Monday, April 29, 2019

桐山襲を読む(6)平成最後の涙雨の日に


桐山襲『「パルチザン伝説」事件』(作品社、1987年)

平成最後の一日、首都圏は雨だ。政府関係者やマスコミは天皇代替わりに興奮状態だ。志も知性も喪失した愚鈍な感性のお祭りを、少しは平静にさせる庶民の涙雨だろう。

と思えば、何者かが悠仁の学校に侵入して、机に凶器を置いたというニュースが昨夜流れた。事件は26日だったと言うがまともに報道されず、29日夕刻になって発表され、ただちに被疑者が逮捕された。監視カメラ総動員の捜査だったという。事件の真相もよくわからないし、捜査の経過もよくわからないが、情報統制と世論操作が行われたことは隠されていない。思想・イデオロギーによるのか、悪ふざけなのか。凶器は虹のように輝いただろうか。桐山襲が存命ならどのようにコメントしただろうか。


桐山の小説「パルチザン伝説」が右翼の圧力により出版中止となったのは1983年。翌年に作品社から出版されたが、さまざまな憶測が流れた。

本書は、刊行委員会が桐山にインタヴューをして、事件の全貌を明らかにする試みだ。巻末には日誌、資料(新聞記事、批評、コラム)が収録されている。パルチザン伝説事件の基本資料である。

天皇制にかかわる文学作品が右翼に弾圧された事件では、当事者が沈黙に追い込まれ、真相が不明のままに終わることが珍しくない。深沢七郎や大江健三郎も沈黙を余儀なくされた。だが、桐山は本書で大いに語る。作品執筆の過程、文芸賞受賞、出版に向けての準備、週刊新潮記事とこれに誘発された右翼の圧力、これに対応しきれなかった出版社、第三書館のゲリラ出版、作品社からの文学書としての出版。これらの過程を詳細に明らかにしつつ、文芸批評家や各種の評論家による誤解を匡す。


先に次のように書いた。

<『パルチザン伝説』を初めて読んだのはいつのことだったか覚えていない。『文藝』1983年10月号を手にしていないし、本書・作品社版も見た記憶がない。私が手にしたのは、著者・桐山の意志に反して海賊出版された第三書館版だった。

深沢七郎の『風流夢譚』や大江健三郎の『政治少年死す』は学生時代に、学生の時の英文学ゼミの教授からコピーをもらって読んでいたから、本書がそれらに次ぐ問題の書ということはよく理解していた。第三書館版が当時どのくらい世に出たのかは知らないが、大学生協の書店で普通に購入したように思う。院生時代、たぶん1980年代後半だったのだろう。>

本書を再読して思い出した。最初に読んだのが本書だった。そこで生協で探したところ、第三書館版を見つけたのだった。本書が1987年の出版だから、その後のことだ。

当時の新聞記事などをおぼろげに覚えていたつもりだったが、生の記事を見たのではなく、本書に収録された資料を読んだに過ぎなかったのだろう。

Friday, April 26, 2019

桐山襲を読む(5)抗う時代の燻る残滓を編む


桐山襲『聖なる夜 聖なる穴』(河出書房新社、1987年)

天皇暗殺計画の虹作戦を扱ったパルチザン伝説で「事件」となった桐山は、天皇暗殺事件そのものを描いたわけではなく、あの時代の青年たちの社会意識のありようを主題としたのだったが、とはいえ、やはり天皇暗殺が重要モチーフだった。同様に本作では、皇太子夫妻沖縄訪問に対する抵抗の試みを、明治における琉球処分の血の沖縄植民地化に抗する謝花昇の闘いと並行させて語る。現在の闘いと100年前の闘いを交錯させながら、現実と伝説をスパークさせる手法が桐山流である。

沖縄の娼館に通う「やまと」の男と、借金のために娼婦にさせられている少女の会話を柱に据えながら、過去の謝花の闘いと、現在の反・皇太子訪沖の孤独な闘いをからませて、日本と沖縄の歴史と現在を描く構成は、桐山らしい巧みな構成となっている。

パルチザン伝説では、主人公は沖縄の片隅で死んでいくように設定されているが、本作では謝花昇と同じ姓の主人公が、ひめゆりの塔の下の洞窟から飛び出して、頭からガソリンをかぶり、「一個の炎となって洞窟から飛び出してきた」。

「人間の形をしたオレンジ色の炎が、何かを叫びながら、幾歩か前へ進んだ」が、倒れて燃え上がる。皇太子夫妻は無事であった。そこに沸き起こる民衆の指笛。老婆たちのカチャーシー。

1968年から70年の間に投じられた無数の火炎瓶。

コザ暴動から5年後に皇太子夫妻の足元に投げ込まれた人間火炎瓶。

ここに、抗う時代の燻る残滓が文学作品として提示されている。正義も成算もなく、希望も感動もなく、ただ、ひとかたまりの憤怒を造形し直し、悲哀と悲惨の彼方に据えて見せた桐山は、新川明の『反国家の兇区』(現代評論社)を文献として掲げる。

反復帰論の名著を掲げることで、桐山は、沖縄からやまとを撃つと同時に、やまとの中で国家を撃つ思想を文学世界に甦らせようとする。それを受け止めるだけの精神が、やまとには、ほとんどなかったというしかないのだが。

Monday, April 15, 2019

ポストフェミニズム化する日本とは


菊地夏野『日本のポストフェミニズム』(大月書店、2019年)

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b437905.html

第1章 ネオリベラリズムとジェンダーの理論的視座

第2章 日本におけるネオリベラル・ジェンダー秩序

第3章 ポストフェミニズムと日本社会――女子力・婚活・男女共同参画

第4章 「女子力」とポストフェミニズム――大学生アンケート調査から

第5章 脱原発女子デモから見る日本社会の(ポスト)フェミニズム――ストリートとアンダーグラウンドの政治

第6章 「慰安婦」問題を覆うネオリベラル・ジェンダー秩序――「愛国女子」とポストフェミニズム


『ポストコロニアリズムとジェンダー』(青弓社)から9年、菊池は今度はポストフェミニズムに切り込む。

ナンシー・フレイザーの見解を受けて、菊地は「ネオリベラリズムとフェミニズムの関係性の根深さ」を「共犯関係」として把握する。

「二者の『共犯』関係は、女性たちの市場参加への意欲と承認への欲求、政治参加の要求が資本へ養分を提供するという形で再編成されたのである。

 この時点で、新自由主義と新保守主義を分かつ境界線が見えなくなってくる。保守的なジェンダー秩序を唱える新保守主義と、一見『平等』や『自由』を掲げる新自由主義が、女性への抑圧という点では同様の作用をもつ。

 だが、おそらく新自由主義と新保守主義は女性の抑圧における共通性において依存しあっている。その間にフェミニズムはあり、翻弄されている。この全体を『ネオリベラル・ジェンダー秩序』として言語化し、批判的な言説や理論を創造することが必要である。」

 フレイザーとフーコーに学びつつ、菊地はネオリベラル・ジェンダー秩序が日本の現実を支配している構造を問い直す。これは容易なことではない。「新自由主義は私たちの世界認識に一体化しているため、そこから身を剥がす必要がある。なかでもジェンダーとセクシュアリティは個々の主体化の内部に関わる要素であるため、身を引き剥がすのが難しい」からである。

菊地は、女子力・婚活・男女共同参画、脱原発女子デモといった現象を可能とするネオリベラル・ジェンダー秩序を一つひとつ検証していく。メディアにおける流行においても、学生へのアンケートにおいても、研究者の言説においても、ネオリベラル・ジェンダー秩序が巧みに配備され、これに規定されて、私たちの社会認識が形成されている。

さらに、菊地は「慰安婦」問題のありようもネオリベラル・ジェンダー秩序に貫かれていることを見る。マスコミや支配的言説における「慰安婦」問題の隠蔽、ヘイト・スピーチ論議におけるコロニアリズム認識の欠如、朴裕河の『帝国の慰安婦』の日本知識人による称揚、「慰安婦」否定の日本女子の活躍を貫くのがネオリベラル・ジェンダー秩序なのだ。ポストフェミニズムが「愛国女子」を用意するメカニズムが明らかにされる。

日本フェミニズムはどこへ行くのか。その答えはまだ充分明らかではないが、菊地は運動を支える理論の再生を自らの課題として引き受ける。

Thursday, April 11, 2019

琉球/沖縄シンポジウム第9回


琉球/沖縄シンポジウム第9回



県民投票を受けて、いま何をすべきか~沖縄の自己決定権と「本土」の応答



2月24日、辺野古米軍基地建設のための是非を問う県民投票。そして、現在――新基地建設に反対する沖縄県民の民意はこれまでも何度も示されてきましたが、辺野古への土砂投入が行われてる今、今回の県民投票の結果を日本「本土」の市民は厳粛な気持ちで受け止めなくてはなりません。沖縄の民意に具体的な行動で応答することが求められています。



沖縄で県民投票を実施するため運動してきた元山仁士郎さんと、東京都小金井市で普天間飛行場の代替施設について、全国で議論する必要性を求める陳情を提出した米須清真さんをお招きして、いま、日本「本土」で、どのような運動を展開すべか。平和と平等をあきらめない市民の取り組みを一緒に考えましょう。



パネル発言者

・米須清真さん(小金井市議会に沖縄基地問題について陳情提出)

・元山仁士郎さん(「辺野古」県民投票の会代表)

・佐々木史世さん(沖縄の基地を引き取る会・東京)

・野平晋作さん(司会、ピースボート共同代表)



日時:2019年4月27日(土)午後2時~4時30分(開場1時30分)

会場:東京しごとセンター講堂

 東京都 千代田区飯田橋3丁目10-3

 JR中央・総武線「東口」より徒歩7

 都営地下鉄大江戸線・東京メトロ有楽町線・南北線「A2出口」より徒歩7

 東京メトロ東西線「A5出口」より徒歩3

参加無料



主催:琉球/沖縄シンポジウム実行委員会

 東京都八王子市宇津貫町1556東京造形大学・前田研究室

 電話042-637-8872090-2466-5184(矢野)

 E-mail:maeda@zokei.ac.jp

天皇制の表層を掠める文学


赤坂真理『箱の中の天皇』(河出書房新社)



文学による天皇論として話題なった小説なので、読んでみた。

2016年の天皇の退位メッセージを素材に、天皇制をつくり出したマッカーサー、戦争責任を問われることなく神から人間に横滑りした父親、最初から人間として即位し象徴天皇の任務をひたすらこなした息子の歴史と現在を独特の手法で描いている。

石牟礼道子やベアテ・シロタ・ゴードンも登場するが、おまけの味付け。

横浜のグランドホテル、ニューイングランドの解説が続くが、その舞台装置に必然性はないし、後半では忘れ去られている。舞台はどこでも良いのだろう。


天皇論の趣向は、本物の箱と偽物の箱。箱は、象徴の任務、役割、機能だ。寓意ではなく、直接的に比喩表現されている。日本国憲法の制定過程におけるマッカーサー、GHQG2などの立場や、これを受け入れた日本国民にも射程が及ぶ。それゆえ、箱の中にいるのは、天皇と言うよりも、国民だろう。天皇と国民が野合した象徴天皇制なのだから。


表題から、『匣の中の失楽』を思い出し、そこから『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』を連想したが、そうしたメタ・ミステリとは無縁のそっけない文体、時空を超えたシチュエーションにもかかわらず幻想性も合理性もない赤坂節。

結局、震災の地に赴いて民のために祈り、共に在ること、その象徴的行為の積み重ねによって天皇制を正当化する理屈が並べられてオシマイ。

天皇制の表層を掠める文学――しかし、今や、天皇制の表層を掠める文学すら稀有のこの国だ。赤坂真理はむしろチャレンジングな作家と言うべきなのだろう。

Tuesday, April 09, 2019

桐山襲を読む(4)叛逆の叙情詩はどこへ行くか


桐山襲『スターバト・マーテル』(河出書房新社、1986年[河出文庫、1991年]


連合赤軍事件から12年後の山荘に住む32歳の女性の記憶と夢のあわいで起きる、よみがえった革命戦士達との出会い。

山岳ベースに至る途上で死骸を埋め隠した場所で、12年後に発見された8個の<穴>。

――私とその友人達が、ある夜、語り継いだ物語は、連合赤軍事件から12年後の「現在」における鎮魂の「スターバト・マーテル(たたずめる聖母、悲しみの聖母)」。

表題作で、桐山は連合赤軍事件による悲劇の受難者たちをモデルに、時代の混迷と悲哀を描く。陰惨な叙事詩ではなく、叛逆の叙情詩を送り出した桐山への批評が分かれたようだ。例えば菅野昭正のように、叙情詩よりも叙事詩をこそ描くべきだとする文芸批評もあったからだ。

なるほど正しい。だが、桐山が、なぜ、叙情に固執したのか、その理由こそ重要だ。


韓国の移動サーカス団を舞台とする「旅芸人」で、桐山は、団長、小人、占い女、火男、歌手、息子たちの生きられなかった生を通じて、権力と抵抗の火花を描く。


最終作「地下鉄の昭和」で、桐山は読者を靖国神社に誘う。登場人物は2人。1人は上品な小豆色のお召しを来た女で、夫は魚雷攻撃のため溺死し、あの戦争から帰ってこなかった。もう1人は、決戦を目前としての玉音、敗戦によって時間が止まってしまった元隊長。互いに見知らぬ2人は、出会うこともなく、それぞれが地下鉄の乗客として靖国へ向かう。「<昭和>という時代の中で完璧に疲れ果てた一対の老夫婦のように」。

「それというのも、天皇のために死んだ者たちは必ずその場所に集まるものであると、彼らが繰り返し教えられていたからだった。実際、もしも天皇が死者たちを祀らなかったならば、そこは首都の中の単に殺風景なだけの広場であるにすぎなかった。」


<昭和>という鬼胎が私たちの眼前に提出した天皇制、靖国神社、戦争、植民地・朝鮮、連合赤軍事件という一連の地獄図絵に、叛逆のレクイエムを。


Sunday, April 07, 2019

ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART) 勧告についての声明


                 2014年8月、アイム’89東京教育労働者組合は、ILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(CEART セアート)に対して、日本政府が「教員の地位に関する勧告」を遵守していないことについて、是正勧告をおこなうよう求める申し立てをおこなった。       アイム’89の申し立ては、おもに以下3点についてである。

 1、教職員は,卒業式・入学式において「日の丸・君が代」への敬愛行為を強制され,思想良心の自由を侵害されています。

2、教員は,卒業式・入学式の実施内容に関して何ら決定権を持ちません。教員は教育の自由の権利を侵害されています。侵害は,年を追うごとに領域 が拡がり,深刻になっています。

3、教職員は,自らの思想良心,教育信念にもとづいて,卒業式・入学式において「日の丸君が代」起立斉唱命令に従わないと,懲戒処分を科され,経 済的不利益,精神的苦痛を被ります。そればかりか,考え方を改めるよう に再発防止研修という名の思想転向を強要されます。また退職時には,再 雇用職員への採用が拒否され,5年間の教育的関わりの機会が剥奪されま す。

セアートはこの申し立てを受理し調査を実施。また、日本政府へ問い合わせをおこない、アイム’89・日本政府双方に反論を述べる機会を与えたうえで、2018 10月、ジュネーブにおいて開かれた委員会において国際労働機関(ILO)と 国連教育科学文化機関(ユネスコ)に対する報告・勧告を採択した。

この勧告について、2019年3月ILO理事会が承認し公表された。ユネスコにおいても、4月中に執行委員会が開かれ、ILO 同様に承認・公表される見通しとなっている。

セアート勧告は、以下6点である。

 a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとす る。

 b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。

c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。

d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。

e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。

f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること



                 「教員の地位に関する勧告」は、1966年にユネスコが全会一致で採択した教員にとっての「人権宣言」とも言うべきもので、全世界の教員の自由、専門職性を認め、その地位の保護と向上を各国政府に求めたものである。

                しかしながら、日本では1989年学習指導要領に「国旗国歌を指導するものとする」との文言が加えられて以後、学校の卒業式・入学式における「日の丸」 掲揚および「君が代」演奏について調査し結果を公表したため、その実施率は 飛躍的に上がっていった。さらに1999年、政府が「起立斉唱を強制するもので はない」と公言していた国旗国歌法成立後は、その流れに拍車がかかった。

                そのようななかで東京都は、2003年「教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国家を斉唱する」とした「1023通達」を発した。通達では、「職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」としており、これまでのべ 483名が戒告、減給、停職処分を受けている(2019 年3月現在)。処分者には「再発防止研修」が懲罰的に課され、すべての処分者は定年退職後の 再雇用希望も拒否されつづけている。

                裁判所は、職務命令は合憲とし、処分も停職や減給こそ重すぎるとしたものの、戒告については裁量権の範囲内という判決を下している。また、再雇用拒否についても裁量権の範囲内との判断をしている。

                 また、通達は「舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する」、「児童・生徒 が正面を向いて着席するように設営する」等、式の実施内容・方法について細かく規定しており、卒業生の作品を会場いっぱいに掲示する等の、学校独自の 創意工夫に満ちた式の実施を排除した。とくに、障がいをもった子どもたちの 学校では、試行錯誤してつくりあげてきた、車椅子の子どもが自由に動いて証 書を受け渡すことが可能な「フロア式・対面式」も否定され、1人では壇上へ動くことができず、自由と尊厳を奪われる事態までおこっている。「 君が代」斉 唱時、教員は指定された席での起立を強制されるため、障がいの重い子どもたちがケアを受けられず、生命の危険に見舞われることさえおこった。

                「日の丸・君が代」の強制は、教員の自由を侵害するだけにとどまらず、子どもたちの自由と尊厳をも奪うことである。

                セアート勧告は、アイム’89の主張をすべて認めたものと言え、教員と子どもたちの自由・尊厳を高らかに認めた画期的なものであり、全世界の教育にたずさわる人々を勇気づけるものである。

アイム’89は、この勧告の意義を深く自覚し、日本および世界中の教育にたずさわる人々と協働し、「教育の地位に関する勧告」および「セアート勧告」の実現に向けて努力することを宣言し、日本政府および各機関に以下のことを要請する。

・日本政府および文部科学省は、「日の丸・君が代」が強制されるべきものではないことを明確に示し、各地方自治体教育委員会に通達すること。

・各地方自治体および各地方自治体教育委員会は、直ちに「日の丸・君が代」を強制する条例や通達等を廃止・撤回すること。

・各地方自治体教育委員会は、「日の丸・君が代」強制による処分のすべてを取り消すこと。

 ・日本政府および文部科学省、各地方自治体教育委員会は、学校における卒業式・入学式等の実施内容・方法について、教職員団体と話し合いをする機会を設定すること。

 ・日本政府および文部科学省、各地方自治体教育委員会は、学校における卒業式・入学式等の実施内容・方法について、すべての教職員および子どもの自由と尊厳が尊重され、ニーズが満たされるものとなるように設定すること。

 ・文部科学省および各地方自治体教育委員会が設定する教員研修については、 教員の専門的発達を目的とする以外のものとしないこと。

・最高裁判所および下級裁判所は、「教員の地位に関する勧告」および「セアート勧告」に照らし、「日の丸・君が代」強制により損害・不利益を被った者の訴えに対し、正当な補償・救済をすること。



以上



アイム’89東京教育労働者組合

2019年4月6日



(資料)セアート勧告原文 (a) convene dialogue with teacher organizations concerning rules regarding patriotic ceremonies, with the aim of agreeing on teachers’ duties in respect to such ceremonies and which can accommodate teachers who do not wish to participate in the raising of the flag and singing of the national anthem; (b) convene dialogue with teacher’s organizations about disciplinary mechanisms with the aim of avoiding punishments for passive, non-disruptive acts of non-compliance; (c) consider involving peer teachers in disciplinary review bodies; (d) review and change policy and practice on in-service teacher training to ensure that its aim remains the professional development of teachers, and is not used as an instrument of discipline or punishment; (e) review requirements in respect of patriotic ceremonies in light of the needs of students and teachers with disabilities, and those working with students with disabilities; (f) keep the Joint Committee informed of efforts on the above recommendations.

4.19院内集会  ILO・セアート初「日の丸・君が代」勧告


4.19院内集会

ILO・セアート初「日の丸・君が代」勧告



4月19日(金)

13時    通行証配布

13時30分 記者会見

14時    院内集会

参議院議員会館B107会議室



発言:

寺中 誠(東京経済大学)

前田 朗(東京造形大学)

アイム89、他



アイム89東京教育労働者組合は、2014 ILO/UNESCO 教職員勧告適用合同専門家委 員会(セアート)に「日の丸・君が代」強制は教員の「地位勧告」に違反していると 申し立てました。このほど初めて「思想・良心」に関わるこの問題に、ILO 勧告が出 されました。目をみはる内容です。共有しましょう。ぜひご参加ください。



主催 アイム89東京教育労働者組合

連絡先042-570―1714(アイム)

桐山襲を読む(3)それぞれの闘いの物語を


桐山襲『戯曲 風のクロニクル』(冬芽社、1985年)


先に出版された小説『風のクロニクル』における「劇中劇」「小説中劇」を独立の作品にした戯曲である。構成、粗筋、登場人物等は共通だが、加筆がなされていて、桐山自身は「全く異なった作品」と述べている。大半の読者は「同じ作品」と受け止めるのではないだろうか。


初演は1985年12月、青年座である。作・桐山、演出・越光照文。主な役者は新谷一洋、まつうらまさのり、水木容子。


1968年に大学に入学し、サークルで出会った若者たちが、全国の学園と同様に紛争に突入し、学生会館占拠に突入する。大学当局、警察との闘いと、<革命の葬儀屋>との闘い。

他方、その一人の祖父が闘った神社合祀阻止。民衆の神々を殺戮して、天皇に服従する神々の日本を作り出す政府に対して、民衆の神々を守る闘いの中、村人によって惨殺される神官夫妻。

小説と大きく異なるのは、全共闘のその後、を描いていることだ。闘いから抜けた元学生は1985年のクリスマスに、企業の課長補佐となり昇進をめざす。学生運動と言えば小説『僕って何』しか知らない若者たち。


<本当はきみに書いてもらいたいんだ。誰かが書かなくちゃならない、俺たちの時代のことを>


あの闘いの事実を、意義を、誰かが書き留め、世間に公表していかなければ、闘争そのものが忘却されてしまうという不安を、この世代は持っているようだ。

ガンダムの安彦良和も、あの闘いが描かれていない、みんな沈黙してきた、と述べていた。

これは不思議な話だ。全共闘世代による回想録は山のように出版されてきたからだ。全共闘世代による記録、回想はおびただしい。同時代を生きたさまざまな世代による論評も膨大である。それにもかかわらず、当事者の一部は、誰も書いていない、書かなくては、と訴える。

おそらく、あの闘いは一つの闘いではなく、同時並行の多様な闘いで蟻、いつ、どこで、誰とともに、どのように闘ったのか。これによって物語が異なるのだろう。AにはAの闘いの物語があり、それはいまだに書かれていない。BにもBの物語がある。そして、CにもCの物語。このため、桐山も焦燥感とともに、パルチザン伝説や風のクロニクルを書いたのではないだろうか。




Friday, April 05, 2019

桐山襲を読む(2)100年の大逆のクロニクル


桐山襲『風のクロニクル』(河出書房新社、1985年)


5つの「通信」に記された1968年の学園紛争の情景と、100年前の祖父の世代の神社合祀阻止の闘いの二重構造の物語である。

学園紛争の情景も、主人公とその仲間たちの出会いから別離に至る小説本文と、「劇中劇」として主人公によって綴られる演劇によって、並行して進行する。

党派の論理を超えてつくり出されるはずだった全共闘の論理の破綻。権力との闘い、<革命の葬儀屋>との闘い。闘争の中の恋。心身ともに傷つき、言葉を失って回復不能の<語れない石>となって故郷へと帰る若者。その故郷においてかつて闘われたはずの神社合祀阻止の闘い。6万6000もの民衆の神々の殺戮と、天皇の神々による支配。破壊された神社、再建する神官、<語れない石>となった孫の根拠地。<革命の葬儀屋>に肉体的に破壊された彼女の故郷・沖縄の地への訪問。

桐山の想像力は、学園闘争における権力との闘いと、100年前の神社合祀阻止の闘いを繋ぎ合わせ、そこに沖縄の神女をも繋げてみせる。パルチザン伝説やその後の「亡命」の地として演出された「沖縄」。パルチザン伝説では双子の兄が言葉を失い、クロニクルではNが言葉を失う。儚くついえた夢と闘いの果てに言葉を失う青年を桐山は繰り返し提示する。ここに南方熊楠と柳田国男を絡ませるのだから、なかなか用意周到だ。


「1970年代の丁度中間の年に<語れない石>となったきみが、この国の現在に甦らせようとしているもの――それは、<東方の祭王>によって滅ぼされたT村の神であるかも知れず、またその神を守る者として<体じゅうの穴から血を流した姿>となった祖父であるかも知れない。或いは、弟の身代わりとなるかのように土の中に埋められた<姉>であるかも知れず、また<革命の葬儀屋>によって殺害されていった彼女であるかも知れない。それが孰れであるか、僕は知ることがないのだが、祖父の年代と僕たちの年代を貫いて、この国そのものを否定するために、共通の血を流し、共通の死を死んだ者たちのために、きみはその死者たちと出逢い、その死者たちの意志を継承する場所――僕たちの時代の<黄泉帰りの場所>とでも呼ぶべきものを、あの神山の奥に定めたのではないだろうか?」


かくして桐山は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』の世界に足を踏み入れたわけだが、作品の仕上がりとしては、まだまだ、と言うところだろう。

100年の大逆のクロニクルを描くには、160頁の本作では不十分である。分量だけではない。父の世代の闘いの素描があまりにあっけないのが一つ。僕たちの世代の闘いはやや具体性を帯びているが、学生会館占拠闘争の断片にとどまる。そして、100年の大逆のつながりの必然性がよく見えない。

本書は初めて読んだ。パルチザン伝説でデヴューした桐山の35歳の構想力と、文体が確立されていく過程の記念碑と言うべきだろうか。

Tuesday, April 02, 2019

市民のための実践国際人権法講座:強制失踪


市民のための実践国際人権法講座第14

強制失踪条約と強制失踪委員会

――日本人拉致問題と「慰安婦」問題を考える



4月21日(日)開場13:30、開会14:00~16:30

吉祥寺南町コミュニティセンター第1会議室

JR吉祥寺駅から徒歩10分

参加費:500円

講師:前田朗




シンポジウム:福島原発集団訴訟の判決を巡って


福島原発集団訴訟の判決を巡って

民衆の視座から



4月20日(土)開場14:30、開会15:00~18:30

スペース・オルタ

横浜市港北区新横浜2-8-4

045-472-6349

新横浜駅北口から徒歩7分



小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)

崎山比早子(医学博士、元放射線医学総合研究所主任研究官)

黒澤知弘(かながわ訴訟弁護団事務局長)

村田 弘(かながわ訴訟原告団長、原発民衆法廷事務局)

司会:前田 朗(東京造形大学教授、原発民衆法廷判事)

参加費:1000円



主催:福島原発かながわ訴訟原告団、ふくかな、平和力フォーラム、脱原発市民会議かながわ

協賛:市民セクター政策機構、スペース・オルタ

Monday, April 01, 2019

時代を映すミステリー


古橋信孝『ミステリーで読む戦後史』(平凡社新書、2019年)


著者は古典文学研究者だが、本書は戦後日本のミステリーを通じて戦後史を追いかける趣向である。小学校時代に江戸川乱歩、シャーロック・ホームズ、中学時代にエラリー・クイーンを読み、それ以来、松本清張、横溝正史、鮎川哲也、土屋隆夫などを読んだという。ごく普通のミステリー・ファンと言ってよいだろう。

ただ、文学研究者だけあって、ミステリーをミステリーとして読むだけではなく、ミステリーとその時代、社会状況を関連づけて読む作業はお得意である。

本書では日本推理作家協会賞受賞作を中心に、乱歩賞党も含めて、戦後の代表作を取り上げている。時代区分は1950年代まで、1960年代、1970年代と、10年ごとになっている。1950年代まででは「戦後の社会を書く」として、横溝、多岐川恭、香山滋、大藪春彦、坂口安吾、高木彬光、鮎川、仁木悦子、島田一男をとりあげている。

1960年代では「戦後社会が個人に強いたもの」として、松本清張、水上勉、笹沢佐保、藤村正太、西東登、河野典生、結城昌治。


このように代表的なミステリー作家が順に出てくる。1990年代までの作品は私もほとんど読んだ。ところが2000年代以後の作品はほとんど読んでいない。薬丸岳、笹本凌平、横山秀夫、山田宗樹、宇佐美まこと、佐々木謙、米沢穂信などの18冊が紹介されているのに、高野和明『ジェノサイド』以外は読んでいない(高野は死刑を扱った『13階段』の著者だ)。2000年以後、多忙のあまりミステリー作品をあまり読まなくなったことがわかる。今後はもう少し読むようにしよう。


有名作家で取り上げられていない例も目立つ。和久俊三、都筑道夫、島田荘司、笠井潔などだ。綾辻行人もほんの僅か触れられるだけ、歌野晶午の<葉桜>にも言及がない(年表には出てくる)。紙幅に限界があり、日本推理作家協会賞受賞作を中心にしているのだからやむを得ないが。