Thursday, April 30, 2020

戦後社会科学変遷の見取り図


森政稔『戦後「社会科学」の思想――丸山眞男から新保守主義まで』(NHKブックス)

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912612020.html

Ⅰ部 「戦後」からの出発

 第一章 「戦後」の意味と現代性

 第二章 丸山眞男とその時代

 第三章 日本のマルクス主義と市民社会論

 第四章 ヨーロッパの「戦後」

 補論1 鶴見俊輔と転向研究

Ⅱ部 大衆社会

 第五章 大衆社会論の二つの顔

 補論2 大衆社会論期のいくつかの政治的概念について

Ⅲ部 ニューレフトの時代

 第六章 奇妙な「革命」

 第七章 知の刷新

Ⅳ部 新保守主義的・新自由主義的転回

 第八章 新保守主義の諸相

 第九章 新自由主義と統治性



東京大学大学院総合文化研究科教授による社会科学入門の授業を基にした概説書だ。丸山眞男、マルクス主義、市民社会論、大衆社会論、ニューレフト、新保守主義、新自由主義と変遷してきた流れをていねいに論じている。欧米の知の潮流との対比によって、わかりやすい見取り図になっている。次のように説明されているが、その通りの著作だ。

<「現代が必ず過去の時代より優れているわけではない」こと、「過去の議論の蓄積はたやすく忘却されてしまい、そのため無益な議論の繰り返しが起きがちである」ことなどを警告する。そして浅薄な「時代」理解を避け、「現代とは、過去を踏まえてどのような時代となっているのか」ということを正確に理解するために、戦後の「社会科学」が、各々の時代をどのように理解してきたのかを大局的な視点から概括して、戦後の一流の知識人たちの思考のあとをたどる。なお社会科学とは、経済学、政治学、法学、社会学などの社会を対象とする諸学問の総称だが、著者にとってそれは、「個別の社会領域を超えて時代のあり方を学問的に踏まえつつ社会にヴィジョンを与えるような知的営み」である。>

戦後日本の「社会科学」について、別の整理の仕方もあるだろうが、本書の整理の仕方はそれなりに納得できる。300頁の小さな本なので、ざっと流している部分も少なくないが、要所では突っ込んだ分析をしている。本書を読むことで、私自身がどのような座標系の中で思考してきたかを把握することもできる。その意味でも有益な本だ。初めて社会科学を学ぶ学生にも役に立つだろう。市民運動にかかわってきた市民にとっても、戦後日本論として有益だと思う。

特に現在の新保守主義と新自由主義についての論述が重要だ。古典的な保守主義や自由主義ではなく、現在の「新」なる主義の意味を、著者・森はポスト産業社会との関連で位置づけ、多様な新自由主義を4つに論点で整理している。そこでは「誰が」ではなく「いかに統治するか」というフーコー的問題設定がカギをなす。



戦後日本、戦後民主主義をいかに把握するかについて、私は著者・森とはずいぶんと違う理解をしている。平和憲法や戦後民主主義の初発の限界をどのように見るかの違いだ。端的に言えば、戦後思想における「植民地主義の無視」という論点だ。森自身には植民地主義への視線もあるのだが、戦後思想に対するときに、森は植民地主義の克服がおよそなされなかったことをあまり重視していない。輝ける戦後民主主義がどのように変遷・変質していったかという理解に近い。輝ける戦後民主主義の「闇」を主題にしない。

だが、それは本書の価値を損なうものではない。上述のように、本書はいろいろな読み方のできる、そして有益な本である。

Monday, April 27, 2020

星野智幸を読む(7)差別がないと成り立たない社会?


星野智幸『在日ヲロシヤ人の悲劇』(講談社、2005年)



新型コロナのため、スイスから帰国して2週間、外出自粛だったが、終了時期に政府の緊急事態宣言が出た。おかげで外出自粛が6週間目に突入した。運動不足がたたってぼけ老人状態だ。読書や原稿執筆はしていたものの、連日、暗いニュースを見てはため息をついてきた。

『在日ヲロシヤ人の悲劇』は、新しい「家族小説」と銘打っているが、タイトルから推測できるように、在日外国人が日本の政治や社会に直面して受ける「処遇」に苦悶する事態を前提としている。

「日本を生きるという空疎」という言葉が用いられるが、ヲロシヤ国、露連、アナメリカ、日本を行き来する家族の物語を、一方で外国人処遇、他方で親と子の関係において、描き出す。

イスラム過激派壊滅のため露連大統領がアナメリカに「テロ撲滅共同作戦」を呼びかける。厳しい独裁体制にあえぐ亡命ヲロシヤ人たちが人道支援を訴える。国際社会は非難の合唱。アナメリカは共同作戦を拒否するかと思いきや、派兵の挙に出る。在日アナメリカ軍が派遣され、日本国軍にも派兵を求めた。日本の主要メディアは即刻派兵を唱えた。

熱狂的な派兵ムードに抗して立ち上がり、在日ヲロシヤ人の保護を訴える「左翼」好美はNGO「ヲロシヤン・コネクション」の主催者として矢面に立たされながら、悪意ある攻撃と闘い、ハンガーストライキの果てに死んだ。

娘をなくした父親はヲロシヤン・コネクションの活動に加わり、日本という空疎な壁に突き当たる。父親や好美と離反して一人暮らしていた弟・純も事態に巻き込まれていく。

日本と日本人がもっとも生き生きとする時――それは他者を排除し、差別し、非難し、猛烈に講義する時だ。他者を非難しないと「日本」なるものは存在意義を失う。意識的であれ無意識的であれ、差別と排外主義によって己を保つ日本社会。差別しないとアイデンティティの危機に脅える日本人。執拗に攻撃していても、自分が攻撃されていると不安になる日本。悪罵を発散することで連帯を獲得する日本社会。善意も悪意も混ざり合って区別のつかない日本。

Sunday, April 26, 2020

語られる井上ひさし


今村忠純ほか『「井上ひさし」を読む』(集英社新書)

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1014-f/

井上ひさしファンにはたまらない魅力の本だ。

文学の小森陽一と歴史の成田龍一が、ゲストを招いて、井上ひさしについて語る。

豪華絢爛なゲストは、今村忠実純、島村輝、大江健三郎、辻井喬、永井愛、平田オリザだ。巻末には井上ひさしとノーマ・フィールドが参加した座談会も収録されている。

2010年4月9日、井上ひさしが亡くなった。毎年、4月10日前後に吉里吉里忌が開かれている(今年は新型コロナのため中止になった)。小森陽一と成田龍一は、井上ひさしの人と作品を日本文学史に位置づけるために、座談会形式で井上文学を語る機会を設定し、その記録を「すばる」に掲載してきた。それをまとめたのが本書である。



第一章 言葉に託された歴史感覚  今村忠純 島村輝

第二章 “夢三部作”から読みとく戦後の日本  大江健三郎

第三章 自伝的作品とその時代  辻井喬

第四章 評伝劇の可能性  永井愛

第五章 「日本語」で書くということ  平田オリザ

特別付録 座談会「二一世紀の多喜二さんへ」井上ひさし最後の座談会 井上ひさし ノーマ・フィールド



『「井上ひさし」を読む』は、言語論、小説論、自伝の評価、評伝劇の評価を順次取り上げて、戦後文学史における井上ひさしの位置を測定しようとする。どこから読んでも楽しいおすすめ本だ。

なお、昨年の吉里吉里忌のさいに井上ひさし研究会も発足し、私も会員にしてもらった。新型コロナのため、当面は研究会の活動がないのが残念だ。本来なら、『「井上ひさし」を読む』出版記念会を開いてほしいところだ。

私も井上ひさしファンで、ひょっこりひょうたん島以来、半世紀にわたって井上ひさしに笑わされてきた。文学研究者ではないが、『パロディのパロディ 井上ひさし再入門』(耕文社)という本を出した。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3-%E4%BA%95%E4%B8%8A%E3%81%B2%E3%81%95%E3%81%97%E5%86%8D%E5%85%A5%E9%96%80%E2%80%95%E9%9D%9E%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F-%E3%80%88Part3%E3%80%89-%E5%89%8D%E7%94%B0-%E6%9C%97/dp/4863770421

Monday, April 06, 2020

テロリスト・シンゾーの恐怖支配


新型コロナは世界中に「恐怖」をもたらしているが、日本は「恐怖」ではなく「恐怖支配」を進めている。

両者は同じように見えて、性質が異なる。「恐怖」対策を行わないことによって継続させた「恐怖」を利用した「恐怖支配」が続いているからだ。



欧州諸国のように、PCR検査を行って、どこに、どのような感染者がいるのかを明らかにすれば、「自分は感染している、感染していない」がわかる。感染している人は他人に感染させないように気を付けることができる。感染者のいる地域を徹底的に囲い込み、対処しなければならない。感染者のいる家、空間、都市は「汚染地域」であるから、人の出入りを制限しなければならない。防疫の初歩知識があればだれにでもわかることだ。



ところが、日本政府は初歩的対策を否定した。なんと、検査しない、検査させない、汚染地域を特定しないという方針を決めてしまった。「病院に来るな」「PCR検査はできない」と大キャンペーンを張った。これによって、誰が感染しているかわからない状態をつくり出した。



すべての市民が、「自分が感染しているかもしれない」、「人と会うと感染するかもしれない」、「感染させるかもしれない」、「目の前にいる人が感染しているかどうかがわからない」、という状態が延々と続いている。



厚労省は、「濃厚接触者」という奇妙な言葉を流行語にした。感染予防をするつもりのないことが明瞭である。人から人への感染だけに目を向けるように仕組んでいる。しかし、物から人へも感染するから、「接触機会」を徹底的に減らす必要がある。「汚染地域」の立ち入り制限と、迅速な消毒が必要不可欠である。



厚労省は「クラスター」というヨコ文字を流行語にした。AからBに感染し、その周囲の人々に感染するという。ここでも人から人の話ばかりだ。



例外は、クルーズ船だった。船そのものを隔離したのは正しい。ただ、内部の分画をきちんとしなかった。船客すべてを感染させても、外に出なければ構わないという方針だ。



日本政府の基本方針は「集団免疫」の思考である。イギリスが当初とったのが、60%が感染すれば、みんなに抗体ができて、自然に収まり解決するという集団免疫の考えだった。結果的に集団免疫が実現することはあるかもしれない。しかし、政府が集団免疫を方針として採用してはならない。多数の死者をやむを得ないと切り捨てる悪魔の政策だからだ。



国会審議で、安倍首相は「集団免疫の考えはとっていない」と明言した。しかし、日本政府の方針が集団免疫の考えとどう異なるかの説明はできなかった。



厚労省や東京都が毎日、「感染者数」を発表し、マスコミはそれを報じているが、真っ赤な嘘である。厚労省や東京都は感染者数を把握していない。検査しないのに把握できるはずがない。厚労省や東京都が発表しているのは、発症者数と死亡者数である。



重要なのは、検査数、感染者数、感染経路、汚染地域の迅速な特定であり、そこに対する集中的な対処である。その一部だけしか調べていない厚労省の方針では絶対に対策になりえない。



成田空港では、3月下旬まで海外からの帰国者を無検査で入国させていた。検疫に出頭した人間に検査すらしなかった。欧州からもアメリカからも帰国者は無検査で入国していた。

https://list.jca.apc.org/public/cml/2020-March/058273.html

https://list.jca.apc.org/public/cml/2020-March/058283.html

この情報を知り合いの新聞記者たちに知らせたが、まったく反応がない。記者たちはみんな承知の上だ、ということなのか。成田空港の検疫の実態は一目見ればわかるが、厚労省は嘘で固めて、NHKも朝日新聞も嘘を横流ししていた。



成田空港では4月初頭まで、帰国者を一か所に集めて、感染しやすい状態で検査していた。欧州では、空港の椅子は並んで座ることができないようにしていた。3月20日のジュネーヴ空港やコペンハーゲン空港は、椅子は並んで座れないように、ロープを張っていた。成田空港は大勢を一か所に集めていた。感染しないで帰国した人間も成田空港で感染させられる。



横田基地では、米軍関係者が無検査のまま入国している。外務省は、止める気はない。これで感染予防ができるはずもない。



欧州では、どこに感染者がいるかを確認するために徹底検査している。だから感染者数が飛躍的に増えている。日本は検査させない、検査しない基本方針を貫いている。だから、どこに感染者がいるかわからない。隣にいるかもしれない。つねに恐れながら行動しなければならない。つまり、だれもがすべての他者を疑いながら行動しなければならない。



市民に対して、すべての人間を疑え、相手は感染者ではないか、他人に近寄るな、という「訓練」が毎日実施されている。そうして緊急事態宣言である。



安倍政権が意図したわけではないだろうが、新型コロナによる「恐怖」に加えて、日本政府による「恐怖支配」が進行していると考えるべきだ。



下記の児玉龍彦の発言は私の意見を裏付けている。

新型コロナ重大局面 東京はニューヨークになるか 20200403 WeN

https://www.youtube.com/watch?v=r-3QyWfSsCQ



特に重要なのは、(1)検査数と感染者数の比較(日本は検査しないので比較できない)、(2)人口比での感染者数(中国は非常に少ない、アメリカは多い)、という点だろう。



無自覚なまま「恐怖支配」に耐えることをやめよう。