Sunday, July 29, 2012

フランツ・ファノン、ふたたび


法の廃墟(5)

フランツ・ファノン、ふたたび



『無罪!』2006年8月号





ファノンとの出会い



 ファノンの名前を知ったのはいつのことだろう。地に呪われたる者を初めて読んだのはいつだっただろう。学生時代であることは間違いないが、それ以上は判然としない。

ポスト全共闘世代のぼくは、全共闘が大学を「解体」して去っていった後に、荒れ果てた神田のキャンパスに足を踏み入れた。学園紛争の余波はまだまだ残っていた。大学一年の時は授業料値上げ反対闘争によって学年末試験が「粉砕」された。四年の時は大学移転反対闘争のためやはり試験中止となった。活動家たちが教授を吊るし上げたり、授業に乗り込んでアジ演説を繰り広げる光景はおなじみであった。生協書籍部にはマルエン全集、レーニン全集、吉本隆明や埴谷雄高が積み上げてあった。もちろんサルトルもずらりと並んでいた。

無所属のまま“ノンセクト・アンチラディカル温泉派”と称して一人で発言していたぼくは、各派の乱戦の邪魔者でしかなかった。対当局交渉、学生集会、自主ゼミ、合コン、そして温泉めぐりと硬軟両派の往復をしていたものの、大学三年以後は法律学のまじめな勉強に専念するようになっていった。

高校時代に衝撃を受けた事件の一つが金大中拉致事件であり、朝鮮半島と日本の歴史と現在に対する関心はこの時に始まった。今日も仲間とともに「在日朝鮮人・人権セミナー」という小さな団体の活動を続けているが、関心の出発点は金大中事件だった。だから学生時代にも差別問題にはずっと関心を持って勉強していた。もっとも、社会的活動にかかわることはあまりなかった。時折、日比谷公園で繰り広げられていた集会の隅に顔を出した程度である。

サルトルを介してその名前を知って、ファノンの『地に呪われたる者』を手にしたのは、大学二年か三年の頃だったように思う。朝鮮人差別について考える参考になると思ったからだ。

みすず書房のフランツ・ファノン著作集は、『革命の社会学』『地に呪われたる者』『アフリカ革命に向けて』(以上は一九六九年)、『黒い皮膚・白い仮面』(一九七〇年)が出版されていたから、その六年ほど後に神田神保町の古本屋で『地に呪われたる者』を買ったことになる。四冊ともそろっていたのに、お金がなかったので一冊だけ買った記憶がある。残りの三冊は後日買うつもりだったが、実際にはそれっきりになってしまった。というのも、『地に呪われたる者』が強烈すぎたためだ。朝鮮人差別について関心を持ち、朝鮮半島と日本の歴史について考えようとしていたものの、現実問題に直面していなかったぼくには、ファノンは劇薬であり、読み通す力がなかったのだ。



今こそファノンを



ファノンを読み返すようになったのは、一九九〇年代に運動の現場で差別問題に取り組むようになってからだ。在日朝鮮人・人権セミナーの活動や、戦後補償問題への取組みの中で、エメ・セゼール、アルベール・メンミとともに、ファノンが座右の書となった。

だから、このたび増補復刊された名著、海老坂武『フランツ・ファノン』(みすず書房、二〇〇六年)の初版(講談社、一九八一年)を、恥ずかしながら当時は素通りしてしまった。初版は一九八一年一二月に出版されている(もっとも、みすず書房版では八一年とも八二年ともある)。ぼくが大学院博士後期課程に進んだ頃である。修士論文は「刑法における『人格権』の視座」という。根本的な問題意識に出発したつもりだったが、極めて稚拙な論文だった。このため後期課程に入って一年目は自分のテーマが見つからず苦労していた。友人の前では偉そうなことを言っていたかもしれないが、自信喪失状態だった。あの時、海老坂武に出会ってファノンを読み返していたら、どうだろうと考えてみるが、読まなくて良かったと思う。

スランプから立ち直ったのは二つの授業がきっかけであった。一つは経済学研究科で開かれていた宮崎犀一先生の資本論ゼミであった。『経済原論の方法』(未来社)の宮崎先生が出講されていると知って、法学研究科刑法専攻のぼくは恐る恐る教室に向かったが、なんとそこには民法や商法専攻の院生が座っていた。われわれ法学研究科院生の発言水準は低かったかもしれないが、宮崎先生には数年間ずっと指導していただいた。特に印象深いのは、『資本論』が提示する客観法則だけではなく、意識論に配慮した宮崎先生の読解方法であった。

もう一つは商学研究科で開かれていた山中隆次先生の『経済学・哲学草稿』ゼミである。当時、広松渉の問題提起をきっかけに『ドイツ・イデオロギー』編纂問題が注目を集めていた。山中先生はこのテーマではラーピンとともに知られた存在であったが、そのゼミに一年だけだが加えていただいて、『経・哲草稿』の実証研究に触れたことは、やはり大きな経験であった。実証研究といっても、刑法学の実証的研究とは大きく異なり、世界史への射程を持った実証研究であった。こうした寄り道を繰り返した挙げくに、ぼくは近代刑法史研究と、差別の法的考察に戻っていくことができた。

いま海老坂の名著を手にし、ファノンの世界にふたたび踏み入ることで、現代世界の新しい相貌が見えてくる。アルジェリアの闘いと悲劇の帰趨を知りつつ、ファノンならどう考えただろうか、ファノンならどう行動しただろうか、と考えることができる。テロと戦争の時代、人種差別と宗教対立が噴出する新植民地主義の時代に、ファノンの思想の射程を再測定することができる。ファノンの読み方は、もちろん多様でありうる。読者それぞれのファノン像を描くことができる。

だが、「九・一一」を経験した今日、『フランツ・ファノン』を改めて送り出す海老坂は、「国家テロリズムと抵抗」について語る。クレオール、ポストコロニアリズム、グローバリゼーション、<帝国>の現在をファノンを通して考えることは、世界システムとしての暴力の前に自らを引きずり出すことである。海老坂はこのことを正面切って訴えている。世界各地で再演されてきた「九・一一」の位相を見定め、アフガニスタンやイラクで繰り返された破壊と殺戮、パレスチナやレバノンで起きている人間性そのものの無視に向き合いながら、それでもなお言葉による抵抗の可能性を追求すること、<全的人間>について考えること――

ハンセン病差別と法律学

法の廃墟(4)



ハンセン病差別と法律学



『無罪!』2006年7月号





差別救済における差別



 二〇〇一年五月一一日の熊本地裁判決は、「らい予防法」に基づくハンセン病患者に対する差別政策を、その形式においても効果においても違法なものとして厳しく批判し、国に被害者への補償を命じた。国は控訴を断念し、被害者に補償を行うこととし、ハンセン病療養所入所者等補償法が制定された。新聞謝罪広告も掲載された。これによりほぼ百年におよぶハンセン病差別政策の転換が始まった。

 ところが、この補償法は、補償の対象についての細目は厚労省告示で定めることにした。「告示」には、日本国内の国立・私立の療養所や、米軍占領下の琉球政府が設置した施設は列挙されたが、それ以外の療養所は無視された。しかし、戦前に日本は韓国と台湾に、国内本土と同様の療養所を作り、同じ強制隔離によって、強制労働や断種を初めとする被害を与えていた。韓国と台湾の二つの施設(韓国小鹿島更生園、台湾楽生院)の被収容者(入所者)は、補償法による補償をするようにと日本政府に要請した。

ところが日本政府は、「小鹿島や楽生院は補償法の言う国立療養所には当たらない」として彼らの補償請求を棄却した。

二〇〇五年一〇月二五日、東京地裁は、韓国訴訟および台湾訴訟について二つの対照的な判断を下した。小鹿島については棄却処分を取り消さない、楽生院については棄却処分を取り消すというものである。つまり、韓国については補償をしない、台湾については補償をする、ということになった。

東京地裁の二つの判決は、植民地責任、戦後責任、ハンセン病差別責任などの輻輳した問題群についての姿勢の差であった。差別政策の被害者に対する救済措置にもかかわらず、新たな差別を持ち込んで被害者を分断・対立させるのは、これまでも良く見られた日本政府らしい措置であり、東京地裁らしい判断でもあった。しかし、この落差の大きさはさすがに世論の反発を招いた。その後、日本政府は韓国についても被害者救済する方向に向かっている。ただ、当時の入所者記録がきちんと保存されていないなど、なお救済が進んでいない。

翻ってみると、実は熊本地裁判決にも限界はあった。すなわち、沖縄の原告については、一九七二年の本土復帰を基準として、それ以前の被害を賠償の対象からはずしていたのである。復帰前は旧日本法(一九三一年)が適用されていたが、琉球政府は別に「ハンセン氏病予防法」を制定しており、そこには退所または退院の制度が盛り込まれていた、沖縄のハンセン病政策は本土とは異なる経過をたどってきた、という。



「共通の被害」とは



熊本地裁判決の限界に着目した森川恭剛『ハンセン病差別被害の法的研究』(法律文化社、二〇〇五年)は、沖縄におけるハンセン病隔離政策を追跡する。著者は琉球大学大学院助教授である。

森川は、まず日本のハンセン病隔離政策の違法性に関する総論として、「日本のハンセン病隔離政策とらい予防法を考察の対象として、『共通の被害』を法的に解明する」(第一章)。ここではハンセン病差別・隔離政策、個別の人権侵害にとどまらず、「社会的烙印」として集団的な差別政策となり、「組織的加害システム」が整備され「患者排除のシステム」として機能したことが取り上げられる。「強制収用による人権侵害」「療養所内の人権侵害」、そして「社会内で平穏に生活する権利の侵害」という三つの柱で被害実態を解明し、法的側面に光を当てる。それは<人生被害>という言葉に凝縮された被害である。熊本地裁判決もこうした分析視角に立っていた。ところが、熊本地裁判決は沖縄を切り捨てた。

森川は次に、「戦前の旧沖縄県における隔離政策の展開過程をたどりながら、熊本訴訟で被告が『共通の被害』を否定または曖昧にするために拠り所とした『救癲』の観点について検討を行う。一九三八年に国頭愛楽園が『沖縄救癲の殿堂』として設置された経緯を調べることで、絶対隔離政策と救癲運動との結びつき方を示すことができるからである」(第二章)。一九三五年を起点とする「無癲県沖縄への救癲運動の時代」の検証を踏まえると、「救癲運動を手がかりにして戦前沖縄に絶対隔離政策を確認することは事実に適っているように思われる。むしろこの説明が月並みであるために、一九三五年に救癲運動が起こり急成長を遂げて三年後には大規模な療養所を建てたことを輝かせてきたのかもしれない。しかし、絶対隔離政策が救癲運動を通してこそ展開しえたのであれば、『救癲』のイデオロギーにおいて肯定的に隔離政策史を振り返ることは反省されねばならない」。

「救癲」の「善意」を疑わないとしても、深刻な<人生被害>の現実に向き合うならば、「善意」による加害の歴史をこそ再検証することが必要だ。

そして、森川は「琉球政府のハンセン病隔離政策」に切り込む。「戦後本土復帰前の沖縄におけるハンセン病隔離政策を振り返り、戦前の絶対隔離政策の戦後沖縄における承継と発展、つまり沖縄における『共通の被害』の歴史的集積の事実を明らかにする」(第三章)。結論として、「琉球政府には絶対隔離政策を変換する少なくとも三回の機会があった」という。一度目は、一九五〇年代半ばのダウル報告。二度目は、一九六〇年頃、第七回国際らい会議でインテグレーションが確認されたとき。三度目は、一九六〇年代後半、外来診療所を各地に点在させることが容易であったこと。

結語はこうである。「戦後本土復帰前の沖縄に差別被害が示された。それは匡正的な意味における平等の法的価値の侵害の現実であり、らい予防法はこの平等原則違反の現実を沖縄と本土において一九九六年まで維持し続けた。らい予防法が見えないあつい壁を作り被害認識を困難にしてきたといえる。しかし、療養所入所者の平均年齢が七〇歳をこえてついに退所がほとんど不可能になるとその法律が廃止され、私たちはハンセン病差別被害の歴史と現実に直面する機会を与えられた。法律学はこれを無にしてはならないし、この歴史と現実からその依拠すべき価値を一つ一つ導き出さねばならない」。

医学の名による差別政策を法律学が一体となって推進した歴史への反省である。ここに森川人間法学の確立を見ることができる。

朝鮮大阪府商工会強制捜索


法の廃墟(3)



朝鮮大阪府商工会強制捜索



『無罪!』2006年6月号





強制捜索押収



三月二三日、警視庁公安部は在日本朝鮮大阪府商工会等を強制捜索し、多数の資料を押収した。産経新聞は「原さん拉致事件で初の強制捜査――朝鮮総連傘下団体など捜索」との見出しのもと、次のように報じている。

「北朝鮮による原敕晁さん拉致事件で警視庁公安部は二三日午前、国外移送目的拐取などの容疑で、原さんが勤めていた中華料理店店長の在日朝鮮人の男の自宅(大阪市淀川区)や中華料理店(天王寺区)、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の在日本朝鮮大阪府商工会(北区)など関係先の家宅捜索を始めた。総連傘下団体が拉致事件で強制捜査を受けるのは初めてで、警視庁は総連の拉致関与についても解明を進める。」

男は、原さん拉致事件に絡む旅券法違反などの容疑で国際手配された元工作員、辛光洙容疑者の拉致実行を手引きした補助工作員という。

大阪府商工会が捜索対象とされたのは、男が当時、大阪府商工会の理事長だったためだという。また、「この当時、男からも事情を聴いたが、拉致への関与は否定していたことから、警視庁は今回の押収資料を分析して、さらに男を追及する方針。 警察当局は近く、原さん拉致容疑でも辛容疑者の逮捕状を請求する」とされている。サンケイのウエッブサイトには捜索押収の様子を伝える写真が掲載されており、警視庁公安部が事前にマスコミ関係者に情報を流して、捜索現場周辺で待機・取材させ、様子を報道させたことがわかる。

朝日新聞(三月二四日)によると、 「元工作員の男が、原さんを拉致する前に別の日本人を拉致対象者として物色していたことがわかった。男は韓国の軍事情報の入手活動などもしており、辛容疑者の補助工作員とみられている。警視庁公安部は来月にも辛容疑者とこの男を国際手配する。男は八五年に辛容疑者とともに韓国の捜査当局にスパイ容疑などで逮捕された。服役した後、韓国・済州島で暮らしている。・・・男は大阪の朝鮮総連系の学校長を経て婦人服の小売業を営んでいた」という。

大阪府商工会から押収されたのは、名簿四冊、ファイル一八冊、書類三点、普通預金通帳等九冊、パーソナルコンピュータ一台、書籍六冊である。



準抗告の経過



大阪府商工会理事長は、四月一八日、大阪地方裁判所に押収処分の取り消しを求める準抗告を申し立てた。準抗告の理由は次のようなものである。

第一に、「申立人と本件との関連性は全くない」。本件被疑事実は一九八〇年六月頃のことで、二五年も前のことである。被疑者が商工会会員であったこともないし、商工会会員で被疑者を知る者は一人もいない。被疑者の協力者とされた男がかつて理事長だった事実はあるが、男が理事長であることを利用したり、部下に何かを命令したといった事情もない。同人は本件被疑事実への関与を一切否定している。「申立人と被疑者との何らかのつながりを裏付ける客観的な物証は、全くないことが明白である。すなわち、本件被疑事実と、本件捜索押収の場所との間には、なんら組織的にも場所的にも関連性は認められない」。

第二に、「被疑事実と本件押収処分の間の時間的懸隔が甚だしい」。被疑事実は四半世紀も前の出来事であり、各種帳簿類の法定保存期間もすぎており、当時の資料はほとんど存在しない。現場に本件被疑事実に関連する物的証拠が存在する可能性はない。「それにも関わらず、一般大衆の耳目を集めるために、あえて強制捜査敢行の直前に、マスコミに対し情報をリークしてマスコミを総動員した上で、本件捜査を行い、なんらの関連性のない物件を押収することは違法」である。

第三に、「強制捜査の必要性がない」。拉致問題については朝鮮総連議長も遺憾の意を表明し、解決を望んでいる旨を表明している。総連大阪府委員会委員長も同様に真相究明を求めている。それゆえ必要があれば、任意捜査に積極的に協力する容易がある。にもかかわらず、強制捜査に踏み切ったのは、「政治状況にあわせて演じられたパフォーマンスでしかない」。それによって、業務上必要な資料が押収されて業務に支障をきたしている。任意捜査で十分なのに強制捜査に踏み切ったのは相当性の範囲を逸脱している。

これに対して、大阪地方裁判所は、五月一一日、次のように述べて申立てを棄却する決定を下した。

「一件記録によれば、被疑者らのうち二名は、本件誘拐・移送当時、申立人の組織内において理事長等の中枢の地位にあったもので、本件犯行に深く関与した疑いが認められる。そして、本件はきわめて組織的な犯行であることがうかがわれるところであり、被害者の消息は現在に至っても不明である。このような諸事情にかんがみると、本件誘拐・移送がたとえ二〇年以上前になされたものであっても、なお申立人方事務室には本件被疑事実と関連する証拠物が存在すると認めるに足る状況にあったといえる。また、本件事案の性質、重大性、捜査の進ちょく状況等に照らすと、強制捜査はやむをえなかったというべきであり、申立人の被る不利益等を考慮しても、本件捜索・差押えの必要性が認められる。したがって、上記捜索差押許可状の発付は適法であり、申立人の主張するような違法、不当な点は認められない。そして、差し押さえられた各物件は、いずれも上記捜索差押許可状記載の『差し押さえるべき物』に該当すると認められ、関連性ないし必要性が明らかにないとはいえない。したがって、本件差押えは適法である。」

疑問点は多いが特に重要な点だけ指摘しておこう。第一に、四半世紀前の事件に関する強制捜査である。公訴時効起算点についての解釈変更、及び外国判決利用についての解釈変更といった具合に、次々と解釈変更を積み重ねての強制捜査という疑問である。

第二に、本件はマスコミを利用して報道させる政治的パフォーマンスであり、刑事手続き上の捜索といえるのか、その性質が疑われる。

第三に、押収対象物から見ても、本件被疑事実の捜査というよりも、朝鮮総連関係機関の組織構成等に関する公安警察の情報収集活動である。

第四に、組織的犯行であるとさえ言えば、何でもできるかのような姿勢が顕著にうかがわれる。「法解釈」の名による原則の溶解がいっそう深刻となっている。

Saturday, July 28, 2012

思想を処罰する時代


法の廃墟(2)



思想を処罰する時代



『無罪』2006年5月号





白バラの祈り



 ナチスに抵抗した「白バラ」の若者たち、特にゾフィー・ショルを中心に、事件発覚から処刑までの五日間を描いた映画白バラの祈りが深い感動を呼んでいる。原題は「ゾフィー・ショル――最後の日々」(二〇〇五年、ドイツ)、監督マルク・ローテムント、主演は、ゾフィー・ショル役ユリア・イェンチ、ほかにアレクサンダー・ヘルト、ファビアン・ヒンヌフリフス、アンドレ・ヘンニック。

 「白バラ」とは、一九四二年六月から四三年二月まで、ミュンヘンで反ヒトラーのビラを配布したり、街中の壁に反ヒトラーのスローガンを書くなどの抵抗運動をした大学生中心のグループである。主な人物は次の六名で、ミュンヘン大学の学生と教授である。

 ハンス・ショル(一九一八年生まれ、医学生)、ゾフィー・ショル(二一年生まれ、哲学生)、アレクサンダー・シュモレル(一七年生まれ、医学生)、クリストフ・プロープスト(一九年生まれ、医学生)、ヴィリー・グラーフ(一八年生まれ、医学生)、クルト・フーバー(一八九三年生まれ、哲学教授)。

 一九四二年六月、ハンスとアレクサンダーはナチスに対する抵抗を呼びかける無署名のビラを印刷し、知人やミュンヘン在住の教師、医師などに郵送した。七月、ハンス、アレクサンダー、ヴィリーは東部前線での医療実習のためロシアに向かった。前夜に開かれた送別会に、フーバー教授も招待されていた。やむをえずナチスに入党したが、ナチスと相容れない思想家たちへの敬意をはっきりとあらわした講義をしていた教授である。

一一月、ミュンヘンに戻った彼らは活動を再開する。「赤い楽隊(ローテ・カペレ)」と呼ばれるベルリン反政府地下組織とも連絡をとっていた。またハンスは一二月にフーバー教授を訪ね、自分が白バラのビラ作成者であることを告白する。
 一九四三年一月、ハンスが書いたビラ第五号が印刷され、ヴィリーはラインラントヘ、ゾフィーはアウグスブルクへ行き投函した。二月になると、ハンス、アレクサンダー、ヴィリーの三人はミュンヘン市内の通りの壁に、深夜、反ナチ・スローガン「自由」「打倒ヒトラー」を書いてまわった。二月一八日、ハンスとゾフィーは第六号ビラを大学構内で撒いているのを発見され逮捕される。翌日にはクリストフも逮捕された。
 ショル兄妹とクリストフは取調べの後、二月二二日、民族裁判所で死刑判決を受け、その日の午後、シュターデルハイム刑務所内で処刑された。死刑執行までの三人の毅然とした態度については、警察や刑務所付聖職者など多くの人が証言している。結局、六人全員が処刑された。ハンスは処刑される際にも「自由!」と叫んだことが知られている。

映画は、最後の打ち合わせとビラ作成の場面から始まり、ショル兄妹が大学内でビラを配布し、事件が発覚した場面、そして逮捕後の身柄拘束、取調べ、民族裁判所の審理、そして処刑の場面へと続く。時間の流れに従って淡々と進行する比較的単純な構成である。

 映画は、第一に、戦争を知らない若い世代による制作である。第二に、当局側の資料や友人たちの回想を含めて、非常に綿密な調査に基づいた作品である。第三に、唯一の女性ゾフィーに焦点を当てて、ナチスと対峙する女子学生の必死の闘い、揺れ動く内面、判断ミスも含めた現実を描ききったことで高い評価を受けた。絶望のなかで追い求めるかすかな希望がテーマである。ベルリン国際映画祭銀熊賞、ドイツ映画賞優秀作品賞、欧州映画賞主演女優賞などを受賞し、アカデミー賞外国語映画賞ドイツ代表にもなった。



思想を処罰するもの



 映画最大の山場は民族裁判所所長フライスラーとの対決である。ヒトラーを想起させる奇矯で独断的な裁判官として描かれているが、確かに「法廷のヒトラー」にふさわしい人物である。

 ローラント・フライスラーは一八九三年、ツェレ生まれ。イエナ大学を卒業、第一次大戦に士官候補生として志願し、ロシアで捕虜となった時にマルクス主義に出会い、十月革命時にはボリシェビキに与したという。一九二四年に弁護士となった頃から民族主義団体に接触し、翌年のナチス党再結成の際に入党した。ナチスが政権を獲得すると、フライスラーは、三三年、プロイセン法務次官、三五年、帝国法務次官となり、四二年八月に民族裁判所所長に就任した(前田朗鏡の中の刑法水曜社、一九九二年参照)。

 フライスラーの基本用語は、指導者原理、民族共同体、ゲルマン人の血と忠誠、反ユダヤ主義であった。

 「血。血を自覚し、血から物を見よ、血のために意欲し、血と闘い、受苦し、勝利せよ、血のために生きよ。/ドイツの血は千年王国を基礎づけ、築き、聳え立たせる・・・この血は、われらドイツに二つの言葉を呼び醒ます。すなわち、全体! そして義務!」(一九三九年二月二八日のアーヘンでの演説より)

 フライスラーの刑法思想は、次のような表現を与えられる。

 「ドイツ民族、その構成員と力、その生活の平穏、それゆえとりわけ生殖と出産の力や労働休息を内部からの侵害に対して守ること、それが刑法の任務である。それゆえ刑法は闘争の法であり、刑法が闘うべき敵とは、まさに民族の存立、力、平穏を内部から脅かすものである。・・・闘争の法としての刑法の認識から、当然のことながらこの法の目標が帰結される。すなわち敵と闘うだけではなく、敵を絶滅すること。」(一九三五年の論文「意思刑法」より)

 民族の敵を絶滅するための迅速果敢な刑罰の思想は、民族裁判所の実践においてその具体化をみた。フライスラー所長の三年間に、民族裁判所は約一万〇一〇〇人の被告人に対して四九二一件の死刑を言い渡し、戦時ファシズムのテロリズムの代名詞となった。

 ハンスとゾフィーは「私が立っている場所に、もうすぐあなたが座ることになる」と挑んだ。しかし、フライスラーは二年後、四五年二月三日の連合軍の空襲にあって即死するまで、この殺人業務に励んだ。ナチスと相容れない思想、ゲルマンの血と忠誠に沿わない思想や行動、ユダヤ的なるもの、反戦や平和などという軟弱な思想の絶滅を目指して。

 関連文献として、インゲ・ショル『白バラは散らず』(未来社、一九六四年)、C・ペトリ『白バラ抵抗運動の記録』(未来社、一九七一年)、山下公子『ミュンヒェンの白いバラ』(筑摩書房、一九八八年)、関楠生『白バラ』(清水書院、一九九五年)、フレート・ブライナー・スドルファー『白バラの祈り』(未来社、二〇〇六年)。

拷問禁止委員会への日本政府報告

法の廃墟(1)



拷問禁止委員会への日本政府報告



『無罪!』2006年4月号







遅れた報告書



 二〇〇五年一二月、日本政府は、拷問等禁止条約第一九条に基づく第一回政府報告を、五年遅れで提出した。

 拷問等禁止条約は一九八五年に国連総会で採択されたが、日本政府が条約を締結したのは一九九九年六月で、効力発生は七月二九日のことであった。

 条約締結も遅れたが、報告提出も遅れた。条約に従えば、締約国は効力発生後一年以内に第一回報告を提出することになっている。日本政府報告の提出締め切りは二〇〇〇年七月であったが、実際には五年も遅れた。

 実は、日本政府も漫然と遅らせたわけではない。条約締結後に、作成作業を開始していた。日本政府から人権NGOに申し入れがあって、政府とNGOの非公式協議も開かれた。早い段階で報告の骨子は完成していたようである。

 ところが、名古屋刑務所事件が報告提出を妨げた。刑務所職員による常軌を逸した暴行が頻繁に繰り返され、複数の死亡事件(虐殺事件)を引き起こしていた。しかも、管理者側は承知していたにもかかわらず、内部告発によって明るみに出るまではもみ消し工作が行なわれていた疑いが強い。

 このため報告提出は見合わせることになったのであろう。その後、数年にわたって、日本政府はNGOからの問合せに対しても、いつ報告を提出するのか回答しない状態が続いていた。名古屋刑務所事件のほとぼりが冷めた二〇〇五年秋になってようやく、まもなく提出の見込みとの情報が流れ、二〇〇五年一二月の報告提出となった。報告は外務省のウエッブサイトに掲載されている。



乏しい実質



 日本政府報告は全文八四頁、さらに目次が二頁という分量である。報告の構成は、拷問等禁止条約第一部(第一条から第一六条)に即して順次記載されている。その特徴は二点にまとめることができる。

 第一に、単なる条文の引用・紹介に終始していることである。報告本文の大半が、憲法、法律、規則などの建前がどのようになっているかの説明である。その上で、関連条文が全文引用されている(一部は抜粋もある)。各種の法律から全部で二六二もの条文が引用されている。このため、報告全体で八四頁といっても、そのうち資料(条文引用)がおおよそ四五頁を占める。つまり、本文は三九頁しかない。その三九頁の半分以上は、引用された条文の趣旨説明の、単なる繰り返しにすぎない。世界は法律の条文だけで成り立っているかのようである。

 第二に、単なる形式的説明が多い。例えば次のような記述が基本的な内容となっている。

 「我が国の憲法は、第三六条において、公務員による拷問及び残虐な刑罰を絶対的に禁止している。また、本条の精神に沿う憲法の規定として、第一三条及び第三八条がある。これらの憲法の下に、刑法は、特別公務員暴行陵虐罪及び特別公務員暴行陵虐致死傷罪等を定めており、これらの罪については、通常の刑事手続きのみならず、刑事訴訟法第二六二条から第二六九条までに規定する特別な刑事手続きによっても適正な裁判が保障されている。」(パラグラフ二)

 「憲法第三六条は、『公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる』と定め、憲法第九九条は、公務員が憲法を尊重し擁護する義務を負うことを規定している。また、国家公務員法第九八条第一項及び地方公務員法第三二条等は、公務員の法令遵守義務等を定めており・・・」(パラグラフ五五)

 報告が条文引用と形式的説明を基本内容としているのは、今回が第一回報告なので、日本における関連法規と制度の全体像を示そうとしたためであり、それなりの合理的理由がある。とはいえ、条文を全文引用したうえに、同じことを繰り返しているところが目立つ。趣旨を敷衍しているのではなく、繰り返しているだけである。



法の残骸



 単なる条文の引用や形式的説明ではない、やや実質のある記述は、報告末尾の「その他」である。

 第一に、NGOとの協力について「民間団体との意見交換の機会を適宜持つなど建設的な関係の構築に努めていきたい」(パラグラフ一三八)としている点は、実現を期待したい。

 第二に、代用監獄について、拷問等禁止条約第一条一にいう「『合法的制裁』に該当するものであり、いわゆる代用監獄への収容自体は、本条約にいう拷問に当たるものではない」とし、捜査担当官と留置担当官の分離を説明している(パラグラフ一四二)。「合法的制裁」論については、言葉の問題なので取り上げないとしても、ここでは代用監獄への収容自体とその運用による拷問的処遇の問題が巧みに隠蔽されている。仮に収容「自体」が拷問でないとしても、代用監獄収容状況を利用した心理的拷問、収容状況を利用した密室長時間取調べ、取調べにおける心理的抑圧、そして物理的暴力が長年にわたって指摘されてきた。

 第三に、拷問被害者による個人通報制度については、司法権の独立との関連で問題が生じるという奇妙な説明を繰り返している(パラグラフ一四四)。

 第四に、死刑は「合法的制裁」であり拷問ではなく、絞首刑は「他の方法に比して人道上残酷な方法とは考えられず」としている(パラグラフ一四五)。死刑そのものの残虐性を無視している上、死刑確定者の処遇問題にも言及がない。こうした重要な論点に気づいていないとはおよそ考えられない。あえて無視しているのであろう。

 第五に、戒具や保護房については、関係法令に基づいて適切に使用されているとしつつ、名古屋刑務所事件で問題となった革手錠については二〇〇三年一〇月一日から廃止し、新型手錠を採用したとする(パラグラフ一五二)。しかし、革手錠がなぜ問題だったのか、名古屋刑務所事件における使用方法の問題なのか、革手錠自体の問題なのか、詰めていない。

 第六に、独居拘禁について、建前を並べた上で「ごくわずかながら、やむを得ず独居拘禁の期間が長期にわたる例が見られる」(パラグラフ一五五)とする。しかし、一〇年を超える異常な独居拘禁の実例も幾度も指摘されてきたのに、具体的な数字を示していない。

  日本政府報告を貫く思想は、背伸びした高校生のようなまったくの素人が作成したのでないとすれば、そこに法律の条文が存在することに意味を見出すだけの歪んだ法律実証主義である。近代法原則を裏打ちした法の理念や価値が脱色されているため、寒々とした法の廃墟で残骸を寄せ集めているにすぎない。

女性に対する暴力


『救援』469号(2008年5月号)、470号(2008年6月号)



女性に対する暴力(一)





拷問の定義



 本年三月に開催された国連人権理事会第七会期に提出されたマンフレッド・ノヴァク「拷問問題特別報告者」の報告書(A/HRC/7/3)は、女性に対する拷問を主題として取り上げている。

特別報告者は「拷問からの女性の保護を強化する」ために、第一に、拷問の定義にジェンダー観点を盛り込む必要性を指摘している。第二に、ジェンダー観点を盛り込んだ拷問の定義の具体的な試みを開陳している。第三に、拷問被害を受けた女性のために正義を実現する方策に言及している。

ノヴァク特別報告者は、これまでの国連人権機関における女性に対する暴力をめぐる研究の成果を適用し、拷問からの女性の保護のためにさまざまな国際人権文書を活用する必要があるとして、自由権規約第七条および拷問等禁止条約が拷問を禁止していることを確認し、拷問等禁止条約第一条の定義を取り上げる。第一条に示された拷問の四つの要素は、①身体的精神的に重大な苦痛、②意図、③目的、④国家の関与、である。

特別報告者は、これに第五の要素として「無力さ」を追加するよう提案する。無力さの状況は、たとえば拘禁状態において、ある人が他人に対して全権力を行使する場合に明確になる。被拘禁者は逃げることも自分を守ることもできないからである。警察車両に乗せられて手錠をかけられた場合も同様である。強姦は、こうした権力関係の極端な表現である。個人的な暴力の場合にも無力さの程度を検討することが必要である。被害者が逃げることができず、一定の状況にとどまることを強制されていたことが判明すれば、無力さの基準を十分に考慮するべきである。

無力さを基準にすれば、性別、年齢、心身の健康などの被害者の特殊な状況を考慮に入れやすくなる。宗教が女性に無力さの状況を作り出す場合もある。女性が従属的な地位に置かれているのに、国家が差別的な法のままにしているため、犯行者を処罰せず、被害者を保護しないので、女性は組織的に心身の苦痛を余儀なくされている。

目的要素について言えば、実行行為がジェンダーに向けられていれば、拷問等禁止条約の定義に差別条項が含まれているから、目的があったと判断できる。目的があれば、意図の要素もあったことになる。女性に対する暴力撤廃宣言の趣旨を踏まえた解釈が必要である。

第一条において国家の中心的役割が要素とされたために、直接に国家の管理の下にない女性に対する暴力からの女性の保護を不十分にする働きをしてきた。特別報告者は、公務員による同意や黙認という言葉は、私的領域においても国家に責務のある場合があること、私人による拷問・虐待を裁判にかけて被害者を保護することを怠った国家についても差し向けられていると解釈しようとする。現に、拷問禁止委員会は一般的勧告第二号(二〇〇七年)において、国家でない私人等による拷問を処罰しようとしないことは、結果的に国家による事実上の拷問容認を意味することになるとしている。



公的領域における拷問



それでは、拷問の再定義は具体的にどのように行われるべきか。ノヴァク特別報告者は第二の問題に歩みを進める。まず、公的領域における拷問・虐待である。

①強姦と性暴力。身柄拘束された女性に対する拷問で、これまで議論されてきた典型例は、強姦、その他の形態の性暴力(強姦の脅迫、接触、処女検査、裸にすること、侵襲的な身体検査、性的侮辱など)である。これらが公務員の教唆や黙認のもとに行われた場合に拷問に当たるという拷問禁止委員会の見解がある。欧州人権裁判所の一九九七年判決は、被拘禁者に対する強姦は特に重大な虐待であるとしている。旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷のセレヴィッチ事件およびフルンジヤ事件判決も重要である。国際刑事裁判所規程第八条二項(b)にも関連規定がある。特別報告者は、強姦が他の拷問よりも重大な苦痛を与えることを指摘し、さらに、文化によっては強姦被害者がコミュニティや家族から拒絶されてしまい、被害からの回復を妨げ、大きなダメージになることにも言及している。性病、望まない妊娠、流産なども被害の中身である。公務員による拷問としての強姦は、個人に対してだけでなく、家族やコミュニティを破壊するためにも用いられる。ルワンダ国際刑事法廷のアカイェス事件判決は、強姦がジェノサイドの一形態として行われたことを認定した。

②妊娠女性に対する暴力、リプロダクティヴ・ライツの否定。自由権委員会の一般的勧告第二八号(二〇〇〇年)は、強姦の結果として妊娠した女性に対する強制中絶や、安全な中絶の否認は、自由権規約第七条に違反するとしている。拷問禁止委員会の一般的勧告第二号も、再生産に関する決定は、女性が特に被害を受けやすい文脈となることを確認している。自由権委員会は、同意のない不妊手術も自由権規約違反であるとしている。難民高等弁務官事務所も、強制中絶や強制不妊を処罰されるべき犯罪と見ている。難民状況にある者に対する強制中絶などは人道に対する罪としての迫害に当たる。

③身体刑。特別報告者は、従来、シャリア法による石打刑(石を投げつける方法での死刑)の事例について、それが姦通その他の関連犯罪を行ったとされる女性に向けられた、差別的な刑罰であるとして、批判してきた。石打刑は女性差別撤廃条約やその他の人権文書に違反する。特別報告者、自由権委員会、拷問禁止委員会、人権委員会はいずれも、いかなる身体刑も拷問の禁止に違反するとしている。

④拘禁が女性に特に有する問題。拘禁された女性は、再生産の権利、家族との接触、衛生などさまざまな局面で特にニーズを有することが見過ごされてきた。幼児の養育や、妊娠している場合のニーズなどへの配慮がなされてこなかった。多くの国では男性職員が拘禁された女性に接する地位にあり、男性職員による性暴力を増大させている。男性職員が監督権限を濫用した性暴力ある。男性職員は暴力によるだけではなく、女性被拘禁者に対する優遇措置や物品供与を利用して性的関係を結ぶことと取引条件にし、女性に「同意」を強いる例がある。





女性に対する暴力(二)



私的領域



マンフレッド・ノヴァク「拷問問題特別報告者」が国連人権理事会第七会期に提出した報告書(A/HRC/7/3)は、「私的領域における拷問や虐待」について、伝統的慣行(ダウリー暴力、焼かれる花嫁等)、名誉殺人、セクシュアル・ハラスメントなど多様であると指摘しつつ、世界中で行われている大規模なものとして、ドメスティック・バイオレンス、女性器切除、人身売買に焦点をあてている。

①ドメスティック・バイオレンス(DV、親密なパートナーによる暴力)。ノヴァク特別報告者は、被拘禁女性に対する看守による暴力とDVを対比して、死傷の結果に至ることもあり、抑圧、不安、自己評価の低下、孤立化をもたらし、PTSDを惹き起こす点では変わらないとしている。被害者を無力な状態にとどめ、抵抗力を破壊する点でも同じであるという。だが、国家はDVを黙認してきた。女性を虐待状況に放置する法律を制定してDVの共犯となってきた。女性に適切な保護を与える国内法を制定していない国家には、DVについて責任がある。欧州人権裁判所一九九八年判決は、子ども虐待を放置していたイギリス法は欧州人権条約第三条に違反するとした。法律があっても執行機関が適切な対処をしなければ不十分である。米州人権委員会二〇〇一年判決は、一九八三年から夫による暴力に耐えていた女性の訴えに適切に対処しなかったブラジル政府は効果的な措置をとるべきであったと認定した。ラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」の一九九六年報告書は、国際機関やNGOの協力による調査を求めていた。自由権規約委員会二〇〇〇年一般的勧告は、拷問等が男女平等に違反するとしている。拷問禁止委員会も繰り返し同様の指摘をしてきた。

②女性器切除(FGM)。ノヴァク特別報告者は、FGMは拷問と同様に重大な苦痛を与えるものであり、粗野な道具を用いたり麻酔なしで行われるといっそう苦痛が激しくなるとする。最悪の場合にはショックや病気感染による死亡をもたらす。PTSD、苦痛、抑圧、記憶喪失などの結果が生じる。苦痛は、手術時だけではなく、女性の一生涯にわたることもある。妊娠中の女性の場合には母体にも胎児にも悪影響を及ぼす。十歳未満の少女に手術が行われることがあり、無力さの要因に注目する必要がある。両親やコミュニティによる完全なコントロールのもとで手術が行われるからである。FGMは拷問であり、国内法が容認しているとすれば、国家による拷問の黙認である。医療関係者によるFGMの「医療化」が進んでいるが、だからと言って許容できることにはならない。女性に対する暴力特別報告者、拷問問題特別報告者、拷問禁止委員会、自由権規約委員会、難民高等弁務官などがFGMを批判してきた。

③人身売買。人身売買にはさまざまな形態・特徴があるが、多くの場合、被害者は出身国で誘拐・徴募され、受入国に送られ、搾取される。最近のルーマニア・ドイツに関する研究によると、人身売買業者は被害者に対する心理的コントロールによって逃げることができないようにしている。毎日一八時間以上もの労働を強制されて搾取される。身体的暴力、心理的暴力、性的虐待、脅迫は拷問や虐待に当たる。欧州人権裁判所二〇〇五年判決は、国家には、人身売買を予防、訴追、処罰する刑法を制定する積極的な義務があるとした。人身売買被害者に適切な保護を与えていない国家には責任がある。拷問禁止委員会も、人身売買と拷問には密接な関係性があると繰り返し指摘してきた。



司法救済



 ノヴァク特別報告者は、拷問被害女性のための司法(正義)について二点の整理を行っている。

 ①司法へのアクセス。世界の多くの女性は、お金がない、移動が自由でない、法律が差別的であるといったハードルのために司法にアクセスできない。特に性暴力被害女性は司法にアクセスできずにきた。スティグマ(烙印)、家族やコミュニティによる拒絶、プライヴァシー喪失などさまざまな障害がある。捜査機関による二次被害もある。医療制度の不備があり、強姦被害者に対する迅速な診察も難しい。国内法は、強姦被害者が「同意」していなかった証拠として、いかに抵抗したかに焦点を当ててきた。裁判所は、心理的強制を軽視してきた。被害の深刻さを反映した証拠が、被害者に「同意」があったことの証明に逆用されることすらある。旧ユーゴスラヴィア国際刑事法廷のフルンジヤ事件判決は、事件以前の性的行為を被害者に不利な証拠として用いることを禁じた。国際刑事裁判所規則も、被害者が沈黙していたり、抵抗しなかったことを、直ちに「同意」があったものとすることを否定している。国際刑事裁判所には被害者証人局が設置されている。

 ②リハビリテーションと補償。ノヴァク特別報告者によると、拷問女性被害者のニーズへの対応はかつては注目されなかった。しかし、第二次大戦時における日本軍性奴隷制被害者の事例で、被害者のニーズにこたえる必要性が明らかになった。拷問禁止委員会が、日本政府報告書の審査の結果、述べたように、国家による事実の否認、事実の不開示・隠蔽、拷問責任者の不訴追、適切なリハビリテーションがないことの結果、被害者に再トラウマをもたらす。性暴力被害者へのスティグマの影響は深刻である。「強姦」を、言葉を言い換えて「性愛」の問題とすることによってスティグマが強まることもある。強姦の結果として母親となった女性や生まれてきた子どもには特に心理的サポートが必要である。「女性と少女の救済と補償を受ける権利に関するナイロビ宣言」(二〇〇七年)は、従来の武力紛争後の補償政策がジェンダー観点を持っていなかったことを踏まえて、今後の補償政策にジェンダー観点を導入するものである。「真実を語る」ことは補償にとって決定的な要素であり、刑事司法は補償プロセスの中核であり、制限されてはならない。責任者を裁判にかけることは、補償の重要な鍵となる。

 ノヴァク特別報告者は以上の検討を踏まえて数々の勧告をまとめている。

Friday, July 27, 2012

デモサイドの時代


デモサイドの時代



『救援』468号(2008年4月号)





死刑の比較分析



 アメリカン大学のリタ・サイモンとダグニィ・ブラスコヴィッチの死刑の比較分析--世界各地の法令、政策、執行頻度、公共の態度(レキシントン書店、二〇〇七年)は、法律上の死刑相当犯罪、世論の状況、執行方法、死刑を免除される人の類型などを比較している。第一章「宗教と死刑」、第二章「死刑廃止国・存置国」、第三章「死刑についての世論」、第四章「抑止」、第五章「無罪の推定」、第六章「ジェノサイドとデモサイド」からなる。第五章までは新味はないが、統計、新聞記事、著作など最新情報を追跡して歴史的経過と現状を対比している。

 彼女たちは、例えば、アメリカの世論調査について一九三六年(賛成六二%、反対三三%)以後、六〇年間の四四回の調査結果を紹介している。死刑賛成が五割を切ったのは四回(一九五七年、六五年、六六年、七一年)、七割を超えたのは一六回(一九八二年~九六年)である。東欧諸国ではロシア(七〇%、九七年)、ウクライナ(九五%、九五年)、ブルガリア(八二%、九六年)、ポーランド(六〇%、九六年)であるという。

 死刑廃止後の殺人事件発生率について、前後一年と五年の結果を紹介している。一年幅の調査で大きな変化のあったのが、フィンランド(三一%減)、イスラエル(五七%)、スウェーデン(六五%)、スイス(二一%)である。あまり変化のなかったのが、オーストリア、イングランド・ウェールズ、イタリア、デンマーク(一~五%の変化)などである。五年幅の調査では、オーストリア(一五対五)、カナダ(五対六)、デンマーク(九対二)、イングランド・ウェールズ(一四対七)、フィンランド(二二対一八)、イスラエル(一〇対二四)などである。調査方法や目的の異なる統計を直接比較できないが、議論の手がかりを得るためにあえて数値のみの比較を行っている。

 無罪の推定については、アメリカにおけるDNA鑑定によって誤判と判明した事例を紹介している。誤判原因としては、二〇五件のうち、証人の誤認(一〇〇)、証人の偽証(二一)、捜査当局の過失(一九)、単純ミス(一六)、強制自白(一六)、でっちあげ(八)、捜査当局による偽証(五)、前歴の誤認(三)、法医学の誤り(三)、その他(一四)としている。誤判原因は輻輳的な場合が多いので、一つの原因に特定できるのかは疑問であるが、あえて単純化している。興味深いのは証人の誤認が圧倒的に多く、強制自白が少ないことである。日本では圧倒的に強制自白が問題となる。



デモサイドとは



 サイモンとブラスコヴィッチは「ジェノサイドとデモサイド」と題した第六章において、主に国家による大量殺人を取り上げている。デモサイドという言葉は、ジェラルド・スカリー国家による殺人に由来するようだ。スカリーによると、国家が普通の住民を殺すのがデモサイドであり、少数者を殺すのがジェノサイドだという。

 ジェノサイドは、特定の集団の全部または一部破壊する目的を持って行う殺人などの行為を指す。集団に焦点を当てた概念である。最初のジェノサイドは一九一五年にトルコがアルメニア人を殺害した事件とされる。スターリン時代の大量殺人、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害、毛沢東時代の大量殺人も列挙している。

 スカリーによると、国家による殺人は、一三世紀には三二二〇万人(当時の人口の八・九%)、一四~一五世紀には蒙古によって三〇〇〇万人、一七世紀には二五六〇万人、一九世紀には四四四〇万人(三・七%)、二〇世紀には七・三%だという。

 彼女たちは、二〇世紀にジェノサイドまたはデモサイドを行なった国家をまとめている。デモサイドは、例えば、アフガニスタン(一九七八年~八七年、二二万八〇〇〇人)という具合に時期と犠牲者数が掲げられている。主な国名だけ列挙する。アルバニア、ブルガリア、ビルマ、カンボジア、中国、キューバ、チェコスロヴァキア、東ドイツ、ハンガリー、朝鮮、モンゴル、ポーランド、ルーマニア、ソ連など(以上は旧共産圏)、アルジェリア、アンゴラ、ブルンジ、中央アフリカ、コンゴ、ギニア、ケニア、リベリア、リビア、モザンビーク、ナイジェリア、ルワンダ、南アフリカ、スーダン、ウガンダなど(アフリカ)、エルサルバドル、グレナダ、グアテマラ、ハイチ、ホンデュラス、メキシコ、ニカラグア、アルゼンチン、ブラジル、チリ、コロンビアなど(中南米)、バングラデシュ、インド、インドネシア、イラン、イラク、韓国、パキスタン、フィリピンなど(アジア中東)、キプロス、フランス、ドイツ、ギリシア、イタリアなど(欧州)。

 過去にデモサイドかジェノサイドを行って死刑を廃止した国家は、キプロス、チェコスロヴァキア、フランス、ドイツ、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ルーマニア、スペイン、トルコ、イギリス、アンゴラ、ブルンジ、中央アフリカ、コンゴ、ギニア、南アフリカ、ザンジバル、アルゼンチン、ブラジル、チリ、コロンビア、エルサルバドル、グアテマラ、ハイチ、ホンデュラス、メキシコ、ニカラグア、パラグアイ、ペルー、ウルグアイ、ビルマ、カンボジア、イスラエル、フィリピン、スリランカである。一覧表にはないが、アメリカについては一九世紀のリンチが取り上げられている。もっともヒロシマ・ナガサキ、朝鮮戦争、ベトナム戦争は取り上げられていない。日本については、第二次大戦時におけるアジア侵略と虐殺を取り上げている。オーストラリアのアボリジニ迫害、占領下の東ティモールなども扱っている。

 以上が彼女たちのデモサイド論である。様々な読み方が可能だが、ここでは次の二点を指摘しておきたい。

 第一に、デモサイド概念は、国家は自国民を守らないことを明確にした。沖縄戦の教訓から言って軍隊は国民を守らないが、そもそも「国家は国民を殺す」のである。国民を殺した国家の一覧表は作れるが、国民を守った国家の一覧表を作ることはできるだろうか。普通の国家は国内において国民を殺し、少数者や外国人を殺し、余裕があれば外国に出かけて殺す。死刑はその一つの手段に過ぎない。

 第二に、デモサイドやジェノサイドを行ったが故に死刑を廃止した国家が三六カ国ある。事実を認めて反省すれば死刑を廃止できるが、事実を隠蔽し責任逃れをしている国は死刑を廃止しないだろう。

2010年の民族差別と排外主義


ヒューマン・ライツ再入門25

2010年の民族差別と排外主義



雑誌『統一評論』541号(2011年1月)





一 対向するメッセージ



 日本政府、メインストリームメディア、そして「在日特権を許さない市民の会(在特会)」と自称する犯罪集団の動向を見ていると、日本がいつの間にか深刻な人種差別に満ちみちた国家・社会を形成していることに気づく。

 戦前の大東亜帝国によるアジア侵略と、そのもとでの民族差別の異常性はあるものの、少なくとも、戦後改革と日本国憲法のもとで、いわゆる「戦後民主主義」は、自由、平等、基本的人権、個人の尊重を掲げてきたはずである。実際には出入国管理や外国人登録法など管理と抑圧の法制度が整備されてはいたが、タテマエ上は自由と権利を尊重する民主的社会を形成したことになっていたはずである。外国人差別、部落差別、障害者差別は一貫して続いてはいたが、少なくとも差別をなくし、克服していく方向性についての社会的了解はあったはずである。

 ところが、いまやそれは極めて疑わしい状況である。二〇一〇年に大きな「政治問題」にさせられてしまったのが、朝鮮学校への高校無償化問題である。それでは、日本社会と朝鮮学校が、いかなる形で向き合っているかを見てみよう。

 朝鮮学校が日本社会に向けて発信したメッセージは何だったろうか。

 第一に、サッカーのワールドカップにおける朝鮮学校出身者の活躍であった。それ以前から、朝鮮学校卒業生がサッカーで活躍していることは知られていたが、ワールドカップにおいて、祖国と民族を語りながら自らの道を模索する在日朝鮮人の活躍は日本社会にも印象的なメッセージとなったはずである。

 第二に、ボクシングの世界チャンピオンの登場である。高校インターハイなどのスポーツ大会で、ボクシングやラグビーなど朝鮮学校の活躍が続き、ついには卒業生が世界チャンピオンになった。

 第三に、朝鮮大学校卒業生の司法試験合格である。朝鮮大学校には一九九九年に法律学科が設置され、学生は日本の法律を学び、司法試験その他の資格試験をめざしてきた。これまでに八期の卒業生を繰り出してきたが、そのなかから、過去に三人の合格者が出て、すでに弁護士になっている。今回、四人目の合格者が出た。

金敬得弁護士(故人)以来、在日朝鮮人弁護士は他にも数多い。日本の大学を卒業、または大検などを経て司法試験に合格してきた。それに加えて、朝鮮大学校法律学科卒業生が合格し始めたのである。

以上、朝鮮学校が日本社会に向けて発信しているメッセージの代表例である。

 それでは、日本社会が朝鮮学校に向けて発信したメッセージは何だろうか。

 第一に、高校無償化からの朝鮮学校除外問題である。二〇一〇年二月の中井大臣発言以来、長期に及ぶ政治問題となり、いまだに解決していない。これは、日本政府が「朝鮮人は差別をしてもいいんだ」というメッセージを発し続けているということである。

 第二に、在特会による朝鮮学校襲撃である。二〇〇九年一二月の京都朝鮮学校への襲撃がもっともよく知られるが、その後も何度も嫌がらせが続いている。また、朝鮮大学校に対する在特会の嫌がらせもある。全国の朝鮮学校は安心して日常の生活と授業をすることが困難である。

 これが日本政府と日本社会が朝鮮学校に対して押し付けているメッセージである。まさに現代排外主義と人種差別(民族差別)である。



二 二つの詩集



 もちろん、日本社会が総体として排外主義と人種差別に勤しんでいるわけではない。全国各地で、市民が自発的に朝鮮学校支援の声をあげ、日本政府に抗議の声を送り届けてきた。在特会の蛮行を非難する声明も幾つも出してきた。メインストリームメディアのなかでも、朝鮮人差別にさまざまな形で切り込んで、社会のあり方を問う記事が見られる(「東京新聞」、「共同通信」がすぐれた記事を書いている)。

 各地の市民も取組みを続けている。京都では、事件一周年にあたる二〇一〇年一二月四日に、再び在特会による朝鮮学校に対する嫌がらせ行動があったが、市民がカウンター・デモを企画し、朝鮮学校支援の声をあげた。

 なかでも特筆されるべきは、詩人たちの活動である。二〇一〇年八月一日付で発行された『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』(同刊行会、代表河津聖恵)は幅広い市民の共感を呼んだ。

 「『うたびと』である私たちは、朝鮮学校無償化除外の問題を、まず何よりも言葉による暴力の問題と受け止めます。他者の魂へ加えられる深刻な暴力はまた、『うたびと』という存在への挑戦なのです。同時に私たち自身もまた、自省を激しく促されています。自分たちが『うたびと』として一体何をしてきたのか、日本人が自国の歴史ときちんと向き合い、そのことで自分自身と向き合うための、何らかのきっかけを作ることが出来たのか、歴史や他者に対する想像力に裏打ちされた言葉を生みだす努力を真剣に行ってきたろうか、と。/さらに『うたびと』とは『社会カナリア』でもあります。今回の問題が、この国の言葉と魂の危機から生みだされた事態であることと共に、万一除外が決定されることになれば、この国の将来に取り返しのつかない禍根を必ず残すことを、私たちは鋭敏に感じ取るのです。つまり『朝鮮学校無償化除外は決してあってはならない』という危機感と確信から、このアンソロジーは編まれました」(同詩集「はしがき」より)。

 石川逸子をはじめとする七九名の詩人・歌人たちの思いがぎっしりと詰め込まれたアンソロジーは、市民社会に反響を呼び、静かな、しかし、確かな波を送り続けている。付録として折り込まれた「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー――京都朝鮮中高級学校生による詩と散文」の一部は、国会質問に際して国会議員によって朗読され、差別に安住する澱んだ空気を、一瞬、清澄なものに変えた。

 どのページからも引用したくなる一冊だが、一篇だけの引用にとどめる。



ムグンファ――一人無声デモをする友のために   河津聖恵



高台から見下ろす街の夜明け

ムグンファの汚れない光が花開き

この街が誰しもの故郷のように柔らぐ時刻

遥かな祖先の汗の匂いをたてる大路を

(今だ!)朝鮮虎の蒼い影は駆けだし

この国の閉ざされた心をふたたび舞う

通信使と民衆の歓喜の花びらの幻



街よ、花もとまどう真実の朝を祝福せよ

偽の眠りよ、脈打つ獣の熱に目を見開け



切り立てのプラカードの柄が風に鋭く光る

(今だ!)あなたの手はその痛みを掴む

「朝鮮高(級)生にも授業料免除を!」

天の赤と地の青とで書かれた文字を

頭上に掲げれば空の血は引いていくか

遠ざかる車の音 凝視するガラスの目

見て見ぬふりの通行人は

何を考え感じるのか(顔はみえない)

ひりひりとしたあなたの不信は

拳が握る痛みを芯にこの街を花ひらく

(これもムグンファか・・・)

やがて不信はたった一人の悲しみとなり

一人の悲しみを無数の悲しみが励ましていく

(そうだ、ムグンファ!

闇から希望へ向き直る花の恨の力だ!)



今ふり仰ぐ人のまなざしを受け止め

空よ、未来の子供たちのために色を深めよ

また一歩冷たい空気を歩む者の決意を感受し

地よ、恐れず声をあげる獣のために道を拓け



夜 無人のハッキョが高台から見るのは

星座のように瞬き 愛と痛みに捩れながら

なおも花ひらこうとする私たちのムグンファ



 他方、朝鮮学校生徒による詩集も編まれた。広島朝鮮初中高級部生徒たちによる『私たちも同じ高校生です――朝鮮学校への無償化適用を願うアンソロジー』である。

高級部二年生の文翔賢「無題」は次のような詩である。



あって当たり前の権利

 勝ち取れるだろうか



 あって当たり前の権利

 今まで一つ一つ手にしてきた



 あって当たり前の権利

 今回も必ず勝ち取れるだろう



 なぜいつも

 一つの権利を得るのが

 こんなにも難しいんだろう



 僕達も同じ

人間で学生なのに



今回も必ず

勝ち取ってみせる



また、高級部三年の李愛理「無題」は、こう綴る。

    

 響け、この思い、土の根っこまで

どんな 強い風が 遮ろうとも



育て、立派な葉をつけて

激しい雨が降り続けても



負けるな、しっかり根を張って

荒れ狂う波が押し寄せても



太陽の光をたっぷり浴びて

胸を張って堂々と響け

私たちの願いよ、根っこまで



差別や迫害も言葉に始まる。差別の言葉が暴力を呼び覚まし、他者に差し向けられる。京都朝鮮第一初級学校に投げつけられた差別と暴力が、高校無償化問題では朝鮮学校全体に向けられた。在日朝鮮人全体に対する迫害でもある。

差別への抵抗も言葉に始まる。魂の叫びが言葉を貫き、人々の感性を揺さぶる。この国の社会で対向する二つのメッセージを、二つの詩集が受け止め、読み解き、編み直す。差別の言葉を、反差別の言葉へ。憎悪の叫びを、出会いと共感へ。凝固した憤怒を、和解と連帯のシュプレヒコールへ。言葉を信頼し、紡ぎ出す営みが、ここにある。



三 人はなぜ、いつ、どこでレイシストに「なる」のか



 二〇一〇年一一月一〇日、第二東京弁護士会は、「現代排外主義と人種差別規制立法」と題する講演会を開催した。講師は鵜飼哲(一橋大学教授)と筆者である。

 前年一二月四日の在特会による京都朝鮮第一初級学校に対する襲撃事件が起きるや、ただちに批判の声をあげた鵜飼は、「東京新聞」談話において、在特会的状況を作り出した日本社会の問題性を指摘し、さらに雑誌「インパクション」において「雑色のペスト」を蔓延させる日本を読み解く特集を手がけた。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を「緋色のペスト」と呼んだことに対応して、現代日本の排外主義を「雑色のペスト」と名づけた。

 第二東京弁護士会講演で、鵜飼は、「人はなぜ、いつ、どこでレイシストに『なる』のか」と問いかける。レイシスト(人種差別主義者)とレイシズム(人種差別主義)について、一九八〇年代初期におけるフランスでの人種差別問題に関して、「SOS反人種差別主義運動」代表のアルレム・デジールは、人種差別主義を三つに分類したという。

   狂信派――イデオロギー的な極右、「ネオナチ」

   懐旧派――植民地からの引揚者、帝国的過去と同一化

   「普通の人」――白人貧困層

これと比較すると、現代日本の状況はどの類型にもおさまらない。なぜなら、「普通の人」が参加しているといわれるが、必ずしも貧困層ではない。もっとも、思想的には、懐旧派と似た面もあって、過去及び現在の日本を持ち上げるための「逆差別論」が用いられている。「日本を日本人の手に」「日本人差別反対」という倒錯した論理が意図的に用いられている。過激な行動様式、身体表現は狂信派に似ている面もある。

 鵜飼は、現代日本の排外主義にも複数の潮流、動因があり、より厳密な分析が必要であるとし、特に、自宅でテレビ/ネットの情報環境で拡大するレイシズムの浸透性と脆弱性を見ておく必要があるという。その背景として、キャピタリズムの新自由主義的段階における「自己責任論」の台頭、すなわち国家による保護の剥奪が常態化し、社会的矛盾が拡大するなか、心理的には「犠牲の山羊」探しが生じている。排除によってしか自己主張できないナショナリズム、自負/理念/目標を欠いたナショナリズム、つまり自己目的化したナショナリズムが培養される。排除は他者蔑視であり、容易にレイシズムへと転化する。国際関係のレベルでは、むしろ国家ナショナリズムの<不足>が取りざたされるため、それを補完するという主観的意図のもとに、客観的には「国民」国家の基盤さえ破壊しかねないレイシズムが現れる。

 この点は、前田朗『ヘイト・クライム――憎悪犯罪が日本を破壊する』(三一書房労組)の問題意識と共通である。日本を守ると称するレイシズムが日本を破壊する逆説である。

 鵜飼は、最後に「<克服>の必用条件としての法文化の変革」を唱える。第一に、人種差別撤廃条約である。国連条約は、国民国家を前提としつつ、レイシズムを非合法化するものである。その限りで有効であり、活用するべきである。第二に、表現の自由をめぐる米国型法文化から欧州型法文化への転換である。先住民、旧奴隷、植民者、移民から成る複合社会においては、表現の自由の優越的地位が強調された。しかし、ファシズム、大量殺戮、社会の「自殺」を招く猛毒としての人種差別を経験した欧州では、「表現の自由」の理性的抑制が図られている。第三に、人種差別規制立法を制定した場合に予想される「倒錯的諸効果」、例えば、日本人による外国人告発に悪用される危険性の評定も必要である。第四に、制度的レイシズムと人種差別規制法の問題として、現実には、人種差別規制法どころか、日本政府が法的制度的に外国人を差別している(出入国管理制度の改悪、在留カードの導入)ことが指摘された。

 鵜飼講演に続いて、前田朗「二〇一〇年の排外主義と人種差別規制禁止法について」と題する講演が行われた。内容は本連載の繰り返しなので省略する。ヘイト・クライムの定義、保護法益、比較法的知見を紹介したが、鵜飼講演によって、考え直すべき問題の示唆を受けたので、今後さらに検討していきたい。