に国連総会が採択した先住民族権利宣言は、先住民族の権利のカタログを列挙している。特に冒頭の三か条は、先住民族の権利の基本的性格を明示している。

「先住民族は、集団または個人として、国際連合憲章、世界人権宣言および国際人権法に認められたすべての人権と基本的自由の十分な享受に対する権利を有する。」(第一条、集団および個人としての人権享有)

「先住民族および個人は、自由であり、かつ他のすべての民族および個人と平等であり、さらに、自らの権利の行使において、いかなる種類の差別からも、特にその先住民族としての出自あるいはアイデンティティ(帰属意識)に基づく差別からも自由である権利を有する。」(第二条、平等の原則、差別からの自由)

「先住民族は、自己決定の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、ならびにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。」(第三条、自己決定権)

 以上の三カ条を見るだけでも、近代人権宣言との共通点と相違点を確認することができる。共通点の第一は、国連憲章、世界人権宣言、国際人権法における人権と基本的自由と示されているように、先住民族の権利が、近代に成立して、現代国際人権法において確認、発展させられてきた自由と人権を基礎にしていることが判明する。第二は、平等の原則、差別からの自由であり、この点も近代法における法の下の平等と同じ土俵の議論である。女性差別、人種差別をはじめとするマイノリティ差別の禁止と同じことが、先住民族についても確認されている。第三は、自己決定権である。近代法においても自由・平等・独立の市民の自由と責任が配備されているのは、自己決定権の要請である。また、二〇世紀におけるウィルソン・レーニンによる人民の自己決定権、大西洋憲章や植民地独立付与宣言などに確認された自己決定権も同様である。

 このように見ると共通点が目立つと思われるかもしれないが、すでに以上の中に相違点が含まれている。「集団または個人として」「先住民族および個人」といった表現に明らかなように、個人だけの権利ではなく、集団の権利が確認されているからである。もともと個人の権利を基本としていた近代法が、人民の自己決定権以後は集団の権利をも内部に取り入れるようになってきた。先住民族の権利はまさに個人と集団の双方の権利として位置づけられている。集団の権利には、人民の自己決定権、平和的生存権、発展の権利などがあるが、先住民族の権利は特定の集団に関わる重要な権利概念である。

同化を強制されない権利

 NGOの市民外交センターによると、先住民族権利宣言は、準備過程の議論では次の九つの部分にわけられていたという。

①人権保障の原則――冒頭に紹介した三か条に続いて、先住民族権利宣言は多様な権利を掲げている。具体的な自治の権利(第四条)、国政への参加と独自な制度の維持(第五条)。

②民族的アイデンティティ全体に関する権利――生命、身体の自由と安全(第七条)、同化を強制されない権利(第八条)、共同体に属する権利(第九条)、強制移住の禁止(第一〇条)。

③文化・宗教・言語の権利――文化的伝統と慣習の権利(第一一条)、宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還(第一二条)、歴史、言語、口承伝統など(第一三条)。

④教育・情報などの権利――教育の権利(第一四条)、教育と公共情報に対する権利、偏見と差別の除去(第一五条)、メディアに関する権利(第一六条)、労働権の平等と子どもの労働への特別措置(第一七条)。

⑤経済的社会的権利と参加の権利――意思決定への参加権と制度の維持(第一八条)、影響する立法・行政措置に対する合意(第一九条)、民族としての生存および発展の権利(第二〇条)、経済的・社会的条件の改善と特別措置(第二一条)、高齢者、女性、青年、子ども、障害のある人々などへの特別措置(第二二条)、発展の権利の行使(第二三条)、伝統医療と保健の権利(第二四条)。

 ⑥土地・領域(領土)・資源の権利――土地や領域、資源との精神的つながり(第二五条)、土地や領域、資源に対する権利(第二六条)、土地や資源、領域に関する権利の承認(第二七条)、土地や領域、資源の回復と補償を受ける権利(第二八条)、環境に対する権利(第二九条)。さらに、軍事活動の禁止(第三〇条)、遺産に対する知的財産権(第三一条)、土地や領域、資源に関する発展の権利と開発プロジェクトへの事前合意(第三二条)。

⑦自己決定権を行使する権利――アイデンティティと構成員決定の権利(第三三条)、慣習と制度を発展させ維持する権利(第三四条)、共同体に対する個人の責任(第三五条)、国境を越える権利(第三六条)、条約や協定の遵守と尊重(第三七条)

⑧実施と責任――国家の履行義務と法整備(第三八条)、財政的・技術的援助(第三九条)、権利侵害に対する救済(第四〇条)、国際機関の財政的・技術的援助(第四一条)、宣言の実効性のフォローアップ(第四二条)。

⑨国際法上の性格――最低基準の原則(第四三条)、男女平等(第四四条)、既存または将来の権利の留保(第四五条)、主権国家の領土保全と政治的統一、国際人権の尊重第(四六条)。

 このように先住民族権利宣言は、詳細な実体的権利のカタログに加えて、実施措置に関する規定も備えている。

日本政府は、国連総会における宣言採択に賛成投票をし、その後アイヌ民族を先住民族と認めたにもかかわらず、これらの権利を認めようとしない。二〇〇八年の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」、二〇〇九年七月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告書、同年八月、「アイヌ総合政策室」(旧アイヌ政策推進室)設置、同年一二月には、「アイヌ政策推進会議」設置と続いているが、今のところ、北海道以外のアイヌ人口の調査や、象徴的施設の設置といった事項しか検討していない。

これではアイヌを先住民族と認めたといいながら、リップサービスにとどまっていて、レッテル詐欺といわれても仕方がない。自己決定権、伝統や慣習や言語の権利、教育やメディアの権利、土地や資源の権利、環境に対する権利など、宣言が規定する多様な権利の具体化が必要である。アイヌ民族の当事者性・主体性をしっかり確認して、本格的な協議を行なうべきである。

アイヌ先住民族の権利(1)

旅する平和学(34)

アイヌは先住民族

 二〇〇七年に国連総会で先住民族権利宣言が採択されて以後、日本政府のアイヌ民族に対する政策が大きく変化した。

 それ以前、アイヌ民族の代表や、いくつもの人権NGOが「アイヌは先住民族である」と指摘しても、日本政府は認めようとしなかった。人種差別撤廃委員会や、国連人権委員会において、「アイヌは典型的な先住民族ではないか」と指摘されても、日本政府は認めなかった。理由は「先住民族とは何かの国際法上の定義が定まっていないから、アイヌが先住民族か否かは判断できない」というものであった。およそ理由になっていない。日本政府の主張を認めると、先住民族と判断できる民族は世界のどこにもいないことになってしまう。これほど奇怪な主張をしてまでもアイヌの先住民族性を認めない日本政府の姿勢は実に頑なであった。

 国連先住民族権利宣言の採択にともなって状況が変化した。国家で、「アイヌが先住民族あることを認めるように求める決議」が採択された。これもおかしな話で、国権の最高機関である国会が「アイヌは先住民族である」と断定すればよかったのだが、なぜか行政府に「求める決議」であった。ともあれ、国会決議を受けて、日本政府もついにアイヌ民族を先住民族として認めた。

 もっとも、二〇一〇年二月二五日、人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査の席上、日本政府人権人道大使は「先住民族の国際法上の定義はない」などと発言して顰蹙を買っていた。どこまでも愚かな政府である。

 近代日本においてアイヌが先住民族となったのは、とりあえず、明治国家がアイヌモシリ(蝦夷地)を北海道と名づけて日本領土に組み入れ、和人の移住政策を開始したためである。移住政策は「屯田兵」という名前に明らかなように、開拓民でありつつ軍事的侵略の手先による。アイヌモシリを一方的に「国有地」とし、屯田兵に国有地を払い下げる方式が採用された。先住民族の土地に対する侵略である。

 アイヌ民族から見れば、和人による侵略はそれ以前からずっと続いていた。もっとも有名なシャクシャインの戦いは、一六六九年である。シベチャリ(北海道日高の新ひだか町静内)のチャシ(城)を拠点に、和人・松前藩の不公正な貿易やアイヌに対する差別に抗して起きた蜂起である。きっかけはアイヌ民族の内部対立の面もあったが、本質はアイヌ民族による対松前藩蜂起であった。

 シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族に松前藩への蜂起を呼びかけ、日高、釧路、天塩など多くのアイヌ民族が呼応した。武器の格差や、アイヌ側の統率の乱れ、和人によるだまし討ちなどから、蜂起は失敗に終わった。これ以後、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の主導権を握った。同時に、アイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートを、いくぶん緩和するなど、和人に融和策もとらせた。

 一四五七年のコシャマインの戦いにおいても、アイヌ民族は和人による差別に抵抗し、武装闘争を敢行した。二百年後のシャクシャインの戦い、そして一七八九年のクナシリ・メナシの戦いと続く歴史は、和人による侵略と差別に対するアイヌ民族の抵抗戦争であった。アイヌ民族の抵抗を全面的に抑圧することになったのが、明治維新後の屯田兵であった。

 つまり、五百年の歴史をかけて先住民族アイヌが形成されたということになる。こう見ることによって、コロンブスに始まる近代西欧諸国による世界の植民地分割による先住民族の形成とパラレルに論じることが可能となる。明治以後の屯田兵だけを語るべきではないだろう。

先住民族権利宣言

 国連総会は、二〇〇七年九月一三日、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択した。この宣言は、先住民族に対する普遍的な人権宣言であり、歴史的、画期的なものである。先住民族が国際法の主体であると宣言された一九七七年から三〇年を経て、人権主体として確認された。国連先住民族作業部会が設置された一九八二年から二五年という長い年月をかけ、先住民族と政府の気の遠くなるような話し合いを経て採択されたのが、この宣言である。

国際人権法の端緒をつくりだした世界人権宣言は、後に二つの国際人権規約に練り上げられた。子どもの権利宣言から子どもの権利条約へ、人種差別撤廃宣言から人種差別撤廃条約へ、女性差別撤廃宣言から女性差別撤廃条約へ、拷問禁止宣言から拷問等禁止条約へ、障害者権利宣言から障害者権利条約へと、国際社会はまず基本的権利のカタログと基本思考を示す宣言をつくり、後にそれを条約にまとめ上げてきた。

その意味では、先住民族権利宣言も将来、先住民族権利条約となることが期待されるが、今はむしろ宣言の射程距離に注目するべきだろう。というのも、先住民族権利宣言は、子どもの権利宣言、拷問禁止宣言、人種差別撤廃宣言などとは大きく異なって、実に詳細な独自の権利条項を網羅しているからである。

 まず宣言の前文を見ていこう。一般的な国際文書の前文と同様に、先住民族権利宣言前文は、宣言採択に至るまでに形成されてきた歴史を確認している。

 出発点は言うまでもなく国連憲章である。そして「すべての民族が異なることへの権利、自らを異なると考える権利、および異なる者として尊重される権利」(第二段落)が確認される。先住民族権利宣言らしい規定である。「すべての民族が、人類の共同遺産を成す文明および文化の多様性ならびに豊かさに貢献すること」(第三段落)、「先住民族は、とりわけ、自らの植民地化とその土地、領域(領土)および資源の奪取の結果、歴史的な不正義によって苦しみ、したがって特に、自身のニーズ(必要性)と利益に従った発展に対する自らの権利を彼/女らが行使することを妨げられてきたこと」(第六段落)、「先住民族の政治的、経済的および社会的構造と、自らの文化、精神的伝統、歴史および哲学に由来するその生得の権利、特に土地、領域および資源に対する自らの権利を尊重し促進させる緊急の必要性」(第七段落)が確認される。

 続いて、「先住民族の知識、文化および伝統的慣行の尊重は、持続可能で衡平な発展と環境の適切な管理に寄与すること」(第一一段落)、「先住民族の土地および領域の非軍事化の、世界の諸国と諸民族の間の平和、経済的・社会的進歩と発展、理解、そして友好関係に対する貢献」(第一二段落)が強調される。

 そして、国連憲章、二つの国際人権規約、ならびにウィーン宣言・行動計画が、「すべての民族の自己決定の権利ならびにその権利に基づき、彼/女らが自らの政治的地位を自由に決定し、自らの経済的、社会的および文化的発展を自由に追求することの基本的な重要性を確認していること」(第一六段落)、「国家に対し、先住民族に適用される国際法文書の下での、特に人権に関連する文書に関するすべての義務を、関係する民族との協議と協力に従って、遵守しかつ効果的に履行すること」を述べている。

 前文を受けて、第一条以下に詳細な人権のカタログが列挙される。

日本のNGOとして、アイヌ民族や沖縄・琉球民族とともにこのプロセスに参加してきた市民外交センターがこの宣言の翻訳を行っている。さらに、市民外交センターブックレット『アイヌ民族の視点から見た「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の解説と利用法』二〇〇八年参照。

Saturday, November 13, 2010

先住民族権利宣言と日本

雑誌「統一評論」533号(2010年3月)

ヒューマン・ライツ再入門⑮

先住民族権利宣言と日本

歴史的宣言

 「先住民族は、集団または個人として、国際連合憲章、世界人権宣言および国際人権法に認められたすべての人権と基本的自由の十分な享受に対する権利を有する。」(第一条、集団および個人としての人権享有)

「先住民族および個人は、自由であり、かつ他のすべての民族および個人と平等であり、さらに、自らの権利の行使において、いかなる種類の差別からも、特にその先住民族としての出自あるいはアイデンティティ(帰属意識)に基づく差別からも自由である権利を有する。」(第二条、平等の原則、差別からの自由)

「先住民族は、自己決定の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、ならびにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。」(第三条、自己決定権)

国連総会は、二〇〇七年九月一三日、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択した。この宣言は、先住民族に対する普遍的な人権宣言であり、歴史的・画期的なものである。先住民族が国際法の主体であると宣言された一九七七年から三〇年、国連先住民族作業部会が設置された一九八二年から二五年という長い年月をかけ、先住民族と政府の気の遠くなるような話し合いを経て採択された。

日本のNGOとして、アイヌ民族や沖縄・琉球民族とともにこのプロセスに参加してきた市民外交センターがこの宣言の翻訳を行っている。宣言翻訳は市民外交センターのウェブサイト参照。さらに、市民外交センターブックレット『アイヌ民族の視点から見た「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の解説と利用法』二〇〇八年参照。

国際人権法の端緒をつくりだした世界人権宣言は、後に二つの国際人権規約に練り上げられた。子どもの権利宣言から子どもの権利条約へ、人種差別撤廃宣言から人種差別撤廃条約へ、女性差別撤廃宣言から女性差別撤廃条約へ、拷問禁止宣言から拷問等禁止条約へ、障害者権利宣言から障害者権利条約へと、国際社会はまず基本的権利のカタログと基本思考を示す宣言をつくり、後にそれを条約にまとめ上げてきた。

少数者権利宣言が後に少数者権利条約になるか否か定かではないし、先住民族権利宣言も将来において条約になるか否かはまだ明らかではない。しかし、右のような経過を経て採択された宣言だけあって、先住民族権利宣言は全部で四六条に及び、人権のカタログや基本思考については、すでにかなりの程度、熟した内容を持っているように見える。

市民外交センターの翻訳と資料によって、もう少し詳しく見ていこう。

宣言の思考

 一般的な国際文書の前文と同様に、先住民族権利宣言前文は、宣言採択に至るまでに形成されてきた基本思考を整理している。

 出発点は言うまでもなく国連憲章であり、「すべての民族が異なることへの権利、自らを異なると考える権利、および異なる者として尊重される権利」(第二段落)が確認される。先住民族権利宣言らしい規定である。「すべての民族が、人類の共同遺産を成す文明および文化の多様性ならびに豊かさに貢献すること」(第三段落)、「先住民族は、とりわけ、自らの植民地化とその土地、領域(領土)および資源の奪取の結果、歴史的な不正義によって苦しみ、したがって特に、自身のニーズ(必要性)と利益に従った発展に対する自らの権利を彼/女らが行使することを妨げられてきたこと」(第六段落)、「先住民族の政治的、経済的および社会的構造と、自らの文化、精神的伝統、歴史および哲学に由来するその生得の権利、特に土地、領域および資源に対する自らの権利を尊重し促進させる緊急の必要性」(第七段落)が確認される。

 続いて、「先住民族の知識、文化および伝統的慣行の尊重は、持続可能で衡平な発展と環境の適切な管理に寄与すること」(第一一段落)、「先住民族の土地および領域の非軍事化の、世界の諸国と諸民族の間の平和、経済的・社会的進歩と発展、理解、そして友好関係に対する貢献」(第一二段落)が強調される。

 そして、国連憲章、二つの国際人権規約、ならびにウィーン宣言・行動計画が、「すべての民族の自己決定の権利ならびにその権利に基づき、彼/女らが自らの政治的地位を自由に決定し、自らの経済的、社会的および文化的発展を自由に追求することの基本的な重要性を確認していること」(第一六段落)、「国家に対し、先住民族に適用される国際法文書の下での、特に人権に関連する文書に関するすべての義務を、関係する民族との協議と協力に従って、遵守しかつ効果的に履行すること」を述べている。

同化を強制されない権利

 宣言は、準備過程の議論では次の九つの部分にわけられていたという。

人権保障の原則(第一条~六条)

冒頭に紹介した三か条に続いて、先住民族権利宣言は多様な権利を掲げている。

 「先住民族は、その自己決定権の行使において、このような自治機能の財源を確保するための方法と手段を含めて、自らの内部的および地方的問題に関連する事柄における自律あるいは自治に対する権利を有する。」(第四条、自治の権利)

「先住民族は、国家の政治的、経済的、社会的および文化的生活に、彼/女らがそう選択すれば、完全に参加する権利を保持する一方、自らの独自の政治的、法的、経済的、社会的および文化的制度を維持しかつ強化する権利を有する。」(第五条、国政への参加と独自な制度の維持)

さらに第六条(国籍の権利)が続く。

民族的アイデンティティ全体に関する権利(第七条~一〇条)

第七条(生命、身体の自由と安全)に続く第八条は「同化」批判である。

1. 先住民族およびその個人は、強制的な同化または文化の破壊にさらされない権利を有する。

2. 国家は以下の行為について防止し、是正するための効果的な措置をとる:

(a) 独自の民族としての自らの一体性、その文化的価値観あるいは民族的アイデンティティ(帰属意識)を剥奪する目的または効果をもつあらゆる行為。

(b) 彼/女らからその土地、領域または資源を収奪する目的または効果をもつあらゆる行為。

(c)彼/女らの権利を侵害したり損なう目的または効果をもつあらゆる形態の強制的な住民移転。

(d) あらゆる形態の強制的な同化または統合。

(e) 彼/女らに対する人種的または民族的差別を助長または扇動する意図をもつあらゆる形態のプロパガンダ(デマ、うそ、偽りのニュースを含む広報宣伝)。」(第八条、同化を強制されない権利)

 そして第九条(共同体に属する権利)、第一〇条(強制移住の禁止)である。

③文化・宗教・言語の権利(第一一条~一三条)

第一一条(文化的伝統と慣習の権利)、第一二条(宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還)、第一三条(歴史、言語、口承伝統など)である。

④教育・情報などの権利(第一四条~一七条)

第一四条(教育の権利)、第一五条(教育と公共情報に対する権利、偏見と差別の除去)、第一六条(メディアに関する権利)、第一七条(労働権の平等と子どもの労働への特別措置)。

⑤経済的社会的権利と参加の権利(第一八条~二四条)

第一八条(意思決定への参加権と制度の維持)、第一九条(影響する立法・行政措置に対する合意)、第二〇条(民族としての生存および発展の権利)、第二一条(経済的・社会的条件の改善と特別措置)、第二二条(高齢者、女性、青年、子ども、障害のある人々などへの特別措置)、第二三条(発展の権利の行使)、第二四条(伝統医療と保健の権利)が続く。

 ⑥土地・領域(領土)・資源の権利(第二五条~三二条)

 「先住民族は、自らが伝統的に所有もしくはその他の方法で占有または使用してきた土地、領域、水域および沿岸海域、その他の資源との自らの独特な精神的つながりを維持し、強化する権利を有し、これに関する未来の世代に対するその責任を保持する権利を有する。」(第二五条、土地や領域、資源との精神的つながり)

 第二六条(土地や領域、資源に対する権利)、第二七条(土地や資源、領域に関する権利の承認)、第二八条(土地や領域、資源の回復と補償を受ける権利)、第二九条(環境に対する権利)と続く。

 さらに、第三〇条(軍事活動の禁止)、第三一条(遺産に対する知的財産権)、第三二条(土地や領域、資源に関する発展の権利と開発プロジェクトへの事前合意)。

⑦自己決定権を行使する権利(第三三条~三七条)

第三三条(アイデンティティと構成員決定の権利)、第三四条(慣習と制度を発展させ維持する権利)、第三五条(共同体に対する個人の責任)、第三六条(国境を越える権利)、第三七条(条約や協定の遵守と尊重)

⑧実施と責任(第三八条~四二条)

第三八条(国家の履行義務と法整備)、第三九条(財政的・技術的援助)、第四〇条(権利侵害に対する救済)、第四一条(国際機関の財政的・技術的援助)、第四二条(宣言の実効性のフォローアップ)。

⑨国際法上の性格(第四三条~四六条)

第四三条(最低基準の原則)、第四四条(男女平等)、第四五条(既存または将来の権利の留保)、第四六条(主権国家の領土保全と政治的統一、国際人権の尊重)と続く。

日本への影響

宣言以後、アイヌ民族をめぐる動きが急速に展開している。

かつて日本政府はアイヌ民族の権利をなかなか認めようとしなかった。かつての「北海道旧土人保護法」は論外だが、アイヌ民族の運動によって前進をめざした「アイヌ文化保護法」も文化に関する法律であって、権利を認めるものではなかった。日本政府はアイヌ民族を先住民族として認めない発言を繰り返した。二〇〇一年の人種差別撤廃委員会でも、「先住民族の国際法上の概念が確立していないからアイヌ民族を先住民族といえるかどうか判断できない」といった逃げの姿勢であった。

人種差別撤廃委員会や、国連人権理事会の人種差別問題特別報告者は、アイヌ民族を先住民族と認めて、権利保障するよう勧告してきた。

頑なな日本政府だったが、最近は大きく様子が変化した。

先住民族権利宣言採択の翌〇八年六月、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を衆参両院が採択した。国会決議によって行政に対して、アイヌの先住民族性の認知を求めたのである。国権の最高機関である国会なのだから「アイヌ民族は先住民族である」と確認・決議すれば足りるのだが、従来の経緯から、行政に認定を「求める」という形になった。ともあれ大きな一歩を踏み出した。これが画期となった。

翌七月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が設置された。三名の委員中、アイヌ民族委員が一名選ばれた。かつてアイヌ文化保護法制定前後の懇談会等にはアイヌ代表が選ばれなかった。大きな変化である。

有識者懇談会は、二〇〇九年七月、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」報告書を提出した。

そして、二〇〇九年八月、「アイヌ総合政策室」(旧アイヌ政策推進室)が設置された。

二〇〇九年一二月には、「アイヌ政策推進会議」が設置された。一四名の委員中、アイヌ民族委員は五名である。二〇一〇年一月、推進会議が活動を開始した。

このように先住民族権利宣言が採択されてから僅か三年で日本政府の姿勢は一大転換を遂げた。

こうした経過を、アイヌ民族の権利を求めて活動してきた市民外交センターの上村英明(恵泉女学園大学教授)は、先住民族権利宣言の精神から、そしてその延長に位置づけて評価する。有懇報告書は、「大和民族」史観からの脱却と植民地主義への反省につながるからである。現状と今後の課題を重ね合わせて次のように述べている(二〇一〇年一月三一日、東京・新川区民館における講演より)。

第一に、アイヌ民族の視点からの歴史枠組みの転換である。アイヌ民族に関する歴史を知ること、アイヌ民族の視点から歴史観を転換することである。

第二に、近代史の枠組みの転換である。日本はどうやって近代国家になったのか。こう問うことは、明治政府の責任(植民地化、制度的差別、強制同化政策)を浮かび上がらせる。また、日本はどうやって「民主主義国家」になったのか。ここでは戦後政府の責任(「単一民族国家」幻想)が問われる。基本に立ち返るならば、日本の植民地主義はどうなったかであり、非植民地化プロセスはいかに辿られたのかである。このことは日本政府に問われているだけではない。日本国民に問われている。

第三に、それでは「具体的政策」とは何か。国民の理解の促進(教育・啓発)、広義の文化に関する政策の推進(国連宣言の遵守という視点から)、推進体制の整備(審議会・行政窓口の設置、法制化など)がすすめられるべきである。

 遅ればせながらも、日本政府が転換を遂げた現在、課題は具体的政策の策定と履行であり、社会的差別の是正である。

 なお、先住民族権利宣言の射程は沖縄/琉球にも及ぶはずである。さらなる議論が必要である。