Saturday, October 23, 2021

非国民がやってきた! 004

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)

三浦綾子の自伝的小説3部作の第1作<青春編>である。1964年にベストセラー『氷点』で作家として知られるようになった三浦が、196768年雑誌「主婦の友」に連載し、1969年に単行本になった。後に第2部『この土の器をも』、第3部『光あるうちに』が書かれる。

青春編は24歳からの13年間を扱う。高校を卒業して学校教師になった著者だが、敗戦による混乱期、教えることへの疑問にかられて教職を辞し、虚無的な生活の中、肺結核での入院生活を余儀なくされる。

13年間の闘病生活の中での家族や、人との出会い、短歌、そして聖書の教えに導かれる日々を過ごす。自ら病に倒れ、愛する者が病で去っていく過酷な日々に、著者が思い、綴った手紙や日記や短歌が著者の心象風景を映し出す。西中一郎との婚約と別れ、前川正との愛と前川の死、32歳で三浦光世と出遭い、37歳で結婚し、闘病生活に終わりを告げることになる。

ここで描かれた自然や街の様子(旭川や札幌)、登場する人々は『氷点』のモデルにもなっている。もっとも、名前を借用しただけでモデルではない場合もあるという。

いずれにせよ、風景、旋律、文体、諧調は『氷点』と同じである。三浦綾子の文体は、華美でも華麗でも鮮烈でもなく、すべてがたんたんと綴られる。説明調のようでいて、説明ではない。心象の吐露のようでいて、吐露ではない。地の文も会話も、すべてが淡々と進む。悲嘆あり、激情あり、出遭いがあり、永遠の別れがありながら、どこか自省的であり、にもかかわらず諄々とたゆみなく続く。

何よりも不思議なのは、194659年という時期の旭川と札幌の中産家庭と病院を舞台にしながら、敗戦後の混乱や、新しい平和憲法の制定や、戦後民主主義が直接には描かれていない。

もちろん時代相を無視しているわけではない。共産党員による平和懇親会にも言及がある。戦時中には戦争に熱狂していた人々が戦後になるとキリスト教に目覚めて教会に通っていることを、虚無主義の時期には冷笑的に見ているが、後に聖書に導かれて、洗礼を受ける。あの時代に、平和憲法と戦後民主主義に浮かれた思想を病室から冷ややかに見ていたであろう三浦綾子の内面がつづられる。そこに現れない時代、世相を読者は想像しながら読み進むことになる。生きること、人と出会うことを、この時代の社会の表層とからは限りなく遠い地点で、著者は思い続け、問い続け、自分を審問し続ける。

Thursday, October 21, 2021

キシリトール政権語録04 海産総選挙

秘境・小幌駅のある豊浦町が「海産総選挙」を実施中である。素敵なアイデアだ。

立候補は、ホタテ、毛ガニ、カレイ・ヒラメ、ボタンエビ、カキ、ブリ、ウニ、鮭。前回はホタテがトップ当選したという。

豊浦町海産総選挙

https://toyoura-feel.com/kaisan/

噴火湾産魚介類の人気投票「海産総選挙」始まる 豊浦

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/602318

豊浦町が海の幸PRで「海産総選挙」実施 4年前に続き2回目

https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20211020/7000039408.html

豊浦町

http://www.town.toyoura.hokkaido.jp/

 

今後、各地の自治体で「総選挙」ブームになるかもしれない。

 

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A県では「おいしいフルーツ総選挙」

B市では「わが市出身のお笑い芸人総選挙」

C町では「わが町の立ち飲み酒場総選挙」

D県では「わが県出身のアスリート総選挙」

E市では「わが市出身の汚職政治家・官僚総選挙」

など、「総選挙」と「ふるさと納税」をからめて売り込む。

 

青森県五所川原市(旧津軽の金木村・金木町)では「太宰治総選挙」を企画中である。斜陽、津軽、晩年、人間失格、走れメロスなど代表作が立候補し、激しい選挙戦が予想される。

 

福井県では「若狭湾エネルギー総選挙」が始まる。高浜、大飯、美浜、敦賀、もんじゅ、ふげんが覇を競う。敦賀は日本で最初の商業用沸騰水型軽水炉、美浜は大阪万博「原子の灯」、もんじゅはMOX燃料へのチャレンジが売りである。福島県や新潟県からの参戦申し込みは受理されなかったという。

 

日本世襲政治理論研究会は「三代目総選挙」を提唱した。古くから、長者三代、売り家と唐様で書く三代目と言うように、三代目は身上を潰す。政治家は地盤、看板を引き継ぐことが増え、世襲化し、今や二代目ではなく三代目が増えてきた。自己中、リケンあさりの才能は抜群で、世の中に害を垂れ流す三代目が目立つ。研究会は二代目、三代目から候補者を募っている。小泉純一郎、安倍晋三、麻生太郎、岸田文雄、石原伸晃、小渕優子、河野太郎、世耕弘成、野田聖子、橋本岳、林芳正、福田達夫、船田元、森喜朗など有力候補がひしめいている。小泉進次郎は「ぼくは三代目じゃありませんから」と立候補を見送るという。研究会はテーマ曲として、三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE Unfair Worldを使いたいと交渉したが、断られたとの噂。

 

Unfair World/三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE

https://www.youtube.com/watch?v=ttt8uls_uaw

 

Tuesday, October 19, 2021

キシリトール政権語録03 バランシング・クイーン

 内閣総理大臣のキッシーです。私の果断な決断によって総選挙が始まりました。わがジミンと、下駄の雪ことコーメイの政権維持のため過半数確保が目標です。

 わが内閣の支持率は40%台で、ガースー政権より20ポイント減との報道がございますが、ご心配は無用です。内閣発足時のご祝儀支持率は一時の気休めにすぎません。最初に高すぎるとあとは減るだけです。アクムのシンゾー政権もガースー政権も鉄壁の右肩下がりを貫きました。実にアンバランスです。わが政権はバランスが命ですので、徐々に実力を発揮して安定運営を心がけます。

 何しろアベさんとアッソーさんの間できちんとバランスをとらなくてはなりません。そのために忖度と調整の達人、政界のアマビエことアマリンを党幹事長にいただき、調整を図りました。閣僚も、ホーソーダ派、アッソー派、キッシー派など各派閥のバランスをとり、ベテランと若手を配置し、女性も揃えました。見事なバランス内閣です。

 政策面では、「成長と分配の好循環」をバランスよく追及します。分配だけに特化した政策は悪循環を生みます。トリクルダウンは起きていないとのことですが、均衡と調整の分配政策で調和のとれた経済政策を実現します。

  この10年間、経済成長していないとのご指摘は当たりません。アベノミクスが失敗したなどということはございません。経済成長したと断言できなくとも、停滞したと断言できるわけでもございません。実質賃金が低下したとの見方も一面的であります。総合的に見れば調和のとれた賃金体系で経済がバランスよく現状維持を続けております。

「金融所得課税の見直し」が消えた? いえいえ消えたわけではございません。成長と分配の好循環のためバランスよく中間層に分配する政策の中に位置づけたのです。優先順位があるということです。

「令和の所得倍増」が消えた? 消えたわけではございません。総合的な調和の取れた政策の中に位置づけました。

  新型コロナ対策はワクチン接種率を高めつつ、予防薬の開発に期待しております。えっ、ガースー政権と変わらない? とんでもございません。私は人の話を聞くことが特技であります。きちんと説明もいたします。ですから、一件似ているようでいて、まったく違うのであります。ポスト・コロナ時代を生きるためウイズ・コロナで経済も成長させます。

  核政策におきましても、核兵器禁止条約の重要性は認識しておりますが、核保有国と非保有国の間でバランスをとりながら、一方的な政策変更ではなく、対話と調整の結果、アメリカの言いなりになって、調和のとれた核と共に生きる社会、ウイズ・ニュクリアで世界平和をめざします。原発もバランスのとれた基盤エネルギーとして世界一安全な原発を維持してまいります。

 

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ABBADancing Queenのメロディで

 

You can balance, you can jive, you can jimin

Having the time of your life Woo Woo Woo

See that man, watch that scene

Dig in the Balancing Queen

 

Friday night and the lights are high

Looking out for the money to get

Where they play the jimin music

Getting in the swing

You come to look for Abe, and Assoh

Anybody could be that man

Night is fool and musics low

With a bit of junk music

Everything is bad

Youre in the mood for a balance

And when you get the money

 

You are the Balancing Queen

Old and bitter only sixty

Balancing Queen

Feel the baet from the tambourine Oh Yeah

You can balance, you can jive

Having the time of your life Woo Woo Woo

See that man, watch that scene

Dig in the Balancing Queen

 

Youre a faker , you turnem on

Leaveem burning and then

Youre gone

Looking out for another

Anyone will do

Youre in the mood for a balance

And when you get the money

 

You are the Balancing Queen

Old and bitter only sixty

Balancing Queen

Feel the beast from the Nagata-cho Oh Yeah

You can balance, you can jive

Having the time of your life Woo Woo Woo

See that man, watch that scene

Dig in the Balancing Queen

 

Abba - Dancing Queen

https://www.youtube.com/watch?v=xFrGuyw1V8s

 

Thursday, October 14, 2021

なるほど、主権者のいない国

白井聡『主権者のいない国』(講談社、2021年)

<「なぜ私たちは、私たちの政府はどうせロクでもないと思っているのか。その一方で、なぜ私たちは、決して主権者であろうとしないのか。この二つの現象は、相互補完的なものであるように思われる。私たちが決して主権者でないならば、政府がロクでもないものであっても、私たちには何の責任もない。あるいは逆に、政府はつねにロクでもないので、私たちに責任を持たせようとはしない。

 だが、責任とは何か。それは誰かに与えてもらうものなのか。そして、ここで言う責任とは誰に対するものなのか。それは究極的には自分の人生・生活・生命に対する責任である」>

3月に出た本だが、ようやく読んだ。『永続敗戦論』や『国体論』においてアメリカに敗戦し、支配されている日本の戦後意識が、敗戦の否認、服従の否認にあることを鮮やかに分析した著者の最新の時論である。3月出版なので、菅政権時のものだが、主な文章は安倍政権時代に書かれたもので、安倍政権に代表される「戦後政治のレジーム」批判でもある。戦後政治を否定したり、乗り越えると称する安倍政権こそが戦後レジームであり、対米追従にはまり込んでいることを鋭く指摘する。

この国の政治、経済、社会、文化の隅々まで対米追従が浸透している。日米安保と日本国憲法の体制は度し難い売国政策なのに、政治家も国民も戦後政治を寿いできた。あられもない対米追随を誇りに思う異様さである。絶望的な欺瞞政治に気づこうとしない愚鈍な精神の謎を著者は追跡し続ける。

序章  未来のために想起せよ

第一章 「戦後の国体」は新型コロナに出会った

第二章 現代の構造――新自由主義と反知性主義

第三章 新・国体論

第四章 沖縄からの問い 朝鮮半島への想像力

第五章 歴史のなかの人間

終章  なぜ私たちは主権者であろうとしないのか

近代国家は、単純化すれば、領土、国民、主権の3要素で説明される。主権は君主主権や国民主権という形で構成されるが、対外的には主権国家の平等性が仮設された国際社会のプレイヤーとして理解できる。

日本国の主権は、憲法上は国民主権として設定されているが、外交・軍事的側面に着目すると、典型的な主権国家というよりも、対米従属の主権制限状態という特徴を有する。このことは長らく議論されてきたとおりであり、かつては「従属帝国主義論」という奇妙な状態をいかに理論化するかなどとまじめに議論されたこともある。この状態を著者は『永続敗戦論』という切り口で見事に分析した。主権者のいない国であり、「主権者たろうとする気概がない」。同じことについて、私は「自己植民地主義」とか「植民地になりたがる精神」という表現を用いてきた。アメリカとの関係では植民地になりたがり、アジアに対しては空虚な優越感を持って対する幼稚な感性に、現代日本の基本特徴が表れている。

本書の随所で、著者はこの日本的なるもののいかがわしさに挑んでいる。著者の分析は鋭く、実に説得的であるが、にもかかわらず、鵺的な日本的なるものを乗り越えることができない。そのことも著者は自覚し、分析対象としている。

Friday, October 08, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(188)イギリスの宗教的ヘイト・スピーチ法

村上玲「宗教批判の自由と差別の禁止(一)(二):イギリスにおける神冒瀆罪から宗教的憎悪扇動罪への転換に関する考察」阪大法学62巻5号・6号(2013年)

はじめに

第一章      神冒瀆罪の概要

第一節      神冒瀆罪の歴史

第二節      神冒瀆罪が適用される宗教と同罪の成立要件

第三節      神冒瀆罪と欧州人権条約

第二章      宗教的憎悪煽動罪の創設と神冒瀆罪の廃止

第一節      神冒瀆罪の問題点と改廃に関する議論

第二節      宗教的憎悪煽動罪の創設

第三節      神冒瀆罪の廃止

第四節      宗教的憎悪煽動罪の創設と神冒瀆罪の廃止に関する検討

おわりに

村上によると、イギリスでは1688年の王政復古期以来、神冒瀆罪がコモンロー上及び制定法上の犯罪とされてきた。欧州人権条約を批准しても、まだ国内効力が十分なかった時期まで、それが続いた。しかも、宗教一般を保護するのではなく、キリスト教だけを保護する法制であった。1998年の人権法以後、状況が変わり始め、宗教的憎悪煽動罪の創設が2006年、神冒瀆罪の廃止が2008年に実現した。村上はその歴史をていねいにフォローし、20062008年法改正の意味を解き明かす。

神冒瀆罪は20世紀後半まで有効とされていたが、1985年の法律委員会は廃止を提案し、2003年の貴族院特別委員会は、神冒瀆罪は欧州人権条約に適合しないとした。神冒瀆罪の実際の適用はほとんどなくなっていたこと、犯罪成立要件が不明確であったこと、欧州人権条約に適合しないことが意識される中、社会情勢や法律状況にも変化があった。法律では、1986年の公共秩序法により人種的憎悪煽動の禁止が定着した。宗教的憎悪に応用できるかが意識された。2001年の9.11同時多発テロによって、テロ対策法の必要性と、他方で反イスラムの動きが社会問題となった。

1998年の人権法制定を受けて、2003年、貴族院の特別委員会が設置され、神冒瀆罪は差別的なので、非差別の法改正の必要性が指摘された。政府は欧州人権条約に適合した宗教的憎悪煽動罪の創設をめざした。2006年、人種的及び宗教的憎悪法が制定され、宗教的憎悪扇動罪が1986年の公共秩序法に組み入れられた。

村上によると、宗教的憎悪煽動罪が新設されたのは、2005年選挙で労働党がイスラム教指導者らを守ることを公約に入れていたこともあったという。ただ、人種的憎悪扇動罪では、「威嚇的な」の他に、「口汚い」や「侮辱的な」が要件になっていたのに、宗教的憎悪扇動罪では、「口汚い」や「侮辱的な」が削除され、「威嚇的な」場合だけ犯罪となる。また、表現の自由との調整のために、「特定の宗教や信条、信仰体系等に対する、議論、批判又は反感、嫌悪、嘲笑、侮辱を表現することを禁止し、又は制限するといった効果を与えるものではない」と明示されたという。宗教的憎悪扇動罪だが、嫌悪、嘲笑、侮辱の表現は禁止されない。このように宗教的憎悪扇動罪の成立範囲がほんのわずかになったことで、実際の適用事例も限られたものになると予想された。「イスラム教徒をなだめる目的で」最初からザル法をつくったということになる。

村上によると、日本には民事損害賠償裁判はあるが、関連刑事法は存在しない。他方、表現の自由は極めて重要とはいえ、最高裁判所は絶対的保障を認めず、「たとえ表現の自由といえども、決して他の権利に比して絶対的な優越的地位を占めているとは断言していない」。その意味では宗教的憎悪扇動罪の可能性が全くないわけではないようだ。

ただ、宗教の定義の困難性、保護される宗教と保護されない宗教という差別が生じる恐れ等を考えると、村上は、「どの宗教に対しても国家が平等であるためには、積極的に保護を与えるのではなく、敢えてどの宗教にも関与しない」ことが「公正」だという。議論は二転三転する。憲法201項後段や憲法21条の趣旨からいっても、イギリスの宗教的憎悪扇動罪の手法を採用すると、日本国憲法に反する恐れがあるという。「以上のことから考えても、現状において日本政府が宗教に関する差別的表現に関して採りうる方策について、神冒瀆罪及び宗教的憎悪扇動罪と憲法との適合性を鑑みる」ならば、「差別的行為を放置し、何もしないという方策」を補強する要素しか見当たらないという。宗教的ヘイト・スピーチを規制せず、放置せよという結論である。

そう述べつつも、村上は、最後に、子どもの権利条約と子どもポルノ禁止法の関係のように、国内外の要請を受けて新しい罪が制定される可能性も残されているので、宗教的憎悪扇動罪の可能性を全否定はしない。国際自由権規約があるからだろう。立法事実があるのであれば「社会及び治安の維持を目的に一定の表現機影が認められうる余地が生じてくる」という。

それでは可能性があるかというと、そうではなく、議論は三転四転して、「イギリスが採用した表現規制をあくまで参考に留め、当該規制を日本の宗教観を踏まえた日本国憲法の解釈に合わせた形で、制約を極力限定化することによって表現の自由を最大限確保するという法政策がなされなくてはならないものと考える」――これが村上の最後の結論である。

村上論文はイギリスの宗教的憎悪扇動罪を、神冒瀆罪の歴史の検討、そこからの変遷過程の分析を通じて詳細に論じているので、とても参考になる。

最後に議論が三転四転するのは、「キリスト教原理主義」に匹敵する「表現の自由原理主義」にとらわれているからである。村上に限らず、多くの論者に共通だが、論理が空転している。次のような構造になっている。

1.宗教的ヘイトが増えているから、対策が必要だ。

2.しかし、表現の自由が大切だ。

3.国際条約でも処罰せよとしているから、対策が必要だ。

4.しかし、表現の自由が大切だ。

5.イギリスでも立法しているので参考になる。

6.しかし、表現の自由が大切だ。

7.立法事実があるのであれば立法も必要だ。

8.しかし、表現の自由が大切だ。

この論法は日本の憲法学に共通である。「アベスガ論法」とさして変わらない。奇怪な話である。

日本国憲法の表現の自由の解釈・法理について、村上の議論はぶれる。(1)途中まではアメリカ憲法論を参考にした憲法学のレベルで論じていると見える。(2)だが、途中で村上は「最高裁判所は絶対的保障を認めていない」ことに注意を喚起している。(3)ところが最後に村上は「当該規制を日本の宗教観を踏まえた日本国憲法の解釈に合わせた形で、制約を極力限定化することによって表現の自由を最大限確保するという法政策がなされなくてはならない」とする。ここでは最高裁判例よりもアメリカ憲法流の憲法学が念頭に置かれていると思われる。

日本の憲法学は表現の自由については、最高裁判所の確立した判例を理由も示さずに排斥する。頭にあるのはアメリカ絶対主義だからだ。

最高裁判所判例が確立していても、そこに不備があれば批判するのは当然である。しかし、憲法学は1970年代以来半世紀の間、アメリカ判例という古くさい法理を持ち出して最高裁判所を批判してきた。その批判は受け容れられなかった。同じ批判を延々と続けても、そこに対話は生まれない。それでもえんえんと続けるのは、芸がないというか、思考力がないというか。

キシリトール政権語録02 シャオシャオとレイレイ

10月8日、岸田首相の所信表明演説が衆議院本会議で行われた。直後に解散する方針を表明しておいて、何が所信表明なのかよくわからないが、それを了とするのが日本社会である。野党もメディアも含めて、まともな政治はしない、というお約束。

 

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100代総理のキッシーです。

1代の伊藤博文公にはじまり、ついにわが国の総理が第100代となりました。わたくしキッシーが、この記念すべき第100代となりましたことは、やはり選ばれたる首相と申しますか、わたくしがこの日本という国の舵取りをお任せいただいたことに万感の思いでおります。

中学歴史教科書にも第1代伊藤博文公のお名前が出てまいりますが、次の教科書には私の名前も並べて記載することにします。そのための深慮遠謀として、文科大臣を変えました。バキュームハギューダ文科大臣も優れモノではありますが、彼に任せておくと、伊藤博文公とアクムのシンゾー前首相が教科書に載ることになりそうです。私の名前を載せるために、バキュームハギューダさんを経済産業大臣に横滑りさせて、世も末のスエちゃんを文科大臣に任命しました。先ほどスエちゃんに教科書検定基準の「歴代総理の扱い」を見直すよう指示したところです。世間ではアクムのシンゾーの「二人羽織内閣」などと称しているようですが、私なりにきっちり計算の上での周到な人事であります。他の大臣は誰でもよかったのです。どうせ10日間ですし。

次に、新型コロナウイルス感染症の対応に関してでありますが、これまで欠けていたシレっと司令塔機能を強化いたします。対応が不十分な場合や、政策の失敗が明らかになった時に、批判をシレっとかわす機能は危機管理として最重要です。新型コロナにつきましては、人流抑制と医療資源確保のための法改正で危機管理を抜本的に見直す方針です。今頃になって遅いと言われますが、ご批判はアクムのシンゾーとパンケーキのガースーに言ってください。わが政権としては、遅ればせながら対応策をとった振りをいたします。

経済政策としましては、格差是正という夢を抱いて、「馬鹿らしい資本主義」をめざします。「成長と分配の混乱循環」と「コロナ後の馬鹿らしい社会の開拓」による実現が肝要であります。持たざる者から徹底的にハギトール、ムシリトール、キシリトール「馬鹿らしい資本主義」の実現こそ、日本が生き延びる道であります。格差是正は夢のままですが、夢は夢として大切にいたします。

わたくしキッシーは被爆地・広島出身の首相として「核兵器のない世界」をめざす決意も、ここにいちおう、ついでに表明しておきたいと思わないでもありません。現実無視の核兵器禁止条約を批准することは金輪際ありえませんが、核兵器がなくなると良いな、という希望だけは持ち続けたいと存じます。はい、もちろん、「北の核兵器」をなくし、アメリカの核戦略に付き従う。この素晴らしい二枚舌路線をしっかりと維持いたします。本来なら自前の核武装によって一人前の国家をめざしたいところですが、アメリカ様のお許しが出るまではおとなしくしておきます。

ちょうど先ほど、上野公園の双子パンダの名前が決まりました。オスを「シャオシャオ(暁暁)」、メスを「レイレイ(蕾蕾)」と命名したとのことであります。一瞬、シャアシャアかと思いました。私のことを「いけしゃあしゃあと」などと非難する輩がいたものですから。わが政権はいけしゃあしゃあと麗々しく本領発揮と行ききたいものです。

 最後に、国民の声を真摯に受け止める信頼と共感を得られる政治が必要であります。わたくし自身と全閣僚による市民との車座対話を始めます。人の話を聞くことが私の特技であり、天性であり、才能でありますから、国民の声を聞き、内政は上に忖度しながら、外交はアメリカの命令を聞いて、それぞれ着実に実行いたします。パンダに学びながら、いけしゃあしゃと麗々しく総選挙にチャレンジいたします。

Thursday, October 07, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(187)宗教冒涜表現に関する研究

村上玲「欧州人権裁判所判例における宗教を冒涜する表現に関する考察」『淑徳大学大学院研究紀要』26(2019)

欧州人権裁判所における宗教的ヘイト・スピーチに関する研究が、既に存在していた。著者は淑徳大学コミュニティ政策学部助教の村上玲。以前、「阪大法学」にイギリスにおける宗教的ヘイト・スピーチに関連する論文を書いていた。それもまだ読んでいないので、これから読まなくてはいけない。

本論文で、村上は欧州人権裁判所の宗教冒涜に関連する判例を5つ取り上げて分析している。

    Otto-Preminger-Institute v. Austira事件(1994)

    Wingrove v. UK事件(1996)

    I.A. v. Turkey事件(2005)

    Giniewski v. France事件(2006)

    Klein v. Slovakia事件(2006)

これらの分析を通じて、村上は、欧州人権裁判所判例における宗教冒涜表現に関連して、表現の自由の判断枠組みが深化してきたことを示す。

判例は表現の自由の制約するために必要な3つの要件として、特に「制約が民主社会にとって必要であること」を重視し、より子細に検討するようになってきたという。初期の判決以後、一貫して、①表現の自由は民主社会の本質的基礎の一つであること、②好意的な表現だけでなく、衝撃や攻撃となる表現にも表現の自由が保障されること、③民主社会における多元主義、寛容さ、寛大さが必要であること、④しかし、自由と権利の行使には「義務と責任」が伴うこと(信徒の宗教感情や他者の権利を侵害する表現を、可能な限り避ける義務)、⑤この問題について欧州に統一的な概念が存在しないので、加盟国には広い評価の余地が残されているとしつつ、欧州人権裁判所は、「民主社会にとって必要であること」の要件をさらに細分化して議論するようになってきたという。

村上論文は、5つの判例分析を通じて、欧州人権裁判所の判断枠組みの深化を抽出している。分かりやすく、説得力がある。

村上論文は2019年発表だが、論文に含まれている情報は2007年以前のものである。その後の欧州人権裁判所には関連する動きがないのだろうか。

私は欧州人権裁判所については研究してこなかった。最近、若干の資料を紹介したにとどまる。

ファクトシート:ヘイト・スピーチ(欧州人権裁判所)(1)

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post.html

また、ヘイト・スピーチについては特に人種・民族ヘイト・スピーチを重視して研究してきたため、宗教的ヘイト・スピーチについては研究できていない。

預言者ムハンマドの風刺画と宗教的ヘイト・スピーチ

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/10/blog-post_40.html

Tuesday, October 05, 2021

預言者ムハンマドの風刺画と宗教的ヘイト・スピーチ

103日、犬の体をしたイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描き、命を狙われていたスウェーデンの画家ラルス・ビルクスが、交通事故に巻き込まれて死亡した。

ビルクスは何度も命を狙われてきたため、警察の保護対象であり、同乗していた警察官2人も死亡した。走行中にタイヤが破裂した可能性があるという。

いくつかのニュースを見たが、最初は単なる交通事故と報じていたのが、やがてタイヤの破裂が判明したようだ。

また、ニュースではヘイト・スピーチについて不正確な情報が流されている。

1に、日本ではヘイト・スピーチが犯罪とされていない、許されているので、それを前提とした解説をする評論家がいる。しかし、欧州ではヘイト・スピーチは犯罪と見るのが普通であり(EU加盟国はすべて犯罪としている)、スウェーデンも一定のヘイト・スピーチを犯罪としている。

2に、ヘイト・スピーチの中でも宗教に関連する場合をどう理解するか。宗教的ヘイト・スピーチを犯罪とするかどうかである。ニュースでは、マクロン大統領の「宗教批判の自由がある」という発言を紹介して、宗教批判はヘイト・スピーチに当たらないという解説をしている。

しかし、欧州諸国の中には宗教的ヘイト・スピーチを処罰する例がある。フランス刑法でも宗教的動機によるヘイト・スピーチを犯罪としている。マクロン大統領の発言は、たしかにそう述べたのだろうが、「ヘイト・スピーチに当たらない限り、宗教批判の自由がある」という意味のはずだ。そうでないと、理解できない。

フランスについては私も誤解していた。シャルリ・エブド事件の時、最初、私はフランス刑法では宗教的ヘイト・スピーチを処罰しないと思い込んでいた。後に訂正した。

スウェーデンについて私は十分な情報を持っていないので、ここでは断定的なことを言えない。なお、欧州人権裁判所も宗教的ヘイト・スピーチの処罰を肯定している。

宗教的ヘイト・スピーチについては、フランスやイギリスについて憲法学者による論文が書かれているが、総合的研究はこれまで行われていないと思う。今後研究が重要だ。

 

シャルリ・エブド事件の時の私の誤解は、下記。

宗教的ヘイト・スピーチ(1)

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/01/blog-post_13.html

宗教的ヘイト・スピーチ(2)

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/01/blog-post_87.html

宗教的ヘイト・スピーチ(3)

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/01/blog-post_14.html

 

また、宗教的ヘイト・スピーチに関する欧州人権裁判所の判決については、

ファクトシート:ヘイト・スピーチ(欧州人権裁判所)(5)

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post_6.html

自壊しつつある国と社会の点検

青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000352460

いま一番信頼できるジャーナリストの対談である。共同通信記者出身の青木と、週刊誌記者出身の安田。社会部出身で警察、司法に強い青木は、外信部にもいてソウル特派員も経験。いまは政治・社会に幅広く発言している。ヘイト・スピーチや外国人に対する差別問題の第一人者の安田は右翼取材も手がけてきた。この2人が、「ネットに吹き荒れる誹謗中傷、国民を見殺しにする政府や権力者、強気を助け、弱気を挫くメディアの病巣、日本の歪な現実の病巣」を抉る。

まえがき 切り捨ての時代を招いたもの

第一章 対韓感情悪化の源流とそれをもたらした日本社会の構造的変化

第二章 友好から対立へ 日韓それぞれの事情

第三章 恫喝と狡猾の政治が生む嫌な空気

第四章 社会を蝕む憎悪の病理 ヘイトクライムを生む確信犯的無責任と無知

かつて世界で第2位の経済力を誇った日本だが、バブルがはじけ、1990年代の「失われた10年」に始まり「失われた20年」を経て、経済成長が止まったまま、ついに経済競争力は世界で30位と言われるようになった。世界で稀に見る極度な高齢化社会となり、高度経済成長時代に整備した社会資本にも限界が来た。傾向的低下がとどまらない。

それだけに自己認識が分裂し、傲慢と嫉妬のナショナリズムに走る。ヘイトと排外主義、周辺諸国に対する羨望と蔑視、外国人に対する排斥と差別が、文字通り濁流となって社会のど真ん中を覆っている。線状降水帯的な自画自賛と、集中豪雨的な他者蔑視。論理も倫理も失われた憎悪の社会が形成されてきた。

青木と安田は「日本社会の構造的変化」を指摘し、特に日韓関係にそれが顕著に表出されていると見る。社会だけでなく、政治も恫喝と狡猾、隠蔽と改竄、腐敗が根深く、どこまでも転落していく様を確認する。

この国の病理は深刻だが、矛盾から逃げずに、いかに生きるべきなのか。ジャーナリストとして2人はこれからも疾走し続けるのだろう。

Sunday, October 03, 2021

非国民がやってきた! 003

三浦綾子『続・氷点(上下)』(角川文庫) 

大ベストセラー『氷点』(1965)の続編である。三浦綾子は、その後『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』『裁きの家』を続々と送り出し、『続・氷点』(1971)に至っている。どれも読んでいない。三浦綾子の代表作をいくつか読もうと思うが、長編小説だけでも『雨はあした晴れるだろう』(1998年)まで夥しいので、ごく一部しか読めない。というわけで、『続・氷点』である。

陽子の自殺未遂で幕を閉じた前編では人間の原罪が主題だった。続編も同じ人物群が中心だ。父親啓造、母親夏枝、息子の徹、娘の陽子、医師の村井など。続編では陽子の実母である恵子、その息子・達哉らが加わる。旭川と札幌を中心に北海道という場も同じである。京都・南禅寺にも出かけるが、サロベツ原野や北海道大学キャンパスや支笏湖など、北海道という舞台を駆使する。主題は赦しである。前編と続編を通じて全体テーマは愛と罪と赦しということになる。

稚内でのエピソードとともにサハリン(樺太)が出て来る。樺太が出て来る小説は珍しいのではないだろうか。1945年まで樺太は日本領だった。千島樺太交換条約で千島が日本、樺太がロシアとなったものの、その後の歴史過程で南樺太が日本領となった。第二次大戦終了後に、ソ連軍が千島に攻め込んで、現在の北方領土問題となっているが、何処からどう見ても奇妙な話だ。千島列島全体を日本領土と主張する声はほとんどない。なぜか南千島を「北方領土」と呼び換えて領土主張をしているが、北千島や中千島と切り離す合理性がない。また樺太については領土主張をしていない。北海道でも、千島の択捉・国後出身者による「北方領土返還運動」は続くが、樺太については聞いたことがない。

私は札幌郊外の生まれ育ちだ。子どもの頃、近所に2カ所、樺太からの引揚者住宅があり、そこの子どもが遊び仲間だった。特に2人は小学校の同級生で親しかった。周囲は一戸建ての住宅地に、2カ所だけ引揚者住宅の貧しい長屋があり、真ん中には小さな広場と井戸があった。子どもの頃、樺太からの引揚者住宅とは何か、その意味を知らなかった。1か所は中学生の頃に、1970年までに、長屋がなくなった。

もう1か所がいつなくなったかはわからない。私は1974年に東京に出た。1990年に帰省した時、すでに長屋はなくなり、大きなマンションが建っていた。一戸建て住宅地に1カ所だけマンションビルになっていたのを記憶している。

『続・氷点』(1971)の頃、北海道各地に樺太からの引揚者住宅があったのだろう。樺太からの引揚者がどのくらい、どこに住んでいたのか知らない。彼らの歴史も現在も知らない。

樺太が私の視野に入ってきたのは1990年代、サハリン残留韓国人問題が浮上した時だ。1つは、残留問題だ。日韓併合で韓国人に日本国籍を押し付けて、サハリンに強制連行しておきながら、戦後、日本国籍を剥奪した。日本人だけが帰国し、韓国人を現地に棄ててきた。日本人でないからだ。もう1つは、虐殺事件だ。正確なことは知らないが、敷香などで帰国を訴える韓国人を殺して、日本人だけが逃げた話があったようだ。

近現代日本史に樺太はほとんど登場しない。これも奇妙な話だ。日本文学でも樺太は忘れられているのではないだろうか。『続・氷点』にも小さなエピソードとして少し登場するだけで、主題となっているわけではないが、三浦綾子は樺太問題を知っていたのだろう。

非国民がやってきた! 001

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html

非国民がやってきた! 002

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post_76.html

Friday, October 01, 2021

キシリトール政権語録01 アマリモノの福笑い

ジミン新総裁は大方の予想通り、キッシーの勝利に終わった。予想外だったのは、1回目投票でキッシーが1票差とはいえトップに立ったことと、サナエが多くの票をさらったことであり、「ブロック本部長」ことワクチンタローの惨敗であった。

キッシーはまずジミンの党役職を選任した。アホのアッソー副総裁、アマリモノ幹事長、サナエ政務調査会長、フックン総務会長、ブチユーコ組織運動本部長、ワクチンタロー広報本部長など。要職はアホのアッソーとアクムのシンゾーの配下が占めることとなり、論功行賞だとか、3A人事だとか、忖度人事だとか、八方美人人事だとか、真空人事だとか、さまざまな論評がなされた。内閣官房長官にも、最初はバキュームハギューダを予定したものの、あまりに露骨との批判を受けて、プッツンマックンになる見込みである。

 

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 え~この度、ジミン幹事長を仰せつかったアマリモノでございます。ホーソーダ派でありながら、キッシー候補の選対部長として大活躍しましたので、当然の功労人事でありまして、ありがたく堂々と拝命することにいたしました。何より、キッシー総裁とアホのアッソー副総裁とアクムのシンゾー前総裁を繋ぐ忖度の赤い糸をしっかりと結びつけたのがわたくしでございます。アマリモノに福と昔から言うじゃありませんか。ハッ、ハッ。

メディアでもジミン内部でも「論功行賞だ」などと低レベルな妬みの声があがっていますが、論功行賞こそ人事の王道であり、わがジミンの伝統であります。何もしない輩に限って「論功行賞はけしからん」などと頓珍漢な嫉妬発言に陥るのであります。

一部メディアでは「真空人事」などと意味不明の非難をしておりますが、とんでもございません。党人事も閣僚人事も、キッシー新総裁の指導と采配の下、アホのアッソー副総裁とアクムのシンゾー前総裁の思し召しのまま、すべて完璧に忖度した「3密人事」であります。3Aならぬ3密です。時節外れにモリカケサクラの3点セットなどと壊れた蓄音機ががなりたてていますが、もちろんすべて闇の彼方の空遠くです。再調査など言語道断。人の道に外れた愚策を弄する人物はジミンから出て行ってもらいます。ハッ、ハッ。

えっ、お前の不祥事はどうしたですって? いい加減なことを言わないでもらいたいものです。わたくしは不祥事など、これっぽっちも、露一つもございません。ちょっと大臣室で現金授受を行っただけです。何か問題ありますか。こそこそ口座払い込みなどせずに、堂々と現金授受。株券や裏証文ではなく堂々と現金授受です。何も後ろ暗いところはございません。私はちゃっかり席を外したことにしていますから、何も問題ありません。責任は全て秘書が被ることになっています。これがジミンの基本のキ、美しい伝統です。ジミンミンゼミの秘書になるということは、全責任を負って議員を守るということです。もちろん、その後の人生は最後まで支援しますよ。後顧に憂いなく、場合によっては命に代えてでもボスの地位を守るのが有能な秘書の仕事です。不祥事だらけのブチユーコも組織運動本部長として活躍することになりました。キッシー新総裁のもと、心機一転、従来通りのリケン政治をしっかりと推進していく所存です。エダーノのリケンミンシュだって、リケン、リケンと吠えているじゃありませんか。わがジミンもリケンでは負けません。

説明責任? 何をおっしゃる。説明責任などという言葉は日本国憲法のどこにも書かれておりません。ジミン綱領にも説明責任などという言葉は見当たらないのであります。わたくしは日本国憲法とジミン綱領に従って、何一つ恥じることなく、政治家としての本分、職責を果たしてまいりました。これからも説明すべきは説明し、隠すべきはしっかり隠し、改竄すべきは徹底改竄して、この国の民主主義を守る所存です。

わがジミンは自由と民主主義を柱とする政党であり、国民の負託に応える責務があります。表現の自由、学問の自由、学術会議任命拒否の自由、営業の自由、資本の自由、賄賂の自由、改竄の自由、解雇の自由、増税の自由を基調として、美しい国をつくっていくのがキッシー新総裁のお約束です。

今やスガーリンも過去の人です。キッシー新総裁はパンケーキなど口にすることなく、新型コロナ緊急宣言解除のおかげで堂々と料亭にこもって酒色にふけることができます。料亭政治こそジミンのお家芸ですから、徐々に本領発揮といきたいものです。ハッ、ハッ。

Tuesday, September 28, 2021

真実・正義・補償・再発防止保障に関する特別報告書の紹介(4)

Ⅷ 勧告

 

 サルヴィオリ特別報告者は最後に多くの勧告をまとめている。

 

 各国は、重大人権侵害と国際人道法の重大違反で告発された実行犯を裁判にかけ、適切な場合、問題の行為の重大性に見合った効果的な刑罰を科すべきである。その際、正義や責任へのアクセスの妨げとなくすようにすべきである。

 各国は、刑事法における免責、全体的恩赦や部分的恩赦、猶予、時効の適用、不遡及等々のような、責任追及の法的障害、司法上の障害、又は事実上の障害に頼ることを止めるべきである。

 各国は、刑事処罰から実行犯を守る免除に頼ることを止めるべきである。例えば、適切に服従した、上官の責任、真実を告白して悔恨を示したなどの事由を直ちに免責事由とすること。

 各国は重大人権侵害や国際人道法の重大違反を行った国家元首や公務員のための免責や法的保護につながる障壁を除去するべきである。

 人道に対する罪で有罪とされた者の判決の無効化や減刑(刑期の短縮、釈放条件、早期釈放)は、いかなる場合にも、通常版材で有罪とされた者の場合よりも大きなものとなってはならない。

 人道的理由による赦免は切迫した重病の場合にのみ認められるべきである。

 人道的理由又は健康上の理由による自宅謹慎の利用は、緊急の場合に用いられる一時的措置としてのみ認められるべきである。

 告発された実行犯は、通常の国内法廷、混合法定又はハイブリッド法定、特別の移行期司法で裁判にかけられる。

 軍人、警察官、諜報部員等が人権・人道法の重大侵害で告発されている事案では軍事法廷が認められるべきではない。

 司法手続きはすべての当事者にとって適正手続きの国際法基準を守るべきである。

 裁判の公平性と独立性は、捜査、公判、判決のすべての段階で保障されるべきである。

 各国は、被疑者や有罪判決を言い渡された者を引き渡し、証拠を提供し、証人にビザを出すなど、国際レベルの責任追及に完全に協力するべきである。

 各国は、人権法と人道法に違反した者、その告発を受けている者を、刑事訴追から免れさせるために、難民受け入れをしたり保護してはならない。ノン・ルフールマン原則に従って被疑者の引き渡しをしない場合は、国際基準に従って裁判にかけるべきである。

 被害者は、告発人及び補償請求人として法手続きへの完全な参加を許されるべきである。

 被害者及び家族には事件ごとの事情に応じて精神的及び法的援助が国家によって提供されるべきである。

 侵害が、その者が特定の集団に属しているがゆえに被害者とされた場合、権利に基づいたアプローチを採用し、司法へのアクセスに関する国際基準に応じて補償がなされるべきである。

 効果的に責任を問う司法にアクセスするために、各国は透明な手続きを用意するべきである。

 国際共同体は、移行期の司法手続き中の各国に、重大侵害の責任者の責任を問うため二必要な援助を提供するべきである。

 各国は自国の法的枠組みに普遍的管轄権を採用することを検討するべきである。

 

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 以上、サルヴィオリのごく簡潔な紹介である。

 人道に対する罪やジェノサイドが犯罪として定義されていない国があると指摘されている。名前は出ていないが、日本はその一つである。日本ではジェノサイドも人道に対する罪も犯罪とされていない。

 国際刑事裁判所規程を批准した国は、例えばドイツのように国内法を制定して、国内法化した。国内法を制定しなくても、条約をそのまま国内適用する国もある。

 日本はどちらでもない。国際刑事裁判所規程に加入した時、日本政府はこれを国内法化しないことを決定した。それゆえ、ジェノサイドも人道に対する罪も日本では犯罪ではない。

 もちろん、殺人や傷害はもともと犯罪である。しかし、人道に対する罪としての殺人、殲滅、奴隷化、アパルトヘイト、迫害などが独立の犯罪とされていない。それゆえ、裁判官や検察官への研修・教育もない。自衛官への教育は、戦争犯罪についてはいちおうやっているようである。

拙著への抗議・絶版要求への回答(2)

抗議への回答第二便を下記に公表します。

 

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 拝啓

 

 お手紙(2021911日付)、ありがとうございました。

 

 前便(第一便)ではご指摘への直接の「回答」をお届けしました。

 ただ、前便では、「沖縄が歴史的に置かれている差別構造」が基地押し付けとして現象していること、その差別構造を作っているのは政府のみではなく「それを支えるヤマトの人たち」であることについての私の認識をお示しすることはできておりません。

 お手紙に示された歴史認識を、私はある程度共有しております。しかし、歴史認識は多様であり、立場性の認識も人それぞれです。このように言うと、「相対化している」とご批判をいただくかもしれませんが、自らの歴史認識を絶対化して議論することは避けなければなりません。対話を拒否して性急に「絶版」を要求する前に、歴史認識をめぐって言葉を紡ぐことが必要ではないでしょうか。

 

 さて、お手紙では「基本的な認識」として、次のように述べられています。

 「沖縄が歴史的に置かれている差別構造は、現在も変わらず、普天間の代替施設と称し、『軍事的には沖縄でなくても良いが、本土の理解が得られないから』という不合理な区分=差別により決定され、強行されていることがそれを象徴しています。そしてその社会構造を作っているのは、なにも政府のみではなくそれを支えるヤマトの人たちです。しかもこれは積極的に政府を支持するヤマトの人たちのみならず、『沖縄に要らないものはどこにもいらない』という左派も含めて、その『本土の理解が得られないから』という差別を可能にしている社会構造があるからなのです。この構造を踏まえた抗議や告発などの抵抗を、『独立系』という雑な括りで、『在特会』などのレイシストと並列に扱い『複雑な排外主義という課題を背負う状況』と述べる西岡氏は、自身の立場性・暴力性にあまりにも無自覚です。こうした『本土と沖縄』という権力構造を踏まえず、政府や1%の超富裕層のみと対峙するだけで、差別やヘイトスピーチが解消・克服できるわけがありません。」

 

 上述の通り、沖縄に対して歴史的に形成された差別構造に関する歴史認識については、私もある程度共有しているつもりです。ただ、上記引用のような形で、これを「基本的な認識」と表現されても、いったい何についての「基本的な認識」であるのか不明です。また、どのレベル、どの論者の「基本的な認識」であるのかも不明です。この点は後述させていただきます。

 

 さて、本論に入る前に、お願いしておくべきことがあります。元の文章を書き換えることなくお読みいただきたいということです。

 例えば、上記引用の「この構造を踏まえた抗議や告発などの抵抗を、『独立系』という雑な括りで、『在特会』などのレイシストと並列に扱い『複雑な排外主義という課題を背負う状況』と述べる西岡氏」という記述では、西岡氏の元の記述を書き換えています。

前便でもご説明しましたが、西岡氏は「独立系の団体のなかには」「一部の琉球民族独立系による」と対象を明示しております。「『独立系』という雑な括り」ではなく、明確に「なかには」「一部の」と絞り込んでいます。西岡論稿は該当箇所で「沖縄一般」を対象にしておりませんし、「沖縄の人たち」「ウチナーンチュ一般」を対象にしていません。元の文章を「この構造を踏まえた抗議や告発などの抵抗を、『独立系』という雑な括りで」という具合に読み替えて批判をいただいても、困惑するしかありません。

また、上記引用の「政府や1%の超富裕層のみと対峙するだけで、差別やヘイトスピーチが解消・克服できるわけがありません」との記述も、元の文章を書き換えています。前便でもお願いしました通り、元の文章を書き換えることのないようにお願いします。「対話」のための最低限の条件ですので、よろしくお願いします。

 

 以上をお断りした上で、お手紙の「基本的な認識」に関連して、私の認識をごくかいつまんでご説明します。

 

 

1 私たちはなぜ植民地主義者になったのか

 

 私がここ数年用いてきた言葉で言えば、「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」という問題があります。ここで「私たち」とは主に「本土」の日本人(ヤマトンチュ)・日本国籍・男性・健常者を指します。

朝鮮民族に対して、先住民族であるアイヌ民族及び琉球民族に対して、あるいは移住者、難民、難民認定申請者を含めた「外国人」に対して、日本社会に根深く定着している植民地主義について、歴史を振り返り、現在を問うことが必要であると考えます。

私は500年の植民地主義」「150年の植民地主義」「70年の植民地主義」と呼んでおりますが、日本の対外進出に伴って形成された植民地主義はまさに500年の歴史を持ちます。このことを私は各所で論じてきましたが、近刊の『ヘイト・スピーチ法研究要綱』(三一書房、202110月予定)の「第3章 日本植民地主義の構造」にて詳しく展開しております。

 沖縄に絞っていえば、「薩摩の琉球侵攻」に始まり、「琉球併合(琉球処分)」、そして沖縄戦、昭和天皇のメッセージ、間接占領からの沖縄切り離し(米軍統治)、沖縄返還、その後も続く基地押し付けの歴史は、日本社会に根深い植民地主義を形成しました。

 にもかかわらず、「本土」の側の多くの人々の歴史認識において、このような意味での植民地主義は忘却されているように見えます。朝鮮半島に対する日本軍性奴隷制(慰安婦)問題や徴用工問題をめぐる日本社会の反応をみるならば、過去の植民地支配への反省どころか、尊大な自己肯定、自己中心主義から他者を貶める言説が幅を利かせています。朝鮮学校に対する制度的差別や、在日朝鮮人に対するヘイト・スピーチはいっそう悪質なものとなっています。アイヌ民族を先住民族と認めたはずなのに、先住民族の権利は全く認めていません。日本政府は琉球民族の先住性を認めようとしません。沖縄(琉球)への基地押し付けと差別も連綿と続いています。

私自身がこのように考えるようになった経緯についてご説明します。私は1980年代末から、仲間と「在日朝鮮人・人権セミナー」を結成して事務局長として活動を始め、在日朝鮮人に対する差別や人権侵害に取り組み、日本軍性奴隷制問題をはじめとする戦争責任と植民地支配犯罪について研究し、運動に取り組んできました。植民地主義について研究すればするほど、その克服の困難性に気づかされてきました。「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」と問い続ける必要性を痛感しております。

 沖縄についても同様です。現在の基地問題の根源を考える時、「500年の植民地主義」「150年の植民地主義」「70年の植民地主義」の総体を踏まえて議論しなければならないと考えます。沖縄の歴史(日本による植民地化とこれに対する抵抗・闘いの歴史)を学ぶことで、日本の植民地主義の構造がよく見えてきました。私の歴史認識の形成に影響を与えたのは、主に沖縄の研究者、論客たちの著作ですが、特に最近の重要な思索と運動を4つだけ明記しておきます。

 第1に後多田敦『琉球救国運動――抗日の思想と行動』(出版舎Mugen2010年)は、近代における琉球の歴史――琉球処分、謝花昇の闘い、沖縄戦、昭和天皇の沖縄メッセージ、沖縄復帰――を知っているつもりの私がいかに無知であるかを悟らせてくれました。「救国」が「抗日」を射程に入れ、東アジアにおける「抗日」と真っ直ぐに繋がっているという歴史認識は私の歴史認識を塗り替えざるを得ないものでした。その後の、後多田敦『「海邦小国』をめざして――「史軸」批評による沖縄「現在史」』(出版舎Mugen2016年)、同『救国と真世――琉球・沖縄・海邦の史志』(琉球館、2019年)に学び続けています。

 第2に、野村浩也『無意識の植民地主義』(御茶の水書房、2005年)の鋭い問題提起に感銘を受けたのは、私も皆さんと同様です。出版直後にパレットくもじの書店で購入して、那覇から羽田への機内で読了した私は、野村氏が提起する問題の強烈さと深さに呆然としていたのを覚えています。知念ウシ『ウシがゆく――植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社、2010年)も見事な問題提起であり、沖縄だけでなく「本土」で広める必要があると考えた私は本書を100冊、東京で販売しました。

 第3に、新垣毅『沖縄の自己決定権――その歴史的根拠と近未来の展望』(琉球新報社、2015年)を挙げることができます。本書出版後、私は著者の新垣毅氏のご協力をいただいて、友人たちと「琉球沖縄シンポジウム実行委員会」を立ち上げ、東京で数回のシンポジウムを開催することになりました。そこでの中心テーマは、後述する「基地引き取り論」です。

 第4に、松島泰勝『琉球独立論』(バジリコ、2014年)をはじめとする松島氏の一連の琉球独立論です。北海道出身の私は、以前からアイヌ民族は先住民族であると認識しており、上村英明氏(恵泉女学園大学教授)の立論に学んできましたから、アイヌ民族と琉球民族はいずれも先住民族の地位と権利を享有するべきだと考えます。ですから、松島氏の研究は非常に説得的であり、琉球民族には先住民族としての権利を認めるべきであり、独立論が実際に政治課題となれば私自身も独立論を支持すると判断するに至っております。

また、近年の琉球民族遺骨返還問題でも松島氏の研究と運動には敬意を抱いており、木村朗・前田朗編『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房、2018年)には、島袋純氏、高良沙哉氏、新垣毅氏、宮城隆尋氏とともに、松島氏の寄稿をいただくことができました。他方、松島泰勝・木村朗編『大学による盗骨――研究利用され続ける琉球人・アイヌ遺骨』(耕文社、2019年)に私の文章を収録していただきました。

 以上の4つの思索と運動を列記したのは、この10数年の間に私が琉球沖縄の思想にいかに影響を受けたかを示すためですが、そのことは同時に、私がいかに無知であり不勉強であったかを裏付けることでもあります。

 これらの思索と運動に学ぶことを通じて、ようやく私は「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」を自らの研究テーマの重要な軸に加えることになりました。ここにたどり着くまでの自分を振り返ると、たんに無知であるだけでなく、その都度「わかったつもり」になりながら実は問題の根源を十分理解していなかったこと、そのため何度も思考がぶれたり、変遷を重ねてきたことを痛感させられます。

 これは決して自虐的に表現しているのではありません。日本の対外進出に伴って形成された植民地主義はまさに500年の歴史を持ちます。日本植民地主義がいかに歴史的に根深く、日本社会において「自然」であるかを知る必要があります。日本で生まれ育った日本人は植民地主義の中で自己形成するため、普通は植民地主義者になるのです。野村浩也氏の卓抜な表現を借りると「無意識の植民地主義」です。

 しかし、問題は「無意識の植民地主義」にとどまりません。野村浩也氏の問題提起がなされた後は、「無意識の植民地主義を解体する課題に気づきながら、その課題に向き合おうとしない植民地主義」になりかねないからです。

 植民地主義の克服が口で言うほど容易ではないにしても、常にそのために努力しなければならないことは言うまでもありません。私自身、「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」を問いながら、試行錯誤を続けてきたのが実情です。①私のヘイト・クライム/スピーチ研究についてはすでにお知らせしました。徐勝・前田朗編『文明と野蛮を超えて――わたしたちの東アジア歴史・人権・平和宣言』(かもがわ出版、2011年)においては、日本植民地主義と人種主義について掘り下げました。③他方、木村朗・前田朗編『21世紀のグローバル・ファシズム――侵略戦争と暗黒社会を許さないために』(耕文社、2013年)では、特定秘密保護法、集団的自衛権、国防軍創設の憲法「改正」、他方で領土問題やヘイト・スピーチなど偏狭なナショナリズムの煽動が続く現状を批判的に解剖しました。④レイシズムやナショナリズムを相対化するための非国民研究として、前田朗『非国民がやってきた!』(耕文社、2009年)、『国民を殺す国家――非国民がやってきた!Part2』(耕文社、2013年)、『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(耕文社、2016年)の3冊も公にしました。⑤他方、平和主義研究としては、前田朗『軍隊のない国家』(日本評論社、2008年)『9条を生きる――平和を生きる民衆』(青木書店、2012年)、『旅する平和学』(彩流社、2017年)と続き、最近では『憲法9条再入門』(三一書房、2020年)を出しています。ここでは平和主義と植民地主義の関連について検討しています。そして、国連平和への権利宣言づくりに参加しましたので、笹本潤・前田朗編『平和への権利を世界に』(かもがわ出版、2011年)、共著『いまこそ知りたい平和への権利48のQ&A』(合同出版、2014年)も編集することができ、国連レベルでの世界の平和運動の視点から日本と沖縄を考える良い機会となりました。⑥沖縄・尖閣諸島を含む領土問題について、民族派の代表である木村三浩氏(一水会代表)とともに『領土とナショナリズム』(三一書房、2013年)及び『東アジアに平和の海を』(彩流社、2015年)を出したことは、異なる立場の間での「対話」の経験として貴重でした。⑦また、原発問題をめぐる権力と民衆の対峙について、共著『原発民衆法廷①~④』(三一書房、201516年)に続いて、共著『思想の廃墟から――歴史への責任、権力への対峙のために』(彩流社、2018年)を刊行し、さらに共著『「脱原発の哲学」は語る』(読書人、2018年)、『福島原発集団訴訟の判決を巡って――民衆の視座から』(読書人、2019年)を公刊することができました。

 以上の経験を経て、不十分ながら、私なりの歴史認識――日本植民地主義論、人種主義論、日本ナショナリズム論、それを乗り越えるための平和主義、国際的な平和への権利論を形成してきました。

 

 

2 基地引き取り論(県外移設論)について

 

 以上を踏まえて、お手紙のバックボーンとなる「新しい提案」における「県外移設論」又は「基地引き取り論」についての私見をお知らせします。

 沖縄への米軍基地押し付け、そのもとで起きた事故や米兵犯罪による被害等についてはあらためて述べるまでもありません。

 1995年の「米兵少女暴行事件」以後、長期にわたって沖縄の人々が基地撤去をはじめ基地問題の解決を求めてきたことも言うまでもありません。鳩山民主党政権が「県外移設論」を掲げながら、失敗に終わったことも記憶に新しいところです。

 県知事選、総選挙、市長村長・議員選挙などを通じて、沖縄県民が何度も繰り返し「県外移設」を求める明確な意思を表明してきたことも言うまでもありません。

 こうした中、例えば野村浩也『無意識の植民地主義』、知念ウシ『ウシがゆく』といった問題提起を受けて、「本土」の側から応答したのが高橋哲哉『沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える』(集英社新書、2015年)でした。同様の思考をした方は他にもいらしたかもしれませんが、「県外移設」を単に論評するのではなく、「基地引き取り論」を「本土」の側の責任として明快に論じたのは高橋氏が初めてと言って良いと思います。

 私自身の思考の変遷という点で言いますと、1995年には沖縄基地問題の解決は「基地縮小論」のレベルでした。2005年に野村浩也『無意識の植民地主義』に出会った時に、「基地を持って帰れ」という言葉に驚き、半ば納得しつつ、半ば思考停止に陥っていたと思います。そして、2015年に高橋氏の著作に接することで、私は基地引き取り論に説得され、基地引き取り論を「本土」で広める努力を始めることになりました。

 なお、高橋氏にはそれ以前に『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)があり、そこですでに沖縄における米軍基地問題を「犠牲のシステム」批判の形で論じていますが、一般に高橋氏の基地引き取り論が知られるようになったのは『沖縄の米軍基地』だったと言って良いでしょう。

2015年は、高橋氏の基地引き取り論が明快に打ち出された年であり、同時に新垣毅『沖縄の自己決定権』が出版された年でもあります。そこで、私は友人たちと「琉球沖縄シンポジウム実行委員会」を立ち上げ、東京で数回のシンポジウムを開催することになりました。このシンポジウムには新垣毅氏(琉球新報社)と高橋哲哉氏にご協力いただきました。そこでの中心テーマは、「沖縄の自己決定権」と「基地引き取り論」です。

最初のシンポジウム(2015923日)は「『基地過重負担は差別』 自己決定権めぐり東京でシンポ」(琉球新報2015924日)に報道されている通り、新垣毅氏、高橋哲哉氏、阿部浩己氏(神奈川大学教授・当時)、上原公子氏(前国立市長)をパネリストとしてお迎えしました。

3回シンポジウム「『植民地主義と決別を』 東京で自己決定権シンポ」(2016424日)は、新垣毅氏、中野敏男氏(東京外国語大学名誉教授)、上村英明氏(恵泉女学園大学教授)をパネリストにお招きしました(琉球新報2016430日)。

 第4回シンポジウム「沖縄シンポジウム ヤマトンチュの選択――問われる責任、その果たし方」(2016925日)は、高橋哲哉氏に基地引き取り論を展開していただき、基地引き取り論に反対する成澤宗男氏(ジャーナリスト)と対論していただきました(琉球新報2016930日)。

連続シンポジウムの第9回「県民投票を受けて、いま何をすべきか~沖縄の自己決定権と『本土』の応答」(2019427)には、パネル発言者として元山仁士郎氏(「辺野古」県民投票の会代表)、佐々木史世氏(沖縄の基地を引き取る会・東京)、野平晋作氏(ピースボート共同代表)とともに、米須清真さんに登壇していただきました。その節はありがとうございました。

 また、連続シンポジウムとは別に、新横浜のスペースオルタの協力を得て、私は高橋哲哉氏にインタヴューする機会を得ることができました。その記録は高橋哲哉・前田朗『思想はいまなにを語るべきか――福島・沖縄・憲法』(三一書房、2018年)としてまとめることができました。

 以上の通り、不十分ながら、私自身も基地引き取り論を受容して、微力ながら行動してきたつもりです。

 本年、高橋哲哉『日米安保と沖縄基地論争――〈犠牲のシステム〉を問う』(朝日新聞出版、2021年)が出版されました。本書で高橋氏は、基地引き取り論への批判に応答しています。批判対象は、沖縄の映像批評家・中里効、沖縄近現代文学・ポストコロニアル批評の新城郁夫、思想史家・鹿野政直、ドゥールーズ=ガタリをはじめとする現代思想研究者の廣瀬純と佐藤嘉幸、そして社会思想史の大畑凛――いずれも私たちが敬愛してきた研究者であり、豊かな研究業績、鋭い分析、幅広い視野で私たちに思想と理論の輝きを教えてくれた論客です。高橋氏の基地引取り論がそれだけ論争誘発的な意欲作だったためです。

 ただ、この論争は主に「琉球新報」「沖縄タイムス」をはじめとする琉球沖縄のメディア上での論争です。

私の観点からは、この論争は「本土」のメディアにおいて行われる必要があります。高橋氏の果敢な取り組みや、東京、大阪、福岡などで動き始めた市民による基地引き取り論を「本土」でさらに広めることが課題です。

 

 

3 歴史認識について

 

 さて、冒頭で述べた通り、沖縄に対して歴史的に形成された差別構造に関する歴史認識については、私もある程度共有しているつもりです。ただ、上記引用のような形で、これを「基本的な認識」と表現されても、いったい何についての「基本的な認識」であるのか不明です。また、どのレベル、どの論者の「基本的な認識」であるのかも不明です。

 「沖縄が歴史的に置かれている差別構造は、現在も変わらず」という点は私も同感です。

 「普天間の代替施設と称し、『軍事的には沖縄でなくても良いが、本土の理解が得られないから』という不合理な区分=差別により決定され、強行されていることがそれを象徴しています」というのも、その通りだと思います。

 「そしてその社会構造を作っているのは、なにも政府のみではなくそれを支えるヤマトの人たちです」というご指摘もまさにその通りです。

 「しかもこれは積極的に政府を支持するヤマトの人たちのみならず、『沖縄に要らないものはどこにもいらない』という左派も含めて、その『本土の理解が得られないから』という差別を可能にしている社会構造があるからなのです」というのも適切なご指摘だと思います。

 上記引用の最後の4~5行において西岡論稿を書き換えている点は是認できませんが、それ以外は私も「その通りです」とお答えします。

 しかし、上記引用の10行余りの文章「全体」については「その通りです」とは言えません。個別のパーツが正しくても、全体としては正しいとは限らないからです。これらが「基本的な認識」であると主張されても、残念ながら理解しかねます。なぜなら、これらの文章は2013年の西岡論稿に向けられた非難だからです。これは奇妙なことと言わなければなりません。

 2013年当時、このような歴史認識が一般的であったとは到底考えられないからです。もちろん、沖縄に対する歴史的な差別についての認識はもっと以前からありました。しかし、米軍基地の県外移設論とこれらの歴史認識が一体のものとして語られるようになったのはいつのことでしょうか。

 こうした歴史認識は現在の沖縄においてさえ、一般的と言えるかどうか疑問です。なるほど県外移設は沖縄県民の明確な意思です。しかし、県外移設論を支える歴史認識が一枚岩であるわけではありません。歴史認識は多様です。「県外移設論」には多様な思いが含まれており、「県外移設論」=「基地引き取り論」という訳ではないことは明らかです。そのことは、2015年の高橋哲哉氏の基地引き取り論に対して、他ならぬ沖縄の中からも次々と批判と反論が寄せられたことから明らかです。

 また、『沖縄発新しい提案――辺野古新基地を止める民主主義の実践』が公表されたのは2018年のことだと承知しています。その紹介の文章には「2017年ごろ、沖縄県内外のさまざまな世代のウチナーンチュによって、憲法や民主主義の観点から県外移設論を検討するネットワークが生まれました」という記述を見ることができます。

 2018年の「新しい提案」の歴史認識を根拠にして、2013年の西岡論稿にはそれが欠けていると非難することが、いかにして可能となるのでしょうか。

 繰り返しますが、私は「基本的な認識」をある程度共有していますが、それも上記の通り、時にぶれたり、変遷した結果としてようやくたどり着いた認識です。

 そして、残念なことに、「本土」ではこのような認識は全く共有されていません。高橋氏や引き取り運動のみなさんが苦労しているのはこのためです。

 私はこの認識を「本土」に広めることが重要であると考えます。そのために東京でシンポジウムを繰り返し開催してきました。その際、他人の文章を書き換えたり読み替えたりすることなく、議論を進めました。2018年の認識を基に2013年の文章を非難するのではなく、その都度、正確な事実に基づいて対話を進めることに留意しました。

 

 

 以上で、ご指摘への「回答」とさせていただきます。

お手紙をいただいたおかげで、改めて私自身のこれまでを振り返ることができました。思考の及ばなかったところ、浅かったところが見えてきました。我ながら迂闊だったと思うところもあれば、それなりに努力してきたのにと言い訳したくなるところもありました。

 いずれにせよ、過去を変えることはできませんので、至らない点はご容赦を願うしかありません。私にできることは、とりあえず基地引き取り論を本土で少しでも広げるよう努力を続けることです。

 さらに疑問点がございましたら、お知らせいただけますと幸いです。「対話」が遮断されることなく、議論を始める端緒となることを期待して、私なりのお返事とさせていただきます。

 なお、第一便と同様に、本便は公開していただいて結構ですが、書き換えたり前後を入れ替えたりすることのないようにお願いいたします。

 ありがとうございました。

 

敬具

 

                        2021年9月22日

 

                             前田 朗

拙著への抗議・絶版要求への回答(1)

私が8年前に編集した『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房、2013年)について、読者のお2人から、収録論稿の記載がヘイト・スピーチであるとして抗議するとともに、同書を絶版にするべきだとの趣旨のお手紙(2021911日付)を頂きました。

その手紙はお2人によって、ツイッターですでに公開されています。

 これに対する回答を9月22日付で、出版社より発送してもらいました。回答は2通ありますが、そのうち第一便を下記に公表します。

 

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 拝啓

 

 お手紙(2021911日付)、ありがとうございました。

 

 私(前田朗)が編者となった『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房、2013年)をご購読いただきましてありがとうございます。

 ご存じの通り、日本でヘイト・スピーチという言葉が知られるようになったのが2013年であり、同年の流行語大賞に選ばれました。同時期に出版された本書は、最も早い時期に「ヘイト・スピーチ」と冠した書物であることから、反差別・反ヘイトに関心を寄せる方々から歓迎され、その後の反差別の議論と運動に少なからず役割を果たすことができたものと自負しております。

私自身、本書の出版を通じて、ヘイト・スピーチに関する研究と運動のいっそうの重要性を痛感しました。そこで、その後も研究を続けることとし、『ヘイト・スピーチ法研究序説』(三一書房、2015年)『ヘイト・スピーチ法研究原論』(三一書房、2019年)『ヘイト・スピーチと地方自治体』(三一書房、2019年)を執筆することになりました。これらの研究の出発点となった本書が幅広い方々から歓迎され、吟味され、運動に資することができたことを、改めて思い起こしております。

その後の8年間を振り返ると、毎年のように「ヘイト・スピーチ」と冠する書物が公にされ、ヘイト現場でのカウンター行動が広まり、2016年には不十分な法律ながら「ヘイト・スピーチ解消法」が制定されました。大阪市、京都府、京都市、川崎市、国立市を始め各地の自治体で反ヘイト条例が制定されました。こうした議論と運動の現場に、私たちも加わることができたことは幸いでした。もちろん、反差別・反ヘイトの思想と運動にはさらなる奮起が必要とされていることも事実であり、私たちも次の歩みを始めているところです。

 

 さて、同書に収録された西岡信之著「沖縄における憎悪犯罪」(以下「西岡論稿」)に関連して、ご意見とご質問をお寄せいただきましてありがとうございます。西岡論稿は、沖縄におけるヘイト・クライム/スピーチについて論じた、当時としては数少ない論考であり、出版時に多方面から好評をいただきました。

 西岡論稿は、当時、西岡氏が実際に体験した人格攻撃に関連して、その苦境を表明する記述を含むものでした。西岡氏は平和運動や基地反対闘争の国際的視点に立って、民族や国籍、宗派、国境を越えて、共通の敵に対して手を結ぶことを呼びかけました。本書出版時、「本土」のみならず、沖縄の人々からもこれに賛同するご意見を伺うことができたと承知しております。編者の私も、沖縄の人々から連帯の重要性についてご意見を伺い、本書に感謝の意を述べる方もいらして恐縮するとともに、平和運動における国際連帯の重要性を改めて痛感させられたことを記憶しております。

 

 それから8年の歳月を経て、まったく思いがけない方向から、思いがけない内容のご批判をいただいて、大変当惑しております。

 お手紙には、「貴殿らに対し抗議する」と「抗議」が明記されており、「真摯な回答を求めます」と記されている一方、末尾では、「回答」の如何に関わりなく、「本書は絶版にすべきである」との結論が提示されており、対話が全面拒否されています。そうであれば、「認識」をお示しして「回答」をお届けしても意味がないことが明白です。

とはいえ、読者から「抗議」のお手紙をいただいた訳ですし、特に「ウチナーンチュ」の「代表」と宣言されての「抗議」と質問です。編者として私の認識をお示しして「回答」とさせていただくことで、「対話」を始める端緒となることを期待して、私なりのお返事とさせていただきます。

 なお、執筆者である西岡信之氏は現在リタイアしており、お手紙に自ら応答することができませんので、ご了解ください。

 

 

1 西岡論稿の基本趣旨

 

 さて、ご指摘は西岡信之氏の論稿「沖縄における憎悪犯罪」における下記の記述に対するものです(同書118頁)。

「また独立系の団体のなかには、日米両政府ばかりか本土の日本人批判、県内に移住してきた日本人に対しても批判を始めるなど、民族排外主義が高まっています。

 右翼・保守系団体による沖縄への差別、排外主義とともに、沖縄における一部の琉球民族独立系による日本人への差別、排外主義など、沖縄はいまやひとつの小さな島嶼県内で、複雑な排外主義という課題を背負う状況に陥っています。

 圧倒的多くの民衆の敵は、1%の超富裕層からなる支配者階層であって、民衆の99%は、民族や国籍、宗派、国境を越えて、共通の敵に対して手を結ぶことを呼びかけます。」

 

 この記述に対して、お手紙では次のようなご指摘がなされています。

 「『独立系の団体』とはどの団体を指しているものなのかこの記述からは明らかではありませんが、『本土』の日本人批判や県内に移住してきた日本人に対して『批判』することがなぜ、日本人への差別、民族排外主義なのでしょうか。この記述はまさに人種差別撤廃条約が禁止し、国連の人種差別撤廃委員会も勧告している沖縄の人たちが、その権利を主張し、訴えることを妨げ又は害する目的又は効果を有するものであり、本書が克服すべきテーマとして掲げたヘイトスピーチそのものです。」

 

ご指摘に関連して、以下で私の認識をお示しします。

 第1に、西岡論稿の基本趣旨を、全体の文脈と流れに即して確認させていただきます。

 西岡論稿は、沖縄におけるヘイト・クライム/スピーチ現象を取り上げ、2013年の日比谷野外音楽堂における「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」に続くパレードに対して投げつけられたヘイト・スピーチを報告しています。ヘイト活動は「在特会」だけでなく、一定の広がりを見せ始めていることを検証し、これに対する批判を強めることを課題としています。沖縄に対する攻撃は、沖縄戦の歴史記述や靖国神社問題などで顕著となり、「琉球新報」「沖縄タイムス」に対する攻撃が始まっていることに言及しています。ヘイト活動が一部では過激化し、直接行動に出て来るようになったことに警鐘を鳴らしています。2013年の政府主催の「主権回復・国際社会復帰式典」に見られる歴史認識と米軍基地強化に反対する必要性を唱えています。

 これが西岡論稿の全体像であり、基本趣旨であることをまず確認させていただきます。

 西岡信之氏は長年にわたって平和運動、憲法9条擁護運動に携わり、「本土」(大阪や東京)で基地反対闘争、安保法制反対運動等において活躍しました。そのため2000年代初頭に沖縄に移住し、基地反対闘争に加わりました。その経験と認識を基に西岡論稿が書かれています。

同時に2010年頃から、西岡氏は日本人であるがゆえに運動の現場から排除される経験をし、時に人格を否定されるような経験をしました。当時、私は西岡氏からその悩みを直接聞いたので、はっきりと記憶しています。

 西岡氏は平和運動、憲法9条擁護運動の立場ですから、日米安保条約に反対し、すべての軍事基地に反対する運動に参加してきました。「圧倒的多くの民衆の敵は、1%の超富裕層からなる支配者階層であって、民衆の99%は、民族や国籍、宗派、国境を越えて、共通の敵に対して手を結ぶことを呼びかけます」というのは西岡氏の基本的スタンスの表明と言えます。

 

 第2に、西岡論稿に書かれた内容それ自体を確認させていただきます。

西岡論稿は該当箇所で「独立系の団体のなかには」「一部の琉球民族独立系による」と対象を明示しております。西岡論稿は該当箇所で「沖縄一般」を対象にしておりませんし、「沖縄の人たち」「ウチナーンチュ一般」を対象にしていません。

 お手紙では「独立系の団体のなかには」「沖縄における一部の琉球民族独立系による」という批判が「沖縄の人たちが、その権利を主張することを妨げる」としていますが、論理があまりにも飛躍しています。

西岡論稿は「沖縄の人たち」一般について言及していません。ほのめかしてもいません。読者がそのように誤解することのないように、2回にわたって「独立系の団体のなかには」「一部の琉球民族独立系による」と明示しています。西岡論稿は難しいレトリックを用いることなく、通常の表現を用いて対象を明示していますので、普通の読者であれば読み違えることは考えられません。

 西岡論稿が「独立系の団体」「一部の琉球民族独立系」による人格攻撃を取り上げる際に、あえて団体名を特定しなかったのは、「民族や国籍、宗派、国境を越えて、共通の敵に対して手を結ぶことを呼びかけ」るためです。団体名を特定しなくても、当時の状況下で読めば、関係者にはわかります。名指しを避けることによって、その後の連帯が可能となります。

 実際、西岡氏は事前に沖縄の友人知人に原稿を読んでもらい、これで関係者に意味が伝わることを確認しています。本書出版後、読者から本書に好意的な感想が伝えられましたが、批判する声を聞いたことはないとのことでした。

 私自身も、本書について沖縄の複数の友人知人から感想を伺いましたが、今回のお手紙でいただいたような指摘を受けたことはありません。読者が、西岡論稿の基本趣旨を理解し、その意図や意味を正確に、つまり、書いてある通りに読み取ってくれたからです。

 

 第3に、西岡論稿に書いていないことをご批判いただいても、お返事のしようがありません。

お手紙の別の個所では「政府や1%の超富裕層のみと対峙するだけで、差別やヘイトスピーチが解消・克服できるわけがありません」と、元の文章を書き換えてご批判されています。西岡論稿では「圧倒的多くの民衆の敵は、1%の超富裕層からなる支配者階層であって、民衆の99%は、民族や国籍、宗派、国境を越えて、共通の敵に対して手を結ぶことを呼びかけます。」と書いています。「政府や1%の超富裕層のみと対峙するだけで、差別やヘイトスピーチが解消・克服できる」などと意味不明のことを書いておりません。

元の文章を書き換えないようにお願いします。「対話」のための最低限の条件ですので、今後はよろしくお願いします。

 

 

2 ヘイト・スピーチについて

 

 ヘイト・スピーチは、よく誤解されるのですが、「汚い言葉」や「気に入らない言葉」ではありません。

 ヘイト・スピーチに関連する国際文書として知られるのは、ご存じの通り、市民的政治的権利に関する国際規約(以下「国際自由権規約」)と人種差別撤廃条約です。

 

 第1に、国際自由権規約第202項は「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」としています。

要件は、①「差別、敵意又は暴力」に関連し、②「扇動」となること、③「国民的、人種的又は宗教的憎悪」にかかわること、④「唱道」することに分けることができます。

 この条項の解釈については、国連人権高等弁務官事務所が主導して開催された連続専門家セミナーの成果文書としての「ラバト行動計画」に明示されています(詳しくは前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』500頁以下参照)。

 西岡論稿についてこれを見ると、西岡氏は差別に反対し、②いかなる扇動も行わず、③憎悪に反対して、④連帯を呼びかけています。立場の異なる人にも「民族や国籍、宗派、国境を越えて、共通の敵に対して手を結ぶことを呼びかけ」ることが明示されています。

 

 第2に、人種差別撤廃条約第4条は「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う」として、同条(a)が次のように定めています。

 「人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。」

要件としては、①「人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布」、②「人種差別の扇動」、③「いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動」、④「人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供」が掲げられています。

この条項の解釈については、同条約第8条に基づいて設置された人種差別撤廃委員会が長期にわたる検討の結果としてまとめた「一般的勧告第35号 人種主義ヘイト・スピーチと闘う」にまとめられています(詳しくは前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』489頁以下参照)。

西岡論稿についてこれを見ると、①西岡氏は「人種的優越又は憎悪に基づく思想」に反対し、②「人種差別の扇動」を行わず、③「暴力行為又はその行為の扇動」とは無縁であり、④「人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供」も行っていません。

 

 第3に、ヘイト・スピーチの定義については、国際自由権規約及び人種差別撤廃条約が代表的な文書ですが、定義について国際社会に完全な一致がある訳ではありません。欧州人権裁判所や米州人権裁判所でも議論が行われていますし、欧州連合(EU)加盟国はすべてヘイト・スピーチ処罰規定を有していますが、その条文の体裁や内容は多様です(世界150カ国のヘイト・スピーチ規制状況について前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』第8章、及び同『ヘイト・スピーチ法研究原論』第7章参照)。

 国連レベルの条約(国際自由権規約及び人種差別撤廃条約)、地域機関の法理論(欧州人権条約・同裁判所等)、世界各国の法規制状況を踏まえてみると、ヘイト・スピーチの必須要件としては、①人種、国民、言語等の動機・属性、②差別及び暴力、③その扇動が共通に掲げられていることが分かります。

 このようにヘイト・スピーチに関する国際常識はすでに明らかとなっています。そして、国際常識に従って西岡論稿を見るならば、これがヘイト・スピーチに該当しないことは明らかです。

 

 第4に、日本の「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律(以下「ヘイト・スピーチ解消法」)を見てみます。同法第2条は次のように定めます。

 「この法律において『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において『本邦外出身者』という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。」

 ヘイト・スピーチ解消法は対象を「本邦外出身者」に限定していますが、「本邦外出身者」以外の者に対するヘイト・スピーチも許されないことは言うまでもありません。

 ヘイト・スピーチ解消法の要件は、差別的意識を助長し又は誘発する目的で、公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し、又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動、に分けることができます。文章の組み立てから言って、①が目的、④が理由であり、②③がその例示であり、ヘイト・スピーチの本体となる実行行為が、「地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」となっています。

 西岡論稿についてこれを見ると、①西岡氏には法律が定める「目的」がなく、②「危害を加える旨の告知」もなく、③「著しく侮蔑する」こともなく、④一定の「地域の出身たることを理由」とすることもなく、⑤「地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」もありません。

 

 以上の通り、西岡論稿はいかなる意味においてもヘイト・スピーチに該当しません。西岡論稿全体について見ても、当該記述だけを取り上げても、これらがヘイト・スピーチに該当しないことは疑問の余地がありません。繰り返しますが、ヘイト・スピーチは「気に入らない言葉」ではありません。

 

 

3 おわりに

 

 さて、お手紙では「沖縄が歴史的に置かれている差別構造」が基地押し付けとして現象していること、その差別構造を作っているのは政府のみではなく「それを支えるヤマトの人たち」であることが指摘されています。

 お手紙に示された歴史認識を、私はある程度共有しております。しかし、歴史認識は多様であり、立場性の認識も人それぞれです。このように言うと「相対化している」とご批判をいただくかもしれませんが、自らの歴史認識を絶対化して議論することは避けなければなりません。

 ただ、この論点についての私の認識をお示しするには、かなりの紙幅を必要とします。そこで、私見の提示は別便にて行うことにさせていただきます。本回答と併せて第二便をお読みいただけますと幸いです。

 

 

 以上で、ご指摘への「回答」とさせていただきます。「対話」が遮断されることなく、議論を始める端緒となることを期待して、私なりのお返事とさせていただきます。

 なお、本便は公開していただいて結構ですが、書き換えたり前後を入れ替えたりすることのないようにお願いいたします。

 ありがとうございました。

 

敬具

 

                        2021年9月22日

 

                             前田 朗