Friday, June 30, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(223)権力の濫用?(d)

榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144(2022)

3 日本におけるヘイト・スピーチ対策の検証

榎は、「公権力の濫用は、現在の日本でも実際に起こっていると考えられる」とし、「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」(49頁)と言う。そして、ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」(50頁)と主張する。

国際社会では、ヘイト・スピーチ刑事規制の濫用の恐れについての議論は長年にわたって繰り返し行われてきた。常識の部類に属する。

日本ではヘイト・スピーチ刑事規制がなかったので、十分な議論が行われた訳ではない。その意味では榎の主張にも意味があるかもしれない。

ただ、それならば、ヘイト・スピーチ解消法以来の法状況に目を配るのが普通ではないだろうか。

私が榎の立場なら、最低限、次の点を検証するだろう。

1にヘイト・スピーチ解消法.

ヘイト・スピーチ解消法制定から7年になる。解消法は刑事規制を持たないが、ヘイト・スピーチ対策の基本姿勢を表明した。法制定以来、法務省はその見解を表明し、協議会を重ね、地方自治体との連携を強化してきた。警察庁もヘイト・スピーチの現場での対応方針を修正してきた。

それでは、「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」といった事態が生じたであろうか。真っ先に議論すべきだろう。

榎はなぜこの点を検証しないのだろうか。

2に地方自治体条例における実名公表。

大阪市条例はヘイトを行った者の実名公表を定め、大阪市は実際にこれを適用・実施した。これに対して、実名を公表されたヘイト・スピーカーが「実名公表は憲法違反だ」と違憲訴訟を提起した。裁判所は「実名公表は違憲ではない」と判断した。

3に地方自治体における公の施設利用のガイドライン。

川崎市の協議会が施設利用ガイドラインを提言し、川崎市はガイドラインを作成した。京都府、京都市など各地の地方自治体もガイドラインを作成した(詳しくは前田『ヘイト・スピーチと地方自治体』参照)。ガイドラインの運用もすでに45年の実績を有する。

4に川崎市条例における刑事罰。

川崎市条例は、ヘイトを行った者に、勧告及び命令を出し、命令に従わなかった場合、つまり3度目のヘイトをした場合に刑事罰を適用する仕組みを作った。それから3年になる。

5にヘイト関連の名誉毀損訴訟判決。

この10数年、ヘイト関連の名誉棄損訴訟が増加している。個人に対する名誉毀損もあれば法人等に対する名誉毀損もある(詳しくは前田「ヘイト・スピーチの要素と類型」『明日を拓く』134135号、2022年参照)。ヘイト・スピーチへの関心が高まり、重要事案は以前よりもはるかに多く報道されるようになった。このことが裁判実務に影響を与えただろうか。行政権ではなく、司法権の運用である。

6にヘイト・クライム刑事判決。

ヘイト・クライム事件が増え、刑事事件が広く報道され、ウトロ放火事件、コリア国際学園事件、徳島脅迫事件など、判決も相次いでいる。徳島脅迫事件では、法廷で検察官が「これはヘイト・クライムだ」と明言した。徳島事件は脅迫状によるヘイト・スピーチであり、ヘイト・クライムでもある。捜査、訴追、立証、判決の検証が必要だろう。

 

以上のように、ヘイト・スピーチ対策にはすでに多くの実績があり、情報があり、公的決定があり、判決があり、権力による運用実態がある。

「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」という榎理論を検証するための素材が山のようにある。

なぜ、榎はこれらの事例を検証しないのだろうか。

なぜ、榎は、あえてヘイト・スピーチ関連事案から目を背けて、集団的自衛権をめぐる解釈変更や、臨時会の招集要求の無視問題や、検察官の定年延長をめぐる解釈変更を取り上げるのだろうか。

Thursday, June 29, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(223)権力の濫用?(c)

榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144(2022)

2 権力の濫用問題はずっと議論されてきた

榎は法の解釈や運用における恣意や濫用を論じて、「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」と結ぶ。

しかし、集団的自衛権をめぐる解釈変更や、臨時会の招集要求の無視問題や、検察官の定年延長をめぐる解釈変更の事例をいくら積み重ねようと、ヘイト・スピーチ規制法の濫用問題とは距離が大きすぎる。

榎論文を読んだ読者は、あたかも「ヘイト・スピーチ規制論者は、こうした権力の性格を十分に理解していない」と思い込まされることになる。

また、表現の自由への介入を定めた法令が表現の自由を委縮させたり、解釈が恣意的になって不当に表現の自由を侵害する危険性は、従来から繰り返し指摘されてきた。しかし、憲法学者の議論は一般論にとどまり、具体性がない。

ヘイト・スピーチ刑事規制消極派の憲法学者は、なぜ、ヘイト・スピーチ刑事規制法の実際の解釈・運用を基にその恣意や濫用の事例を検討しないのだろうか。世界の150か国にヘイト・スピーチ規制法がある。素材には事欠かない。各国のヘイト・スピーチ規制における濫用事例、不当介入事例の調査・研究を、なぜしないのだろうか。

ヘイト・スピーチの刑事規制において濫用がありうること、濫用を最小限に抑止しなければならないことは、いまさら指摘するべき新しい論点ではない。ヘイト・スピーチ規制積極論者こそが何十年も繰り返し取り上げてきた問題である。しかも単なる一般論ではなく、具体的に論じてきた。

その情報はあまりにも膨大である。列挙し始めるとえんえんといつまでも終わらない。ごく一部の代表例だけ紹介しておこう。

1に、ラバト行動計画作成過程の議論である。

2013年3月の国連人権理事会第22会期に提出された国連人権高等弁務官事務所報告書は『差別煽動禁止に関するラバト行動計画』は、ヘイト・スピーチ規制のための国際人権法の基準を示した文書である。その準備過程で、200810月にジュネーヴで開催された専門家セミナーでは、「表現の自由の制約の限界――基準と適用」という分科会がもたれた。分科会の発言を見てみよう。

アスマ・ジャハンギル(国連人権理事会・宗教の自由特別報告者、国際法律家委員会委員)は、宗教的ヘイト・スピーチの規制に関して、宗教に関する法律が曖昧な場合には、問題解決ではなく悪化につながる。世界を「敵と味方」に分けないように学ぶ必要がある。人種と宗教は異なるので、人種的事例の解決と宗教的事例の解決がどのようなものとなるかはさらに議論が必要であると述べた。

アブデルファタ・アモル(国際自由権規約委員会委員)は、自由権規約第193項は第20条によって補強されたと見るが、不確実さが残り、明確な解釈がないと言う。第193項には個人と集団の責任と義務が含まれていることを強調し、この責任と義務は表現の自由を促進する目的に従わなければならない。第193項は制約の必要性を正確に示しているが、制約の必要性の判断は国家によって、文化によってさまざまでありうると指摘した。

モーゲンス・シュミット(ユネスコ表現の自由部局事務局次長)は、プレスの自由の制約には、2つの条件がある。第1に制約が法律によること、第2に公共の領域や他人の権利を保護するために必要なことである。真実の言明を理由に処罰されてはならない。ヘイト・スピーチの処罰についても、差別、敵意、暴力の煽動の意図があったと証明される必要がある。表現の自由の抑止は最小限の手段でなければならないと述べた。

こうした具体例はラバト行動計画の準備過程の議論や、行動計画それ自体の中に、たくさん示すことが出来る。

2に、人種差別撤廃委員会の一般的勧告第35号である。

https://www.hurights.or.jp/archives/opinion/2013/11/post-9.html

パラグラフ10以下、特に1214151920264547参照。

その後の、「ベイルート宣言」や「国連ヘイト・スピーチ戦略」をはじめとする国際文書においても、まずヘイト・スピーチを刑事規制するべきこと、その際に自由や人権を不当に侵害しないこと、そしてヘイト・スピーチの規制と表現の自由は対立するのではなく、相補的であることが前提とされている。

第3に、各国における濫用事例の研究・分析、反省である。

ヘイト・スピーチの犯罪化は当たり前であり、150か国で処罰がなされる。必然的に濫用や誤判が起きるので、そうした事例を踏まえた議論がなされている。人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会は、各国の情報を基に、濫用や不当な解釈事例を抑止するように繰り返し指摘してきた。私の『ヘイト・スピーチ法研究原論』では、ベラルーシ、ロシア、カザフスタン、アゼルバイジャン、ジョージア、レバノン、トルクメニスタンに対する人種差別撤廃委員会の勧告を紹介した。

4に、欧州人権裁判所の判例である。

EU枠組み決定はすべての加盟国がヘイト・スピーチを処罰するよう求め、実際にすべての加盟国でヘイト・スピーチは犯罪化された。それゆえ膨大な適用事例が見られる。必然的に濫用や不当な解釈事例も生じる。各国における事案が欧州人権裁判所に持ち込まれる。中には、不適切な立法、不当な解釈、過剰な処罰と判断された事案がある。

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post_92.html

ギュンデュズ対トルコ事件(2003124)、ファルーク・テメル対トルコ事件(20112月1日)、スタマキン対ロシア事件(20185月9日)、レイデューとイソルニ対フランス事件(1998923日)、ディンク対トルコ事件(2010914日)など、いくつもの事例で欧州人権裁判所は、ヘイト・スピーチ刑事規制の在り方について積極的に判断している。刑罰権の濫用を防ぐ重要な監視システムが機能している。

もう十分だろう。150か国にヘイト・スピーチ規制法があるのだから、世界中で膨大な濫用事例がある。そうした濫用事例を研究し、濫用の抑止に努める必要がある。それこそが憲法学の任務である。

榎論文のように、濫用の恐れがあるという一般的理由を根拠にヘイト・スピーチの刑事規制を否定する見解を、国際社会に見出すことはできないだろう。

ヘイト・スピーチ研究文献(223)権力の濫用?(b)

榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144(2022)

前回紹介した通り、榎は次の5つのテーマについて、公権力による法の恣意的解釈や濫用の事例を検討した。

Ⅰ 警察の権力濫用

Ⅱ 公の施設等をめぐる地方自治体の権力濫用

Ⅲ 法の恣意的利用

Ⅳ 解釈変更の追求

Ⅴ 条文の無視ないし軽視?

そのうえで、榎は「むすびにかえて」において、「公権力の濫用は、現在の日本でも実際に起こっていると考えられる」とし、「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」(49頁)と言う。

最後に榎は結論を提示する。

「規制のための法令が注意深く作られるべきであることは言うまでもないが、仮にそれを注意深く作ったとしても、その行使に当たり恣意や濫用の危険は常につきまとうものである。ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」50頁)

以上が榎論文の紹介である。

前回述べた通り、Ⅰ~Ⅴまでで検討している事例については、榎の指摘に全面的に賛同できる。しかし、私は榎論文に賛同できない。以下、その理由を示す。

1 権力の濫用の抑制のために

榎が指摘する通り、公権力が恣意や濫用に陥ることは、時代を問わず地域・国を問わず、起きてきたことであり、現在も起きている。現在の日本においても起きている。

榎はそのことを「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」という一文につなげて、論文を終えている。

これは極めて奇妙な話である。

公権力が恣意や濫用に陥ることは、権力に共通の現象である。だからこそ、近現代国家は憲法を制定し、権力の憲法的統制を図ってきたのだ。主権の構成も、民主主義の位置づけも、権力分立のシステムも、すべて行政権力による恣意や濫用を防遏するために編み出された近代の知恵である。

榎がこれらに一切言及しないのは実に奇妙である。憲法学者としてこれらを熟知しているがゆえに、省略したのかもしれない。

しかし、立憲主義や権力分立の問題を取り上げて、「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」とまとめることは理解の外と言うしかない。

1に、とりわけ、集団的自衛権をめぐる解釈変更や、臨時会の招集要求の無視問題は、立憲主義そのものにかかわる問題である。これがなぜヘイト・スピーチ規制問題につながるのだろうか。

2に、検察官の定年延長をめぐる解釈変更は法治主義の問題であり、本来なら司法的統制で解決するべき問題である。日本の現実は、まともな司法的統制が及んでいないため、問題が解決されていないが、それでも憲法学やジャーナリズムや市民運動は法の適正な運用を求めて様々の努力を積み重ねてきた。

以上の2つは、ヘイト・スピーチの刑事規制問題とはあまりにも遠く隔たったテーマであり、なぜ、このような文脈で取り上げられているのか理解しがたい。

3に、選挙のための街頭演説の聴衆の「実力排除」や、金沢護憲集会や「鎌倉ピースパレード」庁舎前庭使用不許可事件、国旗掲揚・国歌斉唱要請問題は、表現の自由、思想の自由に直接かかわるので、榎がこれらを取り上げることは理解できる。しかし、これらの事件において法解釈が恣意や濫用に陥り、疑念があるという事実が、なぜヘイト・スピーチ規制問題に直結するのかは、容易に理解しがたい(詳しくは後に再度論じる)。

ヘイト・スピーチの規制そのものが表現の自由と関連し、表現の自由を委縮させる恐れがあるという論点は従来盛んに議論されてきた。今回、榎はこの論点ではなく、「権力の濫用一般」の問題を論じている。刑事規制に伴う刑罰権の濫用問題ではなく、憲法解釈の恣意性を含んだ法一般の濫用問題を論じている。ここに本論文の新規性があるが、説得力に欠けるのではないだろうか。

4に、榎が示す通り、権力の濫用は様々な分野で起きる。法令による規制を行う局面であれば、どこでも濫用が起きうる。それでは、榎はあらゆる法令による規制を否定するだろうか。榎は憲法9条と平和主義が権力の濫用の対象となるから、憲法9条による統制をやめようと言うだろうか。警察法が濫用されるから警察法による規制をやめようと唱えるだろうか。検察官の定年制が濫用されるから定年規制をやめようと主張するだろうか。榎がそのような主張をすることはないはずだ。榎は、なぜ、ヘイト・スピーチの規制だけ否定するのだろうか。ここに榎理論の最大のユニークさがある。

これまで憲法と憲法学は、権力の濫用があるから、濫用を防止するためのシステムを用意し、学問的検証、市民的監視を図ってきた。

このことに言及せずに、濫用があるからという理由で「ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」と結論付けるのは、憲法ニヒリズムではないだろうか。

そうではないのなら、榎は、権力の濫用問題とヘイト・スピーチの規制問題の間を、もっとていねいに、理論的に埋める必要があるだろう。

Tuesday, June 27, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(223)権力の濫用?(a)

榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144(2022)

榎は表現の自由を研究する憲法研究者であり、これまでにもヘイト・スピーチに関する論文を公表してきた。ヘイト・スピーチの刑事規制に消極的な論者の代表的な一人である。奈須祐治『ヘイト・スピーチ法の比較研究』(信山社)は「規制消極説」として松井茂記、横田耕一らとともに榎をあげている。

私は榎の論文に批判的なコメントをした。これに対して、榎が応答した。その応答論文について、私は下記のように批判した。

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/a.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/b.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/blog-post_14.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/blog-post_16.html

この文章を大幅に手直しして、私の『ヘイト・スピーチ法研究要綱』109123頁に収録した。つまり、私はこれまで2度にわたって榎を批判した。

今回の榎論文は私に言及していない。それにもかかわらず、3度目のコメントをするのは、いささか執拗と思われる恐れがないではない。

ただ、今回の榎論文は、これまでとは全く違ったテーマ、視点であり、ヘイト・スピーチ規制の前に考えるべきことを提示している。

本論文は、憲法学においてもそれ以外の法学においても、おそらく前例のない新機軸である。その点は後に述べる。

<目次>

はじめに

Ⅰ 警察の権力濫用

Ⅱ 公の施設等をめぐる地方自治体の権力濫用

Ⅲ 法の恣意的利用

Ⅳ 解釈変更の追求

Ⅴ 条文の無視ないし軽視?

むすびにかえて

「はじめに」において、榎は、「当然のことながら、公権力がそれを濫用したり恣意的に行使したりすることは許されない」と始める(榎論文15)

他方、近年、ヘイト・スピーチ規制論が唱えられている。これに対して、榎は「公権力の濫用は、現在の日本でも実際に起こっていると考えられる」とし、それらの「事例を挙げることで、規制のための法令を注意深く作ったとしても、その行使に当たり恣意や濫用の危険性がつきまとうことを示したい」(1617)という。

「Ⅰ 警察の権力濫用」において、榎は、警察の「権限が不当に行使されれば、その行使の対象者に与える負の影響は大きい」という。憲法や警察法の規定にもかかわらず、権限濫用の事例が今日でも続いているとして、次の事例を取り上げる。

   北海道警察による選挙のための街頭演説の聴衆の「実力排除」

   北海道警察による選挙のための街頭演説会場でのプラカードの制止

   滋賀県警察による選挙のための街頭演説会場でのヤジの制止

   埼玉県警察による選挙のための街頭演説会場でのプラカードおよびヤジの制止

   反原発デモ・脱原発デモをめぐる警察の対応

   反天皇制デモをめぐる警察の対応

以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。

「警察の行為は、法律上の根拠に基づき、中立の立場から行われるべきであることは言うまでもない。しかし、以上の①~⑥の事件では、警察の行為はその中立性が疑われるものであり、その中には法的根拠が必ずしも明確でないものも多い。警察の行為を規律する適切な法が存在している場合でも、警察が権力を恣意的に行使する事態は存在し、それは憲法で保障された国民の人権を不当に制限するのである。」(30頁)

「Ⅱ 公の施設等をめぐる地方自治体の権力濫用」で、榎は次の事例を取り上げる。

   金沢護憲集会

   「鎌倉ピースパレード」庁舎前庭使用不許可事件

   表現の不自由展かんさい+「あいちトリエンナーレ2019

以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。

「行政が国民・住民に対して今日教施設を利用させることは、法令上の根拠に基づき、中立の立場から行われるべきであることは言うまでもない。しかし、以上の①~③の事件では、公の施設等に関する適切な法例が存在している場合でも、公権力によるその適用が恣意的であると考えられ、その中立性が強く疑われる。これでは、憲法が国民に保証する言論の自由や集会の自由を、公権力が恣意的に制限することになる。」(39頁)

「Ⅲ 法の恣意的利用」で、榎は次の事例を取り上げる。

   国旗国歌法による国旗掲揚・国歌斉唱要請問題

榎は、国旗国歌法は国民に国旗・国歌を強制するものではないのに、法制定後、政府が事実上の強制を続けていることを確認する。「国旗・国歌法は、政府にその文言や制定時の説明を超えて利用されている。」(41頁)

「Ⅳ 解釈変更の追求」で、榎は次の事例を取り上げる。

   検察官の定年延長をめぐる解釈変更

   集団的自衛権をめぐる解釈変更

以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。

「以上①②の事案を通して言えることは、公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する危険がある、ということである。法の中に適切な条文を設けていても、権力者はその解釈を変更し、事故にとって都合の良い結果を得たいという欲望を満たそうとする。しかし、文の解釈が変更されることによって、もともとその条文の中にあったであろう内容の適切さが失われることも、あるのではないだろうか。」(47頁)

「Ⅴ 条文の無視ないし軽視?」で、榎は次の事例を取り上げる。

   憲法53条後段に基づく臨時会の招集要求の、安倍内閣及び菅内閣による無視。

以上の事例の考察を踏まえて、榎は次のようにまとめる。

「このように考えると、憲法53条後段に基づく臨時会の招集の要求に対する安倍内閣・菅内閣の対応は、憲法53条後段を無視あるいは軽視するものであるか、あるいは、法的義務と理解すべき条文を政治的義務と理解する妥当でない解釈に基づくものということになろう。」(49)

以上、榎論文の本論をごく簡潔に紹介した。最後に「むすびにかえて」があるが、それの内容は次回紹介する。ここでは、上記で紹介した範囲(榎論文15頁から4913行目まで)についてコメントしておこう。

Ⅰ~Ⅴまでで、検討している事例については、榎の指摘に全面的に賛同できる。

北海道警察による選挙のための街頭演説の聴衆の「実力排除」は、安倍晋三の選挙演説に関連する事案で、排除された市民が国家賠償請求訴訟を提起し、つい最近、二審でも勝訴している。

金沢護憲集会や「鎌倉ピースパレード」庁舎前庭使用不許可事件における行政の恣意性も明らかである。

国旗掲揚・国歌斉唱要請問題も、検察官の定年延長をめぐる解釈変更も、集団的自衛権をめぐる解釈変更も、臨時会の招集要求の無視問題も、榎が指摘する通り、公権力による法の無視、軽視、歪曲の疑いが強く、権力の濫用ではないかと考えられる。榎の論述はまっとうであり、随所で頷きながら読むことが出来る。

しかし、私は榎論文に賛同できない。その点は次回、言及する。

Sunday, June 25, 2023

社会的記憶と法05

ハーシュ&バーギル論文を簡潔に紹介する。

5 米州人権裁判所が命じた記憶の碑の影響を評価する

ハーシュ&バーギルは、20196月から12月にかけて、これらの記念碑の近くで168人にインタヴューを行った。男女ほぼ半数。ブカラマンガの記念碑以外は、記念碑が裁判所近辺に建立されているため、多くが法律専門家である。

記念碑がコロンビアの集合的記憶にどのように影響を与えているかを評価するために、マスメディアの調査も実施した。新聞、週刊誌、ウエブサイトである。人権侵害事件や記念碑について言及しているかどうかである。さらに被害者遺族17人にインタヴューした。

元になった事件を知っていたのは、サン・ギルの記念碑では58.53%、ボゴタの記念碑では33.33%、メデリンの記念碑では16.66%、ブカラマンガの記念碑では12.19%である。

この数値を高いと見るか低いと見るかは、他の事件についての人々の認識がどの程度であるかとの比較による。例えば1985年のボゴタのコロンビア最高裁に対する襲撃事件については66.85%~88.88%が記憶していた。4つの記念碑の周辺の人々の多くが、記念碑の元になった人権侵害事件よりも、最高裁襲撃事件を記憶していた。

マスメディアの調査結果としては、5つのマスメディア期間を調査したが、記念碑のもとになった人権侵害事件についての記憶は低い率にとどまる。201819年の187本の記事が最高裁襲撃事件について論じているが、ハラミロ暗殺事件を論じたのは45本、ロシェラ虐殺事件を論じたのは17本の記事、19人の商人事件は4本に過ぎない。記事の表題を見ると、最高裁襲撃事件は97本、ハラミロ暗殺は15本、ロシェラ虐殺事件は6本、19人の商人事件は1本に過ぎない。その意味では、米州人権裁判所判決による記念碑の事件の認識度は低いということになる。

被害者遺族17人には長時間のインタヴューを行った。記念碑がどのような意義を有するかが中心である。17人のうち14人が、記念碑は遺族にとって非常に大きな意義があると回答した。1人は自分にとっては意義があると答え、2人はある程度意義があると回答した。毎年のセレモニーについての質問もしたが、それは後述。

6 司法が命じた記憶の碑の影響を説明する

ハーシュ&バーギルは、これらの記念碑が社会的記憶としては低い比率しかないことを、コロンビアに政治暴力の文化が蔓延していることに一因があると見ている。コロンビアでは憲法的民主主義があるとはいえ、政治暴力が繰り返されてきた。1世紀にも及ぶ紛争が続き、虐殺、暗殺、失踪が起きた。

インタヴューで次のような回答があった。

「コロンビアではまだこんな虐殺が起きるのは悲しいことだ。何円も続いているし、終りがない。今後も見続けることになるだろう。いまだに止めることが出来ず、暴力が起きている。」

ハーシュ&バーギルは、これらの記念碑の建立に人権の専門家コミュニティが必ずしもかかわっていないために、メディアにおける認知度も高くないという。

他方、被害者遺族は記念碑について88.23%の認識を有しており、遺族にとっては非常に重要であることがわかる。被害者遺族には、記念碑が殺された被害者とその存在のシンボルであると同時に、集合的記憶を形成することに参加する場である。遺族、友人、同僚らが毎年の記念式典を催し、被害者の写真を持ち寄り、悲劇的な死を想起する。

「とても重要です。去年は娘、夫、孫たちを連れて行きました。記念碑に行って、事件を想起し、名前を読み上げました。あれこれ思い起こしました。当時の出来事、おじいさんに何が起きたかを孫たちに話して聞かせました。だから、とても重要な場です。」

<私のコメント>

歴史的に重要な出来事や人物についての博物館や記念碑は日本にも数多い。

ただ、日本による侵略戦争や植民地支配に関連する記念碑は、この20年あまり、独特の意味合いを持たざるをえない状況にある。

忘れられていた歴史、隠された歴史の真相が明るみに出されて、各地に新たに記念碑、追悼碑が作られるようになったのは1990年代だったと思うが、同時に歴史修正主義、歴史否定主義が登場し、さまざまな形で都合の悪い歴史が消去されるようになった。

日本軍性奴隷制にかかわる「平和の少女像」は、日本では常設することができず、その展示に対する猛烈な攻撃が生じている。アメリカやドイツにおける少女像等に対する日本政府からの妨害も激しい。

強制連行・強制労働問題では、群馬の森の事例にみられるように、公共の場からの撤去が求められるありさまである。

横網町公園の関東大震災朝鮮人虐殺の碑の前での追悼の会は、右翼による妨害の対象となっている。追悼式典への東京都知事のメッセージは、小池都知事が拒否する始末だ。

いずれも歴史否定主義による攻撃のため、政治問題化することで、記憶の継承や被害者への追悼が静かに行われる場ではなくされてしまっている。むしろ、ヘイトや暴力について語らなければならない状況である。

ハーシュ&バーギルはコロンビアの事例を取り上げているが、他方、イギリスやアメリカでは奴隷制時代を象徴する人物の銅像が撤去されたことがニュースとなっている。欧米でも歴史否定主義が繰り返し問題となるが、それでも人権侵害の歴史を反省することが、一定程度なされていると言える。バルト3国では、ナチス時代の蛮行よりもスターリン時代の悲劇の記憶の継承をめぐって論争が生じた。それが記憶の継承だけでなく、現在の政治対立やヘイトに直結しているようだ。

日本での歴史博物館や記念碑の在り方、追悼の在り方についてさらに議論が必要だ。

Saturday, June 24, 2023

社会的記憶と法04

ハーシュ&バーギル論文を簡潔に紹介する。

中部マグダレーナを支配した準軍隊メンバーが、コロンビア軍の同意の下に、コロンビアとヴェネズエラの国境を超えて取引をしていた商人集団を殺害した。被害者たちが準軍隊が課した「税金」支払いを拒んだことと、彼らをゲリラ集団に武器を打っていると疑ったためである。1987106日、被害者たちは武器を保持していないか検問で止められた。いったん通過を認められたが、後に、準軍隊メンバーが17人を殺害し、遺体を川に捨てた。15日後、被害者の家族2人が行方不明者を探しに来たが、この2人も殺された。米州人権裁判所は、コロンビア政府が事件を速やかに捜査することなく、遅れた捜査も不十分であったとし、準軍隊がコロンビア軍の支持を得ていたと認定した。

米州人権裁判所は、コロンビア政府に、事件を捜査し、実行犯を処罰し、被害者の遺体を探し、遺族に賠償を提供するよう命じた。コロンビア政府は、被害者を記憶する記念碑を、政府と被害者遺族が協議して決めた場所に設置するよう命じられた。

ブカラマンガの記念碑

記念碑が建てられたのは、商人たちの数人が居住し働いていたブカラマンガのメインストリートの近くの子ども公園で、レストラン、アパートメント、大学、商店、病院のある地区である。高さ5.20メートル、長さ3.21メートル、幅2.87メートルの大きさである。碑文には「19人の商人の記念碑」とある。200475日の米州人権裁判所の命令に従って、1987年の事件の記念碑として、19人の犠牲者の名前が記載されている。

ヴァレ・ハラミロ対コロンビア事件

イェスース・マリア・ヴァレ・ハラミロはアンティオキアの著名な人権活動家で、準軍隊及び国軍の協力の下で行われた犯罪を非難した。1990年代にイトゥアンゴ村で起きた虐殺を非難した後、ハラミロは、準軍隊の指揮官の使者から、国から出ていけ、黙れと警告された。殺すとの脅迫もあった。1998227日、2人の武装兵がメデリンのハラミロの事務所に来て、銃撃して殺害した。米州人権裁判所は、コロンビア政府はハラミロを保護する責任ある措置を取らなかったことに責任があり、人権侵害行為を予防できなかったとした。

米州人権裁判所はコロンビアに、被害者遺族に様々の救済を提供し、人権侵害事件を捜査するように命じた。裁判所は、ハラミロの記憶を保持し、人権侵害を予防するために、アンティオキアの裁判所に記念碑を設置するよう命じた。

メデリンの記念碑

記念碑は、ハラミロが暮らし、働いた下町のメデリンの繁華街に設置された。高さ105センチ、長さ90センチで、27階建ての建物の1階にある裁判所の壁に取り付けられた。ビルの玄関の中央部、エレベータや出入り口の近くなので、通行する人が見ることが出来る。

碑文には、ハラミロの名前、その業績(弁護士、人権活動)、コロンビア政府が1998年の殺害事件を深く遺憾に思うとし、遺族に許しを乞い、米州人権裁判所判判決に言及し、人権擁護の意義を想起している。末尾にサントス大統領の名前が刻まれている。

(サントス大統領は2011年に重大人権被害者補償法を制定したことで知られる)

Thursday, June 22, 2023

社会的記憶と法03

ハーシュ&バーギル論文を簡潔に紹介する。

4 コロンビアで司法により命じられた記憶の碑

19952018年に米州人権裁判所はコトンビアについて32件の判決を言い渡し、19件の人権侵害事例に対応した。記憶の救済の様々な事例である。決定の11件は、記念碑や通りに命名するなど、長期の記憶に関連する措置。12件は、短期的な記憶の救済で、判決を12か月間ウエブサイトに掲載するよう命じた。長期の11件のうち9件は人権侵害事案である。ハーシュ&バーギルはそのうち3件を取り上げる。

ロシェラ虐殺事件Rochela

1989119日、司法調査委員会15人が証人宣誓供述のためバランカベルメハからラ・ロシェラを訪れた。そこに準軍隊のロス・マセトスの40名の武装メンバーがやってきた。彼らは革命勢力FARCゲリラを装って、司法調査委員会メンバーを捉え、車で連れ去った。ラ・ラグーナにつくや、その車を銃撃し、司法調査委員会が調査した事件ファイルを奪った。米州人権裁判所はコロンビアにこの重大人権侵害について、特に、自警団(後に準軍隊)の設立を許す法的枠組みを設定したことについて責任があるとした。というのも、軍の規定が軍隊メンバーに自警団を組織することを認めていた。国家のエージェントがロス・マセトスが虐殺行為をするのに協力した。

米州人権裁判所は、コロンビアに、事件を捜査し、実行犯を処罰すること、被害者遺族に救済を提供することを命じた。記念碑について、米州人権裁判所は、ボゴタのパロケーマオ裁判所に記念碑を設置するという両当事者の和解条項を承認した。

ボゴタの記念碑

記念碑は高さ100センチ、長さ158センチであり、被害者が勤務していた裁判所の入り口横に設置された。裁判官、検察官、弁護士、裁判所職員、法学生、犯罪被害者らが通る場所である。

碑文には、1989118日の事件についてコロンビア政府が深く遺憾の意を表明し、司法委員会メンバー殺害事件を説明し、殺害された12人、生存した3人の氏名を記載している。コロンビア政府は事件についての責任を認め、米州人権裁判所の判決にも触れている。

2019年に30周年の記念式典が催され、被害者遺族らが参加し、リボンを添えた。

サン・ギルの記念碑

被害者数人が勤務していたサン・ギル裁判所に、高さ161センチ、長さ102センチの記念碑が設置された。裁判所の中庭にあるため、司法関係者以外が足を踏み入れることのない場所である。

碑文には、コロンビア政府は事件を深く遺憾とし、殺害された12人、生存した3名の名前が記されている。コロンビア政府は事件に責任があるとし、米州人権裁判所の判決に触れている。

Wednesday, June 21, 2023

フェミサイド――見えない被害者

欧州ジェンダー平等研究所EIGEが『フェミサイド――見えない被害者に光を当てる』というパンフを出している。簡潔なパンフで、わかりやすい。

EIGE, Femicide: shedding light on the “invisible” victims.2022.

 

フェミサイドの予防、フェミサイドとの闘いに関連して、第1に賠償、第2に補償、第3にリハビリテーション、第4に弁済、第5に再発防止を掲げている。

続いて「フェミサイド:ジェンダーに基づく暴力化、ジェンダー中立殺害か」として、欧州の地図とともに、法的対処の類型を示している。ドイツ、フランス、ポルトガル、ルーマニアはジェンダー中立殺害の法律を持つが、スペインはフェミサイドをジェンダーに基づく暴力と定めるという。スペインはフェミサイドに対処する統合アプローチを採用している。捜査官も検察官もフェミサイドについて専門知識を持つように訓練を受けている。

また、フェミサイドは独立の犯罪とするべきだが、独立の犯罪としている国はまだない。フェミサイドをジェンダーに基づく暴力犯罪として、より見えるようにするべきである。そうすれば、法規定の適用を簡明にできる。フェミサイド防止の特別措置を設定できる。DV防止につながる。被害者が警察に届け出やすくなる。

被害者の権利を明確化することにより、第1に捜査官が被害者に敬意をもって接し、被害者が見えるようになる。被害者の権利に関する情報はまだ不十分である。救済にはギャップがある。法廷における再被害者化を防ぐ。メディアの報道にも影響を及ぼす。

以上を受けて、勧告をまとめている。

EUレベル

1に暴力から女性を保護する法基準を発展させる。

2に女性に対する暴力のすべての形態と闘うために加盟国を支援する。

3にフェミサイドの結果残された子どもへのEU共通の対応を定める。

EU加盟国レベル

1にフェミサイドに対処する行動を策定する。

2に女性が暴力被害を届け出やすくする。

3にフェミサイドへの法的対応を強化する。フェミサイドを独立犯罪とする。捜査マニュアルを策定する。フェミサイドの刑事手続きに関する専門部局を設置する。

4にフェミサイドを監視する国内機関を設立する。

5に司法へのアクセスを容易にする。

6に賠償と補償のメカニズムを設定する。

EUレベルではフェミサイド・ウオッチが推奨されている。国連人権理事会でもフェミサイド・ウオッチが稼働している。サウス・フェミニズムではフェミサイドは最大の関心事項だ。日本ではそうした動きがみられないようだ。日本フェミニズムは国際人権分野のフェミニズムとあまり縁がないようだが、なぜだろう。

社会的記憶と法02

ハーシュ&バーギル論文を簡潔に紹介する。なお、固有名詞の表記については正確さを期していない。米州諸国の歴史や社会について基礎知識がないため大雑把な紹介にとどまる。

2 記憶の社会的局面

ハーシュ&バーギルによると、社会的記憶研究は、人間の記憶の社会的局面に焦点を当てる。記憶は個人的なものに限られず、社会過程において出来事が記憶されていく。社会集団が記憶の素材を提供する。また、記憶することと忘却することは相互に密接に結びついている。広く記憶される出来事もあれば、「集合的健忘症」に見舞われる出来事もある。

社会的記憶を個人主義的に理解するか、集団主義的に理解するかは、社会的記憶の理解にとって重要である。両者は密接に連関し、分離できない。J.K.オリックは記憶の様々な形態に言及し、記憶は公的にも私的にも生じるし、社会の上層にも下層にも、個々人の証言としても国民的な物語としても生じ、そのいずれも重要であると述べている。

ピエール・ノラは20世紀末に記念碑について顕著な論及をした。記念碑は、具体的な歴史経験を具象化する場である。物的(資料的)に、象徴的に、そして機能的に重要である。トラウマとなる過去を経験した者にとってだけでなく、その後に生まれた者にとっても重要な場である。歴史の連続性の感覚を作り出す。記念碑の基本的な目的は、時間を止めることであり、忘れる作業を止めることであり、死を不死化(不滅化)し、無形のものに形を与えることである。社会的記憶と記念碑の相互作用は、逆の論理に立っている。記念碑は、記憶が必ずしも自発的なものではないという感覚に由来する。忘却の恐れのないところに記念碑は必要ないのだ。

3 米州人権裁判所、集合的救済、記憶の碑

法と社会的記憶は相互に関連し、法が記念碑の建設にかかわる場合がある。集合的記憶の構成に国際法廷がかかわる場合もある。国際法廷の資料群には歴史的文書や証言が含まれる。判決が過去の出来事の歴史的語りとなる場合もある。国際法廷が、過去の出来事の記憶に直接影響する場合もある。米州人権裁判所はこの領域で最も積極的な法廷である。

欧州人権裁判所と比較して、米州人権裁判所は加盟国に対して、人権侵害や被害者を記憶にとどめることを命じてきた。例えば、米州人権裁判所は、グアテマラのマック・チャン事件について被害者の名前を冠した奨学金の創設を命じたCase of Myrna Mack Chang v. Guatemala, 25 November 2003, IACtHR, 1 at 130.

メキシコのラディジャ・パチェコ事件について被害者の生涯の「伝記スケッチ」を準備するよう命じた。Case of Radilla-Pacheco v. Mexico, 23 November 2009, IACtHR 1, at 99.

事件と被害者に関する映像ドキュメンタリーを作成するようエルサルバドルに指示した。Case of Massacres of El Mozote and Nearby Places v. El Salvador, 25 October 2012, IACtHR 4, at 114.

米州人権裁判所は、記念碑の設置も命じてきた。例えば、メキシコのコットンフィールド事件でジェンダーに基づく殺人の女性被害者を記念する記念碑を建立するよう命じた。Case of Gonzalez et al.(Cotton Field) v. Mexico, 16 November 2009, IACtHR 1, at 114.

グアテマラのリオ・ニグロ事件でミュージアムの建設を命じた。Case of Rio Negro Massacres v. Guatemala, 24 September 2012, IACtHR 1, at 95.

さらにグアテマラにストリート・チルドレン事件で若き被害者の名前をつけた教育センターを作り、記念の場とするよう命じた。Case of Street Children(Villagran-Morales et al.) v. Guatemala, 26 May 2001, IACtHR 1 , at 44.

米州人権裁判所の記念の救済の第1の目的は、特別な人権侵害の記憶の保持である。裁判所によると、重大人権侵害を適切に記憶することは、忘却と闘い、再発を予防することになる。第2の目的は、被害者の遺族に関連する。亡くなった被害者を記憶することは、被害者遺族にとって救済となりうる。

Tuesday, June 20, 2023

社会的記憶と法01

『ライデン国際法雑誌』に掲載されたハーシュ&バーギル論文は米州人権裁判所の判決を分析して、重大人権侵害の社会的記憶について論じている。

Moshe Hirsch and Milad A. Said Barguil, Social memory and the impact of commemorative remedies ordered by the Inter-American Court of Human Rights. Leiden Journal of International Law, Vol.36 Issue 1. 2022.

前田『ヘイト・スピーチ法研究要綱』第11章「ホロコースト否定犯罪を考える」の「第3節 「法と記憶」をめぐる論争」において、欧州及び米州における議論を紹介した。ブリュッセル大学研究員のパトリシア・ナフタリの論文「国際法における『真実への権利』――最後のユートピアか?」は、米州人権裁判所と欧州人権裁判所の議論を対比して、真実への権利を考察していた。ハーシュ&バーギルも両裁判所の議論の比較から出発する。

日本では、「慰安婦」問題や南京大虐殺などの事件の記憶について、文学、心理学、社会学、政治学等の領域で研究が進んでいる。法学分野ではあまり研究が進んでいない。ホロコースト否定犯罪も、日本では表現の自由とされている。「慰安婦」問題に関する「平和の少女像」は、政治問題と化しただけでなく、感情的な誹謗中傷の的とされている。

米州人権裁判所そのものについて研究したことがなく、詳しいことはわからないため、つまみ食いの紹介しかできないが、重要な文献を時々紹介していこうと思う。

以下、ハーシュ&バーギルを簡潔に紹介する。なお、固有名詞の表記については正確さを期していない。

ハーシュ&バーギルによると、社会的記憶の研究は、人々がその記憶を得るのは、個人的手段を通してだけではなく、社会過程を通じてでもあるという前提から出発する。社会集団は記憶のための素材を提供し、個人が特定の事件を想起するよう突き動かす。米州人権裁判所と欧州人権裁判所の実務の間の明瞭な差異は、記憶に関連する救済に関連する。米州人権裁判所は関連各国に(記念碑を建設することによって)重大人権侵害を記念するよう、しばしば命じている。欧州人権裁判所はそうした記念による救済を承認することはしない。国際法の重大違反に対処するため米州人権裁判所の救済アプローチを採用するため、さらなる法廷に呼びかけている被害者団体もある。ハーシュ&バーギルは、米州人権裁判所が設立を命じたコロンビアの4つの記念碑の影響を経験的に評価する。それにより、国際法廷だけでは、当該の地方社会を特徴づける社会文化的事象にふさわしい集合的記憶を形成することができないという。他方で、司法による命令で設置された記憶の場所は、被害者の家族や小規模の社会集団にとって意味がある。それゆえ、我々の関心をミクロレベルの社会学的パースペクティブ、特に国際法への象徴的相互作用アプローチに向けて、国際法廷が個人や小規模社会集団に及ぼす象徴的役割に光を当てるべきである。被害者遺族や関連コミュニティにとってこうした記念碑の価値ある役割は、重大人権侵害事件を扱う国際法廷が、集合的救済を十分に考慮するべきであることを明らかにする。

目次

1 序文

2 記憶の社会的局面

3 米州人権裁判所、集合的救済、記憶の碑

4 コロンビアで司法により命じられた記憶の碑

4.1 米州人権裁判所と記憶の碑

4.2 ロシェラ虐殺対コロンビア事件

4.2.1 裁判所の判決

4.2.2 ボゴタの記憶の碑

4.2.3 サン・ギルの記憶の碑

4.3 19人の商人対コロンビア事件

4.3.1 裁判所の判決

4.3.2 ブカラマンガの記憶の碑

4.4 ヴァレ・ジャラミロ対コロンビア事件

4.4.1 裁判所の判決

4.4.2 メデリンの記憶の碑

5 米州人権裁判所が命じた記憶の日の影響を評価する

5.1 目的と方法

5.2 事実

5.2.1 インタヴューにおける記憶

5.2.2 集合的記憶とマスメディア

5.2.3 被害者家族への影響

6 司法が命じた記憶の日の影響を説明する

6.1 政治暴力の文化と暴力攻撃の記憶

6.2 近隣のコミュニティと記憶

6.3 専門家コミュニティと記憶

6.4 被害者家族にとっての象徴的安心

7 国際法廷の制約と潜在的役割――小規模コミュニティの記憶

8 結論

コロンビアの歴史や社会について基礎知識がないため、ハーシュ&バーギルをざっと読んでもよく理解できない箇所も少なくない。4つの記憶の碑について簡潔に紹介するにとどめたい。