Monday, January 31, 2022

贖罪、飲酒・賭け事の禁止、聖餐(第5章 食卓)

中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)

 

5章は、イーサー(イエス)の祈りによって天から食卓が下されたエピソードのために食卓と命名された。内容は、むしろ一定の行為の禁止とその違反への刑罰が論じられる。

巡礼、食物、結婚、礼拝のための身体の清め方が説かれ、アーダムの息子たちの兄弟殺しの例が挙げられ、強盗や窃盗の刑罰が確認される。傷害には同害報復であることは有名だ。「命には命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、傷には同害報復」(545)

「信仰する者たちよ、酒と賭け矢と石像と占い矢は不浄であり悪魔の行いにほかならない。それゆえ、これを避けよ。きっとおまえたちは成功するであろう。悪魔は酒と賭け矢によっておまえたちの間に敵意と憎しみを惹き起こし、おまえたちをアッラーの唱念と礼拝から逸らそうとしているにほかならない。これでおまえたちも止める者となるか。」(591

アッラーは厳しいが、赦す寛容の神であることが繰り返されるが、悪魔に関連付けられた事項については、厳しい禁止となっている。

5章で重要なのは、もう一つ、ユダヤ教とキリスト教に関する記述だ。

「おまえは、信仰する者に対して敵意が最も激しいのはユダヤ教徒と多神を拝する者たちであるのをきっと見出そう。また、信仰する者に対して愛情が最も親密なのは『私はキリスト教徒である』と言う者たちであるのをきっと見出そう。それは、彼らの中には司祭たちや修道士たちがいて、彼らは高慢ではないからである。」(582

クルアーンは遠い過去の文書だが、どうしてもイスラエル/パレスチナ関係を想起せざるを得ない。現代の私たちもクルアーンの影響から逃れずにいられないということか。

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答b

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

根本は私の見解を紹介して批判している。具体的には次の一文である。

「さらに前田朗は、ヘイトスピーチも含めて表現の自由の規制には「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し、直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」(根本論文7374頁)

これには註が付されている。

(43)前田朗「ヘイト・スピーチ処罰は世界の常識」『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』160(2013)。」(根本論文77頁)

また、前回このブログで引用した文章も、その一部が私への直接の批判となっているので、再度引用する。

「例えば駒村圭吾の、そもそも言論は過激なもので傷つく人がいるから規制すべきだという発想は危険だという発言を受けて、宍戸常寿は合衆国の国旗焼却問題を引きながら、人の心が傷つく表現に対する考え方の違いが米欧の分岐点ではないかと指摘している。

ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。

わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現と言うカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。

まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(以上、根本論文74頁)

 以上が根本による私への批判である。

 根本の議論には大いに疑問があるが、反論は次回に回す。

根本から指摘を受けて明らかになったことは、議論にすれ違いがあることである。私の記述の仕方に問題があったようだ。今回はこの点を考えたい。

根本が言うように、私は「「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限られる」とする憲法学通説を引用し」て、これを批判したことがある。これが「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限らず、ヘイト・スピーチを規制するべきだ」とだけ読まれたとすれば、私の文章の書き方が適切でなかったことになる。

 別の個所で、私は「ヘイト・スピーチでは現に結果が発生しているのに、これを認めないのはなぜか」と問いを出し続けてきた。私は『ヘイト・クライム』(三一書房労組、2010年)の副題を「憎悪言論が日本を壊す」とした。『ヘイト・スピーチ法研究序説』(三一書房、2015年)以来、何度も、ヘイト・スピーチは民主主義を攻撃し、人間の尊厳を損なうことを指摘してきた。「結果発生の危険性」を論じたのではなく、「すでに結果発生があったのに、なぜその危険性があるか否かを問うのか」と論じてきた。

 しかし、根本は、私が「結果発生の具体的危険性が明白な場合に限らず、ヘイト・スピーチを規制するべきだ」と主張していると受け止めている。

 ここでは「危険」と「結果」の理解に差異があるのではないだろうか。私自身の「危険」と「結果」の用法にも混乱があったのではないか。その前提として、ヘイト・スピーチの保護法益をめぐる理解を明確にしておかないと議論ができない。

1に、保護法益である。根本論文は保護法益について論じていないが、刑法学での議論では、ヘイト・スピーチ規制の根拠となる保護法益を、個人的法益と見る見解と社会的法益と見る見解がある。ヘイト・スピーチを名誉毀損型や脅迫型と見れば、個人の名誉が侵害されているので、個人的法益である。ヘイト・スピーチを迫害型や差別助長・煽動型と見れば、社会的法益である。

欧州各国の刑法を見ると、社会的法益に重点を置いているように見えるが、個人的法益に該当する事案を規制している国もある。国際人権法はもともとこうした法益論について明確な答えを出していないと思われるが、国連人権高等弁務官事務所肝いりのラバト行動計画、人種差別撤廃委員会の一般的意見35号、国連ヘイト・スピーチ戦略を見ると、社会的法益に重点が置かれているように見える。ただし、個人的法益を排斥しているわけではないと思う。

刑法学者は、ドイツ刑法を参照して、ヘイト・スピーチを社会的法益で説明するのが通例である。刑法学におけるヘイト・スピーチ論をリードしてきた金尚均は社会参加を否定することに問題性を見ている。「◯◯人は出て行け」「◯◯人はゴキブリだ」といったヘイト・スピーチは、◯◯人の社会からの排除を唱え、◯◯人を人として扱わない、又は二級市民として扱う。つまり、◯◯人の社会参加を否定する。

私自身、ヘイト・スピーチは民主主義や人間の尊厳を侵害するという形で社会的法益に力点を置いてきた。金尚均が言う社会参加と同じことを意味しているつもりだ。その社会の構成員である◯◯人の排除を主張することは、社会参加を否定することであり、その社会に民主主義は成立しえないし、人間の尊厳が冒されている。

ただ、私は、名誉毀損型や脅迫型もヘイト・スピーチとして理解し、直接の攻撃客体となった人物の個人的法益を保護する理解も示してきた。つまり、社会的法益一元論ではなく、社会的法益・個人的法益二元論となる。ここに議論のすれ違いの原因があるかもしれない。『序説』で明示したように、ヘイト・スピーチには多様な類型が含まれるのでそれぞれについて議論する必要がある。これまで私は、ヘイト・スピーチの動機(保護される集団、属性)、実行行為の類型など類型論を提示してきたが、法益論についてのまとまった私見を提示してこなかった。ここは改めて検討する必要がある。

例えば、200910年の京都朝鮮学校襲撃事件刑事裁判で被告人は侮辱罪で有罪となった。これは直接の攻撃客体となった学校法人朝鮮学園に対する侮辱、つまり個人的法益に着目した事案ということになる。しかし、当時、朝鮮学校にいた諸個人だけでなく、全国の朝鮮学校関係者(生徒、卒業生、その保護者、現職及び元職の教職員等々)にも被害が及んでいたと見るならば、社会的法益が侵害されたのではないか。京都事件を単に侮辱事件としてだけではなく、ヘイト・スピーチ事件として考えなければならない。

個人的法益に属する事案であれば、現行法の名誉毀損罪や侮辱罪で対応できる。現行法では対応できない事案についてヘイト・スピーチ規制立法論が議論されているのは、個人的法益だけではなく、社会的法益(社会参加、民主主義…)を重視しているからだ。

根本が紹介する、駒村圭吾の「傷つく人がいるから」論や、宍戸常寿の「人の心が傷つく」論は、個人的法益と社会的法益の違いを理解していないための混乱であろう。

2に、「危険」と「結果」の関連である。個人的法益に属する罪では、殺人罪や窃盗罪など「結果犯」が中心である。社会的法益に属する罪では「危険犯」が多い。そこでは具体的危険の発生によって可罰性が生じるのか、それとも抽象的危険の発生ですでに可罰性が生じるのかという問題が生じる。

日本刑法学では、多くの論者が、多くの罪について、できるだけ具体的危険の発生を必要とするという解釈を展開してきたと言えよう。抽象的危険で足りるという解釈は最終的に形式犯に帰着する、つまり、法令違反さえあれば実際には危険が生じていなくても処罰すべきだという考え方になりかねない。行政法令には義務違反罪が多く定められている。これはこれで必要だが、刑法の基本的な考え方は、単に法令違反があればすべて犯罪という訳ではなく、実質的に法益侵害があったことを必要とし、そのための判断方法として具体的危険の発生を要件としてきた。ヘイト・スピーチを形式犯と見る学説はないだろう。ヘイト言説があればすべて犯罪ということではなく、ヘイト言説によって法益侵害が発生する危険性がどの程度あったかを問うことになる。

迫害型や差別助長・煽動型のヘイト・スピーチの処罰は社会的法益を保護するためと理解する場合、具体的危険の発生を必要とするのが一般的であろう。

・名誉毀損型や脅迫型:個人的法益:結果発生が必要

・迫害型や差別助長・煽動型:社会的法益:具体的危険発生が必要

このように整理するとすれば、私の記述が誤解を招いた理由が見えてくる。まずヘイト・スピーチの類型を分けることをせず、ヘイト・スピーチ一般について論じたきらいがある。そして刑法学における「危険犯」「結果犯」という概念とは別に、読者への理解の便宜のつもりで「結果発生」を日常用語で用いたきらいがある。

 金尚均はドイツの民衆扇動罪を研究して社会的法益の内実を明らかにした。私は主として国際人権法に従って議論してきた。国際自由権規約、人種差別撤廃条約、ラバト行動計画、一般的勧告35号、国連ヘイト・スピーチ戦略、欧州人権裁判所判決等を参考にしている。

ラバト行動計画は「結果の蓋然性」という表現をしている。

「切迫の度合いを含む、結果の蓋然性:煽動は定義上、未完成犯罪である。その発言が犯罪に該当するうえで、煽動発言によって唱道された行為が実際に行われる必要はない。しかしながら、ある程度の危害リスクは確認されなければならない。これが意味するのは、裁判所が、発言と実際の行為の間の因果関係が相当程度直接的に成立していると認識し、当該発言が標的とされた集団に対する実際の行為を引き起こすことに成功する高い確率があると判断しなければならないということである。」(ラバト行動計画)

根本の指摘を受けて、あらためて私見を明確に示す必要があり、そのためにはラバト行動計画を基礎に、さらに人種差別撤廃委員会や欧州人権裁判所の判断事例や、各国裁判所の判決を調査しようと思う。

3に、根本が私への批判として「直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」と繰り返している点に言及しておこう。

 確かに私は憲法学説の主流(ないし多数説と呼ばれてきた見解)を批判し、その多くがアメリカ憲法判例を参照し、論者によってはアメリカ憲法判例の枠組みをそのまま適用するよう主張していることを批判してきた。その意味では「直截にアメリカ法からの離脱を提唱する。」という表現は適切かもしれない。

 ただ、私は「アメリカ法からの離脱を提唱する」ことに関心があるわけではない。日本国憲法を正しく解釈することに関心があるだけだ。そもそもアメリカ憲法判例にさして興味がない。さらに言えば、諸外国の法律や学説にもそれほど関心がないし、比較法研究にも関心がない。私の関心は日本国憲法の下で悪質な人種・民族差別の煽動のようなヘイト・スピーチを刑事規制することであり、日本国憲法の体系的合理的解釈である。この点は『要綱』においても強調したが、次回以後に再論する。

これまでラバト行動計画について何度も言及してきた。その翻訳はオンライン上にアップしてある。私の『序説』及び『要綱』でも紹介・検討した。しかし、日本の論者にはあまり着目されていないので、これからもラバト行動計画や一般的勧告35号を普及する必要がある。

私はほとんど「ラバト行動計画」主義者と化しているように見えるかもしれないが、ラバト行動計画の作成に、残念ながら、直接関与していない。国連平和への権利宣言の作成には大いに関与したので、「私たちがつくった国連宣言」と言ってきたが、ラバト行動計画についてはそうは言えない。ラバト会議にもその準備会議(ウィーンやバンコク)にも参加していない。

ジュネーヴでの検討会議(専門家ワークショップ)に参加したが、当時、「ラバト行動計画」のような文書をまとめる会議だとは知らなかった。このため、お勉強するつもりで傍聴しただけで、一度も発言していない。世界の数十カ国のヘイト・スピーチ法が紹介されたが、日本法には関連規定がないため発言しようもないので、会場の隅でお勉強させてもらっただけだ。フランク・ラ・リュ(国連人権理事会の表現の自由特別報告者)アスマ・ジャハンギル(宗教の自由特別報告者)ドゥドゥ・ディエン(元・人種主義人種差別特別報告者)、パトリック・ソーンベリ(人種差別撤廃委員会委員、キール大学教授)らの報告はとても勉強になった。せめて一度でも発言しておけば、「ラバト行動計画の作成に寄与した」と言えたのに、残念(苦笑)。

Sunday, January 30, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(190)根本猛への応答a

根本猛「差別表現規制をめぐるアメリカ法の潮流:ブラック判決を中心に」『静岡法務雑誌』10巻(2018年)

一 はじめに

二 ブラック判決

1 事件の概要

2 法廷意見

3 個別意見

三 差別表現をどう評価すべきか

1 表現の自由に関する判例の基調

2 RAV判決

3 ブラック判決の意義と問題点

四 結びに変えて―わが国の議論状況・素描

根本は、2003年のアメリカ最高裁のブラック事件判決について、法廷意見と個別意見を詳しく紹介し、1992年のRAV事件判決との関連を検討する。ブラック事件判決については、学説上も評価が分かれているが、「できるだけ表現の自由の価値に障らないように結論の妥当性を得ようとしたが、その試みは部分的にしかうまくいかなかったというところであろう」と評する。

表現の自由を研究する憲法学者の圧倒的多数がアメリカ憲法の紹介をしてきたので、既紹介のことが多く、新しい情報は特にないようである。

根本は最後の「四 結びに変えて―わが国の議論状況・素描」で、それまでの叙述から一転して突如として日本の学説状況について論じる。「憲法学の主流」は「規制反対論」であるとして市川正人、榎透、齋藤愛の見解を紹介する。「規制消極論」として小谷順子の見解に触れた上で、「規制積極論」として師岡康子と私の見解を紹介する。その上で「(四)小括」で、規制に親和的な曽我部真裕、規制反対論として駒村圭吾、宍戸常寿、長谷部恭男の見解を紹介しつつ、規制積極論を批判する。

 やや長いが、根本論文の最後の4つの段落を引用する。

「例えば駒村圭吾の、そもそも言論は過激なもので傷つく人がいるから規制すべきだという発想は危険だという発言を受けて、宍戸常寿は合衆国の国旗焼却問題を引きながら、人の心が傷つく表現に対する考え方の違いが米欧の分岐点ではないかと指摘している。

ヘイトスピーチの規制を是認するなら、同様の論理で、間抜けな女の子こそ愛されるというミニーマウス伝説や忠臣蔵は政治テロ礼賛だから規制すべきなのかという揶揄(前者は長谷部恭男、後者は宍戸常寿)が憲法学主流の雰囲気を物語っている。

わが国におけるヘイトスピーチ規制の急先鋒とみられる論者は、厳格審査基準に合格するヘイトスピーチ規制では不十分で、わいせつ表現や名誉毀損などと同様、ヘイトスピーチという憲法の保護外の表現と言うカテゴリカルな規制を求めているように見える。あるいは表現の自由について、直截にアメリカ法からの離脱を主張する。

まさに駒村圭吾がいう、憎悪表現や差別表現はいけないというなら表現の自由の背景には14条の趣旨を反映すべしというような『新たな憲法論』が必要ということになる。もちろん駒村はそれに否定的で、不快だから、傷つくからという言葉狩りにつながると懸念している。」(以上、根本論文74頁)

根本は私の見解を紹介して批判している。

すでに何度も指摘してきたことだが、憲法学者の中には、明らかに私を批判しているのに、私の名前も出典も示すことなく、私の文章を引用することもなく、おまけに私の主張を書き換えて批判する例が見られた。私は、こうした当てこすり戦術を、具体的に名指しで批判してきた。

これと違い、根本は私の名前を明示して、私の文章から引用して、批判を加えている。フェアな態度であり、対話が成立するので、歓迎したい。

これまで私の名前を明示して批判したのは成嶋隆と榎透である。成嶋と榎に感謝する。成嶋への私の反論は『ヘイト・スピーチ法研究原論』、榎への私の反論は『ヘイト・スピーチ法研究要綱』参照。榎への反論はこのブログに書いた。

ヘイト・スピーチ研究文献(171a)憲法と憲法学との微妙な関係(1)

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/a.html

Friday, January 28, 2022

ステレオタイプの原因と対策

クロード・スティール『ステレオタイプの科学』(英治出版、2020年)

http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2287

原題は「ヴィヴァルディを口笛でWhistling Vivaldi」だ。なぜヴィヴァルディを口笛でなのか、それが何を意味するのか。

アフリカ系アメリカ人男性がシカゴのハイドパーク地区を散歩していると、地域住民が彼を避けたり、身構えたりする。彼らに微笑みかけても逆効果である。彼らは外見で判断して、危険人物ではないかと不安に思って、避けるからだ。

この状況を打開したのは、男性が、緊張を解くために口笛を吹きながら歩くようになったことによる。ビートルズや、ヴィヴァルディの「四季」を吹きながら歩くと、住民は緊張を解いて、向こうから微笑みかけてきた。

このエピソードが表題となっている。ステレオタイプの「自然さ」と「怖さ」。ステレオタイプを打開するには状況を変えること。その一つの手段が口笛で吹きならした音楽が、双方に共通の文化に属していることだった。

かくして本書はステレオタイプとは何か、なぜこの現象が生じるのか。誰がステレオタイプにとらわれているのか。そのメカニズムはどのようになっているのか。こうした問いに答えるために、数々の実験を行い、その成果として得られた理論を解説している。

ステレオタイプは単に視線の問題ではなく、視線を差し向けられる側にも多大の影響を与える。それはアイデンティティの問題だからだ。「男だから***だ」「女だから***だ」「黒人だから***だ」とずっと言い続けられれば、成長過程において、その影響を被らないことは考えられない。誰もがステレオタイプの影響を受けるが、肯定的なステレオタイプであればともかく、否定的なステレオタイプの影響を受け続ければその人格に刻み込まれることになる。

「スティグマによるプレッシャーが原因で知的能力をフルに発揮できなくなるのは一般的な現象であること。」

「ステレオタイプ脅威を感じた人は、言い訳を探そうとする(つまり成績不振の原因を自分以外の何かに転嫁する)ことだ。」

「ステレオタイプ脅威にさらされると、ステレオタイプを追認すること(「やっぱりダメだなと思われるだろうか」)、追認が引き起こす結果(「やっぱり人種差別主義者なんだと思われたら、どんな反応を示されるのだろう」)、ステレオタイプを覆すためにすべきこと(「わたしは善良な人間であることを示すチャンスはあるだろうか」)などについて、気をもむことになる。そうした思考の反すうが脳からゆとりを奪い、目の前のタスクに集中できなくなる。ステレオタイプ脅威は、生理的反応を引き起こすだけでなく、思考を邪魔して、パフォーマンスにダメージを与えるのだ。」

著者は社会心理学者で、「ステレオタイプ脅威」と「自己肯定化理論」の研究をしているスタンフォード大学教授。この分野では大家のようだ。

著者の関心は、社会的にステレオタイプがあることによって影響を受けた人が、その影響を極小化するためにいかに自己肯定をはかることができるか、にある。とても参考になる本だ。

私の関心から言うと、社会的に存在するステレオタイプが、差別者にも被差別者にも影響を与える。それゆえ構造的差別を強化する。

また、最近は「小さな差別」「マイクロアグレッション」「無意識の差別」が議論されている。ちょっとした言葉の端々にステレオタイプが影響し、それが人間関係の中では「小さな差別」となる。差別する側にとっては「小さな差別」、あるいは「差別とは思っていなかった」ことが、被差別者にとっては深刻な差別になる。なぜなら、いつもいつも同じ差別にさらされるからだ。「小さな差別」は決して小さくない。むしろ被害結果は大きいこともある。

金友子「マイクロアグレッションと複合差別」

https://imadr.net/books/206_8/

本格的な研究は、

デラルド・ウィン・スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(明石書店)

私もこれらを参考に、次の文章を書いた。

前田朗「チクチク攻撃とじわじわ差別――マイクロアグレッションを理解する」『部落解放』817(2022)

ほぼ40年前、大学院生時代にヘルメノイティーク(解釈学)の法理論への影響を勉強した。指導教授から「君たちの法理論の方法論的見直しが必要だから、ヘルメノイティークに学んでやり直せ」と言われたためだ。197080年代、西欧ではヘルメノイティークが流行していた。その主要命題の一つが、事実認定や法解釈における偏見・先入観をいかに理解し、反省するかであった。

それ以来、偏見・先入観、ステレオタイプの弊害は法解釈学にとっても重要テーマであった。その後の私の差別論にとても大きな影響を与えた。その意味ではステレオタイプやマイクロアグレッションの問題はずっと念頭にあった。とはいえ、私自身がステレオタイプを逃れていたわけではない。ただ、常に自分の偏見を問い直す必要性は理解していた。

スティール『ステレオタイプの科学』は、スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』と対応する。ステレオタイプを理解することで、マイクロアグレッションの理解が深まる。

Thursday, January 27, 2022

「ヒトラーだ」はヘイト・スピーチではない

菅直人(前首相)が維新と橋本徹(前大阪市長・前府知事)を名指して「ヒトラー」呼ばわりしたことが波紋を呼んでいる。

松井・吉村・橋本vs菅・蓮舫の間で議論の応酬になり、維新はなぜか立憲民主党に抗議したという。

この件で、橋本は「国際社会ならアウトだ」、松井は「ヒトラーに例えるのはヘイト・スピーチだ」と主張して、菅を批判したという。

意味不明、かつ虚偽の主張である。

なぜこのような幼稚な嘘が横行するのか不思議だが、私のところにも「ヒトラーだと非難するとヘイト・スピーチになるのか」という問い合わせが届いた。

問題のある政治家に対して「ヒトラーだ」と批判するのは、国際社会では頻繁に用いられてきた、その意味ではよくある批判の言葉である。ヒトラーだと言われて、それが当てはまれば、その政治家の政治生命が危機となるのがまともな民主主義社会である。

「ヒトラーのようだ」はヘイト・スピーチとはおよそ関係がない。むしろ逆である。ヒトラーによって差別され、被害を受けたユダヤ人にヘイト・スピーチが向けられた。「ヒトラー」はヘイトの主体であって、被害客体ではない。

次の2つの観点で検討しよう。

1.  日本のヘイト・スピーチ解消法

2.   国際社会のヘイト・スピーチ処罰法

1.日本のヘイト・スピーチ解消法

日本のヘイト・スピーチ解消法第2条はヘイト・スピーチを次のように定義する。

 <この法律において『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。>

1に被害者として保護されるのは「本邦外出身者」である。松井・吉村・橋本は「本邦外出身者」ではないだろう。

2に目的は「差別的意識を助長し又は誘発する目的」である。これもまったく関係ない。

3に実行行為(1)は「その生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知」である。菅はこうした危害に言及していない。

4に実行行為(2)は「本邦外出身者を著しく侮蔑」である。全く関係ない。「侮蔑」に当たるとの主張は当たらない。政治家同士の批判の応酬である。

5に実行行為(3)は「本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動」である。これもおよそ関係ない。

以上の通り、どこからどう見ても、ヘイト・スピーチではない。

2.国際社会のヘイト・スピーチ処罰法

 世界の150か国でヘイト・スピーチは犯罪とされている。法律は多様であるが、代表的な例を見ておこう。

 ポーランド刑法第256条及び第257条は国民、民族、人種及び宗教の差異、又はいかなる宗派にも属さないことのために、公然と憎悪を煽動した者、その国民、民族、人種又は宗教関係ゆえに、もしくはいずれかの宗派に属さないことゆえに、住民の中の集団又は諸個人を公然と侮辱した者、もしくはそれらの理由で、他人の人間の尊厳を侵害した者は、訴追されるべきとしている。

 第1に犯罪動機は「国民、民族、人種及び宗教の差異」とされている。

 第2に実行行為は「公然と憎悪を煽動」「公然と侮辱」「人間の尊厳を侵害」である。

 フランス刑法第6243条は「その人の出身、又は特定の民族集団、国民、人種又は宗教の構成員であるか構成員でない――現にそうであれ、そう考えられたものであれ――ことに基づいて、人又は集団に公然性のない中傷をすれば、第四カテゴリーの犯罪に設定された罰金を課す。ジェンダー、性的志向、障害に基づく公開ではない中傷も同じ刑罰を課す」と規定する。

 第1に犯罪動機(被害者の属性)は「その人の出身、又は特定の民族集団、国民、人種又は宗教の構成員であるか構成員でないこと」である。「ジェンダー、性的志向、障害」が追加された。

 第2に実行行為は「中傷」である。

大半の国では人種、国民、言語、宗教、ジェンダー等を理由とするヘイト・スピーチを処罰する。

「政治的批判」をヘイト・スピーチだと非難するのは的外れである。

国際自由権規約も人種差別撤廃条約も、人種、国民、皮膚の色、言語等に基づくヘイト・スピーチの規制を求めている。いずれも政治的ヘイト・スピーチには言及していない。

以上の通り、日本法、各国法、国際人権法の観点から言って、「ヒトラーだ」がヘイト・スピーチになることは考えられない。

およそ逆である。ヘイト・スピーチはヒトラーの得意技であった。ヒトラーとその同類によるヘイト・スピーチを非難するべきである。ヒトラーとその同類に対する批判を「ヘイト・スピーチ」と呼ぶのは倒錯している。

マスコミの中には松井・吉村・橋本の異常な主張をそのまま横流ししている例が見られるが、不見識である。

下記の報道を参照すべきである。

橋下徹は盟友・石原慎太郎から「ヒトラーに該当」と称賛されていた! 高須院

長に協力の吉村、優生思想の松井、維新議員に反論の資格なし

https://lite-ra.com/2022/01/post-6152.html

菅元首相「ヒトラー投稿」にモーレツ抗議 維新お得意の手口に惑わされるな!

https://news.yahoo.co.jp/articles/2dd59e5ce624897472b24a2f3614f165cb227529

Wednesday, January 26, 2022

人種平等は見果てぬ夢か? ダーバン宣言から見る私たちの課題

アジェンダ・プロジェクト講演学習会

人種平等は見果てぬ夢か? 

ーーダーバン宣言から見る私たちの課題

 

講師:前田 朗さん

(朝鮮大学校法律学科講師、日本民主法律家協会理事、NGO国際人権活動日本委員会運営委員)

 

日時:2022213日(日)14001630(開場1330

会場:国分寺労政会館・第四会議室(4階)

JR中央線・国分寺駅南口徒歩5分)

資料代600円 

※事前予約制(先着40名。下記の電話・メールにお願いします)

 

主催 アジェンダ・プロジェクト東京

TEL 090-4413-5048(にしお)

メール:agenda-east03@rapid.ocn.ne.jp

 

【注意事項】

※会場では基本的な感染対策(検温、換気、手指消毒ボトルの用意)を行います。

※参加はマスク着用でお願いします。

※発熱など体調不良の方は参加をご遠慮ください。

※参加人数は制限して行います。(通常120名のところ、40名まで)

※新型コロナの感染状況によっては日程変更や中止もあり得ますのでご了承ください。

 

2001 年、南アフリカ共和国のダーバンで反人種主義・差別撤廃世界会議(国連主催)が開かれました。

そこでは、現在まで続くレイシズムの起源が植民地支配と奴隷制にあり、「人道に対する罪」であったことが認められました。

それから20 年が経ち、日本の中で外国人や民族的マイノリティの人権状況はどう変わったでしょうか?

2021 3 月には、名古屋入管に収容されていたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが体調悪化を訴えていたにもかかわらず、十分な治療も受けられないまま亡くなるという痛ましい事件が起きました。

いまの入管制度が国家の都合を優先し、外国人の人権保障の観点から運用されていないことをこの事件は端的に示しています。

日本政府は、いままで国内外からの指摘があってもなお、「人種、皮膚の色、世系、民族的あるいは種族的出身に基づく」差別を禁止する包括的な法制度を作ることに後ろ向きなままです。

外国人を含めたすべての人に基本的人権は保障されるべきです。

ダーバン宣言の意義に学びながら、日本社会に生活する私たちの課題をともに考えたいと思います。

非国民がやってきた! 011

三浦綾子『光あるうちに』(新潮文庫)

三浦の自伝「道ありき第三部 信仰入門編」(1970)であり、闘病に明け暮れた青春時代を描いた「道ありき」、三浦光世との結婚生活を描いた「この土の器をも」に続く。

『氷点』の主題が「原罪」であったため、多くの読者から「原罪とは何か」と問われて、三浦は「人間が生まれながらにして持っている罪」と答え続けたが、これでは十分ではない。本書で三浦はずっとこの問いに向き合い、「自己中心」のはかりにたどり着く。

「人のすることは大変悪い」

「自分のすることは、そう、悪くはない」

この2つの尺度で、私たちは考えたがる。三浦はダビデとナタンの逸話を紹介する。他人に厳しいダビデが、同じ基準を自分に差し向けるや、神を恐れてふるえあがることになる。名君ダビデにして、こうだ。まして普通のわたしたちは、と三浦は言う。自分の罪を計る物差しは甘く、人の罪を計る物差しは厳しい。自己中心が罪のもとである。と知りながら、何度も反省しながら、それでも自己中心にとらわれてしまう。こう煩悶し続ける三浦は、「罪を罪と感じないことが罪だ」と認識するが、自らの罪に対する感覚の鈍さに慄然とする。

自己中心は個人にもあるが、あらゆる局面に顔を出す。地位が変わり立場が変わると、その地位や立場に応じて自己中心になる。学生だった自分の自己中心、後に教師になるや新しい自己中心。

社会的にも、自分が属するコミュニティに有利なように考える。家族、町内会、自治体、国家、民族、すべてにおいて自己中心が幅を利かせる。

愛について考える三浦は、性愛を越えて、親子兄弟、友愛、師弟愛、人類愛、神の愛を視野に入れつつ、愛が矛盾し合う場合を持ち出す。「国家への愛が、人類愛と一致することは稀である」という。戦争中の敵性語であった英語使用の禁止を例に、

「敵性言語を使うとはけしからん。非国民だ」

「こんな狭量、排他的なものが、愛国心には含まれている」という。

これも昔からわかっていたことである。幸徳秋水はその帝国主義論で、ナショナリズムが戦争を招き、戦争が非国民を生み出すメカニズムを見抜いていた。帝国主義論の幸徳秋水は大逆無道論の幸徳秋水となり、現に大逆の罪を問われて処刑される。長谷川テルは、戦争に熱狂するナショナリズムの欺瞞を指弾していた。

ナショナリズムが排外主義を呼び寄せるや、まともな人間は非国民にならざるを得ない。たぶん世界共通の現象だろう。

神について論じる三浦は、キリスト信仰に入ってもしばらくは「イエスが神の子である」とは信じられなかったという。イエス自身による「わたしは神の子である」という言葉を極めて重大な言葉として受け止めたのは、

「もし誰かが、あの戦時中に、

「わたしは天皇である」

と言ったとしたら、その人は死刑にされたか、狂人扱いされたことであろう。ユダヤ人にとっては、それよりも、もっともっと厳しい状況で神と人とを区別していたわけである。

このような状況の中で、

「わたしは神の子である」

と言われたイエスの言葉である。」

旧約の予言を成就するためにこの世に送られたイエスの言葉である。

Tuesday, January 25, 2022

戦争、宗教、女性(第4章 女性)

中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)

 

4章は女性に関することが多く言及されているので女性という表題が付されている。一般にイスラムの女性差別の根拠となる部分と理解されている。

一夫多妻制を推奨し、妻は4人までとする。相続の規定も男子優先。姦通罪に関する女性への厳罰。家父長制。

「男たちは女たちの上に立つ管理人である。アッラーが一方に他方以上に恵み給うたことゆえ、また、彼らが彼らの財産から費やすことゆえに。それゆえ、良き女たちとは、従順で、アッラーが守り給うたがゆえに留守中に守る女たちである。おまえたちが不従順を畏れる女たちには、諭し、寝床で彼女らを避け、そして、彼女らを撃て。もし彼女らがおまえたちに従うなら、彼女らに対し道を求めるな。まことにアッラーは崇高にして大いなる御方であらせられた。(434)

4章後半は、イスラムにおける政治、異教徒や悪魔と異なるムスリムの戦い、偽信者への警戒、戦闘時の礼拝などが定められる。

1300年前の戦争と素朴な家父長制の時代の信仰と戒律を述べている。現在もそのまま宗教規範とされてしまっていることに問題の根源があるが、信仰コミュニティにとっては、聖典である以上、改めることはできない。戦争の直後に述べられた言葉が多く含まれるため、戦時に固有のことを述べたのに、後の人々がこれを普遍化してしまったという話も聞いたことがあるが、さてどうなのか。

また、古臭い幼稚な発想と批判されても、その批判を受け入れることもできない。偉大な唯一の神アッラーの教えをムハンマドが述べた以上、何千年たっても守るべき規範であるということになる。

国連人権委員会の「女性に対する暴力特別報告者」のラディカ・クマラスワミさんが、講演の中で、「宗教そのものがつねに女性差別と言う訳ではない。どの宗教も女性を励ます面と女性を差別する面がある。どの宗教にも女性に対する暴力を放置する面と、批判する面がある。」という趣旨のことを言っていた時に、なるほど、と思って聞いていた。

4章を読むとイスラムは根本的に女性差別的ではないかとも思うが、違う面もあるのかもしれない。イスラムの世界にもフェミニズムがあるというが、どのような主張をしているのか、まだ読んだことがない。

歴史修正主義の系譜と規制について

武井彩佳『歴史修正主義』(中公新書、2021年)

日本で「歴史修正主義」「歴史歪曲」「歴史改竄」が猛威を奮うようになったのは1990年代半ばからだったように思う。「南京大虐殺の嘘」「慰安婦強制連行はなかった」といった歴史否定の異様なナショナリズム言説がメディアに登場し始めた。実際にはその裏でアベシンゾーら政治家が画策し、組織的に歴史歪曲が繁殖していった。

同じ時期、西欧でも「アウシュヴィッツのガス室はなかった」とする歴史修正主義の脅威が語られた。ドイツやフランスにおける論争が、やがてイタリアやスペインを始め欧州全域に広がっていった。

とはいえ、欧州では「アウシュヴィッツの嘘犯罪」=「ホロコースト否定犯罪」が制定され、歴史修正主義に一定の歯止めが掛けられた。このため、規制のないアメリカやカナダを拠点に歴史修正主義が世界に輸出されるようになっった。

日本は、西欧と異なる道を歩んだ。歴史歪曲を「表現の自由だ」「学問の自由だ」と強弁する倒錯した憲法学者・弁護士・ジャーナリストが多い。法規制どころか、歴史歪曲のアベシンゾーが首相の地位にのぼりつめ、権力を握ってしまった。その後の転落を目を覆わんばかりだ。次々と都合の悪い歴史を否定し、歪曲し、賛美する異様な「歴史学」が横行している。周辺諸国との軋轢を深めるばかりだ。学問の破壊と人間性の破壊が同時進行している。

武井は、西欧における歴史修正主義の全体像を見事に描き出す。本書副題は「ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで」とされており、主としてナチスの犯罪に関する歴史修正主義を取り扱うが、東欧に置ける状況にも言及している。またその法規制にも言及している点で、これまでの歴史学者の著作としては踏み込んだ内容となっている。

主に論じられるのは、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダにおける「ホロコースト否定論」である。その概要はこれまでも知られているが、1冊の新書にていねいに、かつ手際よく紹介してくれているので有益である。

歴史否定論が単に歴史事実の否定にとどまらず、他者のアイデンティティへの攻撃となり、人種差別となる事にも論及している。その上で、ホロコースト否定犯罪の刑事規制を検討している。武井は欧州委員会報告書などを基に、イタリア、オーストリア、ギリシア、スイス、スペイン、スロヴァキア、チェコ、ドイツ、ハンガリー、フランス、ベルギー、ポーランド、リトアニア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク、ルーマニア、ロシア、イスラエルに「否定禁止法」があることを紹介している。

多くの論者がドイツやフランスの例だけを引き合いに出して議論してきたのに対して、武井は西欧では否定禁止法が一般的であることを明らかにし、その上で西欧のみならず東欧にも広がっていること、ただし東欧の状況はナチス犯罪だけでなくスターリン時代の犯罪の否定にも関わっているため複雑であることも明らかにしている。

同じことを、私は『ヘイト・スピーチ法研究序説』及び『ヘイト・スピーチ法研究要綱』で論じ、歴史否定(歴史否定主義)を規制する法律はオーストリア、ベルギー、ブルガリア、クロアチア、キプロス、チェコ、フランス、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スロヴァキア、スロヴェニア、スペイン、ロシア、イスラエル、ジブチにもあることを紹介してきた。

武井は、歴史家であり法律家ではないが、ホロコースト否定犯罪の保護法益についてもていねいに論じているし、国際ホロコースト記憶連合のことも紹介している。

歴史修正主義に歴史学はどのように向き合うのかとともに、法的にどのように対処するのかも、きちんと議論をしていかなくてはならない。

この点では韓国での議論が日本よりも先行している。というのも、実際に法律案が作られて国会に上程されてきたからだ(成立していないが)。武井は韓国の状況には言及していないが、西欧、東欧、日本、韓国を含め、さらにはラテンアメリカでも「記憶する権利」が議論されているので、視野を広げつつ、基本的な構えをいかに組み立てるかを議論すべき時だ。優れた新書本に感謝。

Saturday, January 22, 2022

フェミサイド研究文献レヴューの紹介05

4.4 フェミサイド確認に関する法医学的パースペクティヴ

 

法医学は事件を解決する刑事捜査における証拠の分析と犯罪者の訴追、判決の科学的基礎を提供することに焦点を当てる。法医学研究は、被害者の特徴、関係、殺害場所、被害者発見場所、殺害方法、遺体の状況を調査する。これらの要因は殺人の記録化と捜査に含まれる。Moreschi et al. 2016は、イタリアにおける女性殺害事件を検討し、被害者と加害者の特徴や犯罪をめぐるリスク要因を解明する。

犯罪現場の分析は性的殺人の御捜査にとって重要である。性的動機を確認するために次のような要因が検討される。被害者の着衣状況、体液、性的傷害、身体の性的状況等(Hakkanen-Nyholm et al 2019)。加害者のプロファイリングにおいて、Chan et al. 2010は、法医学調査において人種や年齢の情報も含めることを提案する。犯罪現場の正確な記録は、女性が殺害されたか否か、むしろ自殺ではないか、殺害の動機は何か、フェミサイドであるか否かの決定を可能にする。Bitton and Dayan,2019は、女性の死亡には隠されたフェミサイドがあると指摘する。疑わしい死亡は外よりも自宅で起きる。

 

4.5 統計目的のためのフェミサイド確認のための説明変数

 

フェミサイド、女性殺害のジェンダー動機、ジェンダー浸透性を判定するために、研究文献は、被害者―加害者の特徴づけ、両者の関係、殺害状況、文化的社会的文脈に言及する。Vives-Cases et al. 2016は、被害者と加害者の性別、両者の関係の類型、DV前歴、以前の警察介入歴等をあげる。Walby et al. 2017は、被害者、加害者、事件状況の3つをセットで考える。

実行者と被害者の特徴づけ

Liem and Koenraadt,2018は、親密なパートナーには配偶者や元配偶者だけでなく、現在事実上の関係にあるボーイフレンド、ガールフレンド、同姓関係のパートナーも含まれるという。Dobash et al. 2004は、ゲイ男性が女性を殺害した事例を、男性を殺害した事例と比較して検討する。Caman et al.2016は、スウエーデンの親密なパートナーによる殺害実行犯は、そうでない実行犯よりも社会的に不利益を被っているわけではないという。トルコにおけるフェミサイド研究のToprak and Ersoy,2017は、フェミサイド実行犯は他の類型の殺人犯よりも犯罪歴等が多いわけではないという。

Weldon,2015は、11件の親密なパートナーによる性犯罪を研究し、男性が女性について持っている5つの観念を抽出している。暴力の規範化、支配の欲望、被害者への帰責、薬物中毒の性にして個人責任を否定、犯罪者であるとは認めない、といった特徴がある。親密なパートナーによる殺人の被害者研究と、そうでない殺人の被害者研究は対立する場合があるが、年齢が重要な要因であることは共通している。Shackelford and Mouzos, 2015によると、アメリカでは中年女性に妻殺しuxoricide被害のリスクが高いが、オーストラリアでは若い女性の方がリスクが高いという。

その他に重要な変数とされるのは、妊娠、子ども(目撃者、被害に巻き込まれ)、被害者の職業、女性の売春、政治活動、ジェンダー、LGBTIQ+、健康状態等。

DV前歴・保護命令歴

Vives-Cases et al.2016は前歴がフェミサイド記録における重要要素だという。Koppa and Messing,2019も、被害者保護措置のためにも前歴情報が重要であるという。Mamo et al 2015はイタリアの状況でも前歴の重要性を確認する。

文献レヴューの要約

・攻撃者は被害者と関係があるか、関係を持とうとした

・攻撃者には暴力の前歴がある

・行為は家族関係内で起きる

・名誉、家族の評判、宗教信仰が正当化のために持ち出される

・女性の妊娠も動機となる

LTに対するヘイト・クライム

・女性、人権活動家、ジャーナリストへのヘイト・クライム

・ジェンダーの力関係の帰結としての被害者の従属

・犯罪集団の活動の一部としての殺害

・性的搾取や性的人身売買

・武力紛争における女性殺害

・性暴力の一環としての行為

・女性が情報から疎外されている状況

FGM

Tuesday, January 18, 2022

1.23 ウトロ放火事件緊急糾弾集会

ウトロで何が起きたのか!レイシストが奪おうとしたものは何か!

 

★ 日時:123日(日)16時開始(開場 1545分)

★ 場所:新宿区大久保区民センター 集会室A(新宿区新大久保2-12-7

★ 講師:「京都府・京都市に有効なヘイトスピーチ対策の推進を求める会」事務局長  さとう大さん

★ コメンテーター:東京造形大学名誉教授 前田朗さん

★ 資料代 1000

 

・呼びかけ:ウトロ放火事件糾弾緊急集会実行委員会  連絡先:070-6550-0917(三木)

・賛同:差別・排外主義に反対する連絡会

 

2021830日午後4時 京都府宇治市ウトロ地区で火災が発生しウトロの歴史を語る様々な看板などが保管されていた倉庫を含む建物5棟が全焼、住宅2棟が半焼しました。人的被害は発生しませんでしたが、高齢者やこどもなどの命が奪われかねない火災でした。建物が密集し、生活インフラがぜい弱で、プロパンガスが使われているウトロ地区の火災だけに被害がさらに大きく拡大する可能性もありました。

 当初は失火の可能性も高いとされていた火災は、レイシストによる放火でした。126日に奈良県桜井市高田の有本匠吾容疑者が非現住建造物等放火の容疑で京都府警が逮捕し火災の原因は放火である疑いが強いと発表したのです。有本容疑者は726日午後7時頃名古屋市中村区の韓国民団本部に放火した疑いで11月に器物損壊の疑いで起訴されている人物です。他の施設にも同様の放火をしたことを示唆しているという報道もあります。有本容疑者は在日コリアンコミュニティに狙いを定め短期間に放火を繰り返していたのです。

 それだけではありません。1219日には東大阪市韓国民団枚岡支部事務所に長さ20センチのハンマーが何者かによって投げ込まれ窓硝子が割られているのが発見されました。在日コリアンをターゲットとした凶行が続いています。今も容疑者の放ったヘイトの炎は日本社会の中でめらめらと燃え続けています。

 200912月京都朝鮮第一初級学校の生徒と教職員が授業中にレイシストの襲撃を受けた忌まわしい事件から12年経過してもなお日本社会はヘイトクライムと対峙できていません。日本政府も地方自治体も今回の放火事件の容疑者逮捕に関し何もメッセージを発していないのです。ヘイトクライムを禁止する法律もありません。在日コリアンコミュニティに対する日本版ポグロム(ポグロム=ユダヤ人殺戮)は関東大震災時の数千名と推定される朝鮮人・中国人等の虐殺から今に至るまで無反省に繰り返されているのです。

 ウトロで何が起きたのか、私たちは何をしたらいいのか考える機会を東京でも持たなければならないという強い気持ちから今回の緊急集会を企画しました。

 私たちは緊急集会実行委員会を作り、京都から「京都府・京都市に有効なヘイトスピーチ対策の推進を求める会」事務局長のさとう大さんをお招きします。コメンテーターをヘイトクライム研究の第一人者である前田朗さんにお願いしました。厳しい環境の下での開催となりますが、是非関心を寄せていただいて会場まで足をお運びください。あたらしい出会いと議論の場を作りましょう。

Saturday, January 15, 2022

フェミサイド研究文献レヴューの紹介04

 フェミサイド研究文献レヴューの紹介04

 

4.2 フェミサイド確認のために用いられる変数

 

フェミサイドを確認するには、殺人の諸要素を確認し、その文脈、環境、個人の行動を評価する必要がある(Lorente,2019)。

Walklate et al. 2020は、フェミサイドの「薄い」説明と「厚い」説明を区別する。薄い説明とは、殺人の原因、刑法における概念化に焦点を当てる行政情報に主に見られる。厚い説明は、暴力と共に生きるストレスの帰結をも考慮に入れる死亡結果を探求することも含み、「緩やかなフェミサイド」を射程に入れる。フェミサイドの厚い説明の諸形態は、イギリスのDobash and Dobash、トルコのToprak and Ersoyに見られる。フェミサイドを可能とする社会的ダイナミクスと個人的ダイナミクスを深く分析している。Vives-Cases et al. 2016は、欧州におけるフェミサイドの報告システムをいかに改善するかを分析している。欧州における国別の情報収集を制度化し、専門家を訓練するよう勧告している。少なくとも、被害者の性別、加害者の性別、被害者―加害者関係の類型、暴力の前歴、当局による介入歴を収集するべきである。

UNDOCのグローバルな殺人研究は助成のジェンダー関連殺害に関する比較可能な除法を提供している。モナシュ大学のジェンダー・家族暴力予防センターフェミサイド確認のための具体的な要素や変数を提言していないが、フェミサイド事件を報告・説明する民族的政治的なあいまいさについて論究している。

女性の故意の殺人/故意によらない殺人とジェンダー動機

フェミサイドの主要な議論は故意の問題、ジェンダーに特殊な状況、動機に関わる。故意の有無はどの国の司法でも刑法上重要である。故意がフェミサイドの要素であると主張する論者もいるが、故意によらない行為もあり得ると主張する論者もいる。Dawson and Carrigan(2020)は、故意は必要ない、男性パートナーによる女性の死は、殺すつもりがなくてもフェミサイドであるという。Lorente(2019)は、文化的、社会的なジェンダー背景に着目し、ジェンダー化された背景や相互関係が重要と見る。

故意は女性を統制・支配しようという考えに基づくこともある。女性が男性の地位を攻撃する場合にも。女性を利用しようとしたり、憎悪したりすることも女性殺害の行為をもたらすかもしれない。フェミサイドは、故意によるものであれ故意によらないものであれ、個別の出来事としてではなく、プロセスとして見なければならない。

Lorente(2019)は、ジェンダー動機に関連して3つの層を区別する。第1に、ジェンダーに動機を持つ行動は、ジェンダー化された文化に根差している。男女の不平等、家父長制、男女ともにこれらの文化に影響されている。第2に、ジェンダー動機殺害は社会の中で起きる。ジェンダーによる行動が実行されている文脈である。親密なパートナー、堕胎、FGM。第3に、ジェンダー動機殺害は個人間の関係の中で起きる。

Pasini(2016)は、親密なパートナー・フェミサイドに関連して男性性の側面を検討し、男性の攻撃性、人間関係における奴隷制、嫉妬、感情的依存性に即して見ている。Abrunhosa et al.(2020)は、これに「行動を支配する」という要因を追加する。「男性は「俺がお前を所有できないなら、誰にも所有させない」と考えて、別れようとする女性を殺害する。この場合、男性は自分を被害者ととらえて、女性が殺されたがっているとさえ考える。

 

4.3 リスク要因とリスク評価

ジェンダーに基づく殺人の定量的研究の主な目的は、この犯罪の流行、DVのリスク要因、フェミサイドとつながる関係性を研究することである。既存情報の二次的分析は、ジェンダーに基づく暴力とフェミサイドのリスク要因を確認しようとする。フェミサイドを殺人一般としてではなく、フェミサイド固有の文脈で研究する。Garcia et al.(2007)は、フェミサイドになりそうな親密なパートナーによる殺人の評価の重要な次元を確認する。ジェンダー、婚姻状態、年齢、民族、人種、妊娠、環境、凶器、アルコール等。トルコについてはKarbeyaz et al.2018も。イタリアについてNicolaidis et al. 2003及びZara et al. 2019. Frye et al. 2008は、周辺環境の役割を研究し、ニューヨーク市における近隣の社会解体(貧困、隣人関係の希薄性)は必ずしもリスク要因ではないという。逆にBeyer et al. 2015はウィスコンシン近隣状況が役割を果たすという。

リスク評価のため、Campbell et al.2009は、リスク評価一覧に注目する。Messing et al. 2013は、移民の重要性を指摘し、リスク評価の文化的要因に注目し、移住女性は夫の移住状態に依存するため、特別に被害を受けやすいという。

多くの研究が、親密なパートナー暴力が殺人にエスカレートするという。Boxall and Lawler,2021は、エスカレーション概念を再検討し、この概念には多様な意味合いがあるという。すべての暴力がエスカレートする訳ではない。Dobash and Dobash. 2015は、現在の紛争と以前の暴力が殺人の指標となるという。Stockl and Devries. 2013は、世界的に親密なパートナー暴力が減少すれば殺人率が下がるという。同時に、しかし、Sebire. 2017は、すべての虐待が致死暴力につながるわけではないという。

多くの質的調査研究によると、親密なパートナー殺人のリスク要因として次のものが挙げられる。

・被害者と加害者の年齢(女性が若いことが顕著)

・虐待者の失業

・精神疾患

・アルコール乱用又は薬物乱用

・両者の関係(婚姻よりも同居がリスクが高いかどうか)

・妊娠

・離別

・同居の被害女性が虐待者から去った場合

・加害者による統制・支配

・虐待者の暴力行動又はストーキング

・子どもに対する攻撃

・殺すという脅迫歴

・自宅の外での暴力

・虐待者の実子でない子ども

・自宅に武器がある場合

・被害者及び加害者の移住者の地位

非国民がやってきた! 010

鶴彬通信はばたき第39号を読む

鶴彬を顕彰する会

http://tsuruakira.jp/

 

26回鶴彬川柳大賞報告が掲載されている。大賞作品は

文明の垢で命の海が泣く        阿部 浩(神奈川県横浜市)

SDGsが国際的な最大の関心事になっている現在に相応しい、環境汚染を読んだ秀句だ。作者も選者もさすが。

 

優秀賞は3句。

ワクチンをうつ手に銃は持たせない   有安 義信(岡山県加賀郡)

自死させた嘘は野放しされたまま    原  新平(神奈川県中郡)

さとうきびザワワ軍靴の音を消す    中沢 光路(新潟県十日町)

 

他に、第8回かほく市民川柳祭の優秀作品(小学生の部、中学生の部、一般の部)も掲載されている。小学生や中学生も川柳だ。鶴彬の故郷、かほく市は日本一、川柳づくりの多い町だろう。一般の部の佳作には次の1句も。高松は、石川県かほく市の高松だ。

コロナ禍の中の日本は植民地      三宅 義久(高松)

 

また、金津淑子さんのお話(原稿)「反戦川柳作家鶴彬について」によると、鶴彬の句碑は7つあるという。

金沢市卯辰山公園

かほく市高松歴史公園

盛岡市松園観音公園

遠野市上郷慰霊の森

大阪市大阪城公園

かほく市高松・喜多義教宅

かほく市高松浄専寺境内

「まとめ」では、次のように述べている。

「彼の命がけの願いが、戦後に漸く実を結び、農地解放や労働運動、売春防止法などにより、住みよい社会に変わってきました。」

「暁を、夜明けを待ちに待ちながら、闇の中にじっと堪えていた蕾も、今は花開き、盛岡の窓から、日本の空を風になって、自由にはばたいている事だろうと思います。」

 

「鶴彬研究の古典 秋山清「ある川柳作家の生涯」の紹介」も掲載されている。秋山清の『日本の反逆思想』『ニヒルとテロル』『大杉栄評伝』『竹久夢二』『近代の漂泊』はいまもなお読み継がれるべき本だ。と思ったら、著作集第7巻に『自由おんな論争』という本もあるという。これは読んだことがない。

Thursday, January 13, 2022

ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーンシンポジウム

ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーンシンポジウム

「みんな違って、みんないい」に違和感あり!―「ダイバーシティ」でホントにいいの?

◆日時: 219日(土)12:30-15:00

◆場所: オンライン(Zoomウェビナー)

◆参加費: 無料

◆参加申し込み: 

https://docs.google.com/forms/d/1SSXVyUOimh0ynEdvEYkGJZxg1dIIyOg3FUZlQL7rtL8/edit

 ※参加を申し込んだ方には前日に主催者から視聴用のZoomリンクをお送りします。

 ※当日参加できなかった場合も、後日、期間限定で視聴可能です(参加申込者に限る)。

◆主催: ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン

◆協力: 市民外交センター、人種差別撤廃NGOネットワーク(ERDネット)、Peace Philosophy Centre、ヒューライツ大阪

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◆プログラム

1部 ダイバーシティへの異議

 発題1 出口真紀子(上智大学)

 「マジョリティの特権とは――レイシズムの観点から」

 発題2 丹羽雅雄(弁護士)

 「なぜ「多文化共生」ではなく「多民族・多文化共生社会」なのか」

 対話:「ダイバーシティ」のどこが問題か~教育を切り口として

モデレータ:榎井縁(大阪大学)

2部 ディスカッション「ダイバーシティ推進で何が起きているか」

    モデレータ:藤岡美恵子(法政大学)

                    発題1:大阪市の「多文化共生」指針(藤本伸樹)

      発題2:カナダの多文化主義の経験(乗松聡子)

    QA

閉会挨拶

 

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 「みんな違って、みんないい」――民族/文化やジェンダーや性的指向などにかかわらず誰もが尊重される社会をめざしたい、そんな気持ちをあらわす言葉です。最近では「ダイバーシティ&インクルージョン」の推進にとりくむことが企業にとって不可欠、と言われるようになっています。政府や自治体はとくに2000年代以降に「多文化共生」政策を掲げています。

 これらをみると、日本社会で多様性を尊重しようと気運が高まっているように思えます。差別され、あるいは社会の中で見えない存在にさせられてきたマイノリティにとって、差別をなくし生きやすい社会にするためのきっかけとなるのではないかとの期待もあります。

 しかし、ずいぶん以前からこの二つの言葉への違和感をもつ人々がいます。「みんな違って、みんないい」では差別や生きにくさを生む社会の構造を変えられないのではないか? 「多文化共生」政策ではなぜ、何世代にもわたって日本に暮らしてきた在日朝鮮人・中国人、そしてアイヌ民族、琉球民族のことには触れられないの? 現実にずっと以前から日本は「多文化」なのに、いまになって共生しましょうなんて、マジョリティのエゴでは?

 「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン」は日本で反レイシズムがあたりまえになる社会を作るためには、レイシズムが継続する制度的、構造的な問題と、現在のレイシズムに連なる植民地主義を問う必要があると考えます。その視点から「ダイバーシティ」のどこが問題なのか、社会のマジョリティ側にどんな問題があるのか、そしてそれをどう乗り越えていくかを考えます。

 

 

◆ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーンとは:

 2001年、レイシズム(人種主義)と植民地主義を世界的課題として話し合う画期的な会議がありました。南アフリカのダーバンで開かれた「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連するあらゆる不寛容に反対する世界会議」(略称:ダーバン会議)です。ダーバン会議は人種差別がジェンダーなどの他の要因と絡み合う「複合差別」の視点や、目の前にある差別は奴隷制や植民地支配など過去の歴史と切り離せないことを示すなど貴重な成果を残しました。

 そのダーバン会議から20年の2021年、その意義を再確認しながら、反レイシズムがあたりまえになる社会を日本につくるために「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン」を立ち上げました。

 

<共同代表>上村英明(恵泉女学園大学) 藤岡美恵子(法政大学) 前田朗(東京造形大学)

<実行委員会> 一盛真(大東文化大学) 稲葉奈々子(上智大学) 上村英明(恵泉女学園大学) 榎井縁(大阪大学) 清末愛砂(室蘭工業大学) 熊本理抄(近畿大学) 乗松聡子(『アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス』エディター) 藤岡美恵子(法政大学) 藤本伸樹(ヒューライツ大阪) 前田朗(東京造形大学) 矢野秀喜(強制動員問題解決と過去清算のための共同行動事務局) 渡辺美奈(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)    

2022日年月現在)

 

メール: durbanRCS@gmail.com

ブログ: https://durbanplus20japan.blogspot.com/ 

Wednesday, January 12, 2022

フェミサイド研究文献レヴューの紹介03

3.4 データ収集における偏見

 

諸文献で論じられている主要な偏見は、民族的文化的偏見である。2019年、カナダは殺害された先住民族女性についての情報がないことに焦点を当てている。カナダのメディアにおけるフェミサイド報道を分析して、Shier and Shor(2016)は、フェミアイ度を文化化され、病理学化された取扱いがなされているという。近代的でリベラルな西側世界と伝統的で家父長的な東側世界という偏見が再生産されているが、ジェンダー規範、家父長制、女性蔑視及びジェンダー関連暴力のその他の形態は、複合的で交差的なパターンを持つことが隠されている。重要なのは、フェミサイドを惹き起こす交差的要因、文化、社会、経済、法的文脈のような要因に敏感になることである。

Walklate ret al. (2020)はもう一つの偏見として、フェミサイドの個人化(個別化)に注目する。脱政治家を批判することにより、ほとんどの情報を性別だけに絞り込み、フェミサイドのジェンダー関連の動態を理解できなくさせるという。フェミサイド事件のジェンダー批判的分析が必要である。犯罪を単に個人化(個別化)するのではなく、女性と加害者の人生と人生設計に焦点を当てるべきだという。フェミサイドのリスク要因は、府っ平等なジェンダー関係という構造、文化、時、空間に関連する。周縁化された女性殺害が忘れられてしまうリスクを強調する。

 

3.5 データ管理

 

Walby et al. (2017)によると、公的な情報は断片化されており、情報へのアクセスが不十分になるという。情報収集と公表へのより良い調整には、指標に関する合意ができるような文脈が必要である。国の中でも、国々の間でも異なる措置を連結させていくべきだという。

家族内の暴力殺害の国際比較において、Bugeja et al(2015)は、家族内暴力とフェミサイドの管理には、適切な監視機関が必要であり、暴力とその予防のためにWHOが準備したエコロジカルな枠組みを承認するべきであるという。国連女性連盟のKendall(2020)は、女性に対する暴力情報の良き統治・管理のためのプロトコルのために有益な提言をしている。

 

4.フェミサイド(類型)確認に用いられる要素と変数に関する有意義な議論

 

4.1 調査で議論されたフェミサイドの類型

EU加盟国や国際的なレベルでの比較分析には、用いられているフェミサイドの類型論が前提となる。

フェミサイドの定義は、学問分野、研究者、地理的位置によってさまざまであり、これにより比較が困難となっている(Dawson and Carrigan 2020)。異なる類型ごとに重複していることもあるが、区別することが有益である。Dobash and Dobash(2015)によると、フェミサイドの3つの類型が区別できる。パートナーによる親密なフェミサイド、性的殺人、及び65歳以上の高齢女性のフェミサイドである。若年女性のフェミサイドと自殺も、フェミサイドの特別な類型として分析される。

親密なパートナーによるフェミサイド

UNODC国連麻薬犯罪事務所(2018)は、親密なパートナーによる殺人の女性被害者を調査している。親密なパートナーによるフェミサイドの情報はグローバルなレベルで比較可能である。UNODCは家族を親密なパートナーの定義に含めているが、諸文献では親密なパートナーに家族を入れるか除外するかは多様である。イスラエルの研究であるElisha et al(2010)は、親密な殺人の類型に、3つの実行者類型を挙げている。裏切られた夫(嫉妬)、棄てられたしつこい恋人(別離)、暴君(支配)である。性格的要因を個人の性格を越えた環境的文脈の中に取り入れる必要がある。

性的殺人/フェミサイド

性的殺人とはジェンダー犯罪である(Van Patten and Delhauer, 2007)。Dobash and Dobash(2015)は性的殺人を親密なパートナーによる殺人と区別している。衣服の剥奪、身体の性的ポーズ、マスターベーションなど実質的に性的行為などが含まれる。性的殺人を認定するには、被害者―加害者関係が重要となる。性的殺人では、被害者と加害者の間の以前のトラブルや暴力は重要ではない。Myers et al(2006)は、法医学的観点から、性的殺人の背後の別の動機、性的動機の有無を議論している。怒り、権力及び支配も性的フェミサイドの動機となることがある。

Dobash and Dobash(2015)は性的フェミサイドの実行犯を分析し、共通の特徴を抽出している。

・男性は、被害者よりも若く、失業しており、非婚か離婚状態で、共に暮らしている。

・男性には女性に対する性暴力又は身体暴力の前歴がある。

・男性は女性を非難し、抵抗する女性に罰を与えようとする。

65歳以上の女性のフェミサイド

近年、高齢女性の殺害が注目を集めている。Long et al2017 。被害を受けやすい集団ンお帰結である。65歳以上の女性は親密なパートナーの被害者となるが、それ以外の男性による場合もある。Dobash and Dobash(2015)によると、親密なパートナーに寄らない殺人被害者は、高齢者かつ女性であるがゆえに狙われた被害者である。嫉妬、所有意識、別離が原因となる場合が多い。

フェミサイド―自殺

フェミサイド―自殺と呼ぶべき事例もある。子どもも犠牲となり、「ファミリイサイド」もある(Liem and Oberwittler, 2012)。フェミサイド―自殺は嫉妬、所有意識、暴力前歴の下で起きる。Balica(2016)は、200213年のルーマニアの自殺事件で、環境(都市か田舎か)、被害者及び加害者の移住者状態、被害者―加害者関係を分析している。

十代のフェミサイド

Garcia et al(2007)は、親密なパートナーによる殺人の下位類型として重大のフェミサイドを挙げている。親密なパートナーによる暴力についての教育を受けず、感情支援システムを知らず、支援を受けられない結果としての被害である。ルーマニアの研究によると、嫉妬や浮気の疑いによって十代のフェミサイドが起きる。「名誉殺人」も十代のフェミサイドとなることが多い。

その他のフェミサイド

家族領域以外で行われるフェミサイドとして、性労働者の殺害、紛争状況における女性殺害がある。法医学研究によると、売買春における女性殺害はフェミサイドの特別な形態である(Chan and Beauegard,2019)。「レイシスト・フェミサイド」「同性愛フェミサイド」「レズビアンサイド」「夫婦フェミサイド」「連続フェミサイド」「大量フェミサイド」「女児フェミサイド」などが用いられる。拷問、名誉殺人、FGM、武力紛争下の女性殺害、ギャングによるフェミサイド、組織犯罪・麻薬売人によるフェミサイド、女性人身売買、レズビアンへのヘイト・クライムなども挙げられる。

Sunday, January 09, 2022

公正、英明、御赦し、慈悲(第3章 イムラーン家)

中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年) 

クルアーンが先行の福音書などをうけて、これを完成させる全人類のための啓典であること、ムスリムが良識にのっとった最善の共同体であること、そしてイムラーン家の物語が示される。

バドルの闘い(西暦624年)やウフドの戦い(西暦625年)のエピソード、試練と信仰、教義と戦いの準備が語られる。

「アッラーは、彼のほかに神はないと立証し給い、天使たちと、知識を持つ者たちもまた(証言した)。常に公正を貫く御方で、彼のほかに神はないと。威力比類なく英明なる御方。(318)

「信仰する者たちよ、信仰を拒み、同胞に対して(関して)彼らが地上を闊歩するか遠征にある際に、「もし彼らがわれらの許にいたら、死ぬことはなく、殺されることもなかったろうに」と言った者たちのようになってはならない。アッラーがそれを彼らの心の嘆きとなし給うたためである。そしてアッラーは生かし、また殺し給う。そしてアッラーはおまえたちのなすことを見通し給う御方。(3156)

「そしてたとえもしおまえたちがアッラーの道において殺されるか死ぬかしたとしても、アッラーからの御赦しと慈悲こそは、彼らが(現世で)かき集めたものよりも良い。(3157)

本書はクルアーンの翻訳だが、「日亜対訳」とあるように、アラビア語の原典と日本語がすべて示されている。他の宗教と違って、開祖の言葉を記録した<口伝のクルアーン>なのでアラビア語だけが原典であり、原理的に他の言語のクルアーンは存在しえない。

天上からの言葉としては、ヘブライ語聖書とクルアーンの2つが存在するが、ユダヤ教徒キリスト教の聖典は、様々な著者による諸文書をまとめたものであるのに対して、クルアーンは一人の個人の正式で公的な証言を保持している。「書かれた書物」であるが「明白な読誦」とされ、クルアーンの優位性が示される。最初から1冊の聖典、正典として成立している。後から別人が編集した書物ではないという意味だ。

イスラームでは、テキストが確定したものだけがクルアーンに収められ、確定しなかったものはハディス(言行録)とされている。

クルアーンは、予言者ムハンマドの没後15年ほど、西暦645年ころから、イスラーム・カリフ国において、第3代カリフ・ウスマーンの命令により、作成された。ムハンマドの弟子で、当時の世界最大の帝国元首であったウスマーンの指揮の下、ムハンマド在生時から記録者であったザイード・ブン・サービトらが編集した「国家事業」の成果でもある。ユダヤ教やキリスト教と違って、党派的対立がなかったため、唯一の聖典性が作成時から明瞭であったという。キリスト教と違って、ムハンマドが神から授かった言葉のみが提示されていると理解されている。

こうした性格の違いが、現在のイスラーム信仰の現場でどの程度意識されているのかは知らないが、キリスト教世界の側の反発は容易に想像できる。イスラームが台頭するたびに、西欧キリスト教世界が「文明の対立」と称して非和解的な対立の図式を持ち出す理由もここにあるのかもしれない。

クルアーンを見ても、ユダヤ教やキリスト教に対するイスラームとアッラーの絶対的優位性を示そうとする姿勢が冒頭から一貫している。

イスラームとキリスト教という「寛容の宗教」が「永遠対立の宗教」に転化してしまうところに、人間の不思議が示されているのかもしれない。

Saturday, January 08, 2022

フェミサイド研究文献レヴューの紹介02

3.文献で論じられたテーマ、問題点、挑戦の概観

 

3.1 フェミサイド確認(同定)の挑戦(困難)――共通の定義の不在

フェミサイドに関する文献を分析すると、フェミサイドの定義は異なる分野とアプローチにまたがっている。1990年代に定義が試みられた時もそうであった。Bart and Moran, Violence against Women. 及び Radford and Russell, Femicide: The Politics of Woman Killing.である。

Corradi et al (2016)は、次のようなアプローチに分けている。

1.フェミニスト・アプローチ:家父長制支配に焦点を当てる・

2.社会学アプローチ:女性殺害に特徴的な形態を検討する。

3.犯罪学アプローチ:殺人研究の一分野としてフェミサイドを研究する。

4.人権アプローチ:女性に対する暴力の形態と見る。

5.脱植民地アプローチ:「名誉犯罪」のような植民地っ支配の文脈でフェミサイドを研究する。

共通に定義された枠組みを提示する文献はなく、Corradi et al(2016)は、将来の研究として女性に対する暴力のエコロジカルな枠組みに言及している。つまり分野横断的で複合的な枠組みであり、フェミサイドを社会現象として、ミクロ、メソ、マクロなレベルでの暴力行為として理解する。Sheehy(2017)は、フェミサイドを特別な文脈で定義するフェミニスト運動家の貢献を強調する。

UNODOC(2018)は、フェミサイドを、女性の暴力的殺人及び親密なパートナーによる暴力としての女性殺害と見る。多くの文献が、フェミサイドを親密なパートナーによる暴力の文脈で用いている。Fairbairn et al(2017)は、「親密な」という観念に着目する。公的な定義では、親密なと言えば、セックスワーカーの殺害が含まれない。Dawson et al.(20179によると、貧困な国の検死制度では、パートナーによる女性殺害の定義の社会的文化的文脈への文脈依存性を重視するべきである。フェミサイドの定義や、フェミサイドの変数は、社会経済条件を踏まえる必要がある。

Menjivan and Walsh(2017)はフェミサイドではなくフェミニサイドという言葉を用いて、制度的暴力や差別的慣行に焦点を当てる。それによって不作為による実行のパターンに光をあて、予防、保護、訴追を提供できなかった間接的メカニズムと、性暴力、脅迫、女性指導者を標的とするような直接行為の双方を浮き上がらせる。

ジェノサイドの一例としての女性殺害という理解もある(Hagan and Raymond-Richmond,2009. Rafter,2016)。

法の履行におけるフェミサイド概念の使用についても議論がなされている。Ingala Smith(2018)は、EUや国連の政策枠組みでは「非政治化」の危険があるという。第1に、フェミサイドに関するウィーン宣言は、実行犯が圧倒的に男性なのに、ジェンダー中立な用語を用いている。第2に、フェミサイドに関するウィーン宣言は、商業的性的搾取の過程で殺害された女性に言及しない。ラディカル・フェミニストの見解から、Ingala Smithは、家父長制社会における女性殺害という政治的行為に焦点をあてる。

Howe and Alaattinoglu(2018)は、フェミサイドと戦略的に闘うために刑法を用いることの利点と障害について検討する。フェミニストがそのために闘ってきた法改正の論争的検討を提示する。

Liem and Koenraadt(2018)は、家庭内殺人の研究において、フェミサイドという用語が用いられない理由を批判的に検討する。

逆に、Corradi and Stokl(2014)は、こうした見解は理論的なデザインがあまりに広いとし、フェミサイドの原因をジェンダー不平等の帰結と見る。Walklate et al.(2020)は、「ゆるやかなフェミサイド」という表現で、女性がその人生で広範なジェンダー不平等を経験することに注目する。

本報告書はCorradi and Stokl(2014)の提言に従い、個人犯罪としてのフェミサイド情報収集をすすめる。個人が特定の条件下で特定の意図と動機を持って行う殺人である。フェミサイドは不平等なジェンダー構造に基づいた、構造的暴力であり、ジェンダー差別、性差別主義、女性蔑視に基づいて、被害者との信頼、権威、不平等な力関係で行われる。

 

3.2 フェミサイドに関するデータの欠如

 

犯罪行為として法律でどのように定義するかは、その犯罪に関する情報が収集されるか収集されないかを枠づける。刑法でいかに規定するかによって、その行為が特定の国において許されているか許されていないかは、刑法の定義にかかっている。殺人に関する情報とフェミサイドに関する情報を比較するには、困難がある。Dawson and Carrigan(2020)は、適切な情報を収集する重要性を強調する。フェミサイドに関する犯罪学や法医学の調査は、その調査目的に制約されて、比較可能な情報収集をはたさない。法医学文献では特に顕著である。2013年、EUではジェンダーに基づく女性殺害の情報収集が始まった。学術ネットワークがフェミサイドの定義、文脈、実行者に反映し始めた(Weil. Et al. 2018)。

Walby et al. (2017)は、基本枠組みの共有がまだできていないとし、フェミサイドを含むジェンダーに基づく暴力の評価のために情報収集を呼びかける。

 

3.3 データ収集に際してフェミサイド報告が過少であり、見えにくくなっていること

 

既存の情報欠如の一つは過少報告にある。名誉殺人、ダウリーによる女性の死、先住民族女性の殺害のように、親密な関係の外で起きるフェミサイドが見えなくなっている(Walkate et al. 2020)。親密なパートナーが実行犯の場合、女性パートナーの殺害は系統的に周縁化され、見えにくくなる。

Menjivar and Walsh(2017)は、フェミサイドを過少報告とし、隠す国家、制度的暴力、社会の複合性にも言及する。Dayan(2018)は、イスラエルではフェミサイド自殺に関して、被害者も加害者も死んでいるため、詳細な捜査が実施されないためにフェミサイドが過小評価されるという。Bosch-Fiol and Ferrer-Perez(2020)はスペインでも同様だという。