Friday, December 28, 2018

2018年の泣き納め


おくればせながら『ボヘミアン・ラプソディー』を観た。

レマン湖畔のモントレーの湖岸にフレディ・マーキュリーの像が建っている。駅で下車すると、地下通路を通ってメインストリートを横切ると、すぐ目の前が湖岸だ。斜面をゆっくり降りると、いつもミニ・コンサートが開かれているステージ横を抜け、フレディ像の前に出る。モントレーに行くたびに、フレディを思い起こし、クイーンの楽曲を口ずさんできた。

クイーンが颯爽と登場して日本で売れたのは学生時代だった。70年代ブリティッシュロック、特にプログレ・ファンだったので、ピンク・フロイド、キング・クリムゾンのコンサートに行った。キャラバン、ジェネシス、ムーディ・ブルースのアルバムもそろえていた。クイーンもその周囲にいたバンドで、しかもとびきりよく売れていた。もっとも、来日コンサートには行っていない。たぶんベイシティ・ローラーズが大流行していたので、当初、クイーンもその類似バンドの印象があったからだろう。でも、実力派バンドに変貌していった。Killer Queenキラー・クイーンからチャンピオンWe are the Championsまで、どれも懐かしの名曲だ。

映画『ボヘミアン・ラプソディー』、行こうと思いつつ、多忙のためなかなか観ることができなかったが、ようやく吉祥寺オデオンで観ることができた。なんと言っても、全編、クイーンだ。単なる懐かしさを越えて、心にしみいる。そして4人の俳優が見事にクイーンを演じていた。まるで本物のよう、なのは当たり前だが、それにしても素晴らしい。

劇場には、60前後の年配者とおぼしき客が半分を占めていたが、20~30代の若い客も結構目立った。単に懐メロのヒット映画ではなく、フレディの生き様が若者の圧倒的な支持を得ているという。ニュースでも紹介されていた。

と、そんなことを考えるよりも、同時代を生きたファンの一人として、途中から涙の観劇、映画鑑賞だった。次回はモントレーでSomebody to loveを歌うことにしよう。

Thursday, December 27, 2018

日本国憲法のレイシズムを問う


暉峻僚三「憲法理念からのネイション意識の再構築」『平和研究』第50号(日本平和学会、2018年)


暉峻は「憲法の理念とレイシズムの現状」について「現行憲法の内包するレイシズムとの親和性」を語る。

第1に、天皇制である。1946年の「人間宣言」の解読を通じて「天皇制そののもがレイシズムと親和性を持っている」と指摘する。

第2に、「国民」である。国会前で首相退陣を求めるシュプレヒコールが「国民なめるな」であることに注意を喚起し、護憲運動も「国民」以外の存在を排除していないかを問う。

以上の2点に加えて、さらに重要なのは「レイシズムに寛容な社会」である。一例として、石原慎太郎・元都知事が、レイシズムに基づいて差別発言を繰り返したにもかかわらず、毎回の選挙で圧倒的に勝利したことは、有権者がレイシズムに寛容であることを確認する。

暉峻は次のように述べる。

「想像上の血統に繋がりを求めるエスノセントリズムが、しっかりと日本社会に根づいているのに比べると、民主主義社会の主役としての日本の市民意識=ネイションの意識は、レイシズムを放置する現状を鑑みて、根づいているとは到底いえないだろう。」

「個の最大限の尊重をベースとし、人権、民主主義、平和主義という理念を共有する、日本の領域に暮らす人民という『我々意識』が社会に定着すれば、レイシズムに限らず、現在日本社会の平和を脅かしている様々な問題と決別するための土台を築くことにもなる。例えば、ヘイトスピーチなどの憎悪扇動・表現は、個を最大限に尊重するネイション意識とは相容れないし、沖縄の基地問題や原発も、領域に暮らす個々が同じように最大限、個として尊重されてこその『我々』というネイションの意識のもとでは、しわ寄せがいく『彼ら』の問題ではなくなる。」


暉峻の着想は私と全く同じと言ってよい。私も、日本国憲法における領土、国民、主権、それゆえ天皇と国民の関係性の中にレイシズムを確認し、日本国憲法におけるレイシズムを克服する方向で考えるか、レイシズムを助長する方向で考えるかを論じたことがある。

前田朗「日本国憲法とレイシズム」『部落解放』744~746号(2017年)

また、私たち、日本で生まれ生きている多くの人々は無自覚の内に植民地主義者になると論じてきた。日本国憲法の下で戦後民主主義を生きてきた私たちは、残念ながら、植民地主義者になる危険性が極めて高いので、植民地主義者でありたくないならば、懸命に努力する必要がある。

前田朗「私たちはなぜ植民地主義者になったのか」木村朗・前田朗編『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房、2018年)

暉峻が述べることも同じことであり、的確である。

暉峻は「ヘイトスピーチなどの憎悪扇動・表現は、個を最大限に尊重するネイション意識とは相容れない」という。私も同感である。

ところが、憲法学者は全く逆のことを言う。「ヘイト・スピーチを処罰することは、個人の尊重という憲法の基本原則に対する挑戦だ」と言って、ヘイト・スピーチの処罰に猛烈に反対する。

個人主義が何であるのかさえ、憲法学者は理解していない。暉峻論文は非常に重要である。

2018年の笑い納め


今年も最後は社会派コントのザ・ニュースペーパー、銀座博品館劇場だった。


ザ・ニュースペーパー30周年だ。昭和天皇危篤の自粛騒動の中で生まれたのがザ・ニュースペーパーだ。そのときにたまたま見ることができて、やがてファンクラブ会員となったので、30年間、笑い続けてきた。

この30年と、2018年という年を笑い飛ばすため、ぎっちり詰まったネタの山。アベシンゾー、コイズミジュンイチローをはじめ、次々と政治家が登場する。もちろんトランプとキムジョンウンも。

スポーツ・芸能の話題も取り上げつつ、日本の政治と社会を浮き彫りにする。

2018年物故者の総攬では、BGMに西城秀樹の「ブルースカイブルー」。

最後はお約束の「さる高貴なご一家」。いよいよ代替わりである。ご長男様は「遅すぎた」と一言。

ザ・ニュースペーパー、メンバーはこのところ安定していたが、若手が加わってパワーアップ。2019年も楽しみだ。

愚かな国際捕鯨委員会(IWC)脱退


愚の骨頂というしかない。

安倍政権が愚者の集団であることはわかりきっているが、あまりにもひどい。国際協調主義をかなぐり捨てて、国際捕鯨委員会から脱退を決めてしまった。

水島朝穂(早稲田大学教授)は「国際機関への加盟の根拠となる条約の締結について、憲法73条は、事前もしくは事後の国会承認が必要としている。その趣旨からすれば、条約や国際機関からの脱退も国政の重大な変更であり、国会での議論抜きにはあり得ない。だが、安倍政権はIWCからの脱退について、野党や国民にきちんとした説明をしないまま、臨時国会閉会後に決めてしまった。国際機関からの脱退を内閣が勝手に行い、国会にも説明せず、記者会見もすぐに開かない。この『聞く耳を持たない』姿勢は一貫しており、安倍政権の『国会無視』『憲法軽視』の姿勢の到達点ともいえる。」(東京新聞2018年12月27日)と述べる。

安倍政権の姿勢は属国主義の終着点だ。アメリカの言いなり、トランプの命令につき従うことしか考えない安倍首相と外務官僚だからだ。

第1に、国際協調主義の軽視。トランプのアメリカ・ファーストに倣ったつもりの、日本ファーストだ。国際社会における不名誉な地位につくことをなぜこれほど願うのか。

第2に、国会や国民・市民の軽視。これもトランプ流の猿真似だ。トランプと面会できることを自慢するくらいだから、骨身にしみた忠臣だ。

愚かな政策のツケは国民・市民が払うことになる。


国際司法裁判所の捕鯨中止命令に思う(2014年3月31日)


絶対負けるとわかっている裁判を、「勝てる、勝てる」と大騒ぎして、国際弁護士に大金を支払い、無能な御用国際法学者を総動員したあげく、予定通りに負けたのが日本政府だ。恥を知らないし、反省能力もないから、今回も、およそ説得力のない理由しか示せないのに暴走している。

Wednesday, December 26, 2018

対米自立はいかにして可能か


木村三浩『対米自立』(花伝社)



第1章 横田から見えてくる日本の現実

第2章 “属国”日本と“宗主国”アメリカ 

第3章 日米地位協定という不平等条約 

第4章 裁かれていないアメリカの戦争犯罪 

第5章 対米従属の行く末 

第6章 対米自立・「生涯一ナショナリスト」の決意 

対談 孫崎享×木村三浩 対米従属を脱し、自主独立を果たすために


木村三浩(きむら・みつひろ)

1956年東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。統一戦線義勇軍議長、一水会書記長を経て、2000年より一水会代表。月刊『レコンキスタ』発行人。一般社団法人世界愛国者交流協会代表理事。


木村とは2冊の本を一緒に作った。

木村三浩・前田朗『領土とナショナリズム』(三一書房)


木村三浩・前田朗『東アジアに平和の海を』(彩流社)


民族派右翼と非国民派の対話と称して、北方領土、竹島/独島、尖閣諸島などについて議論を戦わせたが、左翼界隈ではあまり評判が良くなかった。なぜ右翼と一緒にやるのか、というわけだ。たぶん、木村も「なぜあんな非国民を相手にするのか」と言われたことだろう。


本書で木村は「対米自立」を主題に据えた。日米安保条約の下、アメリカの「属国「植民地状況」と言われる日本だが、自称右翼の多くが「属国」状態に満悦し、ナショナリズムを見失っている。日本には、アジアを貶め差別しながら、アメリカにこびへつらうことしか考えない異常な右翼ばかりだ。右翼といい、国士といい、保守というが、実はCIAから金をもらって蠢いた連中だ。

これに対して、木村は対米自立を掲げ、アジアとの対話も重視する。出入国管理の実情を見ても、自衛隊の米軍への下属を見ても、アメリカからの武器輸入の経過を見ても、いたるところでアメリカの言いなりで、およそまともな独立国とはいえない実情がある。しかも、政府も政治家も国民もメディアも属国であることに不満を持たず、むしろ当たり前に思っている。この現状をどう変えていくのか、木村はさまざまに考え、行動してきた。それゆえ、小泉政権や安倍政権の対米追随には批判的だ。その思考過程が詳しく書かれている。

ナショナリズムや天皇崇拝など、木村と私とでは立場が異なる面も大きいが、対米自立の必要性や、イラク戦争への視線、あるいはウクライナ問題など、木村の行動と思索には学ばされることが多い。東アジア共同体論との関係でも、木村の発想には類似性もみられる。本書は木村の「本気度宣言」だ。

Tuesday, December 25, 2018

植民地における強制連行を問う


飛田雄一『再論 朝鮮人強制連行』(三一書房、2018年)

https://31shobo.com/2018/10/18011/


神戸学生青年センター館長の飛田はこのところ『現場を歩く現場を綴る』、『心に刻み 石に刻む』『旅行作家な気分』など、矢継ぎ早に出版を続けている。活動家人生と理論研究人生の総決算を考えているのだろう。歩んできた道は異なるが、私も『旅する平和学』のように、旅やフィールドワークでの思索と現場での闘いを念頭において理論活動を続けてきたので、飛田とは共通する点が少なくない(と勝手に思っている)。


本書は4部構成である。

第1部 講演録

第2部 神戸港平和の碑

第3部 論考

第4部 交流集会他

著者の関心は「歴史を刻む──神戸の外国人」「強制連行真相究明運動の展望」の2本に集約されている。「〈神戸港平和の碑〉の建立と朝鮮人・中国人・連合国軍捕虜の強制労働」「〈神戸港平和の碑〉に込められた思い──アジア・太平洋戦争と朝鮮人・中国人・連合国軍捕虜」などでも、朴慶植が始めた強制連行の調査研究を継承して、発展させる共同研究の中心人物の一人としての経験と理論が提示されている。


敗戦後の日本政府と企業の、中国人強制連行と朝鮮人強制連行への対処が異なる。中国と朝鮮の差異は2つある。第1に、占領地の中国と植民地の朝鮮の差異である。第2に、日本敗戦直後に、国家を有していた中国人と、国家を有しなかった朝鮮の差異である。

中国人強制連行については、占領地における違法行為であり、しかも日本敗戦後、当時の中国政府が戦勝国側から日本政府に申し入れができた。それゆえ、日本政府も企業も一定の責任を取らざるを得なかった。

ところが、植民地・朝鮮における強制連行について日本政府も企業も責任逃れを続けている。植民地支配の違法性を認めず、植民地支配下における強制連行の責任も認めようとしない。(しかも後には日韓条約のあいまいな「解決」がなされた)

このことが徴用工問題において改めて問われている。国家の立場の立論にとどまらず、被害者中心アプローチをとり、人権論からの解決を図る必要性が強調される。国連国際法委員会における議論のように「植民地支配犯罪」を明確に掲げるべきであろう。あるいは、ダーバン人種差別反対世界会議以来、植民地支配を人道に対する罪に関連させて検討する議論が参考になる。

Monday, December 24, 2018

「1968年の思想」を読み直す


鈴木道彦『私の1968年』(閏月社、2018年)


11月にスペースたんぽぽで、1968年の思想を再び解読し直すための講演会が開かれた。講演は鵜飼哲。2018年の無残な日本で、1968年を問い返すことは、いかなる意味を有するのか。いかなる不可能性にさえぎられているのか。そのことを鵜飼は繰り返し語った。その中で鵜飼が本書を紹介したので、今回、読むことにした。


1968年に中学生だった鵜飼や私の世代は、運動の現場に立ち会ったとはいえない。ほんの数年の違いで、当事者ではありえなかった。事後に書籍で追体験するしかなかった。70年前後の激動の一端をTVニュースで見ていたが、それは非常に矮小化されたニュースでもあった。そこには思想史的に振り返るべき何物もなかった。運動の現場を知らないことは、思想の表層を追体験することしかできないことでもあった。


それでも、それぞれに理解できること、はある。特に、運動の現場にいた者が本当にその思想的意味を理解・把握していたわけではないこと。このことは、その後数多く出版された著作、回想録、記録集から読み取ることができる。現場は大切だが、現場にいても見えないこと、現場にいるからこそ見落としていることもあるのだろう。現場体験のほんの一断面を絶対化することもあるだろう。


本書のもとになった、鈴木道彦『アンガージュマンの思想』(晶文社、1969年)は、学生時代に図書館で読んだ。たぶん1975~76年だ。鈴木道彦『政治暴力と想像力』(現代評論社、1970年)は記憶にない。大江健三郎、小田実、鶴見俊輔などをよく読んでいた時期に、その流れの中で『アンガージュマンの思想』を読んだのだが、どれだけ理解し得ていたかはわからない。


ただ、一つだけ、何よりも重要なこととして鈴木から学んだことが植民地主義批判であったことは間違いない。その後の私の読書体験、市民運動、人権運動、そして刑事法研究を貫く重要モチーフとなったからだ。他方で、高校の先輩に小説家の李恢成がいたことから、大学時代に李の小説やエッセイをかなり読んでいた。大学生となった年に『北であれ南であれわが祖国』が出版されたので、すぐに読んだ。金大中拉致事件の時には日比谷公園での抗議集会の片隅でチラシを懸命に読んでいた。在日朝鮮人に知友のいない状況で、頭の中だけで在日朝鮮人の人権問題を考えていた時期だ。実際に人権運動に取り組むようになったのは1980年代後半からだ。植民地主義批判を自分の頭で考えるようになったのもそれ以後のことだが、ともあれ鈴木道彦や小田実をはじめとする一連の思索には触れていた。


1929年生れの鈴木は全共闘世代ではなく、大学の教員、知識人の一人として時代に向き合っていた。羽田闘争、ベ平連、金嬉老事件を経験し、パリに渡るや五月革命に遭遇する。東京とパリをつなぐ思想的課題の中心に植民地主義批判があった。ベトナム、アルジェリア、朝鮮をベースに歴史と社会を捉え返すならば、東京という町で日本の若者がいかに生きるべきかも違って見えたことだろう。


鈴木の著作を読んでいなければ、その後の1968年に関する凡百の回想記(実際は1968年否定の思想)を真に受けていたかもしれない。多くの回想記が植民地主義問題を見事に見失っていることは言うまでもない。そうした落第レポートの集大成がベストセラーになってしまうのがこの国だ。だが今回、本書を読むことで、植民地主義批判、人種主義批判の課題に日本の知識人がいかに取り組んでいたかを再認識することができた。


日本の良質な思想家の中にも、植民地主義問題では認識の思索の甘さを露呈する例が少なくない。鶴見俊輔や花崎皋平がその例だ。大日本帝国と現在の日本の近現代史を総合的に把握するためには避けて通れないはずの問題を素通りしてきた知識人も少なくない。50年とは長い歳月であり、短い歳月である。1968年から2018年にかけて、私たちはどれだけの前進をなしえたのか。それとも、どれだけの思想的頽廃に塗れることになってしまったのか。

Wednesday, December 19, 2018

目取真俊の世界(12)歴史・記憶・物語


スーザン・ブーテレイ『目取真俊の世界(オキナワ)――歴史・記憶・物語』(影書房、2011年)


「歴史・記憶・物語」というのは危険な言葉の連なりである。論壇でも文壇でも、この言葉群は表向きは歴史に向き合う姿勢を見せながら、実は歴史を圧殺するために用いられてきた。主要な系譜は2つある。第1は、「国民の歴史」を物語として構築する系譜であり、歴史改竄主義者の語りである。第2は、これよりも一見すると洗練された体裁をとっているが、生きられた歴史の中から記憶や証言を取り上げながら、研究者やマジョリティの欲望の中に回収していく特権的語りである。日本的な自称「フェミニズム」にその典型がみられる。いずれも「記憶の暗殺者」の領分だ。
本書はこうした2つの系譜とは異なる地点で、歴史・記憶・物語に新鮮な光を当てる。著者はニュージーランド国立カンタベリー大学文化原語学部(出版当時)とのことだが、大学院時代以来何度も日本に留学、滞在してきた研究者である。


第一章 目取真俊の世界

第二章 「水滴」論

第三章 「風音」論

第四章 「魂込め」論

結論


本書は目取真の初期の代表作3作品を取り上げて、沖縄戦を中核とする沖縄近現代史を背景とし、沖縄近現代史を読み替え、そして沖縄近現代史を生きる「文学」の闘いを、ともに一緒に「闘う」。はげしい叫び声の中から、かすかな悲鳴の中から、かすんだ涙の向こうから、ひびわれそうな脳漿の彼方から、文学の精髄をつかみ出し、自らの言葉で語りなおす。


「以上、作家目取真俊は、自らの作品に通底するテーマとして、沖縄戦を取り上げながら、沖縄戦をめぐる従来のディスクールに大いなる疑問を提出し、琉球支配から始まり植民地化、戦争、戦後処理、米軍支配、日本への『返還』、そして現在に至るまでの日本と沖縄をめぐる歪んだ政治的・経済的関係性、及びそのような不均等かつ抑圧的関係に甘んぜざるを得ない沖縄人への批判も含め、沖縄の過去と現在を捉え直そうとする試みをしており、その意図が語りの特徴にも現れていることを述べてきた。」

このまとめの一節はだれにでも書けそうな文章かもしれないが、ここに集約される分析はだれにもかけない。著者は、3作品の徹底分析を通じて、この地点にたどり着いた。著者は目取真の3つの「解体手法」を提示する。

第1は、天皇のために命を捧げ、勇猛果敢に戦って死んだという兵士像および類型化した叙述の解体である。

第2は、戦争に巻き込まれ甚大な被害を受けたにもかかわらず、英雄または被害者として描かれる男性を中心とした戦争の集合的な記憶から排除されている民間人――特に老幼婦女子といわれる人々――の個別独自の戦争体験を焦点化することによる解体である。

第3は、常にタブー視され隠蔽されてきた事実、物事を暴露する中から行われる解体である。これは米軍兵のみならず日本兵による強姦や性奴隷といった女性への暴力などを含んでいる。

何のためか。それは次のように指摘される。「これらの戦争神話の解体を通して、集合的記憶から忘却され欠落させられているものを呼び覚まし、とてつもない暴力としての戦争を全体像として浮かび上がらせるという試みが実践されているのである。そして、自らの戦争体験を語ることができない死者および生き残りに<声>が与えられると同時に、読者はその記憶を『読む(聞く)』ことを通じて、沖縄戦の一部を経験し、同時に証言の場に立ち合うことになる。」

ここで著者は、死者の沈黙への応答について語る。それは不可能なことである。不可能なことを可能とする文学の手法が、「非現実的・幻想的要素の取り込み」であり、読者に疑似的体験をさせることであり、「断片的なイメージや言葉の連鎖」である。時には、語らないことによる語り、である。

目取真俊とスーザン・ブーテレイ――2つの魂が、文学が衝突し、スパークし、鮮やかな流星群の散乱を見せる。ここから光の速度で飛び散った痛みや、悲しみや、激情や、思索はどこをどのように飛んで帰ってくるだろうか。


著者は、その後の目取真の代表作をどのように読んでいるのだろうか。知りたいものだ。たぶん、論文は書かれていて、私が読んでいないだけなのだろうが、入手しやすい1冊にまとめてほしいものだ。


Sunday, November 25, 2018

フクシマ原発事故の真相に迫る闘いの書


海渡雄一『東電刑事裁判で明らかになったこと』(彩流社)


<3・11直後から「想定外の事故」と喧伝されたが、事実は正反対であり、大ウソだった。

津波計算から事故当時まで、会社の経営の最高責任者であったり原発の安全対策を担当していた元役員3名(勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄)が被告人となっている刑事裁判が現在おこなわれている。

この状況を、市民にむけ、争点のポイントや現時点までに明らかになっていることをわかりやすくまとめた本書を読み、経緯をウォッチしていこう!>


東京地検は日産のゴーンを逮捕したが、そんな暇があれば、勝俣、武黒、武藤を逮捕すべきだ。ゴーンの行為が犯罪だとしても、逮捕容疑は「形式犯」にすぎない。被害があったとしても財産被害に過ぎない。東電の犯罪は、多くの人々の命を奪い、自殺に追い込み、暮らしを破壊した。どちらが深刻重大な犯罪なのか。

東京地検は、勝俣らを逮捕せず、起訴もせずに、巨悪を見逃した。巨悪のお仲間だからだろう。これに対して、海渡弁護士らが刑事告訴し、不起訴決定に対して検察審査会に持ち込み、ついに起訴強制となり、刑事裁判が続いている。本書は、現在進行中の刑事法廷で明らかになった新証拠を紹介・分析し、「予見・回避可能だった原発事故はなぜ起きたか」を解明している。

原発事故を回避することは容易であった。東電内部でもそのための議論が行われていた。これを覆したのは、ひたすらおカネのためだった。その結果、膨大な土地に人間が住めなくなり、人々の暮らしが奪われた。政府事故調や国会事故調の後、閉ざされようとした真相解明の努力が続けられている。その成果が本書である。

Saturday, November 24, 2018

市民のための実践国際人権法講座 先住民族の権利と日本の責任2


市民のための実践国際人権法講座第13回



先住民族の権利と日本の責任2

琉球民族の権利



日時:2019年1月13日(日)14:00~16:30(会場3:30)

会場:西部コミュニティセンター(武蔵野市境5-6-20)

JR武蔵境駅から徒歩15分(約1キロ)

小田急バス5分(西部コミュニティセンター下車)

参加費:500円

講師:前田朗(東京造形大学教授)



国連先住民族権利宣言に照らして琉球/沖縄の人々の人権状況を考えます。日本政府は先住民族権利宣言に賛成しましたが、琉球人を先住民族と認めていません。

人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会は、琉球人の先住性を認めるよう勧告しています。琉球への米軍基地押し付けに見る「構造的差別」問題を人権論から再検討しましょう。



前田朗:1955年札幌生れ。日本民主法律家協会理事、国際人権活動日本委員会運営委員、救援連絡センター運営委員。著書に『戦争犯罪論』(青木書店)、『軍隊のない国家』(日本評論社)、『非国民がやってきた!』(耕文社)、『人道に対する罪』(青木書店)、『9条を生きる』(青木書店)、『増補新版ヘイト・クライム』(三一書房)、『国民を殺す国家』(耕文社)、『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(耕文社)、『ヘイト・スピーチ法研究序説』(三一書房)、『ヘイト・クライムと植民地主義』(三一書房)。



主催:沖縄と東アジアの平和をつくる会

Twitter : @OkinawaEastasia

Mail : okinawa.eastasia@gmail.com


新段階に突入した東京裁判研究


D・コーエン&戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体』(ちくま新書)



<東京裁判は「勝者の裁き」であり、インド代表パル判事とオランダ代表レーリンク判事の反対意見は、その欺瞞を暴き出すものだとの論が日本の国内論議で長くみられた。だが、パルやレーリンク意見には重大な誤謬と恣意性があり、東京裁判の功績と問題点の歴史的・法理学的理解を大きく歪めている。東京裁判研究者の戸谷と国際法の大家コーエンが、従来見過ごされてきたウェブ裁判長による判決書草稿を読み解き、東京裁判の過程を再検証する。判決から七〇周年を迎えた今、知られざる真相を解明する。>


日本では、「東京裁判史観批判」が膨大に出版され、パルを名判事と持ち上げ、ウェブ裁判長を誹謗中傷してきた。その多くは東京裁判の基礎的理解すら怪しい上、当の判決を読んだかどうか疑われる水準である。日本の戦争犯罪を隠蔽し、消去することだけを目的として、「東京裁判研究」とは言えない、身勝手な議論が幅をきかせてきた。

本書は、東京裁判、BS級裁判、ニュルンベルク裁判に通暁した二人の著者が、さらには旧ユーゴスラヴィア国際法廷、ルワンダ国際法廷、国際刑事裁判所に至る国際刑法の発展も踏まえて、歴史的かつ現在的な課題として、東京裁判研究に新しい一歩を踏み出してみせる。その背景には、英語で出版された大著The Tokyo War Crimes Tribunal: Law, History, and Jurisorudenceがあるという。同書を入手していない。著者のコーエンはカリフォルニア大学バークレーの教授で国際法の大家、戸谷はハワイ大学教授の歴史家で、『東京裁判』『不確かな正義――BD級戦犯裁判の軌跡』の著者。


本書は、東京裁判に関する「神話」のうち、パル、レーリンク、ウェブという3人の判事に対する評価を俎上に載せる。

「日本無罪論」で有名なパルは、日本では素晴らしい国際法の大家として遇されている。しかし、ひとたびパル判決を読めば、およそ刑事法廷の判決と呼ぶに値しない粗野な政治論議が展開されているに過ぎないことは明白であった。本書は、パルが「東京裁判」とは異なる「別の将来の法廷」のための判決としてイデオロギーに満ちた判決を書いた理由を探る。

一方、レーリンク判事も被告人のうち文官について無罪と判断したため日本ではきわめて評価が高い。本書は、レーリンク判決の中身に立ち入り、やはり国際法と刑事法の法理という点では合格点に達していないことを丁寧に論証している。

他方、ウェブ裁判長については、被告人らを有罪とした「多数意見」の主として批判され、特に共同謀議論への批判が集中してきた。しかし、実はウェブは「多数意見」とは異なる法理を有していた。法理としては異なるアプローチをしていたが、結論は多数意見と共通するため、ウェブは自分の判決草案を引き下げた。タイプライターで600頁を越える判決書草稿である。本書はウェブの判決書草稿を取り上げ、内容を詳しく紹介する。そこでは、まさに刑事法廷の判決書として完備した体裁と内容の法律文書を見ることができる。パルやレーリンクと異なり、多数意見とも異なり、ウェブだけが本格的な法理論を適用した見事な刑事判決を起草していたのだ。


若干のコメント。

第1に、本書は東京裁判に関する実証的かつ理論的研究である。英語の大著の一部をもとに、新書として構成したもので、主題を絞り込んでいる。分析もシャープである。

第2に、これまで紹介されてこなかったウェブ判決書草稿をもとに、判決形成過程の具体相を解明しているこれにより、東京裁判の総合的研究に一段階を画したものだ。

第3に、法律家と歴史家の共同研究の成果として、法理論と歴史の双方にわたって精密かつ説得的な議論が展開されている。

第4に、1990年代のユーゴスラヴィア国際法廷、ルワンダ国際法廷、国際刑事裁判所似始める現在の国際刑法の飛躍的発展状況を踏まえて、現在の研究水準から東京裁判を検証するという国際的動向にも大きな前進となる。


著者の一人・戸谷には一度お目にかかったことがある。17年12月2日、一橋の如水会館で開催されたラッセル法廷50周年シンポジウムに、戸谷も私も報告者として参加したからだ。その記録は、『歴史評論』823号(2018年11月号)に掲載されている。


Thursday, November 22, 2018

目取真俊の世界(11)語り得ない暴力の記憶と身体


目取真俊『眼の奥の森』(影書房、2009年/新装版、2017年)


米軍占領下における性暴力事件を素材に、レイプ被害者、その周囲の少年たち、家族、村人たち、及びレイプ犯の米兵らの視点から、事件とその影響を多面的重層的に描いた作品である。『虹の鳥』と双璧をなす「傑作」である。

カギ括弧つきで「傑作」としたのは、沖縄の近現代史を文学作品で描き出すのに、ここまで書かなければならないこと、に留意したいからだ。『虹の鳥』や『眼の奥の森』を書かなければならなかった文学者の思いを、読者がどこまで読み取れるか。本土の読者に果たしてどこまで届いているか。こうした問いを繰り返さなければならないからだ。


聞こえるよ(ちかりんどー)、セイジ。


レイプ被害を受け、村人からも隔離され、産んだ赤ん坊も取り上げられ、錯乱したまま人生を過ごした女性の、半世紀も後の言葉が、戦争と暴力、憎悪と屈辱、時代の闇を、微かに、ほんの微かに、しかし確かに切り裂き、その先に「光」を送り届ける。

米軍の暴力に押しつぶされそうな村で、たった一人、復讐に立ち上がった盛治の闘いは、凄惨と無残の果てに打ち捨てられるが、それでも人々の魂を揺さぶり続ける。

盛治の悲痛の叫びは、小夜子には届いていた。


聞こえるよ(ちかりんどー)、セイジ。


これほど悲しいつぶやきを、限界を突き破った文学者だけが書き記すことができる。だが、それは文学者にとって幸せなことだろうか、不幸なことだろうか。


Saturday, November 17, 2018

朝鮮訪問のジョイント報告会


朝鮮訪問のジョイント報告会のご案内



植民地支配の清算は戦後日本の最も重要な課題であったはずです。しかし未だに朝鮮との国交正常化は実現されず、朝鮮は未知の国のままです。朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)を訪問し現地で見聞きし感じたことを二人の報告者から伺い、参加者といかに朝鮮と向き合うのかについて話し合いたいと願っています。

当日は、朝鮮への粉ミルク支援を続けてきた米津さんから、最新の朝鮮の状況を平壌と元山の育児院(孤児院)や障がい児回復院などの現場訪問をして撮影された40分の映像(『ハンクネット(朝鮮人道支援ネットワーク)第10次訪朝記(2018)』)を観た後に詳しくお話を伺います。



日時:11月24日(土)、18時ー21時30分

場所:品川区立総合区民会館きゅりあん第1講習会室(JR大井町駅徒歩3分)

参加費: 300



報告者

米津篤八:朝日新聞社勤務を経て、朝鮮語翻訳家。ソウル大学大学院国史学科(韓国現代史)修了後、一橋大学大学院社会学研究科(朝鮮近現代史)博士課程在学中。訳書に『夫・金大中とともに』『ファン・ジニ』(朝日新聞出版)、『チャングム』(早川書房)など。人道支援団体「ハンクネット・ジャパン」メンバーとして訪朝経験7回。



崔勝久(チェ・スング):日韓・韓日反核平和連帯事務局長、NPO法人NNAA理事。ICU卒業後、在日大韓基督教会「在日韓国人問題研究(RAIK))初代主事、社会福祉法人青丘社主事を経て国際連帯運動を提唱、反原発・反差別運動に従事。『日本における多文化共生とは何か』(新曜社)『戦後史再考』(平凡社)の共同筆者。9月に初訪朝。



主催:NPO法人NNAANo Nukes Asia Actions)

連絡先:che.kwsk@gmail.com, 090-4067-9352

軍備拡大と改憲・戦争への道を許すな! 「明治150年」徹底批判! 11.30


軍備拡大と改憲・戦争への道を許すな!

「明治150年」徹底批判!

侵略と植民地支配の歴史を直視し、アジアに平和をつくる国際シンポジウム



1130日(金)

衆議院第1議員会館のロビーで午前・午後の開始30分前から入場カードの配布をしま


▼午前:10時(開場940分)

会場:衆議院第1議員会館・B1・大会議室

  ●韓国・中国の侵略被害者の証言を聞く集い



▼午後:14時(開場1330分)

会場:衆議院第1議員会館・B1・大会議室

総合司会:坂本洋子(ジャーナリスト)

◎基調講演①: 内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)

   サンフランシスコ講和体制を考える

    戦争裁判・賠償そして日米安保条約

◎基調講演②: 田中宏(一橋大学名誉教授)

   継続する植民地主義と朝鮮学校差別

●韓国・中国からの発言

●総括発言:林郁(作家)



アジアと日本の連帯実行委員会

☆連絡先  E-mail e43k12y@yahoo.co.jp  

携帯 : 090-3163-3449  



主催:アジアと日本の連帯実行委員会

代表呼びかけ人

鎌田慧(ルポライター)

鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)

田中宏(一橋大学名誉教授)

内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)

高嶋伸欣(琉球大学名誉教授)

鳥越俊太郎(ジャーナリスト)

山田朗(明治大学教授)

高野孟(インサイダー編集長、ザ・ジャーナル主幹)

前田朗(東京造形大学教授)

藤田髙景(村山首相談話の会・理事長)


Friday, November 16, 2018

軍備拡大と改憲・戦争への道を許すな! 「明治150年」徹底批判!


軍備拡大と改憲・戦争への道を許すな!

「明治150年」徹底批判!

侵略と植民地支配の歴史を直視し、アジアに平和をつくる国際シンポジウム



1129日(木)14時(開場1330分)

会場:衆議院第1議員会館・B1・大会議室

1330分から衆議院第1議員会館のロビーで、入場カードの配布を開始します。



総合司会:市来伴子 (杉並区議会議員)

主催者挨拶:藤田髙景 (村山首相談話の会) 

連帯のご挨拶 野党各党、福山真劫・平和フォーラム共同代表

基調講演:  

「明治150年」史観批判―近現代日本の戦争・植民地支配と国民統制―

山田朗(明治大学教授)



※ 韓国・中国の戦争被害者の発言があります



アジアと日本の連帯実行委員会

消防法の関係で会場は300人定員です。定員になりしだい締め切りますので、恐縮で

すが、大至急、下記のメールアドレスまで、出席申し込みをお願いいたします。

☆連絡先  E-mail e43k12y@yahoo.co.jp  

携帯 : 090-3163-3449  



主催:アジアと日本の連帯実行委員会

代表呼びかけ人

鎌田慧(ルポライター)

鎌倉孝夫(埼玉大学名誉教授)

田中宏(一橋大学名誉教授)

内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)

高嶋伸欣(琉球大学名誉教授)

鳥越俊太郎(ジャーナリスト)

山田朗(明治大学教授)

高野孟(インサイダー 編集長、ザ・ジャーナル主幹)

前田朗(東京造形大学教授)

藤田髙景(村山首相談話の会・理事長)

Tuesday, November 06, 2018

元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明


元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明



韓国大法院(最高裁判所)は、本年 10 30 日、元徴用工 4人が新日鉄住金株式会社(以 下「新日鉄住金」という。)を相手に損害賠償を求めた裁判で、元徴用工の請求を容認した差し戻し審に対する新日鉄住金の上告を棄却した。これにより、元徴用工の一人あたり1億ウォン(約1千万円)を支払うよう命じた判決が確定した。

本判決は、元徴用工の損害賠償請求権は、日本政府の朝鮮半島に対する不法な植民地支 配及び侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被 害者の日本企業に対する慰謝料請求権であるとした。その上で、このような請求権は、1965 年に締結された「日本国と大韓民国との間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」(以下「日韓請求権協定」という。)の対象外であるとして、韓国政府の 外交保護権と元徴用工個人の損害賠償請求権のいずれも消滅していないと判示した。

 本判決に対し,安倍首相は、本年 10 30 日の衆議院本会議において、元徴用工の個人 賠償請求権は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決している」とした上で、本判決は「国際法に照らしてあり得ない判断」であり、「毅然として対応していく」と答弁した。

しかし、安倍首相の答弁は、下記のとおり、日韓請求権協定と国際法への正確な理解を欠いたものであるし、「毅然として対応」するだけでは元徴用工問題の真の解決を実現することはできない。

私たちは、次のとおり、元徴用工問題の本質と日韓請求権協定の正確な理解を明らかに し、元徴用工問題の真の解決に向けた道筋を提案するものである。



1 元徴用工問題の本質は人権問題である

  本訴訟の原告である元徴用工は、賃金が支払われずに、感電死する危険があるなかで溶鉱炉にコークスを投入するなどの過酷で危険な労働を強いられていた。提供される食事もわずかで粗末なものであり、外出も許されず、逃亡を企てたとして体罰を加えられるなど極めて劣悪な環境に置かれていた。これは強制労働(ILO第 29 号条約)や奴 制(1926 年奴隷条約参照)に当たるものであり、重大な人権侵害であった。

 本件は、重大な人権侵害を受けた被害者が救済を求めて提訴した事案であり、社会的にも解決が求められている問題である。したがって、この問題の真の解決のためには、被害者が納得し、社会的にも容認される解決内容であることが必要である。被害者や社会が受け入れることができない国家間合意は、いかなるものであれ真の解決とはなり得ない。



2 日韓請求権協定により個人請求権は消滅していない

   元徴用工に過酷で危険な労働を強い、劣悪な環境に置いたのは新日鉄住金(旧日本製鐵)であるから、新日鉄住金には賠償責任が発生する。

また、本件は、1910 年の日韓併合後朝鮮半島を日本の植民地とし、その下で戦時体制 下における労働力確保のため、1942 年に日本政府が制定した「朝鮮人内地移入斡旋要綱」による官斡旋方式による斡旋や、1944 年に日本政府が植民地朝鮮に全面的に発動した「国民徴用令」による徴用が実施される中で起きたものであるから、日本国の損害責任も問題となり得る。

   本件では新日鉄住金のみを相手としていることから、元徴用工個人の新日鉄住金に対 する賠償請求権が、日韓請求権協定 2 1 項の「完全かつ最終的に解決された」という条項により消滅したのかが重要な争点となった。

   この問題について、韓国大法院は、元徴用工の慰謝料請求権は日韓請求権協定の対象に含まれていないとして、その権利に関しては、韓国政府の外交保護権も被害者個人の賠償請求権もいずれも消滅していないと判示した。

   他方、日本の最高裁判所は、日本と中国との間の賠償関係等について、外交保護権は放棄されたが、被害者個人の賠償請求権については、「請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではなく、当該請求権に基づいて訴求する権能を失わせるにとどまる」と判示している(最高裁判所 2007 4 27 日判決)。この理は日韓請求権協定の「完全かつ最終的に解決」という文言についてもあてはまるとするのが最高裁判所及び日本政府の解釈である。(註1

この解釈によれば、実体的な個人の賠償請求権は消滅していないのであるから、新日鉄住金が任意かつ自発的に賠償金を支払うことは法的に可能であり、その際に、日韓請求権協定は法的障害にならない。

   安倍首相は、個人賠償請求権について日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決した」と述べたが、それが被害者個人の賠償請求権も完全に消滅したという意味であれ

ば、日本の最高裁判所の判決への理解を欠いた説明であり誤っている。他方、日本の最高裁判所が示した内容と同じであるならば、被害者個人の賠償請求権は実体的には消滅しておらず、その扱いは解決されていないのであるから、全ての請求権が消滅したかのように「完全かつ最終的に解決」とのみ説明するのは、ミスリーディング(誤導的)である。

   そもそも日本政府は,従来から日韓請求権協定により放棄されたのは外交保護権であ り,個人の賠償請求権は消滅していないとの見解を表明しているが,安倍首相の上記答弁は,日本政府自らの見解とも整合するのか疑問であると言わざるを得ない。(註2



3 被害者個人の救済を重視する国際人権法の進展に沿った判決である

   本件のような重大な人権侵害に起因する被害者個人の損害賠償請求権について、国家 間の合意により被害者の同意なく一方的に消滅させることはできないという考え方を示 した例は国際的に他にもある(例えば、イタリアのチビテッラ村におけるナチス・ドイツの住民虐殺事件に関するイタリア最高裁判所(破棄院)など)。このように、重大な人権侵害に起因する個人の損害賠償請求権を国家が一方的に消滅させることはできないという考え方は、国際的には特異なものではなく、個人の人権侵害に対する効果的な救済を図ろうとしている国際人権法の進展に沿うものといえるのであり(世界人権宣言 8 条参照)、「国際法に照らしてあり得ない判断」であるということもできない。



4 日韓両国が相互に非難しあうのではなく、本判決を機に根本的な解決を行うべきである 

 本件の問題の本質が人権侵害である以上、なによりも被害者個人の人権が救済されなければならない。それはすなわち、本件においては、新日鉄住金が本件判決を受け入れるとともに、自発的に人権侵害の事実と責任を認め、その証として謝罪と賠償を含めて被害者及び社会が受け入れることができるような行動をとることである。

   例えば中国人強制連行事件である花岡事件、西松事件、三菱マテリアル事件など、訴訟を契機に、日本企業が事実と責任を認めて謝罪し、その証として企業が資金を拠出して基金を設立し、被害者全体の救済を図ることで問題を解決した例がある。そこでは、被害者個人への金員の支払いのみならず、受難の碑ないしは慰霊碑を建立し、毎年中国人被害者等を招いて慰霊祭等を催すなどの取り組みを行ってきた。

  新日鉄住金もまた、元徴用工の被害者全体の解決に向けて踏み出すべきである。それは、企業としても国際的信頼を勝ち得て、長期的に企業価値を高めることにもつながる。韓国において訴訟の被告とされている日本企業においても、本判決を機に、真の解決に向けた取り組みを始めるべきであり、経済界全体としてもその取り組みを支援することが期待される。 日本政府は、新日鉄住金をはじめとする企業の任意かつ自発的な解決に向けての取り組みに対して、日韓請求権協定を持ち出してそれを抑制するのではなく、むしろ自らの責任をも自覚したうえで、真の解決に向けた取り組みを支援すべきである。

 私たちは、新日鉄住金及び日韓両政府に対して、改めて本件問題の本質が人権問題であることを確認し、根本的な解決に向けて取り組むよう求めるとともに、解決のために最大限の努力を尽くす私たち自身の決意を表明する。



(註1 )山本晴太「日韓両国政府の日韓請求権協定解釈の変遷」(2014 年)参照。 http://justice.skr.jp/seikyuuken-top.html

(註 2 1991 12 13 日参議院予算委員会,1992 2 26 日衆議院外務委員会,1992 3 9 日衆議院予 算委員会における柳井俊二条約局長答弁,1992 4 7 日参議院内閣委員会における加藤紘一外務大臣答弁等



2018年11月5日  



(呼びかけ人・弁護士)※五十音順(一部にずれがありますがご容赦ください)敬称略

 青 木 有 加     足 立 修 一     岩 月 浩 二   殷   勇 基     内 河 惠 一     大 森 典 子   川 上 詩 朗        昌 浩     在 間 秀 和  張   界 満     山 本 晴 太



(賛同人・弁護士)    
  赤 石 あゆ子     秋 田 智佳子     泉 澤         伊 藤        井 上 明 彦     井 上        井 上 正 信     猪 野        岩 佐 英 夫      内 田 雅 敏     大 江 京 子     大久保 賢 一  金井塚 康 弘     北 澤 貞 男        東 周        星 姫        喜 明     桑 原 育 朗         政 和     小 林 保 夫     小 牧 英 夫     佐 藤 博 文     澤 藤 統一郎     志 田 なや子      清 水 善 朗     下 山        鈴 木 雅 子      高 貝        高 崎        高 橋         高見澤 昭 治     田 中 貴 文     辻 田         野 上 恭 道     端 野                    平 田 かおり     福 山 洋 子     船 尾        星 野           典 男     宮 坂   浩  毛 利 正 道     安 原 邦 博     山 田 延 廣  山 田        米 山 秀 之        尚 昭    渡 辺 和 恵        雅 之        奉 植   原 田 學 植     新 倉           昌 錫       惠 燕     中 谷 雄 二     米 倉      米 倉 洋 子        博 盛     齋 藤   耕   裵   明 玉     長谷川 一 裕     山 内 益 恵   白 川 秀 之     空 野 佳 弘     幸 長 裕 美  奥 村 秀 二        範 夫     武 村 二三夫   宇賀神          角 田 由紀子     矢 﨑 暁 子   藤 井           銘 愛     神 保 大 地   具   良 鈺     丹 羽 雅 雄     向 山   知   谷   次 郎     五十嵐 二 葉     幣 原   廣   仲 松 大 樹     穂 積        田 巻 紘 子   魚 住 昭 三     佐 藤 むつみ     今 橋   直     愛 須 勝 也     新 山 直 行        竜 介    韓   検 治     久 野 由 詠     田 中 健太郎   石 川 元 也     年 森 俊 宏     水 野 幹 男   北 村         森 山 文 昭



(賛同人・学者研究者) 
    上 脇 博 之    浦 田 賢 治    岡 崎 勝 彦        惠 丰    丸 山 重 威       英 樹     右 崎 正 博          

     11 5 日午後 11 時現在,弁護士 109 名,学者 7 名,合計 116 名)

Monday, November 05, 2018

革命ごっこ、サブカル、天皇主義


安彦良和『革命とサブカル――「あの時代」と「いま」をつなぐ議論の旅』(言視舎)


アニメの「機動戦士ガンダム」や、「クルドの星」「虹色のトロツキー」「ヤマトタケル」などの漫画家の安彦良和が、弘前大学全共闘に関係した人々(連合赤軍、安田講堂占拠、演劇集団)等にインタヴューした記録に、安彦自身による時代評論を加えた1冊である。

全共闘世代を世代論として語ることには疑問があるが、時代を揺さぶった大事件続出の世代だけに、当事者たちの記録、回想、手記はなるべく読んできた。本書もその延長で、いちおう読んでおこうという程度の関心で読み始めた。

冒頭で驚いたのは「思えば、我々の世代も寡黙だった。」という一文である。全共闘世代ほど饒舌な世代はない。時代のことも自分たちのことも、当時も後も、ひたすら語ってきたし、時代の中での位置づけも、評価も、他の世代による位置づけを押しのけて、ひたすら自分たちで評価してきたのが全共闘世代だ。にもかかわらず、安彦は「寡黙だ」という。何か特別な意味合いがあるのかと思いながら読み進めると、安彦は、植垣康博、永田洋子をはじめ、全共闘世代の主だった著作をほとんど読んでいないという。自分の無知を棚に上げて、「寡黙」と決めつけて話を始める。まさに、これが全共闘世代だ、と言いたくなる(笑)。

全共闘世代の自己正当化にはいろいろなパターンがあるが、主なものは2つにまとめることができる。

1は、あんなにひどかったが問題意識は優れていたとか、結果は無残だったが青年らしい問いかけだったとか、学問の権威に対する異議申し立てには意味があった、といったたぐいの、論証されていない主観的正当化である。学問の権威に対する異議申し立てという正当化が浅はかなのは、自分たちが権威の側に回ったときの姿勢で見事に露呈しているからである。「彼らの権威」に異議申し立てしただけで、「自分たちが権威になりたかっただけ」と言われても仕方がないのが、大勢だろう。

2は、1968年の世界的激動の中に再定位する方策である。パリやプラハを持ち出して、世界的な革命運動があったのだ、われわれもその一員であったのだ、という、一見すると「客観的な」、しかし、全共闘世代が後付けで言い出したきわめて主観的な正当化である。

重要なのは、これほど自己正当化に汲々とした世代はない、という点だ。何十年たっても,とにかく自己正当化にしか興味がない。

いよいよ古稀を迎えて、安彦も当時を振り返り、友人達に会い、当時の対立者にもインタヴューし、時代を語る。なかなかおもしろい本だが、革命ごっことサブカルと天皇擁護につきあうのも、時間の無駄とも思う。最後には、必死になって杉田水脈の差別発言を擁護している。やはり、全共闘世代と言うべきか。

Saturday, November 03, 2018

平和への権利を語り合うワークショップ


201612月に、国連総会で採択された、平和への権利宣言。平和への権利とは、どのようなものなのか。“人権というモノサシで社会を測るワークショップ”、“自分の平和―彼らの平和の繋がりをマッピングするワークショップ”で、平和への権利を具体的に考え、語りあいましょう。(高校や大学の授業にも導入できるようパッケージ化したワークショップです)



【日時】 119日(金)18時半~

【場所】 新宿男女共同参画センター・ウィズ新宿

【参加費】500

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/file12_01_00001.html

新宿区荒木町16番地

都営新宿線曙橋4番出口・徒歩1分/丸ノ内線四谷三丁目4番出口・徒歩10



【ワーク1】「平和な状態を測る」(45分)

人権というモノサシで社会を測る



【2】ワーク「繋がりマップ」(45×2回)

私―あの人/私たちの平和―彼らの平和

繋がりをマッピングすることで、どこまで”彼らの平和”を”私たちの平和”として考えられるか



ファシリテーター:暉峻僚三(てるおか りょうぞう)川崎市平和館専門調査員音楽制作、テレビ番組ディレクターを経て、英国・オーストリアの大学院(修士課程)修了。その後、国際民間協力会ミャンマー巡回医療現地統括、国際市民ネットワーク コソボ多民族融和促進事業統括。2011年に帰国後、川崎市平和館専門調査員。平和教育プログラムの作成やファシリテーション、平和のためのやりとりの場作りを行う。



主催:平和への権利国際キャンペーン日本実行委員会

          電話 070-2307-1071FAX 03‐3225‐1025

          right.to.peace2015@gmail.com

共催;平和学会 平和教育プロジェクト委員会








Friday, November 02, 2018

人種差別撤廃委員会に関する私の報告


8月に開催された人種差別撤廃委員会に関する私の報告。



「人種差別撤廃委員会の日本審査(一)(二)」『部落解放』763号・765号(2018年)

「日本軍「慰安婦」問題人種差別撤廃委員会報告」『救援』594号(2018年)

「四半世紀、国連人権機関に通い続けて思うこと」『子どもと教科書全国ネット21ニュース』122号(2018年)

「国連人種差別撤廃委員会は日本に何を勧告したか」『国際人権ひろば』142号(2018年)

「朝鮮学校差別撤廃の勧告――人種差別撤廃委員会・日本審査」『マスコミ市民』10月号(2018年)

「国連人種差別撤廃委員会、日本に四度目の勧告」『人権と生活』47号(2018年予定)

「人種差別撤廃委員会の四度目の勧告――ヘイト・スピーチ問題を中心に」『法と民主主義』533号(2018年予定)

Tuesday, October 23, 2018

第12回・市民のための実践国際人権法講座 国連先住民族権利宣言とアイヌ民族


第12回・市民のための実践国際人権法講座

国連先住民族権利宣言とアイヌ民族



10月28日(日)13時30分開場、14時開会、16時40分終了

吉祥寺南町コミュニティセンター

武蔵野市吉祥寺南町3丁目131

0422-43-6372

JR吉祥寺駅から徒歩10分)

参加費(資料代含む):500円



「国連先住民族権利宣言とアイヌ民族」

前田 朗(東京造形大学教授)



国連先住民族権利宣言について2回取り上げます。今回はアイヌ民族、次回は琉球民族の権利を扱います。



主催:東アジアと沖縄の平和をつくる会





Sunday, October 21, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(117) ヘイト団体の公共施設利用問題


奈須祐治「ヘイト・スピーチと『公の施設』――川崎市ガイドラインを素材として」『金沢法学』61巻1号(2018年)


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。


奈須はこれまでアメリカ及びイギリスにおけるヘイト・スピーチ対策に関する多数の論文を執筆してきた。

Ⅰ はじめに

Ⅱ 用語と概念の整理

Ⅲ 川崎市ガイドライン

Ⅳ 学説

Ⅴ 利益衡量のあり方

Ⅵ おわりに

特に注目すべき点を引用しておこう。


冒頭で「とりわけマイノリティ住民の保護のために一定の限られた条件の下で施設利用を拒否することは憲法上可能であると考える。また、川崎市ガイドラインにはいくつかの問題があるものの、十分に合憲と評価できると考える」と、立場を鮮明に打ち出したうえで、本論で詳細に議論している。


公の施設における集会の自由について、憲法学者も弁護士も、泉佐野事件及び上尾事件の最高裁判決を「先例」として引用してきた。ヘイト集会、ヘイト団体による施設利用についても、多くの学説が最高裁判決を先例として扱ってきた。

私はこれを批判してきた。泉佐野事件も上尾事件もヘイト集会とは関係なく、施設利用者(利用申請者)の行為形態も、保護法益も異なるからである。判例の読み方について初歩的知識を有すれば、泉佐野・上尾事件判決は先例ではないとわからないはずがない。しかし、私の見解に賛同する憲法学者はほとんど見られなかった。

この点につき、奈須は次のように述べる。

「これらの判例法理は集会の自由を尊重するものとして評価に値するが、本稿の課題に直接の解答を提示しない。確かに排外主義団体による公の施設利用が敵対的聴衆による秩序紊乱を招く場合にはこれらの法理が妥当するが、ここで主に問題になるのはマイノリティ住民に対する危害の防止である。この点について最高裁は何も語っていないのである。」

実に重要な指摘である。泉佐野・上尾事件最高裁判決はヘイト・スピーチ、ヘイト集会、ヘイトデモに関する先例ではないと明言している。私と同じ読み方である。上記引用以上の言及がないのが惜しまれる。

集会の自由の問題以前に、そもそも地方公共団体が差別に加担してはならず、ヘイト集会が行われる蓋然性が高い場合には、ヘイト集会のための施設利用を拒否しなければならない。もし施設を利用させれば、「地方公共団体がヘイトの共犯になってしまう」というのが私の見解である。この点につき、奈須がどう考えているかは不明である。ともあれ、最高裁判決のまともな読み方を提示してくれたことは大いなる前進である。


奈須は、施設利用を拒否できる場合があるとする川崎市ガイドラインを紹介したうえで、これを批判する否定説として榎透、長谷部恭男の見解、合憲とする肯定説として師岡康子、楠本孝、内野正幸の見解を検討する。毛利透も肯定説だが、やや慎重であり、中村英樹はさらに慎重だという。奈須自身は次のように結論付ける。

「このような否定説の議論に対しては、過度な抽象化、範疇化を行っているという批判ができる。ヘイト・スピーチ規制といっても一様ではなく、標的、害悪、媒体、態様、規制態様等の様々な要素の各々について、どのような選択をするかによって規制の合憲性は変わってくる。規制のありうるバリエーションを考えれば、内容中立性原則等の法理に依拠して一律に制約を違憲とみなすのは適切ではない。」

「一般論としては厳格な条件の下で、ある団体が特に有害で価値の低い言動を行うことを理由に利用を拒否できる。また、地域住民の集会等のために設置された施設では、より高いレベルの礼節が求められることにも留意すべきである。公の施設の利用制限を行う場合、本来法律や条例において明確な規定を置くことが望ましいが、上記のように我が国の法令はこれまで非常に曖昧な規定により集会の自由の制約を認めてきたので、川崎市のようにガイドラインを設けて制約できる場合を明確化することも許されるだろう。」

そのうえで、奈須は川崎市ガイドラインの具体的内容に即して不十分な点をいくつか指摘している。プライバシー侵害を惹起しかねない恐れなど、さらに配慮すべき論点である。閉鎖型施設と開放型施設の差異をどう見るか、マイノリティ集住地域とそれ以外の地域の区別についても論じている。

奈須は、従来の憲法学の立論を踏まえて、集会の自由に即して論じつつ、そこにマイノリティ住民の保護という観点を導入することによって、一定の場合に施設利用を拒否できるという結論を引き出している。基本的に賛同できる。


ただ、私の見解は奈須と異なる点がある。集会の自由を根拠に据えることによって、「施設利用を拒否できる場合があるか」と問うのがこれまでの憲法学であり、奈須もこの点では同じである。

しかし、それ以前に論じておくべきことがあるはずだ。それは、地方自治体が差別やヘイトを行ってよいかという問題である。日本国憲法13条及び14条の趣旨からいって、地方自治体が差別やヘイトを行うことは許されない。従って、施設利用を許可すると差別やヘイトが行われる蓋然性が高い場合、地方自治体は当該集団に施設を利用させてはならない。そうでなければ、地方自治体が「ヘイトの共犯」になってしまう。また、公の施設は税金によって運営されているから、ヘイト団体に利用させることはヘイト団体に資金援助を行ったことと同様である。地方自治体がヘイト団体に資金援助することは、地方自治体が「ヘイトの共犯」になることである。この二重の意味で、地方自治体は公の施設においてヘイト集会が行われないようにする責任を有する。だから、施設利用を拒否しなければならない場合があるのだ。これは「集会の自由以前の問題」である。この点を奈須はどう考えるのだろうか。