Saturday, July 12, 2014

差別団体に公共施設を利用させてよいか(2)  

二 問題の所在                                  
                                        
1 集会の自由について                              
                                                 
 『毎日新聞』が報じたように、二〇一三年には山形県生涯学習センターが、在特会会長の講演会への使用を拒否した。これは申請段階での拒否であったと言う。それに続いて門真市が使用許可を取り消した。この間、同様の事態は各地で起きていて、多くの自治体が在特会の差別集会に会場を使用させてきた。理由は「表現の自由」、「集会の自由」である。集会の自由は憲法第二一条に規定された「表現の自由」の一つと理解され、「表現の自由」は憲法上、優越的地位にあるとされている。それゆえ、合理的な理由のない限り集会の自由を制限することはできない。奈須祐治が一九九五年の最高裁判決を引用しているのは、この考え方に基づくものである。                                      
 しかし、この理解は問題の本質を見逃していて、根本的な疑問がある。ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチに関する議論に共通の特徴であるが、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチの本質や被害について論究せずに、いきなり「表現の自由か、ヘイト・スピーチの規制か」、「集会の自由か、ヘイト団体の規制か」といった短絡的な二者択一を掲げる傾向が強い。このような思考は、事態の全体像に目を塞いで、一部の論点にすぎない表現の自由を闇雲に肥大化させる誤りである。                                 
 まず明らかにするべきことは、当該集会の性格である。当該集会が差別集会、差別煽動集会であるのか否かが出発点である。                                                     
 これに対して、憲法学多数説は「内容中立原則」を持ち出して、スピーチや集会の内容について判断してはならないという特異な主張をする。この理屈はアメリカ憲法の解釈として形成されてきたものを借用したものである。しかし、後述するように、これは日本国憲法の基本的立場とは言えない。                                                
 集会の自由について検討することは必要であるが、集会の自由だけの議論に限定するのは視野狭窄である。                                 
                                            
2 差別煽動行為                                  
                                          
 ヘイト・スピーチとは何かについては、これまでに何度も書いてきたので、ここではごく簡潔にせざるを得ない(前田朗『増補新版ヘイト・クライム』三一書房、二〇一三年、同編『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』三一書房、二〇一三年、のりこえねっと編『ヘイト・スピーチって何?レイシズムってどんなこと?』七つ森書館、二〇一四年など参照)。             
 最低限、見ておく必要があるのは、ヘイト・スピーチとはいかなる事態であり、いかなる被害を生むかである。というのも、ヘイト・スピーチは差別表現の一つであるが、単なる差別表現ではないからである。まず、ヘイト・スピーチの行為類型を見ておこう。                                
            差別表明型。自民族の優越性の主張や、人種や民族を動機として他者への差別感情を表明する行為。アーリア人や日本民族の優越性の主張がユダヤ人や朝鮮民族の劣等性の主張につながった。                                       
            名誉毀損型。名誉棄損罪や侮辱罪にあたる行為。京都朝鮮学校襲撃事件では、朝鮮学校をスパイ養成機関と誹謗するなど、朝鮮人を貶める発言を連呼した。ドイツでは集団侮辱も処罰されるが、日本では個人に対する名誉毀損だけが犯罪となり、民族に対する名誉毀損は犯罪ではないとされる。                                  
            脅迫型。脅迫罪にあたる行為。相手に害悪が起きることを告知すれば脅迫であり、殺害予告もこれに当たる。                                                             
            迫害型。単なる脅迫ではなく、他者を社会から排除するための行為。「朝鮮人を日本から叩き出せ」と迫害を行う。ナチスのユダヤ人迫害や旧ユーゴスラヴィアの民族浄化が典型である。                                                                          
            ジェノサイド煽動型。「朝鮮人は皆殺し」のようなタイプである。集団虐殺の煽動は、アルメニアでもルワンダでも八〇万人もの大虐殺をもたらした。                                             
            暴力付随型。暴力をふるいながら差別発言や差別煽動を行う場合や、差別的動機で暴力に出る場合。                                                               
 このようにヘイト・スピーチにはさまざまな行為類型がある。憲法学は①②だけを議論し、その他の行為は無視してしまう。それによって現実を無視し、差別と犯罪を放置し、被害を軽視する。                                                                
                                                  
3 差別煽動の被害                                                      
                                                                       
 ヘイト・スピーチの被害と保護法益も見ておく必要がある。保護法益については人間の尊厳と見るのか、それとも公共の秩序に関連付けるのかで対立があるが、もう少し事実に即して見るならば、ヘイト・スピーチによって侵害される権利は次のように多様な広がりを持つ。                                                        
            市民的権利(生命、身体、安全、移動の自由、人身の自由)――「殺せ」「出ていけ」という脅迫により身の危険を感じ、実際に暴力被害を受けることもある。差別や暴力の煽動の危険性である。                                                   
            政治的権利(社会参加の権利)――マイノリティが社会に参加して、民主的な意思決定に加わることも否定される。                                                                  
            経済的権利(財産権、営業の自由、職業選択の自由、就労の権利)――公然と差別が主張され、煽動されている社会では、就職にも差支える。新大久保のヘイトデモにより店舗の営業に支障をきたし、収入が減るなどの被害がある。                                                         
            社会的権利(教育権等)――京都朝鮮学校のように教育機関までもが被害を受けている。マイノリティの言語、文化、歴史を学ぶ機会を奪われることに繋がる。                                                
            文化的権利(言語の権利、自己の文化を享受する権利等)――国連先住民族権利宣言が掲げたように、それぞれの民族には固有の言語、文化の権利を保障しなくてはならないのに、その基礎が失われる。                                                                 
            国際人権法上の諸権利(平和への権利、連帯の権利、発展の権利等)――ヘイト・スピーチは社会的平穏を損ない、相互信頼と連帯を破壊する。                                                               
 刑法学的に見ると、①被害者の人間の尊厳(人格権、個人の尊重等々)に重点を置く見解と、②社会的法益(公共の平穏、公共の安全、公共の秩序等)に重点を置く見解に分かれる。最近、③社会参加の機会が奪われることを強調する見解も見られる。                                                             
標的とされた被害者の人間の尊厳が失われるから犯罪だと考えるのか。それとも、現場にいた直接の被害者だけでなく、その人と同じ属性を持つすべての人が潜在的被害者であると広く見るのか。さらにヘイト・スピーチは社会における平等を損ない、差別と暴力を煽動することによって民主的手続きや公共の平穏を破壊するから犯罪だと考えるのか。この点は刑法学においても大いに議論がなされているが、人間の尊厳を中核に考えたい。                                                             
この点につき、刑法学者の楠本孝(三重短期大学教授)は、ドイツにおける民衆扇動罪に関する判例を検討して、「個人の人格権として把握されるのは、人が主体的に作り上げてゆくものとしての人格であって、このような意味での人格について、人は価値尊重欲求を有しており、これを侵害するのが侮辱であり名誉毀損である。これに対して、人間の尊厳への攻撃とは、その人自身によってもどうしようもなく決定されている人格の中核部分も含めた人間存在そのものを否定し又は相対化しようとするものである。人間の尊厳は、人間それ自体に固有のものとして内在しているものであって、個人の業績を基準にして尊厳が割り当てられるといったものではない」とし、「人間の尊厳を尊重することの中に表現されているのは、人間を人格、すなわち、その素質に応じて自分自身をその特性において意識し、自由に自己決定し、自らの環境を形成し、かつ他者と交際しうる存在として認知することである。平等者が他の平等者と交際する可能性は、彼が平等者であることを否定された場合だけでなく、他者が彼に率直に、偏見なくかつ先入観なしに出会う可能性が深刻に制限されている場合も、既に侵害されている。他者を重大な犯罪的寄食者として表示することによって、他者との率直で、偏見なく、かつ留保なく交際し得る可能性は深刻に侵害される」と解説する(楠本孝「ドイツにおけるヘイト・スピーチに対する刑事規制」『法と民主主義』四八五号、二〇一四年)。