Saturday, April 30, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(195)ヘイト規制の刑法論

楠本孝「ヘイトスピーチを刑事規制する川崎市条例について」『三重法経』第154号(三重短期大学法経学会、2021年)

(*WEKO - 三重短期大学リポジトリで入手可。)

はじめに

1 原理的消極論から技術的消極論へ

2 ヘイトスピーチ刑事規制の明確性と適正処罰の原則

3 構成要件化と『解釈指針』と段階的規制

Ⅱ ヘイトスピーチ規制法部分の構造

1 構成要件

2 告発要件

3 保護法益

Ⅲ 検討

1 ヘイトスピーチ解消法との関係

2 規制手段の厳密性

(1) 構成要件の明確性・非広汎性

(2) 段階的規制

(3) 小括

Ⅲ 課題――結びにかえて

がなく、2回出てくるのはミスで、「はじめに」がで、2回目のだろう。

金尚均や桜庭総とともに刑法学における議論をリードしてきた楠本のヘイト・スピーチ論については、私の『序説』『原論』『要綱』で何度も引用・紹介してきた。

本稿では、ヘイト・スピーチ解消法以後に新たに刑事罰を用意した川崎市条例を正面から検討している。「表現の自由」を根拠にヘイト・スピーチ刑事規制を否定する短絡的な「原理的消極論」はすでに時代遅れであることが明らかになり、最近では「技術的消極論」が目立つようになっている状況を確認した上で、明確性の原則や適正処罰の原則に照らして、技術的な要請を満たせばヘイト・スピーチ刑事規制が可能となっていることを明確にしている。

楠本は川崎市条例が掲げたヘイト・スピーチ規制の3類型に即して、それぞれ刑事規制の広汎性や明確性の原則に照らして検討する本格的な刑法論を提示している。つまり、これまでの判例法理と学説の水準に立って、条例12条のヘイト・スピーチの定義について検証する。

12条1号、2号の「煽動」と「告知」の当罰性について、食料緊急措置令違反事件判決や破壊活動防止法違反事件の判例法理を確認する。判例法理については憲法学からも刑法学からも批判があるが、楠本は「これを刑法論の次元に移すと、判例はせん動罪を抽象的危険犯と解し、学説は具体的危険犯と解しているということになる」と説明した上で、煽動によって「地域において平穏に生活する権利」が直接に脅かされ、対抗言論はほとんど意味をなさないので、「条例12条の保護法益の脆弱性と拡声器を用いるなどの行為態様の悪質性にかんがみて、条例121号及び2号所定の『煽動』は、実害が発生する具体的危険性の立証がなくても可罰性を肯定できる抽象的危険犯と解すべきである」という。

次に123号の侮辱類型の当罰性について、「集団に向けられた侮辱がその集団の個々の構成員にまで及ぶと言えるためには、まず、その集団に属する人々がその特定のメルクマールに基づいて公衆から明確に区別されることが必要である」ことと、保護法益の基準をクリアすることが必要であるとする。結論として、「『人以外のものにたとえるなどの著しい侮辱』が、公共の場所で、拡声器を用いるなど拡散力の強い方法で行われた場合には、当該集団の構成員の『地域で平穏に生活する権利』が具体的に危険にさらされたことの立証は必要でない」とされる。

楠本は可罰性だけでなく、規制手段の明確性についても検討した上で、「条例は、恣意的な運用となることを避けるために、イ 反復の内容の限定、ロ 第三者機関への諮問、ハ 『熟慮の機会』の保障、という三つの方策を取っている」とし、三つの方策を取ったことにより「真の事後的一段階的規制になっていると言える」と見る。

かくして楠本は次の結論に辿りつく。

「以上検討してきたことから、本邦外出身者の『地域において平穏に生活する権利』を保護するという正当な目的を達成するための手段として、これを侵害する行為のうち処罰の対象とする範囲が過度に広汎であるとも、不明確であるともいうことができず、かつ、濫用防止のために厳密な事後的一段階的規制が採用されていること、さらに、命令違反に対して科される刑事罰も、50万円以下の罰金と、表現行為に対する制裁としても決して過酷なものと言えないこと等を総合すると、川崎市条例のヘイトスピーチ規制は、ヘイトスピーチ規制の技術的消極論を克服する内容となっていると評することができよう。」

楠本論文は、川崎市条例によるヘイト・スピーチ刑事規制を、刑法学的に本格的に検討した論文であり、今後の議論の土台となる。私自身は、ここまでの刑法学的検討をしていなかったので、反省。

私がこうした検討を加えてこなかった一因は、もともと川崎市条例の3段階論に必ずしも賛同していなかったことがある。ヘイト・スピーチは1回目で犯罪である。川崎市条例は3回目で犯罪となるとしているので、2回目までは許されるというメッセージを発したことになる。この点を重視する必要はさほど高くなく、犯罪化する条例ができたことの意義が大きいにもかかわらず、私は逡巡していたようだ。

楠本は最後に「課題」を指摘している。

1つは、法人処罰の両罰規定で、楠本は両罰規定を廃止し、刑法の共犯規定で対処すべきと言う。

もう1つは、川崎市条例の実効性をいかに担保するかである。

「ヘイトスピーチは『社会的に非難されるべき行為』であることを公的機関が繰り返し明示することによって、徐々に人々の規範意識に働きかけて、将来における類似行為の再発を防止することにこそ、刑事罰を用いる意義がある。」

ヘイト・スピーチ論議で、「処罰ではなく教育を」とか「処罰ではなく対抗言論を」という無責任な議論が横行してきたことへの批判である。処罰も教育も対抗言論も重要であり、特に、社会的に影響力のある公的機関や公人のヘイト非難が不可欠である。

Friday, April 29, 2022

5.19「共同テーブル」緊急シンポジウム 経済安保法の危険な本質を暴く!

5.19「共同テーブル」緊急シンポジウム 

経済安保法の危険な本質を暴く!

 

中国やロシアを敵視する経済安保法は、いのちの安全保障に反する軍事法です。

何が秘密かを国家が決めるという意味で沖縄密約の西山事件を想起させるものであり、戦争のために電力を統制する電力の国家管理法をも連想させます。

すでに2018年に中小企業の大川原化工機の社長らが軍事転用が可能な噴霧乾燥機を無許可で輸出したという無実の罪を着せられて、突然、警視庁公安部に逮捕され、11ヶ月も勾留されました。

これは経済安保法が何をもたらすかを雄弁に物語っています。

その危険性を、3名のパネラーが、徹底的に明らかにします。

佐高信・青木理・海渡雄一という、日本を代表する論客のお話は、あまりにも危険な経済安保法の本質を考えるうえで大きな意義のある、また大変興味深い講演になると思います。多くの皆さまのご出席を、お待ちしております。

 

            記

●日時  519() 午後6時~730分(午後545分開場)    

●会場  参議院議員会館・地下一階・B109会議室 

1745分から、参議院議員会館ロビーで入館カードを配布します。

 

●申し込み先 定員(50名)になり次第、申し込みを締め切りますので、大変、恐縮ですが、なるべく早めに下記のメールアドレスまで、出席申し込みを、お願いいたします。 E-mail  e43k12y@yahoo.co.jp

→ライブ配信します https://youtu.be/BLScY1x7fmo

 

<プログラム>

1 開会

2 ご挨拶 発起人を代表して 佐高信

3 シンポジウム

  パネラー 佐高信(評論家)

      青木理(ジャーナリスト)

      海渡雄一(弁護士)

4 まとめと閉会挨拶

 

●「共同テーブル」連絡先

 藤田高景090-8808-5000 石河康国 090-6044-5729

Tuesday, April 26, 2022

帝国主義と軍事同盟の行方 ――「9・11テロ」から20年を経て

帝国主義と軍事同盟の行方

――「9・11テロ」から20年を経て

 

日時:5月14日(土)13:40~(開場13:30

会場:市川教育会館ホール

 

お話:前田 朗さん(朝鮮大学校法律学科講師)

*日本民主法律家協会理事、国際人権活動日本委員会運営委員、日本友和会理事。

*主著に『戦争犯罪論』『ジェノサイド論』『侵略と抵抗』『人道に対する罪』『9条を生きる』(以上、青木書店)『軍隊のない国家』(日本評論社)『旅する平和学』(彩流社)『ヘイト・スピーチ法研究序説』『ヘイト・スピーチ法研究原論』『ヘイト・スピーチ法研究要綱』『憲法9条再入門』(以上、三一書房)『500冊の死刑――死刑廃止再入門』(インパクト出版会)等。

 

主催:戦争はいやだ!市川市民の会

連絡先 kikuike@jcom.zaq.ne.jp

刑罰の基本政策の変更について慎重な審議を求める 刑事政策学研究者の声明

                         刑罰の基本政策の変更について慎重な審議を求める

刑事政策学研究者の声明

 

衆議院法務委委員会委員 様

 

現在開会中の第 208 回国会において、日本国の刑法の根幹をなす自由剥奪を伴う刑罰体制を改変する「刑法等の一部を改正する法律案」(閣第 57 号)が上程されています。

ところが、この法案に対する国会および国民間の議論は決して熱心とは言えず、併せて提出された「侮辱罪の重罰化」の方に関心が集まっている、という現状です。

わたくしたち刑事政策学の研究者有志は、このような事態を憂い、日本の刑罰政策の根幹を揺るがしかねない同法案について、真摯かつ慎重な議論を切に要望し、本声明を公表します。

 

【要望1】 国会においては、本法律案を真摯かつ慎重に審議すべきである。

【要望2】 刑罰制度に関しては、関連学界における科学的かつ真摯な検討及び国民的

議論を踏まえて、変更の可否を検討すべきである。

 

【理由】

1 法案提出に至る経緯

法務大臣は、少年法適用年齢の 18 歳未満への引下げの検討に付随して、非行少年を含む比較的若年の犯罪者に対する処遇の充実を諮問した(諮問 103 号)。ところが、年齢引下げは見送られたが、付随的論点に過ぎなかった刑罰制度について、懲役・禁錮・拘留を単一化し、労働の義務を増強し、さらには人格変容を可能にする重罰化を答申した。少年法の専門家や少年犯罪の被害者を構成員が中心である少年法・刑事法部会によって、刑罰制度の根幹の改変について、十分な国民的議論のないまま答申された。

 

2 法案の形式

本法案は、侮辱罪規定の変更と自由刑の重罰化という全く性格の異なる提案を一体化している。侮辱罪については、諮問 103 号とは別の諮問 118 号に答える形で刑事法部会において審議提案された。この木に竹を接ぐような「抱き合わせ」によって、国会および国民の関心は侮辱罪に注がれ、165 年ぶりの刑罰体系の改変が十分に議論されぬまま成立しようとしている。国の基本である刑法典総則の重大な改変は、関連する学界および世界の潮流を踏まえ、慎重かつ真摯に審議されるべきである。

 

3 法案の内容

(1)法案の骨格

明治 401907)年制定の刑法第 12 条は、「懲役ハ無期及ビ有期トシ有期懲役ハ 1月以上 15 年以下トス」(1 項)とし「懲役ハ監獄ニ拘置シ定役ニ服ス」(2 項)と規定していた。これを現代用語に変更した平成 71995)年の一部改正では「懲役は、無期及び有期とし、有期懲役は、1 月以上 15 年以下」に変更され、懲役の刑罰内容は「刑事施設に拘置して所定の作業を行わせる」になった、その後、平成 172005)年改正で有期刑の上限は 20 年に引き上げられている。

今回の法案では、懲役刑を「拘禁刑」と改称し、「拘禁刑は、無期及び有期とし、有期拘禁刑は、1 月以上 20 年以下とする」。「拘禁刑は、刑事施設に拘置する」に加えて、「拘禁刑に処せられた者には、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、又は必要な指導を行うことができる」(3 項)として、「改善更生を図るために必要な作業」に加えて、「改善更生を図るために必要な指導を行うことができる」としている。

(2) 法案の問題点①-懲役刑の重罰化

新たな自由刑は、「拘禁刑」という、定められた施設に拘禁し、移動の自由を制限する「拘禁」という言葉の意味とはかけ離れた、倫理的・道義的な改善更生を受刑者に義務付けている。従来の懲役刑は、拘禁とともに「所定の作業」(刑事施設長の指定した労働)に従事する義務を課すものであった。法案は、作業に加えて、施設長が「改善指導」(受刑者の人格の変容)を義務付ける可能性を認めている。したがって、法案は、懲役刑の重罰化を提案している。

(3)法案の問題点②-禁錮刑・拘留刑の重罰化

法案は、純粋な拘禁刑である禁錮刑を廃止し(13 条の削除)、拘留を短期(30 日未満)の拘禁刑に改め、改善更生のための労働と指導を義務化している。

これまで、禁錮・拘留受刑者で作業への従事を希望する者については、施設長が作業を認めてきた。ただし、禁錮・拘留受刑者にとっての労働は必要的な義務ではなかった。しかし、法案においては、作業を「させる」のは施設長であり、指導を指定「できる」のは国、具体的には施設長の権限になる。したがって、法案は、これまで禁錮刑および拘留刑が想定されてきた受刑者については、義務の内容が強化・拡大される重罰化を提案している。

(4)法案の問題点③-思想犯・国事犯に対する思想改造

刑法改正の歴史では「自由刑の単一化」がたびたび議論されてきた。第二次大戦前には「改善教育刑」の名の下、犯罪人の労働による改善を目指すナチスやソビエトなどの「労働改善刑」を支持する有力な刑事政策学者が出現した(正木亮、木村亀二など)。しかし、内乱を企てた国事犯の思想を強制労働で改造することに対する躊躇いが「懲役刑への単一化」の流れを阻んだ。

戦後の刑法改正をめぐる議論の中でも、「自由刑の単一化」は重要な論点であったが、最終的には、政治犯・国事犯に対する配慮が、団藤重光などの有力な研究者を思い止まらせ、昭和 491974)年に公表された「刑法改正草案」でも、禁錮刑と懲役刑を区別を残す二元主義が支持された。

現在、刑事施設において禁錮受刑者は、受刑者 3 6000 人の0.2パーセント(100人)にも満たない。しかし、問題は数ではない。ここで問題とされるべきは、刑罰によって何をどこまで強制できるのか、端的に言えば、刑事施設への一定期間の収容を超えて、その人の内心まで変えることが許されるのか、ということである。

刑法は、憲法とともに国の基本を定める法律である。どのような時代、どのような政府の下であっても、揺らぐことのない堅牢な刑罰体系を築くべきである。したがって、思想犯を労働や指導で思想改造することを可能にする法案には、思想信条の自由を侵害する重大な危険性がある。

(5)法案の問題点④-改善更生に必要な作業、必要な指導とは何か?

現在、実務では、刑務作業、刑執行開始時・釈放前の指導、一般・特別の改善指導および教科指導が「矯正指導」と呼ばれ、受刑者が指導に従わなければ懲罰等の不利益を課されるという意味において、間接的に強制され、義務付けられている。

ただし、矯正処遇は刑法上の義務ではなく、執行法上の義務に過ぎない。つまり、刑法の「所定の作業」は、実体法上の刑罰の内容であるが、それ以外の義務は、刑罰執行に伴う付随的義務である執行法上の義務と解される。

しかし、法案の 12 3 項の「拘禁刑に処せられた者には、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、または必要な指導を行うことができる」という規定は、執行法上の義務を実体法上の義務、すなわち、刑罰の内容に格上げするものである。このことは、以下のような問題を生じさせる。

 

1)改善更生することそのものを刑罰内容として強制することに繋がる

現在の作業は、改善更生を目的とするとはされていない。いわば無色透明である。しかし法案は、改善更生を目的とすることで、作業に倫理的・道義的色彩を加え、作業を行うことのみならず、改善更生することを、刑罰内容にしている。

2)改善更生を強制することで、かえって、受刑者の再犯防止が困難になる

近時の矯正・保護においては、受刑者や保護観察対象者の再犯リスクを計測し、犯罪的傾向を他律的に是正しようという動きがある。しかし、このようなリスク管理だけでは再犯防止には繋がらない。犯罪をした人が社会の中で「犯罪をしない生活」をしていくためには、当事者自身が社会生活に取り組む意志とともに、これを阻む障碍を排除する社会の側の支援が重要であるとの認識が共有されるに至っている。法案は、国が再犯防止の主体となり、受刑者を改善更生の客体と位置づけている。法案に一貫するこのような居丈高な姿勢は、結果として、受刑者の再犯防止を困難にするのではないかと危惧される。

3)更生の主体である受刑者本人が「更生」を自ら企図する余地がなくなる

現在の改善指導は、受刑者の希望を参酌して決められることになっている。ところが、法案では改善更生を図るために必要な矯正指導の決定は、全面的に施設長の判断に委ねられている。つまり、改善更生するのは受刑者本人であるにもかかわらず、「改善更生に何が必要であるのか」を考える余地がなくなる。

日本の矯正職員は、世界的に見ても、真面目で、熱心である。彼らに受刑者の倫理的・道義的改善更生という職務を与えれば、誠実に使命を果たそうとするであろう。しかしながら、それが一方的・強制的に刑罰内容として行われようとするとき、それは矯正職員と被収容者の関係を非人間的なものにするのではないかということが危惧される。

(6) 法案の問題点⑤-執行法から実体法への格上げの意味

法案による、執行法から実体法への「矯正処遇」の格上げは何を意味するのであろうか。

今の現場では、受刑者の希望を聞きながら、指導の内容を決めている。本人が嫌だと言えば、指導を強いることはできない。たしかに、公務員たる処遇職員には「本人にとって必要」だと思われる指導ができないことに対して隔靴掻痒の思いをすることもあるだろう。しかし、この微妙な立場関係の中で、受刑者と職員のコミュニケーションに基づく処遇が行われていることが、「人による安全確保」という日本矯正の基盤となっている。人道的処遇とは、そうした人間同士の説得と納得から生まれるものである。

矯正指導を刑罰内容に格上げすることは、公務員たる矯正職員に無理を強いることにならないか。日本国憲法 36 条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰」を禁じている。しかし、法案は、嫌がる受刑者に対して、矯正職員が矯正処遇を懲罰によって強制する危険を孕(はら)んでいる。

 

4 国際的潮流への反動

このような自由刑体系全体を重罰化する法案は、1955 年に国際連合で決議され、2015年に大改訂された『被拘禁者処遇最低基準規則(Standard Minimum Rules for the Treatment of Prisoners)』(いわゆる「ネルソン・マンデラ・ルールズ(Nelson Mandela Rules)」)の基本原則に多くの点で抵触する。

世界の行刑は、自由刑の刑罰内容を移動の制限に可及的に純化し、受刑者の主体性を基盤に据えて、差別のない・個人の特性に配慮した処遇、再統合の援助、施設内生活の一般社会への近似化、それぞれの障害等にも配慮した生活の保障に向かって歩んでいる。しかし、法案は、国際社会の潮流に抗うものになっている。

 

5 結論

以上の理由から、国会においては、法案を真摯かつ慎重に審議することを求める。

 

2022 4 25

 

呼びかけ人

赤池一将 (龍谷大学教授)

石塚伸一 (龍谷大学教授)

武内謙治 (九州大学教授)

本庄 武 (一橋大学教授)

丸山泰弘 (立正大学教授)

森久智江(立命館大学教授)

 

近日中に本声明に賛同する刑事政策学研究者を公表する。

なお、わたくしたちの基本的認識については、本庄武=武内謙治共編著『刑罰制度改革の前に考えておくべきこと』(日本評論社、2017 年)において公表している。

Sunday, April 24, 2022

抵抗文化の創造力とつながりの歴史性

李恩子『日常からみる周縁性――ジェンダー、エスニシティ、セクシャリティ』(三一書房)

https://31shobo.com/2022/02/22002/

<私にとって「在日」として生きることは社会運動でも研究でもない。

私にとって「在日」として生きることそれ自体が研究/思考であり、運動だ。>

Ⅰ部 アイデンティティをめぐる物語

 第1章 名前とアイデンティ

 第2章 民族文化とアイデンティティ

Ⅱ部 セクシャリティをめぐる出会いと記憶

 第3章 セクシャリティについての想い

 第4章 往復書簡対談 セクシャリティから考える「在日性」

Ⅲ部 植民地主義がもたらしたもの

 第5章忘れられたもう1つの植民地旧南洋群島における宗教と政治がもたらした文化的遺制

 第6章 今私たちに問われていること関東大震災時朝鮮人虐殺80周年

 第7章 韓日条約は在日同胞に何をもたらしたか―ポストコロニアル的一視点

Ⅳ部 差別の現在性

 第8章 日韓(朝)関係から見た在日朝鮮人の人権

 第9章 日本国(家)を愛せない理由かといって愛せる国(家)もない

Ⅴ部 民族、宗教、ジェンダー

 第10章 和解の概念を考える差別のトラウマの視点から

 第11章 信徒と教職の権威を考える1信徒のつぶやき

 第12章 今、ドロテー・ゼレを読む意味「共苦」する主体形成を求めて

  ゼレとの出会い: 問題意識として/ ゼレを読み解くコンテキスト/ 神学する主体とその課題/ 共苦と主体

 第13章 「聖なる権威」への抵抗在日大韓基督教会女性牧師・長老按手プロセスにおける「民族」の位置

 第14章 解放運動における〈原則〉日本のバックラッシュに抗するために

全5部14章にわたる著書であり、テーマも多様であり、方法論も叙述の方法も多様である。ジェンダー、エスニシティ、セクシャリティの視点で、「日常からみる周縁性」をその都度、意識化し、問い直し、畳み直してきた思考を再編成している。専門研究的な面もあるが、それ以上に、著者の生き様が提示されている。「著者の生き様」そのものが、日本植民地主義に規定されているがゆえに、「私にとって「在日」として生きることそれ自体が研究/思考であり、運動だ。」という言葉の意味が具体性を帯びてくる。

同じことは全ての在日の研究者に言えることである。そして同時に、「李恩子のように考える必要のないこと」が日本における日本人研究者の「特権」であることが見えてくる。

冒頭で「名前は人格権の1つか」と問う著者は、在日の指名をめぐる変遷や差異を踏まえ、在米韓国人との比較も介在させながら、名前遍歴から見る問題提起を行う。

著者の問いは「マイノリティとは誰のことか」と敷衍され、さらに民族的マイノリティと性的マイノリティの差異と同質に及ぶ。加えてジェンダー・アイデンティティは必要かもまな板に載せられる。

そこから著者は、戦後の在日朝鮮人コミュニティの特殊性を振り返る。身体的記憶としての韓日条約を、一方で1世の心情に寄り沿って想起し、韓日条約の負の遺産を「国籍問題」に絞り込んで検討する。かくしてポストコロニアル視座から見た韓日条約の負の遺産が明確になる。個人的な体験と記憶が在日に共有された経験と意識を浮き彫りにするが、同時代を生きた日本人の体験と記憶の「逆の意味」が見えてくる。

これまで多くの在日の研究者・作家が指摘してきたことであるが、それが日本社会に共有されず、はねつけられたままであるため、同じことを繰り返し指摘し続けなければならないのが現実である。

著者は「抵抗文化の創造力」にたどり着く。

「この知恵や抵抗の力は、個人的苦境、あるいは苦痛と政治的・歴史的苦難を統合する重要性と、普遍的価値や普遍的闘いに向けていく重要性の再発見を促した。つまり、身体的に特定の地域に住むことが要求される闘争の政治的現場のみを『苦難の現場』と理解するのではなく、日常的な『生活の場』を苦難の闘争の場と見据えるべきだという結論だ。」

新規性はないかもしれないが、この思考を著者は自身に差し向けつつ、多様な在日に語り掛ける。「生活の場」を神学化するという問題意識で、自己解放の場を模索する。「日常的な抑圧における権力関係」を認識し、組み替える方法論を提示する。「ポストコロニアル的クリティークの視座から盛んに問われてきた、発話者のポジションの検証」を再登記することで、著者が忍耐強く繰り返していることは、まさに日本社会が決して理解しようとしないことなのだ。

つながりの歴史性を内に織り込むことのない日本の人文社会科学がしばしば陥る空虚さを、理解し受け止める読者はどれだけいるだろうか。

Saturday, April 23, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(194)ジェノサイド防止思想

八嶋貞和「ラファエル・レムキンのジェノサイド防止思想」『青山ローフォーラム』第10巻第2(2022)

八嶋は前論文「ジェノサイド条約の起草過程――国連総会決議96(Ⅰ)に関する議論を中心として」において条約起草過程を検討した。

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/04/blog-post_30.html

本論文の構成

はじめに

第1章     ラファエル・レムキンの生涯

第1節     アメリカ合衆国に渡るまで

第2節     アメリカ合衆国における活動

第3節     ジェノサイド条約採択後の活動

第2章     ラファエル・レムキンンおジェノサイド防止思想

第1節     『占領下の欧州における枢軸国の支配』

第2節     『ジェノサイド』と扇動の解釈

第3節     若干の検討

おわりに

20222月にロシアがウクライナを攻撃して以後、内外のニュースでも戦争犯罪やジェノサイドという言葉が頻繁に用いられている。

1998年のルワンダ国際刑事法廷におけるジェノサイドの適用(アカイェス事件判決)、及び1998年の国際刑事裁判所規程採択、これに基づく国際刑事時裁判所の設置とその活動以後、国際的にジェノサイドと人道に対する罪の研究が急速に進んでいる。日本でも稲角光恵、後藤倫子などが重要論文を相次いで公表している。

八嶋論文は、第1章においてジェノサイドという言葉を造ったレムキンの生涯を振り返った上で、第2章においてジェノサイド概念の誕生とその法解釈についてレムキン自身がどのように考えていたかを探る。

八嶋は、1944年のレムキンの著作『占領下の欧州における枢軸国の支配』の要点を次の3点と考える。

1は、国内刑法による処罰。

2は、普遍主義の適用。

3は、共同謀議の処罰。

続いて八嶋は、1946年のレムキンの論文「ジェノサイド」の要点として、「ジェノサイドの共同謀議および扇動に関する提案」を取り上げる。

共同謀議については、一定の集団を「殲滅するための共同謀議」として条約化されるべきとし、「国民的、人種的または宗教的な集団を破壊する共同謀議に参加している間に、当該集団の構成員の生命、自由、または財産に対する攻撃に着手した」ことを要件としたという。

加えて、1946年論文では扇動の処罰にも言及している。その具体的内容は明らかでないが、1937年の第4回国際刑法学会報告において、ヘイトプロパガンダについて論じていた。「我々は、違法な戦争への扇動は、他の犯罪への扇動と同じく処罰されると結論づけた」という。

八嶋は次のように述べる。

「扇動を含む未完成犯罪は、目的たる犯罪が既遂に達せず、侵害が生じなくとも処罰される犯罪類型である。この特徴および上記に視たレムキンの扇動解釈をジェノサイドの扇動に当てはめると、ジェノサイドという目的たる犯罪が既遂に達せず、侵害が生じていない段階における散発的で、自発的ないし軽率な発言などの行為を処罰するというおとになる。このような侵害が生じていない段階の処罰は、防止的意味合いが強いものであることを鑑みると、レムキンの提案するジェノサイドの扇動処罰は、彼のジェノサイド防止思想の一端と視ることができる。」

ジェノサイドの扇動に国際社会が介入して早期に処罰できれば、ジェノサイドの防止につながるという見解である。

私はレムキンの1946年論文を読んでいない。八嶋論文のおかげでジェノサイドの扇動処罰の法理がどのように登場したのかが少し見えてきた。

現実のジェノサイド発生メカニズムを考えると、扇動段階での早期介入の可能性はあまりないかもしれない。ただ、既遂に達したジェノサイド事件において、ジェノサイドの既遂とジェノサイドの扇動が重畳的に処罰されれば、そこからジェノサイドの扇動の法理が具体的意味を持つことが考えられる。

Friday, April 22, 2022

改憲法案拙速採決に反対する法律家団体声明

 『日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案』

(公選法並び 3 項目改正案)の拙速な審議採決に反対する法律家団体の声明

 

2022年4月22日

改憲問題対策法律家6団体連絡会

社会文化法律センター 共同代表理事 海渡 雄一

自由法曹団 団長 吉田 健一

青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野 格

日本国際法律家協会 会長 大熊 政一

日本反核法律家協会 会長 大久保賢一

日本民主法律家協会 理事長 新倉 修

 

衆議院憲法審査会では、「日本国憲法の改正手続きに関する法律」(以下「改憲手続法」とい

う。)について、令和元年(2019 年)5 8 日成立及び令和 4 年(2022 年)3 31 日成立の改正公職選挙法 3 項目に並べて改正する法案提出の動きが出ている。改憲問題対策法律家 6 団体連絡会(以下、「6 団体連絡会」という。)は、以下の理由から、上記改正法案の衆議院憲法審査会での拙速な審議と採決に強く反対する。

 

1 「公選法改正並び」の3項目についてのみ今国会で改正を急ぐべき理由がないこと

上記改憲手続法改正案は、①悪天候で離島から投票箱を運べなかった経験を踏まえた開票立会人の選任に係る整備、②投票立会人の選任要件の緩和、③FM 放送設備による憲法改正案の広報放送の追加の 3 項目について、公職選挙法改正にそろえるためと説明されている。しかし、今回の改正案は、場当たり的で非合理な改正案と言わざるを得ない。離島の投票環境の向上は重要だとしても、開票立会人についての整備だけでは不十分なことは明白である。また、投票環境の改善は離島に限られず、ほかにも議論すべきことは山ほどある(2021 4 20 付慎重審議を求める 6 団体連絡会声明ほか)。3 項目のみを急ぎ改正すべき理由は全くない。

 

2 改憲手続法の本質的問題点(附則 4 条の措置)が全く議論されていないこと

昨年 6 11 日、公選法並びの 7 項目の改正改憲手続法が、「施行後 3 年を目途に」、投票人の投票環境の整備に関する事項、有料広告、資金規制、インターネット規制など、国民投票の公正を確保するための事項について「必要な法制上の措置その他の措置を講ずる」とする附則4 条が加えられて成立した。憲法改正国民投票は、主権者である国民の憲法改正権の具体的行使であり、国民に平等に投票の機会を保障し、公平公正を確保する手続きであることが憲法上強く要求されている。

ところが、自民党は、附則 4 条の措置についての議論を棚上げにし、法制上の措置を講じなくても改憲発議(憲法 96 条)は可能と強弁している。CM 規制などの改憲手続法の本質的な欠陥を放置したままで憲法改正発議をすることが憲法上許されないことは国民主権原理から自明であり、附則 4 条の改正議論は優先して行われるべきである。3 項目の改正が済めば自民党は、附則 4 1 項の例示事項の改正を終えたことを理由に、その余の本質的欠陥是正の立法審議には応じない危険性がある。

 

3 項目改正案の拙速採決は、自民党が狙う憲法 9 条改憲の環境を整えるだけであること

以上のとおり、今回突如浮上した公選法並びの 3 項目の改憲手続法改正案を急ぎ成立させるべき立法事実は全くない。3 項目改正案の審議採決は、衆議院憲法審査会で自民党が狙う憲法9 条改憲の議論の道を開き促進するだけの意味しか持ちえない。

 

 以上

Thursday, April 14, 2022

ブックレット『原発民衆法廷①~④』時期限定・著者割引き販売

原発民衆法廷のブックレット『原発民衆法廷①~④』の時期限定・著者割引きでの販売を行います。

 

ウクライナ戦争のさなか、ロシア軍がチェルノブイリ原発を占拠したり、ザポリージャ原発を攻撃したとのニュースが流れ、心を痛め、不安を募らせる情勢が続いています。

 

原発関連訴訟では、34日、3件の避難者訴訟の高裁判決に対する上告を、最高裁が棄却し、生活基盤の変化や「ふる里」を失った損害に対して東電の賠償責任が確定しました。国の責任については高裁の判断が分かれています。

 

他方、さる127日には、甲状腺がんの若者6人が東電に対して損害賠償を請求するため提訴しました。

 

11年の歳月が流れても、被災者の救済はなおざりにされたままです。メルトダウンした原子炉の廃炉日程さえ今も定かではありません。

 

わたしたちは、フクシマ原発事故の直後、201113年にかけて民衆法廷の「原発を問う民衆法廷」運動に取り組みました。東電及び国の刑事責任、原発再稼働の禁止、原発増設の禁止、原発事故被災者の救済、原発廃止のための戦略、原発と原爆の共通性、核時代を終わらせる戦略を構築しました。

 

その前半の記録を収録したブックレット『原発民衆法廷』(三一書房)[本体1,000(税抜)]の在庫整理のため、法廷実行委員会として引き取りました。時期限定の著者割引きで、下記の要領にて特別価格で提供します。

 

出版不況のさなか、民衆法廷運動に協力してくれた三一書房への感謝を込めて、ブックレットをお手元に揃えませんか。

 

<パターンA

『原発民衆法廷①~④』各1冊(全4冊)本体4,000円のところ、2,000円(送料別)

 

<パターンB

『原発民衆法廷①~④』各3冊(全12冊)本体12,000円のところ、4,000円(送料無料)

 

<パターンC

『原発民衆法廷①~④』各5冊(全20冊)本体20,000円のところ、5,000円(送料無料)

 

ご注文は、4月22日までに前田宛にEメールでお願いします。代金払込みは後日、払込口座をお知らせします。

E-mail: akira.maeda@jcom.zaq.ne.jp

1.        パターンACのいずれかをお知らせください。

2.        お名前

3.        お届け先住所

4.        電話番号

5.        Emailアドレス

 

締切は422日とします。

以上です。よろしくお願いします。

原発を問う民衆法廷実行委員会

前田 朗(07023071071)

E-mail: akira.maeda@jcom.zaq.ne.jp

 

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フクシマ原発事故の直後、201113年にかけて開催された民衆法廷の「原発を問う民衆法廷い」の前半の記録を収録したブックレット『原発民衆法廷①~④』(三一書房)[本体1,000(税抜)]

原発民衆法廷

https://31shobo.com/2012/04/12800/?msclkid=184f840cb18211ecbfeff4d47ea08aa3

原発民衆法廷②

https://31shobo.com/2012/05/12801/?msclkid=184fc37db18211ec80f03280aa3f9ce6

原発民衆法廷③

https://31shobo.com/2012/08/12802/?msclkid=184fea75b18211ec87ebcc6e36a8b074

原発民衆法廷④

https://31shobo.com/2012/10/12805/?msclkid=18502781b18211ecafc094fef678c6c8

 

Saturday, April 09, 2022

永続の至福と永遠の懲罰(第9章 悔悟)

中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)

第9章は不信仰者との絶縁、及び宣戦布告を示す。

「アッラーと彼の使徒から、おまえたちが約定を交わした多神教徒たちへの絶縁である。(91)

「ただし、多神教徒のうちおまえたちと約定を交わし、その後おまえたちにわずかでも不利益になることをせず、おまえたちに敵対して誰かを援助したことのない者たちは別である。彼らには彼らの約定を期限まで全うせよ。まことにアッラーは畏れ身を守る者たちを愛し給う。(94)

相手が約定を守り、敵対しなければ、こちらから攻撃することはないことを明示している。イスラムは決して攻撃的ではなく、正当防衛類似の場合に必要な闘いをするだけとの解釈の根拠でもある。

「だが、彼らが悔いて戻り、礼拝を遵守し、浄財を払うなら、宗教におけるおまえたちの兄弟である。そしてわれらは知る者たちのために諸々の徴を解明する。」(911)

「彼らの主は、彼の御慈悲と御満悦と彼らのための楽園の吉報を告げ給う。そして彼らにはそこでは永続の至福がある。」(921)

「アッラーは、男の偽信者たち、女の偽信者たち、不信仰者たちに火獄の火を用意し給い、彼らはそこに永遠に住まう。それが彼らには十分である。そしてアッラーは彼らを呪い給い、彼らには永遠の懲罰がある。」(968

どの章も同じだが、信仰の必然性、必要性、不可避性、重要性が説かれ、不信仰、敵対、偽信仰、欺きへの批判が繰り返される。誠実な信仰者にはアッラーはすべてを与えるが、不信仰には懲罰が与えられる。誠実には誠実を、という基本が何度となく繰り返される。ワンパターンの凄みだ。

Thursday, April 07, 2022

いまふたたびの中野重治

廣瀬陽一『中野重治と朝鮮問題――連帯の神話を超えて』(青弓社、2021年)

https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787292643/

<戦前にはプロレタリア文学運動に身を投じ、共産党員や政治家としても活躍した作家・中野重治。中野の著作は、天皇制との闘争や転向など、共産主義運動との関連で批評されてきたが、中野が敗戦後から晩年まで取り組んだ朝鮮問題の実態や全体像は語られてこなかった。

中野が書いた戦後のテクストにおける朝鮮や在日朝鮮人の言説を丹念に読み込み、安保闘争や浅間山荘事件、東西冷戦などの社会的な事件・状況を踏まえながら、彼の朝鮮認識の変容と実像を明らかにする。

植民地主義やナショナリズム、転向、親日/反日、民族的連帯など、朝鮮や在日朝鮮人をめぐる諸問題に誠実に向き合い、それまでにない連帯のありようを模索した中野の思想的・政治的な実践が示す可能性を浮かび上がらせる。>

序 章 〈中野重治と朝鮮問題〉研究史と本書の視座

第1章 「被圧迫民族の文学」概念の形成と展開――日米安全保障条約と日韓議定書

第2章 植民地支配の「恩恵」、在日朝鮮人への〈甘え〉

第3章 「朝鮮人の転向」という死角

第4章 反安保闘争と「虎の鉄幹」のナショナリズム

第5章 「科学的社会主義」と少数民族の生存権

第6章 「被圧迫民族」としての日本人へ

廣瀬は1974年生まれ。日本学術振興会特別研究員。専攻は日本近代文学、在日朝鮮人文学。著書に『金達寿とその時代――文学・古代史・国家』『日本のなかの朝鮮 金達寿伝』(ともにクレイン)、編著書に『金達寿小説集』(講談社)など。

<中野重治と朝鮮問題>という視角が設定されているが、もちろん、これは<中野重治と日本問題>のことだ。朝鮮を植民地支配しながら、朝鮮民族を差別しながら、日本優位の位置を確保しながら、朝鮮との連帯を唱え、あたかも自らが「被圧迫民族」であるかのごとく装ってきた日本と日本人の根深いレイシズムを、中野はある時期、気づいて問題視しはじめた。だが、中野の慧眼は日本ではなかなか理解されなかった。このことに廣瀬は改めて焦点を当て、中野がどこからたどり着き、どこへ向かっていたのかを徹底的に掘り起こす。どの章を紐解いても、この問いを繰り返し、積み重ね、深めるための思索が続く。

中野と言えば、「雨の降る品川駅」があまりにも有名だ。しかも、発表時の伏字問題もあれば、第二次大戦後の「修正」もあれば、中野自身の自己批判もあり、かなり複雑な議論が行われてきた。中野の植民地認識、それゆえ日本帝国主義認識の変遷に関わり、革命運動、植民地解放闘争との関連での議論につながる。だが、「雨の降る品川駅」の「確定」をみないまま議論せざるを得なかった面がある。長い年月を経て、ようやく「雨の降る品川駅」の初出、韓国語訳など多様な情報が発掘され、歴史的な考察を踏まえた議論ができるようになってきた。廣瀬は「雨の降る品川駅」の「歴史」を丁寧に辿るとともに、理論的問題に参入する。1929年の「雨の降る品川駅」から、現在この詩が持つ意味まで、実に多様な議論が可能であるし、まだまだ議論し続けなければならないことが分かる。

とはいえ、廣瀬は「雨の降る品川駅」で中野を代表させることには強い疑問を提示する。中野個人史に即してみても、大きな変遷をたどっているし、その都度、短い文章に書かれたものであっても重要な文章をいくつも残している。中野の思考の変遷を、それぞれの時期に時代背景や論脈との関連で位置づけなおし、議論を深める必要がある。廣瀬はこの課題に敢然と挑む。第2章から第6章まで、中野が遺した思索をいくつかのテーマに即して、廣瀬は辿り直す。中野の変遷、中野研究の深化を踏まえつつ、廣瀬自身の考察も見事に弁証法的であり、説得的である。結論に賛同するか否かと言う前に、何よりも研究方法、論述方法が具体的かつ明晰であり、分析も手堅い。

文学史に疎い私にも、廣瀬の叙述を通じて中野の心的世界が徐々に見えてくる。中野作品を断片的にしか読んでいない私としては、いつか時間を作って、中野の主要作品をしっかり読もうと思わされる著作である。

Wednesday, April 06, 2022

歴史学の真髄に触れる06 帝国主義国の軍隊と性c

林博史『帝国主義国の軍隊と性――売春規制と軍用性的施設』(吉川弘文館、2021年)

第六章「欧米諸国、インド、英植民地」

第七章「第一次世界大戦後の展開」

終章「今日まで続く課題」

第六章「欧米諸国、インド、英植民地」では、19世紀から20世紀への世紀転換期の変化を見ていく。イギリスにとどまらず、欧米諸国の対応の分岐を明らかにし、インド省・政庁と廃止運動、民族運動などにも言及する。さらに各地の英植民地の状況や第一次世界大戦の経験も検討する。イギリス植民地省の政策、香港、シンガポール、海峡植民地、南アフリカなど各地の動向が提示される。まさに世界的な軍隊と性の問題圏が見えてくる。

第七章「第一次世界大戦後の展開」では、両大戦間期におけるイギリス植民地の規制廃止、ジブラルタルの売春規制、その規制廃止、第一次大戦後のインドの変化、さらに国際連盟の女性と子どもの人身売買の取り組み、日本政府の対応が明らかにされる。続いて、第二次世界大戦時のインド、イギリスに駐留する米軍、北アフリカからイタリアのイギリス軍の状況が検討される。

さらに、「フランス軍野戦軍用売春宿と韓国の基地村」として、フランス(インドシナやアルジェリアを含む)及び韓国の状況が紹介される。

終章「今日まで続く課題」では、第1に「軍用性的施設の展開と消滅」がまとめられる。前提として近代の国家売春規制制度の変容があり、欧州における規制主義の消長がある。林は「帝国主義/植民地主義、家父長制/女性差別、さらに『売春婦』と見なす女性たちを男性の性的欲求解消の道具として非人間化する思想」があったとし、これに対して廃止運動が始まった経緯を再確認する。規制主義と廃止運動の対抗は単純ではなく紆余曲折を辿るが、第一次大戦と第二次大戦を経て、規制制度が廃止され、軍用性的施設が消えていくが、フランスと韓国では継続する。こうした歴史的変遷の中に日本軍「慰安婦」問題を位置づける必要がある。

2に、林は「今日の問題としての戦時性暴力・性的搾取」と題して、問題意識を再提示し、次の研究課題を明確にする。1990年代の旧ユーゴやルワンダにおける武力紛争と性暴力は、世界各地で悲劇を生み出し続けている。国連平和維持活動においても同様の事態が生じた。ベトナム戦争における米軍、カンボジア平和維持部隊、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ソマリアの状況が想起される。林は2000年の国連安保理決議1325、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」の歴史的意義を確認し、これに対する反動の激しさにも注意を喚起する。林は次のように述べる。

19世紀にジョセフィン・バトラーが人々に呼びかけた魂の言葉の一つ一つが、日本軍『慰安婦』問題をはじめとする軍の性暴力、性的搾取の問題から目を背けている今日の日本人への厳しい問いかけである。」

日本軍「慰安婦」問題が内外で激しく議論されるようになったのは1990年代初頭であった。金学順さんのカムアウト、戦後補償裁判の提訴、日本各地における市民運動の立ち上がり、国連人権委員会での議論が始まった。この30年の歴史を振り返ると、「慰安婦」問題の責任解明を目指す動きに対して、歴史の事実を否定し、責任逃れを図る勢力の強大化が著しく、日本では事実も責任も消し去られようとしている。

林はこの30年、問題に向き合い、歴史研究者として歴史の事実を解明し、記録を残し、資料を探索し、分析し、反帝国主義と反差別の思想を紡いできた。その到達点として、ここでは世界的視野で問題を位置づけなおす意欲的な挑戦が実践されている。持続的な志と、研究者としての責任の自覚が揺らぐことなく、全巻を貫いている。

あらためて緊急事態条項創設改憲案に反対する法律家団体の緊急声明

2022年4月6日

改憲問題対策法律家6団体連絡会

社会文化法律センター   共同代表理事 海渡 雄一

自由法曹団            団長 吉田 健一

青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野  格

日本国際法律家協会        会長 大熊 政一

日本反核法律家協会        会長 大久保賢一

日本民主法律家協会       理事長 新倉  修

 

はじめに

 

 今通常国会における衆議院憲法審査会は、予算審議中の210日に始まり、これまでほぼ毎週開催という異例ずくめの展開となっている。新型コロナ感染拡大を受けて、早急にオンラインによる国会審議について議論等が必要として始まった衆議院憲法審査会は、現在、自民、公明、維新の会、国民民主などの改憲推進派委員が一体となって、感染症や大災害、ロシアのウクライナ侵攻のような国家有事に備えて憲法に緊急事態条項を創設すべきとする議論を口々に語り、まずは緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うべきなどとの発言も出ている。

 改憲問題対策法律家6団体連絡会は、安倍首相当時にとりまとめられた自民党改憲4項目案(①憲法9条に自衛隊明記②緊急事態条項の新設③合区解消④教育充実)に一貫して反対してきたが、今般、あらためて緊急事態条項の創設をはじめとする改憲案に強く反対するとともに、主権者を蔑ろにして衆議院憲法審査会で進められている改憲論議に抗議をするものである。 

 

1 緊急事態条項の危険性

自民党らの狙う緊急事態条項は、9条改憲とあいまって戦争などの緊急事態において、国権の最高機関である国会の立法権を奪い、内閣や首相が独裁的に国民の人権制限を行うことを可能にするものである。緊急事態条項は、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、行政府への権力の集中と強化を図って国家・政権の危機を乗り切ろうとするもので、立憲主義と民主主義を破壊する大きな危険性を持つ。

「民主政治を徹底させて国民の権利を十分擁護致します為には、左様な場合の政府一存に於いて行いまする処置は、極力之を防止しなければならぬのであります。言葉を非常と云ふことに藉りて、その大いなる途を残して置きますなら、どんなに精緻なる憲法を定めましても、口実を其処に入れて又破壊せられる虞れ絶無とは断言し難い」(90回帝国議会:金森徳次郎国務大臣答弁)として、憲法はあえて緊急事態条項を設けていないのであって、その意味を重んじるべきである。

 

2 緊急事態を理由とする改憲は不要 国会議員は自らの責務を尽くせ 

 戦争・内乱・大規模自然災害・パンデミックなどの対応については、すでに充分な法律が整備されており、憲法に緊急事態条項を置く必要性はない。すでにある法律でもし足りないところがあれば、それを議論して法改正を行うことこそが国会議員の責務である。金森国務大臣も答弁している通り、何より重要なことは実際に予想できる特殊な緊急事態に備えて、平素から対応を考えて準備をしておくということである。そのために、立法及び法律改正が必要であれば、濫用の虞れがないよう十分に国会で審議を尽くして、法令を完備しておくことこそが重要である。国会議員のこれらの責務を放棄し、あるいは国会議員にはその能力がないと認めて、内閣に白紙委任するような改憲を口にすること自体、国会議員として許されない行為である。

また、神戸や東日本大震災並びに新型コロナ感染拡大などの経験から言われていることは、せっかく高度に整備された法制度があるにもかかわらず、平時から災害やパンデミックに備えた事前の準備がほとんどなされていないためにそれをうまく運用できなかったという点である。その点の検証と改善こそが緊急に必要なのであり、改憲議論は不要であるばかりか、災害やパンデミックから国民の命を守るために真に必要な国会での議論を阻害しかねないのであって有害である。

 

3 緊急事態での国会議員の任期延長改憲は不要である

大規模災害等で選挙ができないと国会議員が不在となって国会の機能が維持できないから、国会議員の任期延長を認める改憲が必要であるなどの議論がなされている。

憲法は「参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する。」(憲法46条)。したがって、参議院議員が同院の定足数(総議員の3分の1;憲法561項)を欠くことはない。衆議院の解散後に緊急事態が発生した場合には、参議院の緊急集会(憲法542項但書)を開催し緊急事態に対応することは可能である。憲法はそのような事態をも想定して参議院の緊急集会を規定している。

衆議院議員の任期満了の場合について憲法542項但書の類推適用が認められるかについては、学説上は肯定説が有力である。もっとも、この点については、任期満了により選挙ができないような状況が生じないよう、任期満了までに必ず衆議院選挙を行うような公職選挙法31条等の改正で解決できるのであって、そもそも改憲は不要である。必要な法改正をすぐに行えば済むことである。

以上のとおり、憲法は国会の機能が常に維持できる体系を用意しているのである。改憲推進派は、日本全土が沈没して選挙が実施できないような極端な事態を想定して任期延長改憲が必要と主張するが、そのような極端な事例を出して議論すると「間違う危険性が強い」(本年224日高橋和之東大名誉教授)。「何よりも重要なのは、憲法に手を付ける前に、まず、緊急時における対応についての法制を準備しておくということではないか」(同日只野雅人一橋大学大学院教授)。こうした憲法研究者の意見は重要であり、その意味を理解しないで軽々に扱うことは許されない。

選挙が実施できない地域では繰延投票制度(公職選挙法57条)を利用すれば済む。また、日本弁護士連合会が、20171222日付「大規模災害に備えるために公職選挙法の改正を求める意見書」で提言するように、①平時から選挙人名簿のバックアップを取ることを法的に義務付けること、②避難所又は避難先で被災者が元の住所を入力することで、被災者の所在地を把握できる仕組みを構築すること、③大規模災害が発生した場合でも実施できる選挙制度の創設として、ア指定港における船員の不在者投票類似の制度の創設、イ郵便投票制度の要件緩和など、先ずは公選法改正で対応できることをやるべきである。

 

4 国会議員の任期延長改憲は、国民の参政権を侵害し権力による濫用の危険が大きい

国会議員の任期延長は、国民固有の権利(憲法151項)である選挙の機会を奪うということであり、民主政治の根幹を揺るがしかねない。

任期延長とその期間を決めるのが国会議員自身または内閣であるとすれば、自らの地位延命のために、あるいは、政権や国会多数派にとって不利な時期の選挙を避けるために任期延長をはかるといったご都合主義、お手盛りの危険が常につきまとうのであり、国会議員自らが軽々に任期延長の議論をすること自体、厳に慎むべきものである。わが国では1941年に衆議院議員の任期が任期満了前に立法措置により1年間延期されたことがある。選挙を行うと「挙国一致防衛国家体制の整備を邁進しようとする決意について、疑いを起こさしめぬとも限らぬ」からという理由で選挙が延期され、その間に真珠湾攻撃を行い非戦論を封じてアメリカ・連合軍との無謀な戦争に突入したのである。この教訓が端的に示すとおり、緊急の事態にあっては、むしろ民主政治を徹底し国民の審判の機会を保障することこそが必要である。

しかも、国会議員の任期を延長したからといって国会が開かれる保証はない。改憲派の狙いは選挙を避けて権力を温存したうえで緊急政令等の内閣・首相の独裁で政治を行うことにあるとみるのが正確であろう。憲法53条の国会召集要求をコロナ禍でさえも2回にわたって無視するような自公政権を見ればこの危険は一層の現実味を持つと言えよう。

緊急事態における国会議員の任期延長は、以上のとおり、国民主権・民主主義の根幹にかかわる議論であり、権力による濫用の危険が極めて高く、立憲主義を破壊する危険がある。憲法審査会で軽々に議論をして、しかも多数決で「とりまとめ」るなどといった暴挙は、絶対に許されない。

 

5 まとめ

任期延長の議論のとりまとめが済めば、次は、緊急政令と人権制限、憲法9条の改憲議論に突き進むことは、現状の改憲派の動静から見て明らかである。

わたしたち改憲問題対策法律家6団体連絡会は、コロナ禍で多くの市民が苦しむ中、民主主義と立憲主義を葬りかねないような議論が衆議院憲法審査会で行われていることに強く抗議するとともに、緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うことに対しては断固反対するものである。

以上

Tuesday, April 05, 2022

歴史学の真髄に触れる05 帝国主義国の軍隊と性b

林博史『帝国主義国の軍隊と性――売春規制と軍用性的施設』(吉川弘文館、2021年)

第四章「英国のインド植民地支配と英軍の性病対策」

第五章「インドでの売春規制廃止運動」

本書は470頁の大部であるが、この2章で140頁ほどある。第三章まではイギリス帝国本国の軍用性的施設とその廃止運動、その前提としてイギリス社会における廃娼運動を扱っているが、この2章はインドにおけるイギリス軍が対象である。本国における軍隊の性差別に加えて、植民地における軍隊は人種差別を政策化・組織化する。「軍隊と性」をめぐる問題群は、つねにどこでも同じなのではなく、植民地帝国の軍隊であっても、本国と植民地と出は様相が異なる。イギリス軍としての共通性と、植民地軍の特殊性がある。

林は第四章「英国のインド植民地支配と英軍の性病対策」において、インド支配と軍隊の関係を提示し、インド軍の性病対策の実態を明らかにする。

次いで第五章「インドでの売春規制廃止運動」で、英政府・インド軍の対応、英インド軍用売春宿の実態、規制廃止へ、そして規制支持者の反撃を論じて、植民地軍の特質を浮き彫りにする。

林は大英帝国という、世界を支配した軍隊の、本国と植民地における共通点と差異を解明することで、軍隊と性をめぐる問題の多角的な検討の可能性を具体的に示す。

すでに欧米のフェミニストによる優れた研究があり、イギリスの軍事史研究者による研究もあるというが、日本軍「慰安婦」問題の議論に際して、それが十分参照されずに来た。本書によってようやく「比較」が可能となる。

軍隊の性暴力についてみる場合、軍隊一般を論じる傾向があった。侵略軍と抵抗軍とで違いがあることは意識されていたが、帝国の本国と植民地における差異を見ておく必要がある。本国に駐留している場合と、海外派遣された場合とで、組織編制、軍の行動実体、兵士の意識に相違が生じるだろう。植民地の実態が本国に知らされない場合、肺寸動が成立しない。本国の視線がどれだけ植民地に到達するかが重要となる。

日本軍の場合も、国内に駐留した時と、侵略先で行動するときとでは、その論理が異なる。植民地軍と占領軍とでも異なるだろう。占領軍の組織的行動と、派遣先の部隊の論理も異なりうる。

本書で用いた資料の多くはロンドン大学図書館、英国図書館、英国立公文書館、ウエルカム図書館、フレンズ協会図書館、国際連合・国際連盟図書館、ジブラルタル公文書館など各地の図書館・公文書館の資料だ。資料の探索だけでも大変な苦労である。巻末の参考文献だけで50頁に及ぶ。

国際連合・国際連盟図書館は、ジュネーヴの国連欧州本部パレ・デ・ナシオンにある図書館だ。私は四半世紀ここに通ってきたので、国際連合図書館にはいつもお世話になってきた。他方、国際連盟図書館はふだん利用しないが、10数年前、数日間通ったことがある。

戦時性奴隷制概念との関係で、1926年の奴隷条約の成立過程を調べようと思い、国際連盟図書館に出かけた。資料は45のケースに収められている。3つほどケースを出してもらって、閲覧した。条約作成過程の外交資料が収められていた。タイプの資料もあるが、手書きの書き込みが多かった。ほとんど判読できない。慣れるまでに相当の時間がかかるだろう。ところが、文書のかなりがフランス語である。当時の国際法は英語とフランス語が用いられることが多かった。国際連合になってからは英語優位だが、国際連盟時代はフランス語がかなり優位を保っていた。フランス語の読めない私は、この段階で研究を断念した。フランス語の堪能な研究者が奴隷条約の成立過程を調査してくれると良いのだが。

私は歴史研究者ではないので、現在の国連人権理事会等の資料を手にするにとどまり(しかも今ではインターネットで)、古い一次資料を直接調査することは、ふだんはない。歴史研究者の苦労と、同時に、楽しみはこういうところにもあるのだろうと思う。

Monday, April 04, 2022

歴史学の真髄に触れる04 帝国主義国の軍隊と性a

林博史『帝国主義国の軍隊と性――売春規制と軍用性的施設』(吉川弘文館、2021年)

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b594877.html

<19世紀から20世紀にかけて西欧の帝国主義国家は植民地拡大を進める中、兵士の管理や性病予防のために軍用性的施設を設置していった。英国の事例を中心にフランス・ドイツ・米国などの国家による売春管理政策を比較・分析。軍隊と性についての歴史と問題点を世界史的視座で捉えなおし、日本軍「慰安婦」制度の歴史的な位置づけと特徴に迫る意欲作。>

<はじめに/売春をめぐる考え方(売春対策の考え方/用語の説明)/英国の売春規制と軍隊(ヴィクトリア時代の英国社会と英軍/英国の国家売春規制―伝染病法)/女性たちの廃止運動(ジョセフィン・バトラーと女性たちの廃止運動/廃止主義者たち/伝染病法の廃止)/英国のインド植民地支配と英軍の性病対策(インド支配と軍隊/インド軍の性病対策)/インドでの売春規制廃止運動(インドへの関心/英政府・インド軍の対応/英インド軍用売春宿の実態/規制廃止へ/規制支持者の反撃)/欧米諸国、インド、英植民地(世紀転換期の変化/欧米諸国の対応の分岐/インド省・政庁と廃止運動、民族運動/各地の英植民地/第一次世界大戦の経験)/第一次世界大戦後の展開(両大戦間期/第二次世界大戦/フランス軍野戦軍用売春宿と韓国の基地村)/終章 今日まで続く課題>

林は関東学院大学教授。主な編著書に、『沖縄戦――強制された「集団自決」』(吉川弘文館、2009年)、『米軍基地の歴史――世界ネットワークの形成と展開』(吉川弘文館、2012年)、『暴力と差別としての米軍基地』(かもがわ出版、2014年)、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社、2015年)、『沖縄からの本土爆撃』(吉川弘文館、2018年)がある。日本軍「慰安婦」問題をはじめとする戦争犯罪研究の第一人者であり、沖縄戦や米軍基地問題の歴史研究もリードしてきた。鋭い問題意識と手堅い実証で知られる歴史学者だ。

林は、日本軍「慰安婦」問題に関する、「はたして日本軍独自のものなのか、あるいはどの国の軍隊でも同じようなものはあったのか」という問いについて、単純化した議論を避け、具体的に実証した上での比較論を追求してきた。『日本軍「慰安婦」問題の核心』において、日本、ドイツ、そしてフランス軍に言及していたが、本書では世界史的な視野に広げて、この問いに迫る。イギリスにおける廃娼運動の展開と軍用の性的施設の廃止、しかし、植民地インドにおけるイギリス軍の性病対策における「復活」と廃止の過程を綿密に追跡する。対象とする時期は19世紀から第一次世界大戦までであるが、その後のフランス軍、韓国の基地村にも言及する。

第一章「売春をめぐる考え方」では、売春対策の考え方、用語の説明を提示する。規制主義(統制主義)、廃止主義、禁止主義(処罰主義)、新規制主義の対抗の展開を整理して、本書の主な対象時期においては規制主義がとられていたが、その世界的傾向、特にイギリスの実態を解明し、これに対して女性運動がいかに取り組んでいったかを示す。

第二章の「英国の売春規制と軍隊」では、ヴィクトリア時代の英国社会と英軍、英国の国家売春規制、伝染病法を取り上げ、規制主義の現実を解明する。

そして、第三章の「女性たちの廃止運動」では、ジョセフィン・バトラーと女性たちの廃止運動、廃止主義者たち、伝染病法の廃止を取り上げ、19世紀から20世紀への転換過程を明らかにする。イギリスの伝染病法は「現代における恐るべき女性の奴隷制」だと批判し、奴隷化に抵抗したバトラーたち女性の闘いが、激しい誹謗中傷の的とされながら、着実に成果を上げていった過程を感動的に描き出す。

林は「あとがき」において「私がこれまで研究してきたテーマでは政府や軍の文書を冷めた目で読むことが多いのですが、一五〇年前に国家売春規制制度を女性の人権を踏みにじる奴隷制だと非難して政府や軍を相手に闘いを始め、それを廃止させた女性たちの運動は新鮮な驚きでした。ジョセフィン・バトラーの演説や手紙などを感動しながら読みましたし、そうした女性運動の史料が文書館で整理保存され公開されていることにも深い感銘を受けました」と述べる。

売春管理政策の展開を国家や軍の視点だけで描き出すのではなく、これに果敢に挑んだ女性の視点を踏まえて、立体的に描き出す工夫がなされており、第三章が本書の白眉と言える。林は、闘った女性たちに着目するだけでなく、被害を受けた女性たちが文書を残さなかった、残せなかったことにも触れ、歴史研究の制約を意識しながら、できる限り全体像に迫ろうとする。

日本国家は、「慰安婦」問題をはじめとする日本軍による戦争犯罪や植民地犯罪に無責任を貫く決意を固めた。歴史の事実を否定し、歪曲し、被害者を再び侮辱する卑劣な国家が開き直っている。

国家だけではない。日本社会もメディアも歴史の隠蔽や偽造を率先して受け容れている。歴史学や国際法学でも、見て見ぬふりをする御用学者が幅をきかせている。

このことは日本の戦争犯罪に限られる話ではない。いま、ロシアによるウクライナでの戦争犯罪が耳目を集めているが、日本政府にはロシアを非難する資格があるだろうか。日本政府だけではなく、日本による戦争犯罪、アメリカによる戦争犯罪を免罪してきた日本メディアにもロシアを非難する資格があるだろうか。

ロシアの核威嚇に欣喜雀躍して「日本も核共有を」「敵基地攻撃ではなく、敵中枢攻撃を」などと叫ぶ、狂った政治家が跋扈する国である。

林は、日本とイギリスの軍用性的施設における重大人権侵害の実相を解明することにより、現代国際人権・人道法が築いてきた戦時性暴力を裁く法思想の基盤を確固たるものにする努力を積み重ねる。