Sunday, October 30, 2022

女性、平和、安全保障04

国連事務総局報告書『女性、平和、安全保障』の紹介。

Ⅲ 女性、平和、安全保障にかかわる前進、溝、難関の現状

D 軍縮と軍備管理

 過去30年間で、核兵器使用のリスクが高まっており、核不拡散条約の協定ができずにいる。サイバースペースも暴力拡散に寄与しており、生物化学兵器使用の危機も続く。

 武器輸出条約は締約国に武器輸出がジェンダー暴力に用いられることのないよう評価することを義務付けている。しかし、そのための基準は確立されていない。行動計画に関する最新の報告によると、62%の国家が政策形成や履行にジェンダー配慮を入れているが、2021年、新しい行動計画を策定したのは、フランス、ドイツ、メキシコ、カザフスタン、ウガンダのみである。

 多国間の軍縮フォーラムにおいて発言した4か国の代表のうち女性は1名であった。軍縮や武器輸出統制の分野での女性の活動は限られている。

E 政治参加と代表

 20223月のリビア独立真実調査チームによると、女性政治家・活動家に対する暗殺、誘拐、攻撃がはびこっている。リビア女性問題大臣が脅迫を受け、ヘイト・スピーチが広まっている。

 世界の女性議員は26%で、紛争中の国では21%である。国家レベルよりも地方レベルの方が比率が高く、地方レベルは34%である。だが紛争中の国では22%である。20227月、女性が政府の元首になっているのは27か国である。

 ジェンダー・クオータなどの一時的特別措置は、女性候補の増加・維持に大きな役割を果たす。ジェンダー・クオータ制を法定した国では24%である。地方レベルでは27%である。イラクでは、2021年選挙に際して、選挙運動におけるヘイト・スピーチ、サイバー攻撃の犯罪化など、国連が支援して女性候補に対する暴力に対処した。

F 経済復興と資源へのアクセス

 経済復興への女性の統合は、平和追及の基本要素である。政府、国債的財政機構、私的セクターが、職場におけるジェンダーギャップ、女性に対する差別と暴力が国内経済(GDP)に悪影響を与えることを評定すべきである。2022年、2535歳について極貧状態なのは男性100に対して女性124である。

 アフガニスタンでは、ターリバーン政権獲得後、女性の雇用が減り、GDP5%減となった。イエメンでは、職場と教育におけるジェンダーギャップの縮減が経済発展に多大の影響を与えている。ハイチでは、新型コロナで仕事を失った女性は24%、男性は15%である。

G 法の支配と女性の司法へのアクセス

 コロンビアのジャーナリストのジネス・ベドーヤの誘拐と性的虐待事件の後、米州人権裁判所がきねんすべき決定で、2000年、コロンビア政府には彼女の誘拐、強姦、拷問について責任があるとした。裁判所はコロンビアに、捜査、訴追、処罰によって、すべての女性ジャーナリストを保護するよう命じた。

 国内レベルでは、2021年、紛争中の国の70%がパリ原則に合致した国内人権機関を見直している。その3分の1弱が女性主導である。国際レベルでは、ジェンダー暴力について国連人権理事会による調査が始まった。

 ドイツの裁判所は、アリア情報機関高官だったアンワル・Rについて、拷問、強姦、性暴力など人道に対する罪について有罪として終身刑を言い渡した。別のドイツの裁判所は、ダエシュのメンバーにジェノサイドの罪で有罪を言い渡した。ヤジディの5歳の少女の奴隷化事件に関係する。グアテマラでは、先住民族マヤ・アチの女性に対する奴隷化、強姦、性暴力について5人の準軍事部隊メンバーに有罪を言い渡した。南スーダンでは、国連の支援を得て、性暴力事件に関する特別法廷が開かれた。

 法執行の局面でも女性が重要な役割を担っている。202111月、ヒラリー・チャールズワースが国際司法裁判所判事に選出され、76年間で110人の判事のうち5番目の女性となった。グアテマラでは、セプル・サルコ事件裁判で先住民女性たちがリーダーシップを発揮した。ガンビアでは、真実和解委員会におけるトーファ・ジャロウの証言が、前大統領による性暴力についての証言であったが、女性に対する暴力に対処する運動を強化した。

H テロリズムと暴力的過激主義の予防と対抗

 女性嫌悪とテロリズムには密接な連関があるのに見過ごされてきた。ほとんどのテロリストのイデオロギーや政治的アイデンティティにおいて女性嫌悪が中核にあり、その宣伝、採用する戦術、被害者の選択に影響してきた。モザンビークのカーボ・デルガドでは、2018年以来、600人以上の女性が武装勢力に誘拐された。一部は金銭支払いによって解放されたが、奴隷にされたままの女性が多数である。マリで勢力を拡大している武装勢力は、女性抑圧的なルールを定め、女性を脅迫している。イエメンでは、活動家女性に対する迫害に加えて、逮捕、換金、強姦が行われている。

 反テロ政策や立法がなされるようになってきた。2019年以来、反テロにおける人権擁護特別報告者は、20か国で119人の女性にインタヴューした。200118年、140か国が反テロ法を制定した。だが、人権活動家が反テロ法によって規制されている。イスラエルは、パレスチナ女性委員会連盟のような人権団体を、2016年の反テロ法に言うテロ団体に指定した。202111月、国連の特別報告者たちは、ヴェネズエラに市民団体の登録、管理、財政問題に関して、特に女性団体に悪影響を与えるテロ団体への資金提供について意見を表明した。

I 気候変動とその平和と安全保障への含意

 女性は気候変動、気候危機による悪影響を受けている。国連女性の地位委員会第66会期は、気候変動と環境災害が女性に悪影響を及ぼし、紛争状況や人道危機を招いているとした。

 女性団体やネットアークは機構危機の分析を進めている。太平洋地域のフェミニスト団体は、太平洋気候安全保障ネットワークを設立し、政策形成、評価、危機対応の研究をしている。

 環境活動家に対する暴力が関心を集めてきた。多くの環境活動家は先住民族やマイノリティ集団のメンバーである。ホンデュラスでは、2021年、ベルタ・カセレス殺害事件で多国籍企業の酢力発電会社社長が有罪となった。国連環境計画と国連女性連盟は、コロンビアのチョコにおける地域コミュニティのライフラインであるアトラト河を保護する女性環境活動家に支援を提供している。

なるほどベストセラーの日本左翼史

池上彰・佐藤優『真説日本左翼史』(講談社現代新書)

ベストセラー3部作の第1作で、216月出版だ。図書館で申請して半年ほどかかった。「戦後左派の源流1945-1960」としているが、戦前から安保闘争までの日本左翼史を、対談形式でとてもわかりやすく解説している。見事な「解説」である。

本書の出発点となる問題意識は、いまは左翼が落ち込んでいるが、「『左翼の時代』がまもなく再び到来し、その際には『左派から見た歴史観』が激動の時代を生き抜くための道標の役割を果たす」というところにある。

国内では白井聡や斎藤幸平の登場・活躍があり、『資本論』への関心が高まっている。国際的にも、マルクスの読み直しが盛んになっている。現代資本主義の隆盛の結果、「格差の是正、貧困の解消といった問題」が重要となっているが、これは「左翼が掲げてきた論点そのもの」だ。

こうした意識で、左翼史の総括を試みているが、「クイズ王」や「雑学王」と呼ばれるだけあって、良く知られる左翼史をたどりなおす手つきはさすがに巧みである。常識と化した「俗流左翼史」を踏まえて、というか、そのままたどり直している。そこに、いくつかエピソードを挟み込みながら話を進めているので、面白く読める。政党史としても社会運動史としてみても二番煎じ三番煎じだけだが、読者を飽きさせることなく、時代背景や国際情勢も挟み込みながらの「解説対談」となっている。

もし本当に「『左翼の時代』がまもなく再び到来」したとすれば、その時、本書が「その際には『左派から見た歴史観』が激動の時代を生き抜くための道標の役割を果たす」ことがあるのは悲劇的なことだと考えた方がよいだろう。

政治学者や歴史学者が、本書をきちんと正面から受け止めて、批判的に検証する必要がある。

1例だけ指摘しておこう。

治安維持法時代の共産党など知識人への弾圧を取り上げて、「知識人に敬意を払う『弾圧の様式美』」が語られる。

「当局の側も、向坂逸郎や山川均、宮本顕治のような一つ筋を通す人に対しては面倒くさい野郎だな、とは思いつつもそれなりに敬意を払っているのですね」と言い、「隅から隅まで真っ黒な暗黒時代で、誰も何も言えないというような時代ではなかったし、言論活動だけで殺される、ということは必ずしもなかった。だからそういう意味ではやはり日本の体制はナチスとは違っていたと思います。思想という営為に対する、一定の畏敬の念を官憲の側も持っていたという点では。」と言う。

「隅から隅まで真っ黒な暗黒時代」という極端な表現を持ち出すことで、治安維持法時代の弾圧は「意外と緩い面も共存していた」と繰り返す。こうした認識が共有されることが何を意味するのか、よく考える必要がある。

治安維持法研究、特高警察研究をきちんと見れば、実際には100人を遥かに超える共産党員が拷問によって殺されている。釈放後に死亡した事例、行方不明になったままの事例も含めて、膨大な殺害が猛威を振るった事実が隠蔽される。小林多喜二や鶴彬や槇村浩は例外ではない。大本教の弾圧も知られる。

治安維持法体制は国内だけではない。朝鮮半島における治安維持法弾圧の苛烈さがすべて無視される。俗流左翼史は意図せずして歴史偽造の結果をもたらすだろう。

とはいえ、いま、本書のような形で、歴史の教訓に学ぼうとする著作が出るのは良いことだ。対象とされた人々がもっと発言していくことが望まれる。

Saturday, October 29, 2022

女性、平和、安全保障03

国連事務総局報告書『女性、平和、安全保障』の紹介。

Ⅲ 女性、平和、安全保障にかかわる前進、溝、難関の現状

A 和平過程と政治的移行におけるジェンダー平等と女性の有意義な参加の前進

 「スーダン現代史は平和協定をごみ屑同然にしてきたが、それは女性を排除したからである」と、2021913日、国連安保理事会で、ハラ・アルカリブ「アフリカの角の女性戦略的イニシアティブ地域ディレクター」が述べた。「過去の過ちから学ばなければならない」。200人以上の女性たちが安保理事会に、ほとんど同じような通報をしている。

 国連事務総長が述べたように、和平過程において女性の直接参加を妨げる障壁を克服する具体的な措置が求められる。国連事務総局、現地調整官、顧問、代表者とそのチームの誠実な努力が必要である。女性団体、女性がリードする市民社会団体、紛争分析へのジェンダーの統合、女性平等を確保する特別措置が必要である。

 政治的平和構築問題局が組織したハイレベル戦略会議が継続している。それぞれの文脈に影響を与え、ジェンダーの主流化を強化する措置を確認する機会となっている。例えば、国連スーダン統合移行支援団は2022年のハイレベル戦略会議を利用して、女性の参加と代表の選出をするようになった。

 2021年、ブーゲンヴィル、キプロス、ジュネーヴ会議、リビア、シリアについて、国連が関与した和平過程に女性が代表として参加した。ただ、比率は19%にとどまり、2020年の23%より低下した。

 2021年、国連調停支援職員の43%が女性となった。しかし、ジェンダー平等の促進は、全職員の責任につながり、質的なジェンダー分析を行う能力を要求する。女性団体やフェミニズム運動の透明かつ日常的な関与は、女性の参加を優先する平和のための圧力を強化する。2021年、国連が主導した5つの和平過程は市民社会団体の協力を得て行われ、ジェンダー専門家が協力した。パプアニューギニアでは、ブーゲンヴィル女性連盟会長が国連主導の和平協議に招かれた。

 2021年の平和協定25のうち8(32)が女性と少女に言及している。この20年間の平均を超えている。協定の類型、国連の関与、女性の参加、市民社会の参加、及び紛争期間、すべてがジェンダーへの言及をするか否かにかかわる。2021年、南スーダンのジョングレイにおける平和協定のような地域的協定に詳細なジェンダー規定が盛り込まれた。ジョングレイ協定には3人の女性代表が署名者として関与した。マリでは、202292日、15人の女性が協定監視委員会に選出された。

B ジェンダーに応答したPKO(平和維持と平和作戦)

 国連事務総局がPKOに関して女性、平和、安全保障問題を優先課題としていることは、ジェンダー専門性や、責任メカニズムの前進に影響を及ぼしている。

 中央アフリカ国連多元的統合安定団は、和平委員会委員を2020年の21%から21年の34%に増加させた。マリでは202112月の国民対話において女性が主要な役割を担った結果、20226月、選挙法に関するジェンダー平等法が採択された。南スーダンではコミュニティレベルの和平交渉の参加者の48%が女性であった。

 国連は軍縮過程やコミュニティ暴力縮減計画においてジェンダー対応の支援を続けている。PKOの中にはジェンダー・クオータ制を定めた例もある。マリでは、コミュニティ暴力縮減計画の50%が女性である。コンゴ民主共和国では23%、カンボジアでは74%である。

 女性の完全な、平等な、意味のある参加は義務的であることを要する。占領下パレスチナのガザ地区では、緊急シェルター、学校、医療センターなど30カ所に女性だけの編成チームが設置されている。コンゴ民主共和国のキヴ地区では、地域住民と国連PKOをつなぐコミュニケーションを女性チームが担っている。

 (*報告書の立場は、PKO等の軍事部門に女性が採用されることが良いことであり、前進であるとしている。「女性兵士問題」への特段の言及はない)

C 紛争解決と人道危機における女性と少女の人権とリーダーシップの保護と促進

 紛争に影響を受けている国では、安全保障の劣悪化により女性と少女が被害を被っている。アフガニスタンでは、多くの家族が冬の夜に暖をとるために家財道具を燃やしている。食料を得るために娘を売りに出している。ミャンマでは、軍事クーデタの後、人道支援の必要な人々が100万から1400万になった。衣料品業や病院勤務のように女性が多い業種は特に影響を受ける。多くの少女が学校に行けなくなった。

 コンゴ民主共和国では、2021年、食糧危機に追いやられたのは1560万から2700万に増加した。シリア人の80%が人道支援を必要としている。飲料水不足の危機にあり、農業労働人口が70%のため被害が大きい。妊娠した女性が貧血や栄養失調である。子ども結婚、親密なパートナーによる暴力、自殺が増加している。

 イエメンでは、妊娠した女性は安全に出産施設にアクセスできないため、2時間に1人の割合で死亡している。ハイチでは、ギャングによる暴力事案が増加しており、女性の3分の1が誘拐の危険に会う。レバノンは人口の82%が貧困に陥り、出産コントロール、避妊等のコストが高いため望まざる妊娠や危険な中絶という結果を招く。

 2021年、3300件の紛争関連の性暴力を確認した。紛争関連の性暴力に関する事務総局報告書は49件を取り上げている。公的生活における女性が標的とされるのは、女性を沈黙させ、信用を失わせる戦略である。イラクにおけるイスラム国のシンジャー攻撃の後、8年間、20万人のヤジディ人が収容所に移送され、2800人の女性が抑留されたままである。リビアでは紛争関連の性暴力によりトリポリのシャラ・アルザウィヤ拘禁センターにおける5人のソマリア人少女の例のように、女性が拘禁されている。南スーダンでは、2021年、イェイのヌエル難民収容所が襲撃され、少なくとも19人の女性が性暴力を加えられ殺された。

2022年、国連事務総局報告書によると、紛争関連の性暴力による妊娠や、そのために出生した子どもが苦難に陥っている。差別的法や有害な社会規範のため、紛争によって加速された人身売買の被害にあっている。ウクライナでは、2022224日より前には20カ所の医療サービス・産婦人科がジェンダー暴力被害者に支援をしていたが、2か月後に運営していたのは9カ所に過ぎない。

Thursday, October 27, 2022

女性、平和、安全保障02

国連事務総局報告書『女性、平和、安全保障』の紹介。

Ⅱ 女性、平和、安全保障の10年の目標――人権を保護し、人権を擁護する者の人権を保護する

 世界中で、女性人権活動家を沈黙させ、公的生活への参加を妨害するために標的とされている。過激な政治集団、軍事クーデタ、非憲法的な政府変更が、人権活動家をより危険にさらしている。国連安保理事会は女性人権活動家と団体を保護する措置を取るよう呼びかけてきた。2022年、安保理事会は平和・安全保障過程への女性参加に対する報復に焦点を当てるはじめての公式会合を開いた。

 2021年、国連人権高等弁務官事務所は、紛争8か国における女性人権活動家、ジャーナリスト、労働組合員の殺害29件を確認した。しかし、この数値は大幅に過小評価されたものと考えられる。例えばコロンビアだけで、国連人権高等弁務官事務所は、人権活動家や団体への脅迫や攻撃につき1,116件の申し立てを受理した。その3分の1が女性に対するもので、12人の女性人権活動家が殺され、そのうち7人が先住民族女性である。イエメンでは、紛争当事者が、政治活動する女性や性的マイノリティを迫害している。シリアの活動家によると、家族に偽造写真が送られたのちに自殺した事例がある。スーダンでは、多くの女性が暴力、恣意的逮捕、拘禁されている。アフガニスタンでは、多くの活動家が拘禁され、ハラスメントを受け、殺害・失踪した例もある。202212月、女性の権利を求める抗議行動に参加した4人の女性が逮捕された。数週間連絡がつかなかったが、国連の要請の後に釈放された。ミャンマでは、軍隊が数百人の女性活動家を殺した。女性人権活動家、大学生、LGBTIQの人権活動家、ジャーナリスト、インフルエンサーである。

 女性人権活動家に対する攻撃は報告されない事例が多い。一般に、女性は男性よりも性的・ジェンダー的暴力を受けやすく、言葉による虐待、監視、オンライン暴力を受けやすい。すべての活動家が中傷、中傷キャンペーン、オンライン・ヘイト・スピーチ、ヘイト・スピーチを受けるが、女性人権活動家に対する攻撃は、特にその個人的行動、道徳的行動や性生活を標的とされる。性的・リプロダクティブ・ヘルスの擁護者は極端なスティグマと暴力にさらされる。リプロダクティブ・ヘルス情報・サービスに対する厳しい法律が、リスクを拡大させる。女性人権活動家を攻撃したものは、差別的法律によって励まされる。LGBTIQの権利擁護者はその活動ゆえに標的とされる。障害を持つ女性も特別なリスクにさらされている。

 2018年以来、「女性、平和、安全保障NGO作業部会」の援助を受けて国連安保理事会に情報提供した女性の3分の1以上が報復攻撃にさらされた。国連ジェンダー平等女性エンパワーメント局は20211月から20225月に安保理事会に情報提供した女性の市民社会代表について調査したところ、32人のうち9人が報復を受けたという。ある女性によると、国連通報に協力した同僚が逮捕・拘禁され、2人とも国外に逃げたという。今日も彼女はリスクを恐れて人権活動ができない。ある著名な女性人権活動家は、通報の後、政府からTV映像を見せられ、父親や同僚たちが彼女を誹謗中傷するように仕向けられていたという。

 危機にある女性人権活動家は財政へのアクセスにも制約がある。この溝に対応して、2022年、「女性平和・人道基金」が設立され、すでに女性人権活動家への資金援助を始めた。

 平和作戦の四半期報告によると、女性人権活動家に対する侵害を安保理事会に情報提供することが重要な役割を有している。2021年、14の平和作戦が安保理事会に報告された。コロンビア国連確証団の報告によると、人権活動家の殺害に性的理由が見られた。一定の民族集団やLGBTQIのリーダーが標的とされている。

 国連は女性人権活動家を保護するすべての可能な措置を取らなければならない。脅迫に対処する迅速な措置も含まれる。近年、国連は。公的非難を発し、危機にある女性人権活動家を訪問し、女性人権活動家のネットワーク設立を支援している。リビアでは、国連はソーシャル・メディア企業と協力して、女性人権活動家に対する偽情報やヘイト・スピーチと闘っている。コロンビアでは、少なくとも4,000人の女性リーダーが国連女性連盟の支援を得ている。

 2021年にターリバーンが政権を奪って以後のアフガニスタンからの避難のように、女性人権活動家に対する国際社会の支援戦略は不適切なままである。安全性がないため、多くの女性活動家は空港に行くことを抑制せざるを得ず、家族と一緒でなければ避難できなかった。非難を待っている間に殺害された女性もいる。アフガン女性へのインタヴューによると、平和や民主主義のための支援よりも、軍隊への支援が多い。

 数千人のアフガン女性の避難を支援した国がいくつかある。カナダは、「危機にある女性支援計画」を策定し、難民化した女性活動家の支援を優先した。

 女性人権活動家の支援措置には、避難場所、一時的避難場所、ジェンダーに関連する迫害ゆえに、保護される地位、すみやかな財政支援が必要であり、それぞれの状況に応じて、文脈を考慮して提供されねばならない。

女性、平和、安全保障01

国連事務総局は、2022105日、国連安保理事会に報告書『女性、平和、安全保障』(S/2022/740. 5 October 2022)を提出した。報告書はA431頁である。以下、ごくごく簡潔に紹介する。

目次

Ⅰ 序文

Ⅱ 女性、平和、安全保障の10年の目標――人権を保護し、人権を擁護する者の人権を保護する

Ⅲ 女性、平和、安全保障にかかわる前進、溝、難関の現状

A 和平過程と政治的移行におけるジェンダー平等と女性の有意義な参加の前進

B ジェンダーに応答した平和維持と平和作戦

C 紛争解決と人道危機における女性と少女の人権とリーダーシップの保護と促進

D 軍縮と軍備管理

E 政治参加と代表

F 経済復興と資源へのアクセス

G 法の支配と女性の司法へのアクセス

H テロリズムと暴力的過激主義の予防と対抗

I 気候変動とその平和と安全保障への含意

Ⅳ 女性、平和、安全保障関与を実現する行動

A 国内及び地域レベルでの行動計画と結果の監視

B 国連におけるリーダーシップ、調整、責任

C 女性、平和、安全保障の課題の財政

Ⅴ 安保理事会の活動

Ⅵ 結論と勧告

Ⅰ 序文

 国連安保理事会は20001026日、決議1325(2000)を採択した際に、議長声明において事務総局に報告を要請した。20192020年に女性、平和、安全保障について特別に注意を払うことが確認された。

 2000年以来、規範レベルでは合意がなされているにもかかわらず、現実は逆の方向に向かっている。世界は女性の権利についての獲得成果に対する逆流を経験している。

 女性嫌悪と権威主義が民主政治にとって難関となっている。暴力的過激主義集団や軍事的集団が実力を行使して、ジェンダー平等の成果を取り消し、声を挙げる女性たちを迫害している。

 もっとも極端な事例はアフガニスタンであり、ターリバーンが内閣には男性だけを任命し、女性の中等学校を閉鎖し、女性が屋外で顔を見せることを禁止し、自宅から出かける権利を否定している。少女の大多数が教室から追い出されている。2000万の女性と少女が基本的人権を否定され、女性団体の51%が閉鎖された。

 アフガニスタンは女性の人権の退却や女性に対する暴力の見られる唯一の場所ではない。ほとんどの紛争地で、男性が権力を握り、女性が排除されている。

 多くの諸国で、女性は権威主義的リーダーに抗議する前線に立っている。平等な法と意思決定への参与を獲得した国もある。女性の統合のために具体的行動が続いている。

 女性、平和、安全保障の課題は、単に歴史的な過ちや周縁化への回答ではなく、物事を多用にする機会である。統合と参加の扉を開くことは、紛争予防と平和構築のための巨大な一歩である。

Saturday, October 22, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(209)法と言語

橋内武「ヘイトスピーチの法と言語」『社会言語科学』第202号(2018)

社会言語学を研究し、法と言語について関心を持つようになった橋内は、2016年から17年にかけて、法と言語学会、人間文化学会、韓国言語研究学会などでこのテーマの報告を続け、20179月の社会言語学会(関西大学)で「総集編」として本稿のもとになる講演を行ったという。

1.はじめに

2.法律のことば

3.ヘイトスピーチ解放賞の言語的特徴

4.ヘイトスピーチ解消法―成立の経緯と問題点

5.考察とまとめ

橋内は1966年から社会言語学の研究をはじめ。民族意味論。談話分析や言語教育政策などを研究し、法と言語も研究してきたという。私の知らない分野なので、興味深い。

「2.法律のことば」で、橋内は法律の言葉をテクスト構造・用字・表記・用法・文構造・意味・文体に即して検討すると日常語から酷く乖離していると確認する。法律の名称や、条文の書き方も独特であり、ヘイトスピーチ解消法も独特の焦点化や抽象化を行っている点で特徴的だという。なるほどと思う。

「3.ヘイトスピーチ解消法の言語的特徴」では、法令は冗長で複雑であり、書き換え可能だとし、一例として、谷口真由美の『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』に準拠して、「そんで、こないいけずで、のけもンにすることばや行いをあれへンようにするよう、うちらはこのきまりを創るねン」と提示する。

「4.ヘイトスピーチ解消法―成立の経緯と問題点」では、日本近代の特質としての植民地帝国、在日コリアン小史、「在日特権」というフレームと虚構、社会的事実――在日コリアンに対する民族差別、立法事実を手堅く確認したうえで、立法化の経緯も確認し反人種差別法と表現の自由について検討し、解消法の限界として2つの疑問を提示する。

1つは、「理念法ゆえ、禁止条項も罰則もない努力義務規定である」。

2つは、付帯決議では人種差別撤廃条約に近い考え方なのに、法律に反映していない。

「5.考察とまとめ」では、時代状況はヘイトスピーチの実態を再確認したうえで、「法と言語の交錯」を取り上げる。

1つに「名宛人と動詞句」として、「本法は理念法であるから、禁止規定と罰則がなく、名宛人(主語)による責務、弱い義務または努力義務(動詞句)を謳っている。一つとして『⃝⃝をしなければならない』とする強い義務規定がない」という。

2つに「法と言語の交錯」として「不法な差別的言動の言語学」と呼び、「不当な差別的言動は言語行動+非言語行動+象徴的表現の3要素からなる」という。その内容について「今後語用論・メタファー論・語彙意味論や批判的言語学などの観点からの研究が進むことが期待される」という。

今後の課題としてさらに4点指摘している。

1つは、「行政上は、各地の自治体でヘイト・スピーチ解消に向けた条例がつくられるべきであろう」。

2つは、「人権教育の課題としてヘイトスピーチとその解消法」を取り上げること。

3つは、「人種差別撤廃条約の国内法としての人種差別撤廃基本法を成立させるべきであろう」。

4つは、「言語学の社会貢献としては、『法と言語』に関する研究の推進が期待される」。

本稿の表題から、ヘイト・スピーチの具体例を取り上げて、その内容を分析するのかと思っていたが、そうではなく、ヘイト・スピーチ解消法の構造を分析する法に力点が置かれている。註や文献を見ると、ヘイト・スピーチの悪質性や差別性の分析はこれまでに他の論者によってすでになされているので、橋内としては「法と言語」の分析に注力したようである。納得。

今後の課題は、一般的に「『法と言語』に関する研究の推進が期待される」とされているが、具体的にどのような研究になるのだろうか。

ヘイト・スピーチ解消法の言語的特徴が指摘され、複雑性や限界が指摘されているところを見ると、今後は、具体的な適用事例を分析することによって、法文が必ずしも適切ではないがゆえにその適用にも限界が見られることを示す方向になるのだろうか。

Monday, October 17, 2022

戦争とレイシズムに抗する非暴力

ジュディス・バトラー『非暴力の力』佐藤嘉幸・清水知子訳(青土社、2022年)

http://seidosha.co.jp/book/index.php?id=3707

<暴力を正当化する「自己防衛」、その「自己」の意味を徹底的に問い直し、人間が根本的に、他者や非人間を含む環境と相互依存していることを明らかにする。私たちは個人主義の罠を超えて、どのように連帯することができるのか。常に現代の諸現象を鋭く分析し、精神の最深部に訴えかけ続けてきた著者が示す、戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェスト。>

[目次]

謝辞

序章

第一章 非暴力、哀悼可能性、個人主義批判

第二章 他者の生を保存すること

第三章 非暴力の倫理と政治

第四章 フロイトにおける政治哲学——戦争、破壊、躁病、批判的能力

終章 可傷性、暴力、抵抗を再考する

原註

訳者解説 戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェスト(佐藤嘉幸)

バトラーの著作は随分と翻訳されているが、読んだのはごく一部だ。『ジェンダー・トラブル』(青土社)はかなり前に読んだ。佐藤嘉幸・清水知子が何冊か翻訳しているが、私が読んだのは『アセンブリ』(青土社)だけだ。ただ、私の能力では読みこなすところまでいかない。

本書も苦労したが、何しろテーマが非暴力なので、あれこれ考えながら読んだ。人はなぜ暴力を正当化し、時に信じがたい残虐な暴力をふるってしまうのか。その悪魔性ではなく、むしろ「防衛」に秘密がある。

プーチンのウクライナ戦争の論理がまさにこれだ。NATOの脅威がプーチンを走らせる。西側メディアはそのこと自体を否認し、プロパガンダを並べる。防衛の論理による侵略がなされると、双方に見えるのは自分の側に都合の良い事実だけになり、溝は深まるばかりだ。

同じことはヘイト・クライムにも当てはまる。アメリカのヘイト・クライムの議論で、まさに「防衛的ヘイト・クライム」が語られてきた。黒人の攻撃から白人コミュニティを守るという意識から、白人至上主義者が猛烈に攻撃的なヘイト・クライムに及ぶ。本人は防衛のつもりだから、いくら暴力的になっても、いくら残虐になっても、心が痛まない。益々暴力的になる。

「自己防衛」という場合の「自己」の範囲も問われなければならない。自分自身や家族であったり、地域社会であったり、同じ民族であったり、祖国であったりと、「自己」の範囲は「自己」の都合でくるくる変わる。どんどん拡大する。常に外側に敵を見出す理屈がついてまわる。

バトラーは暴力と非暴力の地平を「哀悼可能性」に設定する。

「私たちは政治的平等という概念に、生の平等な哀悼可能性を組み込まなければならない。というのも、推定上の個人主義から脱却することによってのみ、私たちは攻撃的非暴力の可能性を理解できるからだ。それは、対立の直中に現れるものであり、暴力そのものの力場に根を下ろす非暴力である。つまり、そうした平等は、単に諸個人相互の平等ではなく、個人主義が批判される際に初めて思考可能になる概念なのである。」

暴力も、身体的暴力だけを論じては不十分だ。経済的構造や法的構造も暴力的である。多様な暴力が組み合わさり、現実が見えにくくなる。外部からも見えにくくなるが、それ以上に、自分で見えなくなる。ここに暴力の秘密がある。

社会的諸関係の結節点としての人間像を描きなおすことで、生も政治も暴力も非暴力も輪郭が明確になってゆくだろう。

訳者解説「戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェスト」のおかげで、本書を読みとおすことができる。バトラー研究者ではない、私のような一般読者は本文より先に訳者解説を読む方がよいだろう。

佐藤嘉幸は『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』(人文書院)、『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学へ』(人文書院)、『脱原発の哲学』(田口卓臣との共著、人文書院)、『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(廣瀬純との共著、講談社選書メチエ)などで、哲学することの冒険性と愉しみを教えてくれる研究者だ。

Wednesday, October 12, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(208)保護法益論03

櫻庭総「ヘイトスピーチ規制の保護法益と人間の尊厳」『山口経済学雑誌』第696号(2021)

<目次>

Ⅰ はじめに

Ⅱ ヘイトスピーチ規制論における「人間の尊厳」の諸相

1.        人間の尊厳の諸相

(1)精神的苦痛と尊厳の侵害

(2)ドイツ語圏のヘイトスピーチ規制における人間の尊厳

(3)承認されるべき社会的地位としての尊厳

(4)憲法上の規定

2.        学説の整理

(1)多義的な「人間の尊厳」概念

(2)新たな概念の必要性

Ⅲ ヘイトスピーチ規制の保護法益

1.        精神的苦痛

(1)法益と解することへの批判

(2)検討

2.        ドイツ刑法における人間の尊厳

(1)民衆扇動罪における「人間の尊厳への攻撃」要件と基本法1条との関係

(2)民衆扇動罪の保護法益

(3)検討

3.        承認されるべき社会的地位

(1)社会的地位の承認された環境

(2)人間の尊厳の社会的承認

(3)検討

4.        平穏生活権および平穏生活環境

(1)人間の尊厳の内実:社会的地位の承認状態

(2)個人的法益としての側面:平穏生活権

(3)社会的法益としての側面:平穏生活環境

(4)規制の在り方

Ⅳ おわりに

櫻庭は本格的な研究書『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服――人種差別表現及び「アウシュヴィッツの嘘」の刑事規制』(福村出版、2012年)を皮切りに、ヘイト・スピーチについて数々の論文を発表してきた先駆者である。

ヘイト・スピーチの保護法益が取り上げられることが多いが、櫻庭は「『人間の尊厳』の意味するところは論者によって異なり、複数の内容が一つの概念に詰め込まれている場合もあるように思われる。もしそのような状況にあるのだとすれば、ヘイトスピーチが『人間の尊厳』を侵害する点でコンセンサスがあるように見えても、具体的な規制の在り方を議論する共通の土台が形成されているとは言い難い」(131頁)という。

櫻庭は、マリ・マツダ、楠本孝、金尚均、ウォルドロン、近藤敦らの見解を検討して、「人間の尊厳」概念が多義的に用いられているとし、人間の尊厳概念を精緻化することは困難という。それゆえ新たな概念が必要であるという。

マツダやウォルドロンの見解は精神的苦痛に着目するが、宮下萌はこれを法益とみることはできないとし、櫻庭も宮下に賛同し、ドイツ刑法における民衆扇動罪の保護法益を詳しく検討する。ドイツでは公共の平穏が保護法益とされ、人間の尊厳は公共の平穏を限定する機能を持たされているという。

他方で、櫻庭は、ウォルドロンがいう尊厳は、公共財のように社会に存在する「安心」によって確証される「基本的な社会的地位」のことだと見る。人間の尊厳を社会的承認とみる見解として、さらに平川宗信の見解を詳しく検討する。ウォルドロンと平川は、人間の尊厳を社会的評価ではなく、平等に認められる地位ないし状態ととらえている。「両者とも人間の尊厳を、その人を取り巻く環境ないし公共財」(146)としている。

以上の検討を踏まえて、櫻庭は「4.平穏生活権および平穏生活環境」において自説を展開する。従来の学説では、人間の尊厳が「他者と同様に取り扱われる社会的地位が承認されている状態」(148)と理解されているが、法益の性質を個人的法益とみるのが一般的であるところ、宮下萌は個人的法益・社会的法益の二元論で再構成している。櫻庭も二元論を継承する。

個人的法益としての側面:平穏生活権――ヘイトデモ差止に関する横浜地裁川崎支部20166月2日決定は、平穏生活権の侵害を理由にヘイトデモを差し止めた。民法学者の若林三奈は人間の尊厳の実質を平穏生活権とみる。これに対して憲法学者の梶原健祐は「特定人に向けられていないヘイトスピーチの規制を個人的法益を理由にして正当化する」ことに否定的である。両者を受けて、櫻庭は、「特定地域でのヘイトデモによる当該地域住民の平穏生活権侵害は格別、上記見解が例示していたような書籍やインターネット上での特定人に向けられていないヘイトスピーチについて、たとえばそのターゲットとなった集団に属する構成員全員の平穏生活権侵害が認められるかは疑わしいように思われる」(150)という。

社会的法益としての側面:平穏生活環境――櫻庭はドイツ刑法における民衆扇動罪が公共の秩序に対する罪とされていることを参照しつつ、「公共の平穏」だけでは不明確なので、「ヘイトスピーチが向けられた大規模集団に属する不特定多数人の『社会的地位の承認状態』が脅かされていると見るべきではないだろうか。これは、そのような社会的情報状態の集合体としての社会的法益として『平穏生活環境』と呼びうるかもしれない」という(151頁)。

ただ、これを公共危険犯と位置付けると抽象的危険犯として構成されることになり、解釈上の問題が大きい。具体的危険犯として構成することには困難があるという。

櫻庭は、人間の尊厳を個人的法益としての平穏生活権と社会的法益としての平穏生活環境の二元論で説明しつつ、「規制の在り方」について、「その性質に応じた規制手段を検討することが可能となる」(152)という。

「個人的法益である『平穏生活権』に依拠するアプローチは、ヘイトスピーチの向けられた集団に属する個人が民事救済を求める場合に有益であるといえよう。」(152)。ただこのアプローチでは横浜地裁川崎支部事案のようなヘイトデモ差止のような事例にしか有効と言えない。

「これに対して、社会的法益である『平穏生活環境』の着目するアプローチは、個人的法益の側面に着目するアプローチでは規制が困難であると思われる、書籍やインターネット上の表現など、まさに不特定多数への拡散力の強いメディアを通じた形態でのヘイトスピーチを規制対象とすべきことになる。」(153)

ただ、最後に櫻庭は姿勢を翻す。

「したがって、平穏生活環境を保護するためには、刑事罰を想定しない行政規制を活用することが考えられよう。行政規制といっても様々な手法がありうるところであるが、近年は諸外国における人権委員会による和解・調停による解決が注目されている」(153頁)とする。

櫻庭の結論は

個人的法益である平穏生活権――民事救済

社会的法益である平穏生活環境――行政規制

である。つまり、ヘイト・スピーチの刑事規制については留保している。

櫻庭の研究に学ぶべき点は、第1に、ドイツ刑法の民衆扇動罪に関する専門的知見である。ヘイト・スピーチの比較法は、アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ(スイス、オーストリアを含む)についてかなり進んで来た。ドイツ刑法については楠本孝、金尚均、櫻庭によって詳細な研究が進められてきた。

私自身はヘイト・スピーチの比較法には関心がない。ただ、日本では、アメリカ憲法絶対主義が異様な状況になっており、国際社会の法状況が全く無視されているので、やむをえず150か国の状況を紹介してきた。今後も紹介を続けるが、理論状況を詳細に紹介することはできない。何しろ150か国だ。フランスやドイツについての緻密な研究に学ぶ必要がある。

2に、櫻庭は、ヘイトデモのケースと、書籍・インターネットのケースを分けている。特定人に対するヘイト・スピーチと、不特定人に対するヘイト・スピーチの区別も重要である。ヘイト・スピーチの類型論を私は初期から唱えてきたが、法解釈に深化させることはできていない。

3に、法益の二元論である。宮下に続き櫻庭も二元論を採用している。私も二元論を考えてきたので、宮下や櫻庭の試みに学び、私なりの論理を展開していきたい。

櫻庭論文への疑問も指摘しておこう。

1に、結論として刑事規制消極論に帰着するのだろうか。本文を読めば、櫻庭は民事救済と行政規制にたどり着いて終わっている。論文の最後に「民事規制、刑事規制および行政規制それぞれに相応しい法益のとらえ方があることを指摘した」(154頁)となっていて、「刑事規制」が復活している。これはなぜなのだろう。

2に、櫻庭は日本国憲法に基づいた議論を回避している。多様な学説を検討しており、それらの学説には日本国憲法に基づいた議論も含まれているとはいえ、櫻庭自身の議論は日本国憲法と接点を持たない。金尚均が憲法13条と9条に言及していることが引用されるが、櫻庭自身は憲法論に立ち入らない。保護法益を論じるのであれば、何よりもまず憲法的価値秩序が重要であるはずだ。

例えば、憲法前文には、「恐怖と欠乏からの自由としての平和的生存権」が記されている。私は「ヘイト・スピーチという恐怖からの自由としての平和的生存権」と主張してきた。私は憲法12条、13条、14条、21条、29条などを取り上げてきた。

3に、櫻庭は国際人権法にも言及しない。人間の尊厳概念をドイツ法の概念として考察している。人間の尊厳は、近代西欧では、フランス革命やカント以来の歴史を有する。国連憲章、世界人権宣言、数々の人権条約に書き込まれた国際人権法の概念である。ヘイト・スピーチの規制は1965年の人種差別撤廃条約や1966年の国際人権規約によって要請されている。

4に、櫻庭は民主主義について検討しない。私たちは「民主主義とレイシズムは両立しない」「ヘイト・スピーチは民主主義を破壊する」と、民主主義の問題であることを強調してきた。民主主義だけでは、刑法の保護法益の議論になじまないという判断であろうか。

  

Saturday, October 08, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(207)保護法益論02

宮下萌「保護法益から再考するヘイトスピーチ規制法―人間の尊厳を手掛かりに」『Law & PracticeNo.13  (2019)

Ⅰ はじめに

Ⅱ 日本におけるヘイトスピーチを巡るこれまでの状況

1 解消法施行前の日本の状況

1)京都朝鮮学校襲撃事件を中心に

22014 年の人種差別撤廃委員会からの勧告

2 解消法によって状況は改善されたのか人種差別撤廃委員会からの勧告を受けて

Ⅲ 何が侵害されているのか

1 Jeremy Waldron の「人間の尊厳」の概略

2 人間の尊厳とヘイトスピーチ規制の保護法益との関係

 1)個人的法益

 )被害状況

 )ヘイトスピーチに「特有」な個人的法益の侵害

 )名誉毀損及び侮辱罪との違い

 )ヘイトスピーチ規制の個人的法益「承認される権利」の侵害

 2)社会的法益

 )民主主義の破壊の防止

 )ジェノサイド

 )公共の平穏は保護法益と考えるべきか

3 保護法益と関連する問題点

 1)ヘイトスピーチの定義と保護法益との関係

 2)ヘイトスピーチの類型と保護法益との関係

 3)ヘイトスピーチの形態と法益侵害の度合い

Ⅳ 結びに代えて

ヘイト・スピーチ研究にはそれ以前からの歴史があるが、日本におけるヘイト・スピーチ刑事規制を求める具体的な議論と運動が本格的に始まったのは200912月の京都朝鮮学校襲撃事件以後のことだろう。

ヘイト・スピーチとは何か。立法事実はあるか。被害をどのように認定するか。国際社会ではどのように対処しているか。刑法か、独立法か、メディア法か…。刑事規制以外の手法で対処できないか。人種差別禁止法の制定が必要ではないか。ヘイト・クライム法はどうか。被害者救済の重要性。

この10数年で実に多くの論点が取り上げられ、多くの論文が公表されてきた。その一つとして、刑事規制する場合の保護法益をめぐる議論も重要である。

保護法益論は刑法学に特有の議論のため、ヘイト・スピーチの保護法益を論じてきた金尚均、楠本孝、櫻庭総はいずれも刑法学者である。最近、憲法学者の奈須祐治が論考を発表した。そこで引用された論文の一つが、宮下論文である。宮下は弁護士である。

本論文を今回初めて知って、一読した。保護法益論を正面から取り上げて、ていねいに論じた重要論文である。唯一の不満は、宮下弁護士は知り合いなのに、論文発表から3年間、私に秘密にしていたことである(苦笑)。

宮下は、実効的なヘイト・スピーチ対策を講じるために、「何が侵害されているのか」を問う。「そもそも被侵害法益が何であるのかについて、先行研究でも議論の渦中にあり、未だ明らかにされていない」(184)ので、ウォルドロンの『ヘイトスピーチという危害』を手掛かりに、刑法学的な議論である保護法益論を本格的に論じる。

ヘイト・スピーチ刑事規制に消極的なアメリカにおいて、刑事規制積極論を唱えるウォルドロンは異色の存在であり、議論が続いている。ウォルドロンは数々の論点に独自の提言をしているが、保護法益との関連では「人間の尊厳」概念を用いて、「秩序だった社会」と、「安心という公共財」を繋げる議論をしている。すべての市民が、安心して、正義にかなった仕方で扱われることが人間の尊厳の要諦である。宮下は、ウォルドロンの人間の尊厳が「連帯する権利」に関連し、「承認としての尊厳」を意味することに着目する。

宮下は人間の尊厳を出発点に保護法益を論じるが、「『人間の尊厳』概念は、個人的法益及び社会的法益のどちらも包摂される概念と考える。そして、それらの最大公約数として挙げられるものは、具体的には、個人的法益としては同じ社会の構成員から『同等の地位を有した』人間として扱われ、『承認される』権利であると思われる。ヘイトスピーチが切り崩すものは、そのような『同じ人間』として扱われるという『信頼』及びそのような前提条件が実現する環境を享受することにより得られる感覚としての『安心』である。そして、社会的法益としては民主主義の破壊及びジェノサイドの防止であると考えられる」(196頁)という。

個人的法益について、宮下は、マリ・マツダ、リチャード・デルガド、クレイグ・ヘンダーソン、中村一成の議論を基に被害状況を瞥見し、ヘイト・スピーチは、一部の憲法学者が言うような「不快な表現」ではなく、具体的な重大被害を生むことを確認する。ヘイト・スピーチの被害を認識できるか否かは、「無自覚性」にかかわる。自分がその社会の中で被害を受けず、被害を気にすることのない「特権」を享受している研究者が「無自覚的」に被害など大したことがないと考えるのに対して、被害者には特有の重大な被害が起きている。ヘイト・スピーチは「非対称的」な性格を有するからである。そのうえで宮下は「承認される権利」こそが保護法益であると唱える。

社会的法益について、宮下は、民主主義の破壊の防止とジェノサイドの防止を掲げる。思想の自由市場論は、思想の自由な競争を唱えるが、ヘイト・スピーチはマイノリティの市場参加を妨げるので、民主主義を損なう。「思想の自由市場論は、完全に見解中立的であって魅力的であるように見える。しかし、これまで築き上げられた民主主義や平等といった普遍的な価値観に反する価値観…に対しては、完全な見解中立はむしろ許容されるべきものではない。ヘイトスピーチで問題となるのは人種的平等といった議論の余地のないものであり、近代社会では既に解決しているものである。これに対して見解中立を装うのは、却ってレイシズムに加担するというメッセージを発信することになるであろう」(206207頁)という。

さらに、宮下はジェノサイドの防止に言及する。「ヘイトスピーチは民主主義の前提を崩すだけではなく、ジェノサイドにもつながる危険性を有する」(207頁)。「ヘイトスピーチを含むレイシズムが、ジェノサイドや戦争をもたらしたという認識は、国際社会の共通認識である」(207)

最後に宮下は次のように述べる。

「私たちマジョリティは自覚がないまま『特権』を享受していることに気付かなければならない。私たちマジョリティは、同じ社会の構成員から『同等の地位を有した』人間として扱われ、それを否定されることのない安全地帯に生きている。……相続に例えるならば、『特権』を享受しているマジョリティは、+の財産だけではなく、当然負の遺産も引き受けなければならない。差別の実態があるなかで、無自覚に『特権』を享受したまま、同じ社会の構成員として否定され、犠牲になっている人びとがいるということを忘れてはならない。」(217頁)

保護法益論の水準を大いに引き上げる重要論文である。基本的に宮下の議論に賛同したい。議論の立て方や、用いる言葉が随所で異なるのだが、私の思考の枠組みは、宮下と同じと言ってよいだろう。それゆえ、保護法益論をこのように展開してもらえたので、私自身の思考の再整理に役に立つ。

特にヘイト・スピーチの保護法益を、個人的法益一元論でも、社会的法益一元論でもなく、個人的法益・社会的法益二元論で考える点は、宮下説に大いに学びたい。

私自身、人間の尊厳と民主主義を基軸に社会的法益と個人的法益の二元論の可能性を考えてきた。

二元論を採る理由は、第1に、人間の尊厳概念の両義性である。人間の尊厳は、国連憲章前文に由来し、世界人権宣言前文や各種の人権条約において確認された概念であり、基本的人権にかかわる。ただ、「人間」の尊厳であって、「個人」の尊厳ではない。とはいえ、世界人権宣言第1条では「尊厳と権利について平等」という表現があるので、個人にもかかわる。

2の理由は、「ヘイト・スピーチ国連戦略」を見れば明らかなように、ヘイト・スピーチの実行行為の構造が、二元論を不可避とするからだ。

名誉毀損罪と対比すれば、名誉毀損では、実行の主体(加害者)と客体(被害者)が対抗関係をなしている。

しかし、ヘイト・スピーチの構造は異なる。実行の主体は(加害者)は、攻撃の客体(被害者)にヘイトを差し向けるのと同時に、公衆にヘイトを差し向ける。ヘイトメッセージの名宛人は公衆である。主体は公衆に「一緒に差別しよう」と呼び掛けている。公衆は「可能性としての加害者」であり「可能性としての被害者」でもあるだろう。

主観的にも客観的にも、ヘイト・スピーチは二元的な行為で成り立っているので、保護法益も二元論で考える必要がある。

「議論の立て方や、用いる言葉が随所で異なる」と書いたが、人間の尊厳について気になるのは、宮下がウォルドロンの人間の尊厳を手掛かりにしていることだ。なぜウォルドロンなのだろうか。

憲法学者の中には「人間の尊厳はドイツ憲法の概念だ」と決めつけて、否定的に論じる論者もいる。宮下もドイツ基本法を意識しているようでもある。

しかし、人間の尊厳はドイツ憲法の概念ではない。近代社会でずっと用いられてきた概念であることは別論として、法的世界で言えば、国連憲章、世界人権宣言をはじめ国際人権法の基本概念である。人間の尊厳論を採用するのであれば、国際人権法における概念の意義を参照するのが自然である。ウォルドロンに着目して、その特有の理解を前提にすることも一つの方法ではあろうが、奇異な感じがすると言えば言い過ぎだろうか。

「議論の立て方や、用いる言葉が随所で異なる」、もう一つの例として、宮下は差別や平等という言葉を懸命に回避する。宮下論文の前半ではこれらの言葉は丁寧に排除されており、論文後半では、上記に引用したように、民主主義論やジェノサイドの防止論の際に登場するにとどまる。

ヘイト・スピーチは差別行為の一種である。普通の憲法論で言えば、何よりもまず差別の禁止、非差別、法の下の平等として語られる範疇である。日本国憲法第14条は法の下の平等と差別の禁止を明示している。それゆえ、ヘイト・スピーチの保護法益を語るのであれば、何よりもまず憲法的価値として法の下の平等と差別の禁止が語られるのが当然のはずだ。宮下も法の下の平等と差別の禁止を念頭に置いているはずだ。それなのに、保護法益論としては、法の下の平等や差別の禁止を語らず、ウォルドロンの人間の尊厳を手掛かりに承認される権利を語るのはなぜだろうか。

日本刑法においてヘイト・スピーチを禁止するべきと主張するのであれば、保護法益としては、第1に、日本国憲法の価値秩序に従って議論するべきだろう。人間の尊厳が重要であるが、日本国憲法にはこの言葉がないので、人間の尊厳(法の下の平等、差別の禁止、人格権)といった議論をすることになる。

そのうえで、例えば金子匡良が提唱してきた「差別されない権利」を日本国憲法上の議論として展開できるはずだ。私自身は「ヘイト・スピーチを受けない権利」は憲法上の権利だと主張してきたが、これは金子説の「差別されない権利」に属する。

「用いる言葉が随所で異なる」、もう一つの例が「承認される権利」である。宮下はウォルドロンの人間の尊厳をもとに「承認される権利」を引き出す。その実質に私は賛成するが、なぜ端的に「人として認められる権利」に言及しないのだろうか。「人として認められる権利」は世界人権宣言第6条に明示された国際人権法の権利概念である。

1966年の市民的政治的権利に関する国際規約(国際自由権規約)第16条、1969年の米州人権条約第3条、1981年のアフリカ人権憲章(バンジュル憲章、人及び人民の権利に関するアフリカ憲章)第5条第一文、2012年のアセアン人権宣言第3条にも明示されている。

世界人権宣言の註釈書として定評のあるグードムンドル・アルフレドソンとアズビョルン・アイデ編『世界人権宣言――達成すべき共通の基準』(マルティヌス・ニジョフ出版、1999年)によると、世界人権宣言第6条は存在するという基本権にかかわる概念であり、宣言第1条の尊厳の平等原則と結びついている。

世界人権宣言起草者の一人で、ノーベル平和賞を受賞したルネ・カッサンの言葉では「それなしに人間が生きることを強いられてはならない基本権」である。

つまり、法の下の平等、差別の禁止、人間の尊厳、人として認められる権利は、切り離すことのできない権利の束である(前田朗「人として認められる権利――世界人権宣言第六条を読み直す」『明日を拓く』129130号(2021年、東日本部落解放研究所))。

保護法益を論じる際、日本国憲法の言葉を用いることができる場合は当然、憲法の言葉を用いるべきである。他方、日本国憲法に対応する表現がない場合は、国際人権法の基本概念を用いるのが通常であるだろう。

その意味で、私としては、宮下説に学びつつ、二元論をより説得的に展開するために努力しようと思う。

Wednesday, October 05, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(206)保護法益論

奈須祐治「社会的法益を根拠としたヘイトスピーチ規制の可能性――J. ウォルドロンの理論とその批判」西南学院大学法学論集551(2022)

http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2305?show=full

大著『ヘイト・スピーチ法の比較研究』(信山社、2019年)の著者の論文である。

<目次>

はしがき

1 ウォルドロンのヘイトスピーチ規制論

2 ウォルドロンに対する批判

   言語行為としてのヘイトスピーチ

   ヘイトスピーチと害悪の因果関係

   ヘイトスピーチに対する制裁

   ヘイトスピーチ規制による民主的正統性の損傷

(a)  正統性損傷の類型

(b)  正統性損傷の内容と程度

(c)  規制の濫用による問題

(d)  マイノリティの参加阻害による正統性の損傷

3 日本における議論の定位

   ウォルドロン批判の概要

   因果関係及び制裁をめぐる論点

   民主的正統性をめぐる論点

おわりに

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(みすず書房、2015年)は早い段階で翻訳されたので、日本でも議論の対象となってきた。ウォルドロン理論に対するアメリカでの批判と応答については紹介されてこなかったので、奈須は、英語圏におけるヘイト・スピーチの議論状況の一端としてウォルドロン理論をめぐる応酬を紹介し、検討する。

世界中で、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するのに対して、アメリカと日本だけは逆に、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチ規制に反対し、差別表現は自由とされてきた。これに対して英語圏でヘイト・スピーチ規制論を展開したのがウォルドロンであり、これをめぐって議論が続いている。

奈須は「不特定人に向けられたヘイトスピーチの、社会的法益を根拠とした規制の可能性を再検討する必要がある」(1頁)として、ウォルドロン理論を検討する。

言語行為としてのヘイトスピーチについてはバレントやベイカーの議論、因果関係についてはシンプソン、ブラシの議論、制裁についてはベイカーの議論、民主的正統性についてはドゥオーキン、ウェインスタイン、ブラウンの議論を紹介して、奈須は英語圏、特にアメリカにおける論争状況を明らかにする。

なるほど多様な論点があり、それぞれについて有益な議論の応酬がなされていることがわかる。

もっとも、余談をはんさんでおくと、まさにアメリカ的な議論であって、普遍性がないことも顕著である。

それはともかく、民主的正統性の議論には少しほっとした。というのも、日本では、表現の自由と民主主義をめぐって議論のすれ違いがある。私たちは、民主主義とレイシズムは相いれない、ヘイト・スピーチは民主主義を攻撃している、民主主義を守るためにヘイト・スピーチ規制が必要だ、と繰り返し主張してきた。マイノリティを排除することは民主主義に反するからだ。

ところが、多くの憲法学者は、民主主義と表現の自由を根拠にヘイト・スピーチ規制を否定してきた。マイノリティを排除して、マジョリティの民主主義を守る発想である。この議論はすれ違ったまま、深められることがなかった。

奈須は、アメリカの議論を紹介しつつ、ヘイト・スピーチ規制をめぐって民主主義の擁護がいかなる意味を有するのかを解明しようとする。

「結局のところ、ヘイトスピーチを規制する場合にもしない場合にも正統性の損傷が生じうるということ自体は、各論者が承認している。そして、いずれの場合がより大きな損傷を生むかは経験的に得られる証拠に依存するという点、この証拠の提示の負担をどの程度に定めるべきかが問題になるという点も、枠組みとしては共有されている。」(2122頁)。

「見解の相違は、経験的証拠をどのように把握するのか、この証拠の提示の負担をどの程度の重さとみるのかをめぐって生じている。」(22頁)

ここから次の議論が始まるというのが奈須の見解だ。

日本における法益問題について、奈須は、宮下萌の人間の尊厳論(個人的法益+社会的法益)、楠本孝の人間の尊厳論(個人的法益としての人格権的利益)、櫻庭総の人間の尊厳論(平穏生活権+平穏生活環境)、金尚均の民主主義社会+社会参加論を取り上げて、検討する。奈須は、宮下、楠本、櫻庭、金の議論の積極面を認めつつも、なお不十分であると見ている。

「今後日本において、ヘイトスピーチ規制法によって、あるいはその不在によって民主的正統性への損傷が生じていないかを、実証的に研究していく必要がある。また、本稿で論じたように、どの程度の根拠があれば損傷が生じたと言えるのかは、別途考える必要がある。予防原則を唱えるブラウンのように、過度に低い敷居を設けることは適切でないだろう。」(29)

法益論は刑法学に特有の議論であって、憲法論ではあまり見かけないが、奈須は刑事立法について法益論の重要性を承認し、具体的に検討している。この点だけでも、本論文は極めて重要である。

また、民主主義、民主的正統性の論点では、奈須は経験的証拠による検証を唱える。

私は、これには必ずしも賛同しない。民主主義とレイシズムは相いれないというのは、経験的に証拠を示すというレベルの問題ではなく、民主主義の理念そのものの問題だ。マイノリティを排除して、マジョリティが「私たちだけの民主主義」を唱えることを容認するのは、すでに民主主義の否定である。

ヘイト・スピーチの保護法益をどのように設定するべきか。私自身、人間の尊厳と民主主義を基軸にしつつ、社会的法益と個人的法益の二元論の可能性を考えてきた。

二元論を採る理由は、第1に、人間の尊厳概念の両義性である。人間の尊厳は、国連憲章前文に由来し、世界人権宣言前文や各種の人権条約において確認された概念であり、基本的人権にかかわる。ただ、「人間」の尊厳であって、「個人」の尊厳ではない。とはいえ、世界人権宣言第1条では「尊厳と権利について平等」という表現があるので、個人にもかかわる。

2に、「ヘイト・スピーチ国連戦略」を見れば直ちに明らかになるように、ヘイト・スピーチの実行行為の構造が、二元論を不可避とするからだ。

名誉毀損罪と対比すれば、名誉毀損では、実行の主体(加害者)と客体(被害者)が対抗関係をなしている。

しかし、ヘイト・スピーチの構造は異なる。実行の主体は(加害者)は、攻撃の客体(被害者)にヘイトを差し向けるのと同時に、公衆にヘイトを差し向ける。ヘイトメッセージの名宛人は公衆である。主体は公衆に「一緒に差別しよう」と呼び掛けているのだ。

人間の尊厳と民主主義は社会的法益の側面に強く関連するが、同時に個人的法益としての「差別されない権利」(例えば金子匡良の議論)――私自身の言葉では「ヘイト・スピーチを受けない権利」を無視することはできない。それゆえ、私は世界人権宣言第6条の「人として認められる権利」を強調してきた。

この点はさらに深めたい。

奈須の議論で気になったのは次のように述べている部分だ。

「しかし、楠本のいう人格権的利益の内容も極めて抽象度が高いうえ、十分にその内容が具体化されていない。」(25頁)

これは、楠本が、ウォルドロンのいう「安心」は独立の法益とは言えないとし、個人の尊厳が保障されることによる反射的効果とみていることに関連して、「安心」は広範な概念で法益として設定できないとしていることにかかわって、楠本が主張する人格権的利益も極めて抽象度が高く、十分な限定になっていないと指摘する文脈である。

奈須の指摘は当たっているかもしれない。ただ、気になるのは、刑法における保護法益の議論で、抽象度が高いとか、内容が具体化されていないというのは、何を主張し、何を基準にしてのことなのかである。

刑法における法益論には、フォイエルバハ、ビンディング、リスト以来の歴史的議論があり、日本でも内藤謙以来の、具体的法益論の系譜がある。もともと客観主義刑法論のうちの権利侵害説の議論だったが、規範違反説でもこれを採用してはいる。いまでは刑法学一般に採用された議論であって、多くの刑法教科書で法益について論じられているが、そもそも法益は抽象的に設定されている。(とはいえ、規範違反説、特に行為無価値一元論であれば、法益はさして重要ではないとみることも可能だ。)

殺人罪の法益は人の生命である。傷害罪の法益は身体(身体の完全性)である。逮捕監禁罪の法益は自由(人身の自由)である。強制性交罪の法益は性的自由・性的自己決定権である。

社会的法益で言えば、例えば文書偽造罪の法益は文書の社会的信用性とされる。有価証券偽造罪の法益は有価証券に対する公衆の信頼である。公然わいせつ罪の法益は公衆の性的感情である。

楠本はヘイト・スピーチの法益を人間の尊厳としつつ、個人的法益としての人格権的利益とみている。その背景には、日本刑法学の議論として、社会的法益は抽象的に設定されがちなので、できる限り個人的法益に引き寄せて、個人的法益に還元して、これを具体化するという議論の流れがある。つまり、刑法学的に言えば、楠本は法益をできるだけ具体化する努力をしていることになる。

これに対して憲法学者の奈須は「楠本のいう人格権的利益の内容も極めて抽象度が高いうえ、十分にその内容が具体化されていない」と指摘する。

それでは、奈須はどのような基準で、どのように定式化すれば、「極めて抽象度が高い」とはいえないとするのだろうか。どのように表現されていれば「十分にその内容が具体化された」ことになるのだろうか。それが明らかでない。

奈須の立場から見た時、殺人罪の法益を人の生命とするのは、抽象度が高いのか低いのか、具体的と言えるのか言えないのか。

奈須にとって、強制性交罪の法益は性的自由・性的自己決定権であるというのは、抽象度が高いのか具体的なのか。文書偽造罪の法益は文書の社会的信用性というのはどうだろうか。

そのあたりがどうもよくわからない。

このようにみると、奈須の議論は実は法益の議論ではなく、立法事実論なのではないかと思えるがどうだろうか。

遡って、民主主義、民主的正統性の論点で、奈須は経験的証拠による検証を唱えるが、これも法益論ではなく、立法事実論としてであればよく理解できる。