Tuesday, August 26, 2014

「死刑は無力だ」のその先へ

東野圭吾『虚ろな十字架』(光文社、2014年)

ミステリー作家による刑罰論が展開された作品だ。死刑を取り上げているため、宣伝帯にも「死刑は無力だ」とあるが、死刑論であると同時に、死刑に限らず刑務所収容による自由刑(自由剥奪刑)の意味を問い直そうとするものでもある。
文体は簡素で、はっきり言って、そっけない。出来事が淡々と語られるが、背景も人物像も深く書かれることはない。登場人物の主観面はそれなりに書かれているが、書き込むと言うほどではない。あえてこのような文体を採用することによって作品としての効果を上げていると思う。理不尽な殺人事件で娘を殺された夫婦が、深い悲しみに心を閉ざしながら、それぞれの道を歩む。デザインの現場を離れて、ペットの葬儀社に勤務して静かに生きていた主人公のもとに、かつて別れた妻が殺されたとの連絡がある。警官が訪れ、家族や親戚にも動揺が走り、11年前の事件とのつながりを探るが、何もつながりは見いだせない。ところが、そうそうに「犯人」が自首して出る。犯人の自首によって事件の一面は判明するが、その真相、特に動機は皆目見当がつかない。殺された妻は雑誌に記事を書いてジャーナリスト・ルポライターとしての地位を得ようとしていた。その記事や原稿を読み進める中から、主人公は思わぬ真相に辿りつく。
妻は、娘が殺された事件を片時も忘れず、被害者遺族の問題をも追跡していた。出版を目指して書いていた原稿は『死刑廃止論という名の暴力』だ。娘が被害を受けた事件で犯人側についた弁護士(つまり、凶悪犯の味方について、死刑判決を回避させた弁護士)や、元刑務官などにも取材を重ねて、自らの感情も織り交ぜながら仕上げた原稿だ。
『遺族は単なる復讐感情だけで死刑を求めるのではない。家族を殺された人間が、その事実を受け入れるにはどれほどの苦悩が必要なのかを、どうか想像していただきたい。犯人が死んだところで被害者が蘇るわけではない。だが、では何を求めればいいのか。何を手に入れれば遺族たちは救われるのか。死刑を求めるのは、ほかに何も救いの手が見当たらないからだ。死刑廃止というのなら、では代わりに何を与えてくれるのだと尋ねたい。』
かくして妻は積極的死刑存置論を展開するが、生半可な死刑存置論ではない。なんと「殺人犯はすべて死刑にせよ」という超過激な立場に立つ。妻は被害者遺族運動に関わってはいるが、遺族運動そのものは描かれず、本書の主題となるわけではない。
日本には死刑があり、死刑判決があり、執行が続いているが、実は、ほとんどの殺人犯は死刑にはならない。殺人や強姦殺人や放火殺人などの凶悪犯罪は、かつては年間一二〇〇~一五〇〇件だった時期が続いたが、近年では一〇〇〇件を超えることはまれである。そのほとんどが懲役刑になる。死刑を言い渡されるのは、ごくごく一部に過ぎない。だから確定死刑囚の数も一〇〇人代の前半にとどまる。殺人犯全員死刑論だと、毎年数百件の死刑判決を出さなくてはならない。つまり、毎日毎日どこかの裁判所で死刑判決を言い渡すことになる。裁判所は土日は休みだから、年間250日開廷するとすれば、全国で毎日四件近くの死刑判決が必要になる。こうなると死刑は日常と化し、ニュースでなくなる。裁判官も裁判員も激務になり、何より拘置所職員には地獄となる。まったく現実性がないが、しかし、死刑存置論の立場を鮮明にするためには殺人犯全員死刑論という立場を持ち出してみる必要はあるだろう。なお、これは東野圭吾の立場ではなく、小説作品の中であえて打ち出した立場だ。東野圭吾の立場は死刑廃止論ではないようだが、主人公はそう簡単には決められないという立場を取らせている。そして、死刑だけでなく、収容刑の意味を問う発言につなげている。「死刑は無力だ」のその先が気になるが、普通の市民は立ち止まり、悩み・・・という路線だ。

『容疑者Xの献身』は2006年だから、8年ぶりに東野圭吾を読んだ。トリックに走るのではなく、人間模様の織り成す社会、日常、人々の意識の中に潜んでいる謎や、煩悶や、葛藤を描く作品に味わいがある。事件の周囲に集まってしまう人間模様の怪、とでも言うのだろうか。