Sunday, November 27, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(216)レイシズムを考える06

百木漠「『左翼的なもの』への憎悪」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

1 憎悪の転移

2 「左」から「右」へ

3 「置き去りにされた人々」からの反撃

4 「戦後」体制の反転

5 結語

ネット上の議論が、しばしば「知識人」や「左翼」への反発と憎悪をたぎらせ、感情的に爆発していることはずっと以前から指摘されていた。メーリングリストで議論が始まった時期にも顕著だったが、その後、ツイッターをはじめとする「瞬時」の投稿スタイルが定着するようになり、ポピュリズム、炎上、フェイク全盛となり、事実も論理もお構いなしの罵声が飛び交うようになった。「左翼」への嘲笑や猛攻撃が常態化している。もっとも、そこで「左翼」とされているのが何であるのか、実態としてはイメージしにくく、現実離れのした、どうでもよい議論という印象があった。とりあえず、見る必要はないし、見ても時間の無駄であることだけははっきりしている――と考えるのが普通だろう。

百木は、単に時間の無駄であるとは考えず、「左翼的なもの」への憎悪が存在するのであれば、それはどのような憎悪なのか、どこから、なぜ生まれてくるのかを分析しようとする。メディアの在り方が大きく変化し、オンライン・メディアが世論を形成し、政治・社会・経済に多大の影響を与えている現在、どんなにくだらないと思われる意見であっても、否、くだらなければくだらないほど、事実を無視すれば無視するほど、そしてフェイクであれヘイトであれ陰謀論であれ、現実に多大の影響力を有するのだから、きちんと分析する必要がある。なるほどと思うが、私にはできない仕事だ。

百木は、「昨今のヘイトスピーチを支えているのは、在日の人々への直接的な憎悪であると同時に、より広範な『左翼的なもの』に対する敵意でもある。この両者が混ざりあうことによって、互いの憎悪がさらに増殖・拡散され、もはや現実の在日の人々に対する批判・非難としてほとんど実態をなさないところにまで、『在日』バッシングが膨れ上がってしまうという構造が形成されているのである。」という。

さらに「このような『憎悪』の歪んだ構造は、間違いなく戦後日本の特異な言説空間に由来するものである。日本のヘイトスピーチ問題が、西洋的なレイシズム(人種差別)の観点だけからでは解けない理由はそこにある」という。

こうした問題意識から、百木は、1982年生まれの自身の生育史や経験を基に、過去20年ほどのヘイトの歴史をフォローし、「価値観の反転」を確認する。そのうえで、百木は欧米諸国のヘイト現象においても、「左派・リベラル側の問題」を焦点化する。百木にとって、ヘイトはヘイト側の問題ではなく、「左派・リベラル側の問題」になる。

百木は日本における「価値観の転換」」を1990年代における「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」に求める。

この状況を克服しなければならないが、百木は「厄介なことに、左翼的な人々がヘイトスピーチの『正しくなさ』を強調すればするほど、右翼的な人々はそれに対する反発を強め、いっそうヘイトスピーチ的な言動を強めていくという悪循環の構造がある」という。

百木の問題意識を、私は共有していないため、論理をすんなり理解することができていない。

日本におけるヘイト・クライムとヘイト・スピーチには150年の歴史があり、戦後日本社会においても構造的な差別の下で継続してきたので、1990年代の「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」を焦点化する理由もよく理解できていない。

私の理解では、ヘイトは「左派・リベラル側の問題」ではなく、ヘイト側の問題である。百歩譲っても、ヘイト側と被害者側を含んで形成されている日本の歴史的制度的な差別構造の問題である。「右派」と「左派」の非難合戦は、どうぞご自由にというしかない。そこにマイノリティを巻き込んで、マイノリティにヘイトを浴びせる加害をやめてほしいだけである。それは「ヘイトスピーチの『正しくなさ』」という話ではなく、人権侵害であり、犯罪であるという話である。犯罪を処罰するべきであるということは、「左派」か「右派」かとは関係ない。EU諸国では、ヘイト・スピーチを処罰するのが常識である。

とはいえ、百木の言う通り、メディアにおいては「左派・リベラル」への憎悪が言説を規定しているように思える。それがフェイクやヘイトと結びついているのも、なるほどそうだろうと思う。その意味では、百木のような分析が必要なのだろう。

Sunday, November 20, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(215)レイシズムを考える05

遠藤正敬「国籍と戸籍」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

日本における差別の動機(根拠)として主要なものが国籍と戸籍である。外国人差別は国籍による差別であり、女性差別や部落差別は戸籍に関連して行われた。このことはずっと以前から指摘され、その批判をする思考もよく知られてきた。国籍と戸籍の結びつきもそれなりに知られてきた。遠藤は、日本的差別の根拠となる国籍と戸籍の連関を主題に据える。

遠藤は『戸籍と無戸籍』(人文書院)、『戸籍と国籍の近現代史』(明石書店)の著者である。

1 差別の温床となる戸籍

2 旧植民地をめぐる国籍問題

3 戸籍における“排外主義”

4 戦後における戸籍の“純化”

5 今なお残る国籍の壁

6 おわりに

戸籍については知っているつもりになっていたが、「日本の植民地統治における国籍と戸籍の関係」の複雑な経過(朝鮮、台湾、樺太)の差異はきちんと知らなかった。遠藤は国籍と戸籍による管理・統合・排除のメカニズムをていねいに説明している。

「戸籍は“排外主義”をそのひとつの主柱」としている。つまり、国家による排外主義である。壬申戸籍に始まる家制度と不可分の戸籍は、「制度としての家が日本国家の基盤とされ、日本人は必ず一つの家に属することが求められた」という。知っていたことだが、その意味を正確に理解していたわけではない。遠藤によると「まさしく家=戸籍は日本人にしか生存を許さない空間なのであった」。

戦後においても1952年通達から1959年通達にかけて、「国民国家の再編」、旧植民地出身者の排除、外国人の排除が進み、その下で「日本国民」が再構築された。

1981年の難民条約加入により部分修正がなされたものの、基本法制に変化はなく、いまなお「日本国民」は独自の国籍と戸籍の枠内に幽閉され、外国人排除を当然とする思考様式に捕らわれている。反差別の運動にかかわる市民であっても、国籍と戸籍の閉鎖空間から逃れられるわけではない。

「戸籍は、民族、文化、ジェンダーといったさまざまな差異をもつ個人のアイデンティティをその硬直した規格に押し込んで『日本人』として画一化するものである。その規格への適合を拒む者は『まつろわぬ者』や『非国民』として貶められる。かくして日本国家への同調圧力がつくり出されている。これが戸籍のもつ権力性をもってきた。」

なるほど、その通りと思う。遠藤はさらに次のようにまとめる。ここが重要だ。

「レイシズムの厄介なところは、『国民』という表装的な同質化を強要する裏面で、その内なる『血』をも取り沙汰して排撃する点である。戸籍は出自にまつわる境界線を『日本人』のなかに設定し、かつ公示することによって社会的な差別や格差を再生産する効果をもってきた。これは支配権力が国民を階層的・分断的に統治するという目的に役立ってきたものといえよう。」

国籍と戸籍の壁と同時に、日本国家は「外国人登録」というシステムを構築した。そこにおける「朝鮮籍」の複雑な歴史は、日本国家の人民支配の特質を浮き彫りにする。出入国管理も含めて、その全体を見据えることで、日本国家が見えてくる。

歴史学の真髄に触れる01 『歴史のなかの朝鮮籍』

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/a.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/blog-post_26.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/blog-post_83.html

崩壊を加速させる日本解体論

白井聡・望月衣塑子『日本解体論』(朝日新書)

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23726

<政治状況も、国民生活も悪化の一途をたどり、日本を蝕む閉塞感に打開の一手はあるのか。政治学者と新聞記者が、政治・社会・メディアの問題点、将来に絶望しながら現状を是認し続ける「日本人の病」に迫る。さらに戦後の歴史、国民意識の現在地を踏まえながら、縮小するこの国の、向かうべき道筋を示す。>

1章 77年目の分岐点

2章 「政治的無知」がもたらす惨状

3章 壊れていくメディアと学問

4章 癒着するメディアと権力

5章 劣化する日本社会

6章 国家による侵攻の衝撃

「永続敗戦論」「国体論」の政治学者と、映画『新聞記者』のモデルによる対談だ。

1章・第2章では主に日本政治の病理を鋭く批判し、第3章・第4章ではメディアと学問の劣化・衰退を論じる。第5章は、日本政治・メディア・学問の劣化を必然化させる日本社会の劣化を分析する。

随所で、うん、うん、そうだ、そうだ、その通りと頷きながら読める本であり、ほとんどすべて、私たちがこれまで言ってきたことと同じだ。

与党の横暴と混迷、官僚の腐敗、財界の悲惨さ、ジャーナリズムの消失、御用学者の跋扈――何も新しいことがないと言ってよいほど、この国の愚劣さと恥辱をあますところなく論じている。残念ながら、すべて賛成と言ってよいほどだ。だから、面白いと言えばおもしろいが、おもしろくないと言えばおもしろくない。

天皇制からアメリカ支配に代わった「国体」の寿命が尽きようとしており、日本はあらゆる領域で腐敗しており、腐臭を放つばかりだという。政治外交的に属国であり、内政も外政も自分では決められない。経済的にも衰退の一途を辿っており、放っておけば崩壊するだけの日本を、白井と望月はさらに「解体」しようとする。

政治経済のみならず、メディアや学問も含めて腐朽が進行する一方だが、この国を支えてきた「国民主権」の虚妄は、「国民」の一員たる白井や望月も責任の一端を負う。それゆえ、この国の解体に最後までつきあう姿勢であろう。

白井は、日本は崩壊するしかない、早く崩壊した方が、まだ救いが生まれるかもしれないと考えているようだ。もっとも、その先に何が待っているかには言及がない。おみくじ占いではないので、やむを得ない。

6章はロシア・ウクライナ戦争を取り上げているが、レーニン研究者の白井はロシア留学経験があるので、この章だけは、知らなかったことが語られている。別の意味でおもしろい。

戦争については、白井の実感として、ロシアは戦争をやめないだろうと悲観論を唱えている。残念なことに白井の実感には根拠がありそうだ。困ったことだ。

Thursday, November 17, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(214)レイシズムを考える04

間庭大祐「ヘイトクライム、あるいは差別の政治化について――アレントの全体主義論からレイシズムを考えるための試論」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

間庭は、20132月の大阪・鶴橋における「鶴橋大虐殺」発言に「理解しがたいほどのイマージナルで虚構的な性質」を感じ取り、「死」を語る非現実感に戦慄を覚え、20世紀の暴力を全体主義の悪夢と受け止めたアレントの戦慄になぞらえる。そこで暴力としての人種差別を、アレント的な思索により解明しようとする。

ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策が受け入れられてしまった原因を、アレントは、暴力の道具的性格に見出す。「道具はそれを使用する人間の講師によってはじめて暴力となる」ので、正当な目的であれば暴力があたかも正当であるとみなされることがある。

間庭によると、「暴力が人間の人間に対する感覚麻痺を伴った関係切断――人間と『物』との二分法――によって為されるものである以上、人種差別主義はまったく暴力的である。」

その暴力行使を正当化する原理が問われなければならない。それがイデオロギーであり、イデオロギーとしての差別が猛威を振るうことになる。

イデオロギーとしての差別は、アレントの主題では政治的反ユダヤ主義のことである。20世紀の反ユダヤ主義が汎民族運動のうちに現れている。自民族にとって都合の良い仮想現実を提供してくれるのが、反ユダヤ主義である。これがのちに全体主義に継承される。「差別の政治化の極限状態としての全体主義」に目を移す必要がある。

間庭によると、全体主義のイデオロギーは似非科学的な支配装置にほかならないが、イデオロギーは人々に<超意味>をもたらす。「経験としての強制収容所の核心」をアレントは「世界の無意味性」に見出す。それは「自己の無用性」を意味することになるので、世界の意味を見失い、実存的苦境に立たされた人々は、<超意味>に吸引される。

「見捨てられた人間」――「他者との共同性から見捨てられ無世界であるがゆえに、虚妄な世界観あるいはすべてを説明し尽くしてくれるかのようなイデオロギー的<超意味>に頼らざるをえず、きわめて能動的に自己の観念へ閉じこもる」人間。これがテロルへの回路を開く。

間庭は次のように述べる。

「こうした極限的な差別の政治化は、排除し抹殺すべき『内部の敵』を意識的かつ能動的に創出しなければならない原理と構造を内包している。イデオロギー的『プロセス』に飲み込まれた人間はさらに現実から逃避し、イデオロギー的世界観から生まれる自己観念を養うために、常に自分の憎悪の対象を生産し続けねばならなくなるのである。こうなれば、もはや『ユダヤ人』が現実的に何であるのかはまったくどうでもよいことになる。というのも、あくまで『ユダヤ人』は差別の政治化のためのシンボルにすぎなくなるからである。そうであるがゆえに、彼らは『ユダヤ人』を絶滅させると次の格好の餌食を見つけ出し、限りなく『プロセス』を維持し続ける。差別の政治化の最終地点は、人類の絶滅なのである。」

アレントはこうした20世紀の暴力経験を乗り越えるために、「複数」の人々による世界の共有を、他者とのコミュニケーションを通して、自分を創造しなおすことに見る。

間庭の言葉では「自己観念への逃避を自覚的に拒否することであり、人間一人ひとりの『かけがえのなさ』への想像力を保つこと」とされる。

アレントの『全体主義の起源』は何度か読みかけたが、結局、通読できないままである。アレント研究はずいぶんたくさん出ているので、いくつか読んだが、新書レベルの解説にとどまる。現代思想における最重要の思想家であると思うが、自分できちんと読めていない。

間庭の思索は、20世紀の暴力経験をいかに乗り越えるかに向けられており、生産的な議論だ。欲を言えば、差別の歴史的構造的な文脈とイデオロギー的な文脈を、もっと明確に接合して展開してもらえると良いなと思う。間庭としては、それは十分配慮した上でのことだろうが、読者の問題意識が、個人の「想像力」の問題に限定される恐れはないだろうか。もっとも、それは読者が自分で考えるべきことかもしれない。

Wednesday, November 16, 2022

ヘイト・クライム禁止法(204)デンマーク

デンマークがCERDに提出した報告書(CERD/C/DNK/22-24. 7 February 2019

1に、ヘイト・クライムの管轄である。2015年春、ヘイト・クライムと闘う責任が、デンマーク安全情報サービス機関から国家警察に移管された。国家警察はヘイト・クライムが全警察管区で的確に扱われるよう、警察官に十分な研修を行っている。ヘイト・クライムの特定、記録、捜査、処理に関する法執行官研修は、デンマーク警察学校の研修に含まれている。ヘイト・クライム監視計画の履行のため、全管区にガイドラインを送付し、捜査と記録を促進している。2018年、デンマーク国家警察は、IT行政システム(POLSAS)にヘイト・クライムを正確に記録するために協議している。刑法266条に違反する犯罪についてはPOLSASに記録している。

2017年、デンマーク国家警察は、ヘイト・クライム監視方法に変更を加えた。POLSASにおけるヘイト・クライム記録では検索が不十分だったので、検索を容易にするように変更した。

デンマーク国家警察はヘイト・クライム監視計画の年次報告書を出版し、20189月に第3次報告書をまとめた。報告書は2017年以後の事件を446件記録している。報告書作成時、95102人に対する訴追が行われた。2017年のヘイト・クライムの半数が被害者の国籍、民族性、人種、皮膚の色に関連する動機で行われた。監視方法に変更があったため、直接の比較はできないが、2016年以前と2017年以後の傾向は同じと思われる。

2に、司法省とコペンハーゲン大学の協力により、人種的動機による暴力犯罪等の被害者になるリスクに関する年次報告書を作成している。20082016年報告の分析では、暴力犯罪被害者の7%が人種主義によるもので、6%が人種主義による可能性があるものであった。女性よりも男性被害者の方が人種動機による被害を受けやすい。

3に、検察庁のヘイト・クライム・ガイドラインである。警察と検察のヘイト・クライム処理ガイドラインは、検察庁の命令に基づいている。これは刑法266条bと816項、及び人種差別禁止法に関するものである。ガイドラインは2016年に改訂された。すべてのヘイト・クライムをPOLSASに記録することにした。

2011年命令に基づくガイドラインでは、人種差別禁止法の適用が地方検察官の任務とされていなかった。2016年ガイドラインは、人種差別禁止法の全事件が地方検察官の管轄とされた。現行ガイドラインはICERDの要請に従って、刑法266条b違反事件の効果的捜査を求めている。

4に、重点項目としてのヘイト・クライムである。201617年、ヘイト・クライムが検察官の重点項目とされた。法解釈、量刑、証拠規則を判例において明確にすることである。警察と検察はこのために継続的に統計に取り組んでいる。

5に、人種差別禁止法である。検察官は人種差別禁止法を管轄し、年次報告書を作成している。201318年の報告書には人種差別禁止法違反が13件記録されている。公訴提起されたのは4件で、2件は無罪となり、1件は有罪が確定し、1件は法的警告がなされた。1件は手続き中である。

6に、人種主義動機を持った犯罪(刑法816項)である。刑法816項違反の全事件を警察統計から引き出すことはできないが、検察庁の判例分析によると、201317年、一連の判決があり、民族的出身、信仰、性的指向に基づく犯罪について刑罰加重がなされている。

7に、デンマーク雇用法では、ジェンダー、人種、皮膚の色、宗教、政治的信念、性的指向、年齢、障害、国民的社会的民族的出身に基づく差別は違法である。労働市場差別禁止法があり、直接差別と間接差別を禁止している。

CERDのデンマークへの勧告(CERD/C/DNK/CO/22-24. 1 February 2022

人種主義ヘイト・クライムとヘイト・スピーチ事件が過少にしか報告されていない。包括的な情報収集メカニズムが存在しない。刑法816項について、警察、検察、裁判所が記録した事件数にギャップがある。人種差別を助長する団体、当該団体への参加を刑法上の犯罪としていない。政党の政治論議において偏見と排外主義が見られる。委員会は次のように勧告した。

人種主義ヘイト・クライムとヘイト・スピーチ事件を被害者が報告できないようにしている障壁を除去すること。被害者がヘイト・クライムとヘイト・スピーチは処罰される犯罪であり、救済が得られることを啓発すること。当局が捜査、訴追、処罰する意思を高めること。

複合的な動機の場合も含めて人種主義動機の犯罪が効果的に捜査、訴追されるようにヘイト・クライム法を適用すること。

人種主義ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの包括的な情報収集制度を設置すること。犯罪のカテゴリー、ヘイト動機の類型、標的とされる集団、司法的フォローアップを含めること。

警察と、ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの影響を受けるコミュニティの対話を継続すること。

条約第4条を完全に履行し、暴力と人種差別を助長・煽動する団体と宣伝活動を禁止し、公的議論におけるプロパガンダとフェイク・ニュースに対抗言論を強化すること。

CERDは人種主義プロファイリングについて、警察が民族的マイノリティを犯罪被疑者として嫌疑をかける結果、デンマーク人と民族的マイノリティとで訴追の比率が異なることを指摘する。デンマークには人種プロファイリングの明確な定義がなく、法執行官のためのガイドラインもないため、人種プロファイリングを防止できないと指摘する。

人種プロファイリングを明確に定義し、法律で禁止し、警察による職務質問等における人種プロファイリングを予防すること。

被逮捕者の民族的出身を系統的に記録し、民族プロファイリングの統計情報を収集すること。

法執行官による民族プロファイリングの申立件数を監視し、申立に対処すること。

デンマーク人以外の民族背景を有する者を警察の第一線に採用し、無意識に行われる人種プロファイリングを可視化し、減少させる努力を強化すること。

ヘイト・スピーチ研究文献(213)レイシズムを考える03

隅田聡一郎「資本主義・国民国家・レイシズム――反レイシズム法の意義と限界」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

『マルクスとエコロジー』(堀之内出版)の著者・隅田は、レイシズムと国家の関係について「マルクスの資本主義分析の観点」からの議論を試みる。

隅田は、伝統的マルクス主義においては国家を資本家階級の「道具」として規定し、上部構造としていたこと、これに対して唯物論的国家分析によると、国家は特定の社会関係が帯びる「形態」と把握されるという。「国家装置」と見るか、「権力関係」とみるかの違いが生じる。

だが、「国民国家とレイシズムの関係を考察するためには、資本主義の政治的形態に関する抽象的分析を具体的に発展させなければならない」。レイシズムをたんにイデオロギー装置と見るのではなく、「レイシズムの近代的形態を資本主義国民国家の政治的形態として把握すべきである」。

隅田はより具体的に考察するために、「国家の歴史社会学」の知見を応用し、「国家の社会化」において、人間身体が生―権力の対象として「人種化」され、生と死を切り分けるレイシズムが国家機能に組み込まれると、ミシェル・フーコーを援用する。

近代国家におけるレイシズムの発現形態や機能は、国によりさまざまであり、隅田は、戦後の日本では、東アジアのポストコロニアル諸国家システムのもとで「一九五二年体制(出入国管理令、外国人登録法、法律第一二六号)」として独自のスタイルで形成・確立したという梁英聖の議論を引用する。

梁英聖『レイシズムとは何か』について

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/03/blog-post_8.html

国家がレイシズム暴力に対してどのような行動、対策をとるのかが重要だが、隅田によると、「そもそも、資本主義国民国家が、反レイシズム実践に強制されることなく、レイシズム暴力およびレイシズム実践を積極的に禁止・抑制することなどありえないのだ。つまり、資本主義国民国家は、反レイシズム法及び規範が埋め込まれた公民権法を絶えず骨抜きにし、レイシズム国家としての形態規定性を貫徹させようとする」という。

このように冷静に認識しつつ、国民国家に反レイシズム対策を取らせる法理と運動、実践の組織化が重要となる。

隅田はアメリカの公民権法の歴史をたどり、紆余曲折にもかかわらず、アメリカ流の反レイシズム実践が持った意味を確認する。

これに対して、日本はICERDが求める反レイシズム法を持たず、拒否をあらわにしている。その理由を、隅田は、岡本雅享に依拠して説明する。第1に、反レイシズム運動の脆弱性であろ。第2に、日本型企業社会である。

なるほど、とも思うが、運動の力量不足と企業社会に理由があるとすると、日本国家のせいではなく、政治の責任が解除されてしまうようにも読める。隅田はそういうつもりではないだろうから、最大の理由は「資本主義国民国家のレイシズム国家としての形態規定性」にあるという前提の上での議論だろう。

資本主義、国民国家、レイシズムの関係については、的場昭弘『19世紀でわかる世界史講義』でも論じられている。

https://www.njg.co.jp/post-37596/

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本書第一部には、これまでに紹介した兼子歩、松本卓也、隅田聡一郎の論文のほかにも、マイクロ・アグレッションに関する金友子、レイシズムの社会心理学に関する高史明、差別の哲学に関する堀田義太郎の論文が収められている。後3者の論考・テーマについては、私の旧稿で言及したことがあるが、いずれも学ぶことの多い研究者である。兼子、松本、隅田の論文は初めて読んだが、やはり勉強になった。

6本の論考を読んでの最初の感想は、よくこれだけ多彩で、有益かつおもしろい論考を集めたものだということだが、続いて、6本の論考がそれぞれ独自に、もっと端的に言えば、無関係に並んでいることには、不思議な思いもした。「共同研究」ではなく、偶然的に『図書新聞』に連載された論考を再整理・編集したのでやむを得ないだろうが。いずれにしても、これだけ多方面からレイシズムに光を当てている点は、驚くべきことだろう。ここから次々と、多彩で素晴らしい研究が始まるのだろう。

Monday, November 14, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(212)レイシズムを考える02

松本卓也「レイシズムの精神分析――ヘイトスピーチを生み出す享楽の論理」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

松本は2つの論点を提示する。

「ひとつは、レイシズムが生み出すメンタルヘルス上の被害とそれに対する心のケアの問題であり、もうひとつは、ヘイトスピーチやヘイトクライムを行うレイシストの心理の問題である。」

前者について、松本は精神状態の悪化やうつ病、PTSD、さらには覚せい剤依存やアルコール依存などを指摘する。海外では研究があるが、日本では「まともな研究がほとんどなされていない」という。松本は、ジャーナリストの中村一成や弁護士の師岡康子を引用する。メンタルヘルスの研究がないためだ。この点について、松本らは調査中であり、その結果は今後公開されると予告する。

私の『序説』第4章「被害者・被害研究のために」の「第3節 ヘイト・クライムの被害」では、アメリカにおけるヘイト・クライム研究における被害論を紹介した。その後、日本でも実態調査が徐々に進んでいるが、まだまだ不十分である。理論研究もこれからだ。松本らの研究が公開されるのを待ちたい。

松本論文は、後者の問題――レイシストの心理に向かう。ただし、個人のパーソナリティ問題に還元することなく、それがなぜレイシズムという形で噴出するのかを明らかにしようとする。

そこで松本は、フロイトとラカンの精神分析におけるレイシズム研究を参照する。その上で、特に享楽の論理に焦点を当てる。

「ラカンがレイシズム論に付け加えた重要な寄与は、レイシズムを享楽の病理として捉える際に、そもそも自らの享楽が本質的に<他者>の享楽によってしか位置づけることができない、という逆説の存在を強調したことである。」

私たちの享楽はあらかじめ失われているのに、「この享楽の不可能性は、『どこか他のところに十全な享楽を得ている人物=<他者>が存在している』という空想を生み出してしまう」という。

「そこから、『私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んだからだ』という結論が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれる」。

ドイツ人がユダヤ人による盗みや裏切りを非難し、日本人が在日朝鮮人の「特権」を非難するように、享楽の盗みを他者に帰責することで、自分の責任を全面解除し、他者への攻撃を容易にする身勝手な理屈だが、これはある意味「魅力的」なアイデアである。だから、この罠から逃れることが難しくなる。

松本は次のように述べる。

「グローバリゼーション下における私たちの享楽の論理は、複数の享楽のモードの共存を許しつつも、単一の享楽のモードを『理想』とし、その他の享楽のモードを排斥してしまう可能性――すなわち、レイシズムの可能性――をつねに内包させているのである」。

ただし、これだけが結論となるべきではないという。松本は最後に次のように付け加える。

「だが、これは精神分析によるレイシズム論の最後の言葉ではない。享楽の多文化共生の不可能性という居心地の悪い結論が、私たちの存在論的条件をなす享楽の論理から生じているとすれば、精神分析は、グローバリゼーション下で顕著にあらわれる自分とは異なる享楽のモードにいかに煩わされずにすますか、自分自身の享楽の(不)可能性といかに付き合っていくかを考える上できわめて重要な実践となることであろう。」

失われた享楽の論理が、ヘイト・スピーチやヘイト・クライムのメカニズムを示してくれることはそれなりに理解できる。植民地主義や国民国家という歴史的構造的な局面とは別に、パーソナリティに即して、レイシズムを分析する際の一つの視点としておもしろい。享楽の論理を超えるための論理を、松本の次の論文に期待したい。