Saturday, June 27, 2020

差別に揺れるアメリカの現在


渡辺靖『白人ナショナリズム』(中公新書)

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/05/102591.html

『文化と外交』『リバタリアニズム』などアメリカ政治と文化に関する新書を何冊も出している著者の最新刊だ。新型コロナと人種問題に揺れるアメリカの現在を知るために格好の本である。

登場するワードは、反移民、反LGBTQ、反イスラム、クリスチャン・アイデンティティ、ヘイト音楽、男性至上主義、新南部連合、ネオナチ、レイシスト・スキンヘッド、過激伝統カトリシズム、KKK、等々。

ただ、過激なレイシスト集団を中心にすると言うよりも、ある意味では「穏健」な白人ナショナリストの実像を紹介している。

「まるで学会のような雰囲気」で、討論を行い、日本人を高く評価し、「白人の公民権運動」をめざす。人種現実主義、陰謀論、暗黒啓蒙など、多様な立場と人物が登場する。アメリカだけでなく、欧州の右翼や過激集団との連携も含めてグローバルな現象にも視線を送る。

アメリカはもともと引き裂かれ、分裂していたが、近年ますますその度合いを強めている。民主党と共和党という政治的レベルや、人種主義のレベルの分岐も多様だが、複合的な差別現象をつなぐため、いっそう分裂が深まる。それでも全米に多大の影響を及ぼしているので、帰趨が懸念される。

著者は数々の白人ナショナリストに直接取材し、その実像を伝えようとする。「インフォーマントとの距離の取り方はつねに難しい」と述べつつ、インタヴュー、オンライン情報、論文等を駆使して白人ナショナリズムの全貌を提示しようとする。新書1冊でここまで書いているのは、著者の意図がしっかり実現されていると言って良いだろう。

ヘイト・クライムやヘイト・スピーチと関連する部分は知っていたが、それ以外の部分は初めて知ることが多く、参考になる。

Friday, June 19, 2020

誰も知らなかったプルードン


的場昭弘『未来のプルードン――資本主義もマルクス主義も超えて』(亜紀書房)

https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=954&st=4

【目次】

序論  ライバル、そして乗り越えるべき反面教師

第一章 プルードンはいつも再起する——彼がつねに呼び出される理由

第二章 プルードンとは何者か——独創的かつ実践的な思想家

第三章 フランス革命の欠陥——「所有」をめぐるプルードンの画期的論考

第四章 マルクス作品への影響——『経済・哲学草稿』などをめぐって

第五章 大事なのは革命ではなく経済である——実践的社会改革派の思想

第六章 マルクスをプルードンで再生させる道——アソシアシオンとコミューン、相互主義と連邦主義

補論  可能性としてのアソシアシオン



そうか、プルードンか。というか、やられた、プルードンに、という感じだ。

マルクスの読者なら、知らない者のないプルードンだ。

つねに批判対象のプルードン。誰もが乗り越えたプルードン。過去の遺物のプルードン。木っ端みじんのプルードン。だが、ほとんど読まれないプルードン。

マルクス学の第一人者・的場は、『新訳 哲学の貧困』(作品社)を出したばかりだが、そこでは、マルクスによるプルードン批判と、プルードンによるマルクス批判の両方を翻訳し、丁寧に分析している。

マルクスはプルードンの「所有」の概念に衝撃を受け、哲学研究から経済学研究に転じ、経済学批判を生涯の課題とした。

プルードンはさらに変化を遂げ、「所有」批判から、アソシアシオンという画期的な考え方に到達する。

マルクスのキーワード、科学的社会主義、経済学と弁証法、私的所有批判、権威主義的国家、共産主義、その陥穽、アソシアシオン、自由な個人は、いずれもプルードンによって提出されていた。

両社の未来社会論は似ている。似ているが、もちろん異なる。それはどのように似ているのか、どのように異なるのか。

資本主義システムの限界が露呈しつつある今、社会と市民に不平等を招く「垂直的権力構造」の解体を掲げたプルードン主義を再評価することが肝心だ。

的場が投げかける問いは、ポスト資本主義への新しい処方箋だ。

Friday, June 05, 2020

星野智幸を読む(8)人生の折り返しで再スタートするために


星野智幸『虹とクロエの物語』(河出書房新社、2006年)



朝日新聞66日朝刊に、星野が「コロナ禍読書日記」を書いている。「私はゾンビ映画を好きなのだけど、ゾンビ映画の世界の原則は、『怖いのはゾンビより人間』である」と書き出す。ゾンビの襲来にもかかわらず、人間は「醜悪ないがみあい」を始めるからだ。なるほど、と思う。

『虹とクロエの物語』には、ゾンビではないが、「吸血鬼」のユウジが登場する。4人の「人物」視点での語りで物語が進行するが、表題の「虹とクロエ」の虹子と黒衣は、高校時代にサッカーボールをけりあった親友だった。この2人が流れ着いた「無人島」に隠れていた「吸血鬼」のユウジ。そしてユウジとクロエの間に生まれるはずが、生まれてこないまま「妊娠二十年の胎児」の「わたし」。この4人の視点で、過去を振り返り、出遭いとすれ違いと別れが物語を作る。

虹とクロエは高校を卒業して、別の大学、別の道を進み、ユウジとの交錯を経て、遠く離れていく。40歳を迎えて、高校の同窓会で出会い直しを試みるが、すれ違いを確認することになる。胎児のわたしには、20年の歳月があるわけではなく、永い眠りの後の目覚めとともに、一気に「妊娠二十年の胎児」として自我に目覚める。この3人には20年の歳月はいちおう流れたが、歴史ではなく、現在が語られると言って良い。他方、ユウジは「吸血鬼一族」の歴史を背負っているが、その血を絶やすために人間世界から逃れ、島に引きこもることによって歴史を喪失していく。失われた歴史は戻らないが、虹とクロエが「過去を背負ったまま、現在から再スタートする」ことはできる。そうして「わたし」にも過去が紡ぎあげられることになる。

この不思議な物語で、星野が何を言おうとしたのか。私はいまも掴みかねている。1965年生まれの星野の世代は、高度成長からバブルの時代に青春を謳歌できたが、1990年代の「失われた10年」、それに引き続く「失われた20年」に直面して、2005年に40歳を迎えようとしていた。社会の中軸として活躍する年代になって、いまなお大人になれない自分たちを発見することを余儀なくされたということだろうか。それでも、人はそれぞれの人生を生きなければならない。切り拓いていかなければならない。「青春小説」ではなく、「青春回想小説」でもなく、「青春やり直し小説」でもなく。