Monday, November 28, 2011

検察改革は何をどう反省したのか

検察改革は何をどう反省したのか





首をすぼめて



 大阪地検特捜部証拠改竄事件の元特捜部長らに対する刑事公判が始まったが、本件を受けた検察改革が動いている。その一環として、検察の使命や役割を示すために最高検察庁が「検察基本規程」を作成しているといい、その原案が明らかになった(朝日新聞九月二五日付)。これまで検察には、国家公務員としての服務規律以外に、職務上の行動基準を明文化したものはなかったため、「検察の在り方検討会議」提言が「倫理規程」を提言したので、最高検が職員の意見を聞いてまとめたという。



 原案は、総論的な基本理念と、捜査・公判実務に関連して一〇項目の心構えでできている。記事によると「厳正公平、不偏不党を旨とする」「基本的人権を尊重し、刑事手続きの適正を確保する」「無実の者を罰しないようにする」「被疑者・被告人の主張を踏まえ、十分な証拠の収集に努め、冷静・多角的に評価する」「取り調べで供述の任意性の確保など必要な配慮をする」「犯罪被害者の心情を酌み、権利・利益を尊重する」「関係者の名誉を不当に害さないように、証拠情報を適正に管理する」「国民から託された責務の重大性を自覚し、幅広い知識や教養を身につける」などが主な項目だという。



中には「常に有罪を目的とし、より重い処分を実現すること自体を成果とみなすかのような姿勢になってはならない」「自己の名誉や評価のために行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことも恐れない」などの表現も盛り込まれたという。証拠改竄については「証拠情報を適正に管理する」と明記したことが「特徴」だという。



要するに一般論である。この程度のことを今頃決めていること自体、お笑いでしかない。



また、大阪地検特捜部事件を受けて、法務省は春と秋の叙勲で元検察官の推薦を「自粛」しているという(朝日新聞九月二五日)。証拠改竄が発覚して以後、受賞はゼロで、今後も「世論の動きを見て判断する」という。新聞記事は「慎重だ」などと書いているが、ほとぼりが冷めるのを待っているのが本当のところだ。



首をすぼめてほとぼりが冷めるのを待つ。大阪地検特捜部の解体さえするつもりはない。検察基本規程をつくりましたと言えば、メディアや御用学者が追認してくれる。どうせ基本規程であって、法律ではない。一般論を書いておけば、あとはどうにでもなる。そもそも遵守義務はまったくない。そんなことより、反省するふりをしてどさくさまぎれに権限拡大を狙う。本年四月の国家公安委員長の私的諮問委員会「捜査手法、取調べの高度化を図るため研究会」中間報告、続く六月の法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」の発足を見ると、検察改革が実際は権限拡大、治安維持強化を狙っていることがわかる(本紙前号の遠藤憲一論文参照)。



火事場泥棒あるのみ



 雑誌『ジュリスト』一四二九号(二〇一一年九月)は「特集・検察再生のゆくえ」を組んでいる。冒頭に座談会「検察改革と新しい刑事司法制度の展望」、次に松尾浩也(東京大学名誉教授)「検討会議提言を読んで」、続いて加藤俊治(法務省検事局参事官)「検察の在り方検討会議の議論の経過及び提言の実施状況」、最後に田口守一(早稲田大学教授)「新しい捜査・公判のあり方」が掲載されている。この構成自体が、特集が、検察不祥事を利用して行われる検察改革において「新しい捜査・公判」への道を払い清める役割を目指していることが分かる。



 座談会メンバーは、大澤裕(東京大学教授)、岡田薫(整理回収機構専務取締役、元警察庁刑事局)、田中敏夫(弁護士)、田中康郎(明治大学法科大学院教授、元札幌高裁長官)、三井誠(同志社大学教授)、渡邉一弘(東海大学法科大学院教授、元札幌高検検事長)である。座談会前半は「検察改革」をめぐってであるが、検察基本規程をめぐって検察の使命・役割・倫理に関していくつか発言があるものの、本田正義の「検察十戒」(一九七三年)や、客観義務論との関連で多少の反省が語られているだけで、見るべき発言はない。



座談会後半は「新たな刑事司法制度の構築」で、まず「取調べ・供述調書の偏重見直しと取調べの可視化」で、弁護士の田中敏夫が「私どもは取調べの可視化というのは全過程、つまり取調べの最初から最後までを原則録画、例外的に録音をするということだと定義付けしています」と述べて足利事件、布川事件などに言及しているが、司会の大澤裕が「全過程の可視化には反対論も少なくないですね」と応じて、田中敏夫が再反論している。田中敏夫の健闘が目立つが他の発言が少ない。元判事の田中康郎が公判の在り方について若干発言し、元検事の渡邉一弘が全過程の可視化には懸念・危惧がある、まだまだ疑問があると述べている程度である。一部録音・録画について賛否の発言が続くが、全体として消極的である。可視化以外に何も改革するつもりのないことが分かる。



ところが、「新たな捜査・公判の在り方」がテーマになると途端に発言が熱を帯びてくる。元警察庁の岡田薫がDNA型データベース、通信傍受、司法取引について矢継ぎ早に述べたてている。検察改革ではなく、警察のための制度改革である。これに対して田中敏夫がいくつか疑問を提起しているものの、岡田薫、渡邉一弘が牽引し、大澤裕と三井誠が補充する形で話が進行している。



特集最後の田口守一論文「むすび」の次の言葉が印象的である。



「もともと、取調べを重視し、供述調書に依存する刑事司法の形態それ自体が誤っていたという問題ではない。このような手続形態にはふさわしくない事件に対しても一律にこのような手続形態をモデルとしてきたことが反省されるべきだったのである。事件にはそれぞれ個性がある。刑事手続きも、その個性に対応できるように、より多様な手続形態を準備しておかなければならない。」



つまり、捜査当局の手を縛るような手続形態に問題があり、捜査当局が思いのままに活用できるように多彩な手続形態を用意すればよいというのである。大阪地検特捜部事件の教訓をこのようにまとめてしまうならば、捜査当局による供述強要がなくなることはないだろう。証拠捏造・改竄・隠蔽の捜査実務が改善されることは期待できないだろう。それどころか、事件の「個性」に応じたますます個性的な驚愕の冤罪が増加するだけではないだろうか。



「救援」510号(2011年10月)

Friday, November 25, 2011

「疚しさを背負って生きる覚悟」

拡散する精神/萎縮する表現(6)


疚しさを背負って生きる覚悟




 鈴木邦男『新・言論の覚悟』(創出版)は、月刊『創』の連載「言論の覚悟」(二〇〇三年~一〇年)をもとに一冊にまとめたものだ。二〇〇二年の『言論の覚悟』(創出版)は発表順に並べていたが、今回は三部構成である。



 第一章「言論の覚悟!」では、右翼の原罪、皇居美術館、元凶は「反日」という言葉、愛国者のモノローグなど、右翼や愛国者の主張と行動を検証している。もともと新右翼・一水会を創立し永年代表を努め、現在は顧問の著者だが、近年の主張はしばしばもはや右翼ではなく左翼ではないかとも言われるように、右翼の主張と行動を検証する姿勢が目立つ。右翼か左翼かが問題ではなく、言論としてどちらに説得力があるのか、思想の根拠は何なのかに関心が向けられる。天皇論議のタブーや、反日映画とされる『靖国』『天皇伝説』『南京・引き裂かれた記憶』『ザ・コーブ』の上映妨害問題を取り上げて、「そんなに酷い映画なら逆に全国民に見せたらいい。『やっぱり酷かった。君たちの言うとおりだ!』と『主権回復』の人たちが絶賛され、支持されるだろう。あるいは、映画を見ようとする人々に『見るうえでの注意』をビラに書いて、静かに配布する。そうしたら大きな効果がある。国民皆が立ち上がり、『主権回復』の人々と共に、反日映画反対運動が全国で巻き起こるだろう」という。国民が反日映画に洗脳されるなどと心配するのは、国民を馬鹿にし、信頼していないからだ。上映妨害行動などよりも、言論の中味で勝負しろ、と訴える。



 第二章「赤軍・よど号・北朝鮮」では、元連合赤軍兵士で獄中二七年の植垣康弘、元赤軍派議長の塩見孝也、タイでドル偽造裁判無罪を勝ち取りながら日本に強制送還され、獄中死した田中義一らとの交流と対話を描きつつ、北朝鮮訪問談を語る。十回以上ビザ申請したが全て拒絶され、あらゆる手を使ってチャレンジしたがダメだったのが、二〇〇八年春に念願のビザ許可がおりて、北朝鮮で本音の討論を行ってきた。さらに、二〇一一年三月、よど号の小西隆裕、若林盛亮と面会を果した。「彼らは北朝鮮に行ったので、離れて日本を見、民族主義を考えることができた。その意味では北朝鮮に感謝すべきだろう。昔は敵だったが、今は、あの夢のある激動の時代を共に生きた『同志』のような気さえする。そして、フッと思う。今だから、こうして敬意を持って、自由に話を聞くことができる。でも、北朝鮮に行く前に出会っていたらどうか。敵として殺し合いになっていたか」という。左翼と右翼が激突していた六〇~七〇年代と、左翼も右翼も展望を見失って浮遊しているゼロ年代、テン年代。鈴木は、両翼の対立を乗り越えるために言論の戦いを続ける。



 第三章「映画から読み解く日本」では、昭和天皇を描いたロシア映画『太陽』、靖国神社問題を取り上げた日韓共同ドキュメンタリー『あんにょん・サヨナラ』、日本側から「高砂族」と呼ばれた台湾原住民の闘いを描いた『出草之歌』、日系二世アメリカ人女性が制作した『TOKKO(特攻)』、若松孝二監督の『実録・連合赤軍=あさま山荘への道程』、日本国憲法誕生の物語『日本の青空』などを取り上げて、日本の歴史と現在を問い直す。



 鈴木には、一度、講師依頼を引き受けてもらったことがある。二〇〇八年夏、八王子で「左右激突対談」と称して内田雅敏(弁護士)との対談をお願いした。左右両翼で有名な二人だが、この時が初めてだったという。ちょうど映画『靖国』上映問題が騒然としていた時期だ。鈴木は本書と同様に、上映妨害に反対し、右翼もこの映画を見るべきだ、その上で中味を徹底批判すればいい、と述べていた。そして、言論の自由がきちんと守られていない、議論の場がしっかり開かれていないから、上映妨害といった活動になる。右翼であろうと左翼であろうと、もっとしっかりした言論の場を提供・確保するべきだし、言論で闘うべきだと主張する。



 責任感抜きに言論の自由ばかりが語られる時代に、言論の責任を問い、言論の覚悟を語る鈴木のまっとうな意見が重みを増す。右翼でも左翼でもなく、個人として屹立した言論人の凄みを本書は見せてくれる。単なる正義や愛国ではない。むしろ、逡巡し、問題から逃れようとする自分に向き合うことが肝心だ。最後に鈴木はこう書いている。



 「『言論の覚悟』とは、疚しさを背負って生きる覚悟でもある。」








Tuesday, November 22, 2011

雨ニモ負ケズ 反省セズ(三)

拡散する精神/萎縮する表現(8)


雨ニモ負ケズ 反省セズ(三)




宮沢賢治が関東大震災朝鮮人虐殺をどう見ていたか、残された資料からは判明しない。判明しているのは、賢治が、朝鮮人迫害を煽った国柱会の熱心な会員であったことである。



 国柱会は日蓮宗僧侶だった田中智学(一八六一年~一九三九年)が開設した仏教団体・右翼団体として知られる。日蓮主義運動や国体学を提唱し、軍国主義時代の世界統一のスローガン  「八紘一宇」を最初に標榜したことも有名だ。陸軍軍人・石原莞爾や日本主義の評論家・高山樗牛も会員だった。



 賢治は一九二〇年一〇月に国柱会に入信した。このため信仰や職業をめぐって連日のように父親と口論している。今日ではこのことの意味がごく軽んじられているが、長子相続・家父長制の当時、祭祀を継承するべき長男が一族の宗教を投げ捨てて他の宗教に走るということはよほどのことである。父親から絶縁されたとしても不思議でない。賢治はそれほどの覚悟を以て国柱会に入信し、親友にも国柱会を推薦している。一九二一年一月二三日、家族に無断で上京し国柱会本部を訪れ、街頭布教に参加したが、妹が発病したため夏には故郷に帰っている。



 賢治の伝記では、このあたり巧みに描かれている。国柱会の名前を出しても、それがどのような団体であるのか一切説明しないものが多い。国柱会の名前を消して、日蓮宗系ないし法華経の団体に入信したと書いているものもある。国柱会の機関紙「天業民報」がどのような主張を展開していたかはもちろん隠される。



 田中智学と賢治についても、故意に曖昧にした文章が多い。智学の名前さえ出てこないものもあ智学との関係を隠蔽しようとしているのは明らかだ



①賢治は智学に感銘を受け、国柱会に入会し、「天業民報」を電柱に張りまわるほど熱心な会員であった。


②賢治は友人への手紙に「智学先生に絶対服従を誓う」と書いている。


③賢治は死ぬまでずっと一貫して国柱会会員であり、死んでからも戒名を付けてもらい、骨まで捧げている。



以上のうち、①は比較的知られるようになって認めざるを得ないため伝記でも①を認めつつ、「いや、さして影響を受けてはいない」とか、「すぐに花巻に帰った」と続けるものが目立つ多くの伝記は②③には言及しない。なぜ。「智学はヤバイ」と思っているから、智学と賢治を切り離そうとするのこのため事実をごまかすことにエネルギーを使ってしまう気持ちはわからないではないが、要するに、信じてないの、賢治を。これが賢治ファンなのだから、賢治も哀れと言わなくてはならない。



 他の作家であれば、何を読み、誰に影響を受けたのかは、重要な研究テーマである。日記や手紙を多く残した作家であれば、何月何日に何を入手して読み、それがいつの手紙に影響を与えている、といった研究は必須不可欠である石川啄木であれば、いつ幸徳秋水のクロポトキン訳を入手したのか、 原書を入手していたのか、いつ平出修弁護士から大逆事件記録を借りて、どこまで読んで、何を書き写したかを、啄木研究者懸命に追跡してきた。



ところが、賢治の伝記は、智学を隠蔽するため、賢治研究が成り立たなくなってしまう。「智学と賢治」必須課題なのに直視しようとしない。賢治について事実を知りたくない。賢治を信じていない。信じているのは、おそらく「賢治のファンである素晴らしい私」だけだろう



智学とはいかなる存在であり、いかなる「思想」を残したのか、何をしたのかを徹底解明すること。賢治は智学にいかにして出会い、なぜ入信したのか、何を読み、いかなる影響を受けたのか。何月何日の「天業民報」を、どのようにして入手し、どのように読んだのか、日記や手紙に何らかの影響を確認できるのか。一〇年間に渡って、つぶさに調べるのが普通である。その上で、智学から影響を受けた賢治が、どのようにして自らの思索を練り上げて、あの作品世界を作り出したのか。賢治の世界観はいかにして智学をも乗り越えたのかに進むことも重要だ。そうでなければ、いつまで経っても後ろ暗い賢治のままだろう(批判的分析を試みたものとして、山口泉『宮澤賢治伝説』河出書房新社)。

Tuesday, November 08, 2011

9条酒で平和をめざす

9条酒で平和をめざす



 高知県香美市土佐山田の松尾酒造はラベルに憲法9条の条文を印刷した日本酒「春夏秋冬・憲法9条」をつくっている。



松尾酒造


http://www1.ocn.ne.jp/~okina100/index.html



 松尾禎之(松尾酒造七代目)は、こう語る。


 「憲法と地酒という異なった二つのものですが、平和でなければいいお酒もゆっくり味わえません。9条の条文を読んで味わいながら、春夏秋冬・憲法9条をじっくり楽しんでもらいたいと思います。先代(六代目)は一九歳で召集され二等兵になり、軍隊でひどい目にあったそうです。戦争の悲惨さや辛さが身にしみているので、戦争には絶対反対ということで、9条ラベルに賛成してくれました。それと、私は大学は法学部でしたから、学生時代に憲法を学びました。憲法は、政治的な立場の右とか左とかを超えて、国家社会の基本を示すものです。憲法を守るのが政治の任務であって、憲法をないがしろにするのはまともな政治とは言えません。9条を踏みにじるような政治には大いに危惧を感じます。」



 松尾酒造は、一八七三(明治六)年創業で、「松翁」をつくっている。土佐山田は、一七世紀に土佐藩執政・野中兼山が物部川に堰を設け、疎水を掘り、新田を開発した地域である。松尾家初代が土佐山田に移り住んで以来、この地で暮らしてきたが、六代目が酒造を始め、松尾酒造初代となった。姓が松尾であり、醸造の神様も松尾様なので、同音の「松翁(まつを)」を酒銘としている。現在は「まつおきな」と呼んでいる。



 9条ラベルの発案は、地元「香美市9条の会」だった。酒を飲みながら、気楽に憲法9条を語ろうと思いついた。9条の会呼びかけ人に加わっていたこともあって、松尾禎之は9条酒づくりを快諾した。調べてみると、京都の佐々木酒造が「9条酒」を製造している。各地で「9条ビール」や「9条ワイン」を試みたグループもある。そうした事例を調べながら、独自の春夏秋冬・憲法9条を考案・製造した。ラベルにもこだわって、9条を全文印刷することにした。春夏秋冬としたのは、一年中どんな場所にいても9条を語ってほしいという願いからだ。



 9条ラベル松翁は、当初は二種類のセットを考えていたが、女性の意見も踏まえて三種類となった。まず、吟醸松翁・春夏秋冬・憲法9条で、精米歩合六〇%、原料米は吟の夢・風鳴子だ。やわらかなデリシャスりんごの香とふくらみのある味わいにした。次に、純米松翁で、精米歩合五五%、原料米は風鳴子。すっきりした酸味とバナナ/メロン系の香で、料理との相性もいい。味わいなめらかな辛口だ。吟醸も純米も四合壜に詰めた。さらに、試飲会における女性たちの声を聞いて、ピンクの小瓶(三〇〇ミリリットル)の純米吟醸を加えた。精米歩合五五%、原料米は風鳴子。すっきりした酸味とデリシャスりんご系の香にした(春夏秋冬・憲法9条は、松尾酒造のウエブサイトから注文できる)。



香美市9条の会



 代表の猪野睦によると、香美市9条の会は、二〇〇五年一月に結成された土佐山田9条の会に始まる。前年一二月に発足した高知9条の会の輪が県内に広がったのだ。9条の会は、思想、信条、支持政党の違いを超えて、戦争反対、9条改悪反対を呼びかけている。



土佐山田9条の会も、町内の書家、元教育長、元助役、茶道家、文学関係者など三四人が呼びかけ人となった。結成総会後、町内で講演会、映画『Little Birds――イラク戦下の家族たち』『戦争しない国日本』などの上映会を行った。



二〇〇六年、市町村合併で土佐山田町・香北町・物部町が合併して香美市になった。そこで土佐山田9条の会は香美市9条の会に発展した。その後も映画『日本の青空』上映会を行い、県内の他の9条の会との連携を模索してきた。



土佐山田の街中を歩くと、あちこちに緑の立て看板があるのに気づく。「憲法を守ろう」「戦争はいや」の看板は、土佐山田9条の会の頃につくって、多くの会員の協力の下に各所に設置した。三十数本に達する。香美市の各所にさらに増やしていきたいという。



また、各地の運動と同様に、9条グッズも手がけてきた。9条バッジや9条ストラップなど、9条グッズを手がかりに話題を繋ぎ、広げることができる。



こうした活動経過を踏まえて9条酒のアイデアが登場した。二〇〇八年六月、9条酒の完成を祝って「平和と酒のつどい」を開催した。



香美市9条の会によると、「待望の9条酒がうまいと評判を呼んでいます。濃紺の箱から取り出すと9条が目を引きます。ふだんあまり目にすることのない9条を読んでいくことで、日本国憲法の精神を再確認できます。これが世界に誇る平和憲法かと厳粛な気持ちにもなります。それから、さて一杯、とグラスについで、9条の精神にカンパイというのも、いいものです。秋の夜長には最高です。香美市から全国へ発信できる自慢の9条酒です」という(「香美市9条の会ニュース」二〇〇八年一一月より)。



歌い、語り、飲む



会員の岸野暢三は「川柳9条の酒」をつくった。



まつおきな 飲んで平和を 語るかい


9条を 肴に飲むや まつおきな


戦なき 平和に飲むや まつおきな


戦なき 平和に飲めや 宇宙さけ


憲法の 9条語ろう まつおきな


松はよし 翁よしやと 飲むお酒


憲法の 9条あればこそなり 酒うまし


 「宇宙さけ」とあるのは、土佐宇宙酒のことだ。高知県内有志の会「てんくろうの会」が立ち上げたプロジェクトで、宇宙を旅した酵母を使い、日本酒を造ってしまおうという壮大な試みだ。土佐宇宙酒には、天を喰らうほどの壮大な夢とロマンが託されている。二〇〇五年、ロシアのソユーズロケットに積み込まれた高知県産の日本酒酵母が、宇宙のステーションで約八日間滞在し、無事地球へ帰還した。その後、土佐各地の蔵元に酵母が配られ、厳しい認定基準に基づき、世界初の「宇宙酒」が仕込まれた。それが毎年継続されている。
9条酒といい、宇宙酒といい、土佐ならではの挑戦だ。松尾酒造も土佐宇宙酒に取り組んでいるので、春夏秋冬・憲法9条小瓶五本セットには土佐宇宙酒も入っている。

 上島寛児も、「春夏秋冬歌にのせて、酔えばまた歌のひとつも出てくるぞ」と、懐かしい歌を口ずさむ。春は朧月夜を口ずさみ、「菜の花畑はなくても朧月夜があればいい。憲法9条の心が溶けこんだ松翁純米吟醸一壺、じっくりと値千金も味わい」と歌い、夏は花火だと空を仰ぎ、「どん、の音と空に大きく広がる鮮やかな星はいいものだ。憲法9条への熱き想いを醸した松翁純米を今宵も」と杯を空にする。

 香美市9条の会は、9条酒を広めることで、9条擁護の運動を広げようとしている。「お祝いとしてお誕生、ご結婚、還暦、ご就職、新築改築祝いに、ぜひ9条酒を。お中元やお歳暮にも、宴会や忘年会にもご指定ください。きっと9条をめぐって素敵な会話が始まります」。

 松尾禎之は語る。


 「大上段に憲法を語ることも必要ですが、同時に、いつでもどこでも誰でも憲法9条を語れることも大切ではないでしょうか。憲法9条はとても重いものですが、同時に、気楽に触れてみることもあっていいのではないでしょうか。9条酒をきっかけに憲法の歴史や、9条がつくられた背景を語り合えたら、それがやがて9条を守り、生かす力に繋がっていくと思います。」



 9条酒をつくっているのは、松尾酒造だけではない。京都の佐々木酒造も、NPOねっとわ~く京都21の依頼で9条酒をつくっている。ねっとわ~く京都21は趣旨を次のように述べている。



 「私たち日本国民にとってかけがえのない財産である日本国憲法――中でも戦争の放棄を誓った九条が今、改悪の危機にさらされています。身近なところから『STOP!平和憲法改悪』を発信したい、お酒を酌み交わしながら日本国憲法、そして憲法九条の素晴らしさを語り合いたい、そして何よりも憲法を活かす運動をすすめたい」(ウェブサイトより)。

Saturday, November 05, 2011

藤田祐幸『もう原発にはだまされない』

藤田祐幸『もう原発にはだまされない――放射能汚染国家・日本』(青志社、2011年)


http://www.seishisha.co.jp/bookinfo/index.html



著者にはイラク国際戦犯民衆法廷で証言していただきました。慶応義塾大学を退職して、いまは長崎にお住まいです。スリーマイル事故当時から30年間、原発の危険性を訴えてきた市民科学者です。1983年、エントロピー学会設立に参加、1987年、放射能汚染食品測定室設立、1990年から1993年、チェルノブイリ地域の汚染調査。1999年以後、ユーゴスラビア・コソボで調査。2003年、イラクでウラン弾の調査をしてきました。目次に明らかなように原発問題のおおよそをだいたいカバーしていますが、特に原発労働者に対する差別、使い捨てを厳しく批判しています。



代替エネルギーについては、風力や地熱ではなく、当面は、コンバインドサイクル発電、コージェネレーションシステムをすすめていますが、何よりも、熱を電力に転換しない生活をすることが大事としています。



著者の主著:『エントロピー』(現代書館)『ポストチェルノブイリを生きるために』(御茶ノ水書房)『知られざる原発被曝労働』(岩波ブックレット)『脱原発のエネルギー計画』(高文研)



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脱原発を訴え続けた市民哲学者が伝える「原発の実態」「被曝限度のウソ」「実現可能なエネルギー」


藤田氏らはこの30年間、政府に、電力会社に、そして東大や京大の御用学者たちに向かってさまざまな問題を指摘し、絶えず問い詰めるという闘いの歴史をしてきました。しかし、「何が起こっても安全だ」と、彼らはずっと言い続けてきました。今回の事故の対応を見て、藤田氏は言います。
「もしかしたらあの人たちは人に向かって「安全だ」と言い続けているうちに、自分でも安全だと錯覚してしまったのではないか。自らの発した言葉に呪縛されてしまったのではないかと思えてくるのです」。
しかし、「原発の安全」が間違いだったことは、今回の事故で誰の目にも明らかになりました。
震災から、約半年が経ちました。連日被災地の様子が報道され、テレビや雑誌で多くの特番や特集が組まれ、関連書籍も多数出版されています。たくさんの情報が氾濫するなかで、今、私たちがしなければならないことは、認識を誤らず未来へとつなぐこと、そして、この異常な状態に決して自分を慣れさせないことであるはずです。
放射能汚染の実態から目をそむけずに行動するために、「原発の実態」「被曝限度のウソ」「実現可能なエネルギー」の本当のことを、知っていただきたいと思います。



<目次>


第1章 今、福島第一原発で何が起きているのか


「食い止められなかった」という無力感/臨界事故と炉心融解事故の違い/崩壊した「五重の壁」/国家をとるか、人命をとるかが問われている/広島、長崎の尊い犠牲が生かされず/放射能で大地が穢された現実/史上初、大規模海洋汚染の懸念


第2章 なぜ、福島の悲劇を食い止められなかったのか


原子力問題との出会い/スリーマイル島事故の「幸運」/過酷を極めたチェルノブイリの現場/チェルノブイリの汚染地図/チェルノブイリで目にした無人の荒野/原子力を推進した政治家とマスコミ/明らかになった「原子力のコスト」と「莫大な保証額」/大地動乱の時代/地震学を無視した原発建設/計画の白紙、そして順次停止を/まだ終わらない警告/「安全」という言葉の呪縛


第3章 放射能は子どもの未来を奪うのか


放射能雲は福島中通りを流れた/広大な地域が「放射線管理区域」に入ってしまった/国際放射線防護委員会勧告/放射線と闘いの歴史/被曝限度の考え方/生命の危機に晒される原発労働者たち/5年後、がんに苦しむ子どもが増える/不確定な被曝影響/福島原発事故の公衆への影響/被曝影響を軽視してはならない/食品の暫定基準値は適正なのか/内部被曝最大の問題は「免疫力低下」


第4章 原子力に代わるエネルギーは何か


明確な「脱原発」の政策決定を/原発を止めても電力不足にはならない/深夜電力割引のからくり/脱原発のための3ステップ/コンバインドサイクル発電の可能性/エネルギー効率の高いコージェネレーションシステム/熱を電力に転換しない生活/まずは原子力と自然エネルギーの中間技術を/発送電分離の可能性/風力や地熱を積極的に推さない理由/「里山の再生」がエネルギー問題解決の糸口/エネルギーよりも「食糧」が問題だ

Friday, November 04, 2011

辛坊治郎・高橋千太郎『放射能の真実!』

辛坊治郎・高橋千太郎『放射能の真実!』(アスコム、2011年)


http://www.ascom-inc.jp/book/9784776207009.html




日本人がいまいちばん知りたいのは、
放射能ってどのぐらい怖いのかということ。
そして、先生がいつも「これは大丈夫」「これは危険」と
瞬時にお答えくださったような安心情報です。
そして、高橋先生のご専門は動物生理学。
長年、研究してこられたテーマは、
放射性物質は人体にどれくらい影響するのかという、
まさにいま日本人がいちばん知りたい分野の研究なんですね。
ですから、「放射能の真実」について聞くべき相手は、
日本に京都大学の高橋千太郎先生をおいてほかにいない、
と私は思っているんです。
先生には、ここがわからない、どうなっているんだと、
ガンガン突っ込ませていただきます(笑)。
辛坊治郎




私たちの素朴な疑問と不安を
放射線安全学の第一人者が
すべてこたえます!!



◎どれくらい放射能を浴びたら、健康に影響が出るの?
◎外部被曝をすると、体のどこに、どんな問題が起きる?
◎日焼けと同じく放射線の影響にも個人差はある?
◎規制値すれすれのものを食べ続けたら、どうなる?
◎子どもや胎児、子孫への影響、どこまでわかっている?
◎なぜ「一刻も早く年間1ミリシーベルトに戻せ」か?
◎SPEEDIはなぜスピーディに出なかったのか?
◎なぜ専門家の言うことは、みんな違うのか?
◎必要な「汚染マップ」と「生活安全マップ」とは?
◎「経済力を損なわないように脱原発する」は可能か?


「放射能」について、ここまでわかっている!




以上のように宣伝している本です。「2時間でいまがわかる!」「素朴な疑問と不安にすべてこたえる!!」とあります。やっつけ本とでもいうのでしょうか、220頁ほどの対談です。



高橋千太郎のプロフィル


京都大学農学部農学科卒業後、科学技術庁放射線医学総合研究所研究員、英国医学研究協議会研究員、テキサス大学医学部客員教授、放射線安全研究センター長などを歴任する現在、京都大学原子炉実験所副所長・教授。専門は放射線生物学、毒性学、環境科学をバックグラウンドとした放射線安全学である。



あの、京都大学原子炉実験所副所長、です。今中さんや小出さんのところですが、いわゆる「6人衆」ではなく、推進か容認か知りませんが、「きちんと」出世してきた方です。



話の中に今中さんや小出さんの名前は出てきませんが、ああ、これは彼らを批判しているのだな、とわかるところがいくつか。



短い中に、しきい値の話や、スピーディのこと、そして避難区域のことなど、わかりやすく話しています。



驚いたのは、「放射線防護の基準などが決まった経緯を知っていて、細かい数値まで熟知していて、緊急時の放射線管理や医療措置について十分な知識のあるのは、2~3人じゃないか」ということです。これはご本人を除いて、「ライン」、つまり経産省、文科省、原子力安全委員会、放射線医学総合研究所、原子力研究機構などのことを指しています。そこに2~3人しかいない!!



「私も含めて大学の先生は、ある意味専門バカですから、専門以外のところは役に立ちません。その専門バカを総動員してこの事態にあたるという姿勢が、事故後の早い時期には政府や自治体側になかったように思えます。専門家を活用しつつ適切な判断と実行のできるリーダーがいなかったと。」――これは菅直人批判なのかも。



最後に「放射線防護の世界の基本ポリシー」として「ALARA」(=As Low As Reasonably Achievable アララ)」を紹介しています。「合理的に達成できる範囲で、なるべく低く」です。また、「正当化」と「最適化」も加えて、アララ、正当化、最適化を基本としています。



ICRPの場合、アララにいう「合理的に」の中に、経済的合理性、つまりコスト問題が入るところがミソなのですが、そのことには触れていません。

Wednesday, November 02, 2011

雨ニモマケズ、反省セズ(二)

拡散する精神/萎縮する表現(7)
雨ニモマケズ、反省セズ(二)


 本誌前々号(五一一号、本年八月)に「雨ニモマケズ、反省セズ」と題して、宮沢賢治の排外主義への加担を取り上げ、次のように述べた。

 「明治生まれの天皇主義者であった賢治が<あらゆる人の幸せ>を目的としたというのは、論理的に理解できない。賢治も時代の中を生きていたのだから、天皇主義者であったことをもって批判するべき理由にはならない。しかし、天皇主義者の思想を<あらゆる人の幸せ>を目的としたと粉飾するのは疑問である。」/「『天業民報』は、警視庁が朝鮮人暴動はなかったと発表した後も、執拗に朝鮮人暴動と書きたて、朝鮮人を糾弾し続けた。朝鮮人差別の先頭を邁進する田中智学に「絶対服従」を誓ったのが賢治である。」/「自ら積極的に民族差別に加担した賢治は「利用された」のではなく「利用した」のである。このことを考えなければ、差別と排外主義への転落を繰り返すことになりかねない。」

 これに対して、ジャーナリストのK氏から、賢治の思想を曲解するものだとのご批判をいただいた。第一に、雨ニモマケズが一一月三日に書かれたと断定できず、その内容は天皇主義的ではなく、天皇主義者と断定するのは適当ではない。第二に、賢治は国柱会会員であったが、関東大震災発生前に岩手に帰っている。賢治が排外主義の「旗振り役」をしたと見るのは極端すぎる。第三に、賢治はヒューマニストであり、当時としては珍しく戦争宣伝・協力もしていない。

 せっかくの批判を手掛かりにこの問題をもう少し考えてみたい。

 一一月三日問題であるが、(一)当時の人々にとってこれは普通の日ではない特別の日である。今では普通の休日に過ぎないが、当時は違う。(二)賢治の手帳にはっきりと「11.3」と書いてある。(三)私的な手帳に書かれていたからこそ、見栄もてらいもなく、賢治の忠誠心が表明されていると読むのが普通だ。他の文学者のメモなら当然そう解釈される。

 一一月三日でないと主張するのであれば、例えば(一)「雨」が別の日に書かれたことを示す積極証拠を提出する。(二)賢治が手帳や日記や手紙で「3.19」「8.24」などと数字を書いていて、それが日付ではないという証拠を提出する。(三)賢治は手帳や手紙で、日付と違う日に文章を書きつける癖があったという証拠を提出する。(四)賢治は他の人々と違ってこの日を特別の日と思っていなかったという証拠を提出する。このような論法が考えられるが、こういう主張は皆無である。一一月三日と「推定」はできるが「断定」はできないというのは無意味である。「断定」する必要はどこにもない。「それ以外の日ではありえない」ということがはっきりしているから「推定」で結論として十分なのだ。賢治が特別に天皇主義者であったとする格段の証拠をわざわざ提出するまでもない。ひとり賢治だけが天皇主義者でなかったことの証明が先である。

(「マスコミ市民」2011年10月号、続く)

雨ニモマケズ、反省セズ

拡散する精神/萎縮する表現(5)
雨ニモマケズ、反省セズ

 三月一一日の東日本大震災・津波・原発事故以来、「頑張れニッポン!」「日本は一つだ」のナショナリズム合唱が続き、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が再びもてはやされている。テレビ・新聞はもとより、被災者支援に携わるNGOも、ミュージシャンも「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の大合唱である。賢治の本が飛ぶように売れている。インターネットで検索してみると、被災者を励まし元気づけるための合言葉として無条件に持ち出されている。一部に、「雨ニモマケズ」が、戦争意識高揚のために権力によって利用された歴史があると指摘しているものもあるが、あくまでも「利用された」にすぎないのであって、賢治が素晴らしい作家であることに変わりはないし、「雨ニモマケズ」の精神が被災者支援にふさわしいと判断しているようである。

 しかし、はたして賢治は「利用された」のだろうか。なるほど、求道者イメージの賢治の「雨ニモマケズ」の精神は、戦時下の「滅私奉公」のスローガンに合致し、現に教科書にも掲載されたが、それは結果として「利用された」のだろうか。

 児童文学の西田良子によると、「『雨ニモマケズ』が書かれたのは、一九三一年十一月三日、即ち、賢治三十六歳の明治節の日である。明治生まれの賢治にとっては、おそらく特別の感慨を抱く日だったと思われる」(『宮澤賢治論』桜楓社、一九八一年)。

 西田の文章は奇妙なことに次のように続く。

 「彼が自分の死期の近づきをはっきり意識しはじめた時期に書いたものであるということと、彼が大乗仏教の信者で、自分自身の幸せよりも、<あらゆる人の幸せ>を至高の目的としていたということとを考えながら読むことが、『雨ニモマケズ』を理解する上では非常に重要なポイントになると思う。」(同前)

 明治生まれの天皇主義者であった賢治が<あらゆる人の幸せ>を目的としたというのは、論理的に理解できない。賢治も時代の中を生きていたのだから、天皇主義者であったことをもって批判するべき理由にはならない。しかし、天皇主義者の思想を<あらゆる人の幸せ>を目的としたと粉飾するのは疑問である。

 一九三一年十一月三日の賢治は、一九一〇年の韓国併合、一九二三年の関東大震災朝鮮人虐殺、一九三一年九月一八日の「満州事変」をどのように見ていたのだろうか。

 歴史家の琴秉洞によると、賢治は、田中智学が創立した国柱会という宗教団体の機関紙『天業民報』の熱心な読者であり、寄稿家でもあった。賢治は、一九二〇年一二月二日の手紙に、「今度私は、国柱会信行部に入会致しました。・・・今や私は田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。・・・田中先生に絶対に服従致します」と書き、関東大震災のさなかにも国柱会の文書を掲示板に貼ったという。田中智学の思想は「日蓮主義と天皇至上主義を結合させた狂信的国家主義」であり、その文章では「国家を滅ぼさうとする凶悪の徒」「不定鮮人」に対して激しい敵意をむき出しにしていた。『天業民報』は、警視庁が朝鮮人暴動はなかったと発表した後も、執拗に朝鮮人暴動と書きたて、朝鮮人を糾弾し続けた。朝鮮人差別の先頭を邁進する田中智学に「絶対服従」を誓ったのが賢治である。

 琴秉洞は次のようにまとめている。

 「賢治自身が、この時朝鮮人問題に言及した資料は未見としても、しかし、彼が絶対服従を誓った田中智学の朝鮮人排撃の文と、連日の如くいわれのない朝鮮人攻撃を続けている『天業民報』を辻々に張り回るという行為によって、美事に、朝鮮人攻撃と民族排外主義の旗ふりをやっていたといえる」(琴秉洞「大震時の朝鮮人虐殺に対する日本側と朝鮮人の反応」『震災・戒厳令・虐殺』三一書房、二〇〇八年)。

だからと言って賢治の思想を否定したり、切り捨てたりする必要はない。しかし、自ら積極的に民族差別に加担した賢治は「利用された」のではなく「利用した」のである。このことを考えなければ、差別と排外主義への転落を繰り返すことになりかねない。

 雨ニモマケズ 反省セズ 
 風ニモマケズ 反省セズ
 東ニ朝鮮人アレバ 行ッテ不逞鮮人トナジリ・・・


(「マスコミ市民」2011年8月号)

安斎育郎『これでわかるからだのなかの放射能』

安斎育郎『これでわかるからだのなかの放射能』(合同出版、2011年)


http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=324



1979年に初版が出版されたものですが、福島原発事故を機に改訂出版されました。



下記の目次に見られるように、からだのなかにあるさまざまな放射能について詳しく解説しています。第2章では、からだのなかの自然放射能。第3章では、核実験に由来する体内の放射能の解説です。素人にも読みやすく、科学史のエピソードも豊富です。お勧め本です。



体の中の放射能については、この話を悪用して、「もともと体内には自然放射能があるのだから、福島原発事故の放射能など気にする必要はない」と主張する人たちがいます。関東地方と関西地方では自然放射線からあびる量が違うと言った話も悪用されます。



こうした論法について、著者は、明確に批判しています(たとえば59~60頁)。生物学的半減期の話や、人口歯に関しても、だから内部被曝の影響などたいしたことはないといった論法について、「そもそも、被曝しないにこしたことはない放射能」と述べ、「無害か危険かいずれとも判定しかねるというのもやはり一種のリスクなのです」(125頁)としています。著者は「予防原則」という言葉を使っていませんが、内容は予防原則と同様です。



第1章 放射能の基礎知識
(1)
原子とは
(2)
放射能とは
(3)
半減期とは

2章 からだのなかの自然放射能
(1)
カリウム
(2)
炭素14
(3)
トリチウム
(4)
ルビジウム87
(5)
ウラン物語
(6)
ウランの特性
(7)
ラジウム物語
(8)
ラジウムの特性

3章 核実験に由来する体内の放射能
(1)
ウラン235が核分裂しやすい理由
(2)
セシウム137
(3)
ストロンチウム90
(4)
放射線をガまんする?
(5)
核実験による人体被害

4章 原発事故に由来する体内の放射能
(1)
福島原発事故はどんな事故だったか?
(2)
スリーマイル島原発2号炉の教訓
(3)
チェルノブイリ原発事故による汚染
(4)
人類史上類例のない福島原発事故
(5)
放射線被曝による障害
(6)5
つの放射性核種

あとがきにかえて




安斎育郎(あんざい・いくろう)
放射線防護学、立命館大学名誉教授、安斎科学・平和事務所所長
1940
年東京生まれ。1964年、東京大学工学部原子力工学科卒業。工学博士。
東京大学医学部助手を経て、1986年、立命館大学教授。
1995
年より国際平和ミュージアム館長。2008年より名誉館長。
2011
年、安斎科学・平和事務所開設、同所長。

著書に、『からだのなかの放射能』(合同出版)、『家族で語る 食卓の放射能汚染』(同時代社)、『福島原発事故——どうする日本の原発政策』(かもがわ出版)ほか多数。
またテレビでは 「人間講座 だます心だまされる心」(NHK)、「世界一受けたい授業」(日本テレビ)ほかに出演。